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福井県大飯郡おおい町名田庄下 福井県遠敷郡名田庄村下 福井県遠敷郡奥名田村下 |
下の概要《下の概要》 名田庄の中央部で、南川左岸に東西に長く開けた地域。旧奥名田村の中心地で、名田庄では三重に次ぐ穀倉地。東から下条、中条、上条の3集落からなる。地名の由来は、名田荘のうち上村(納田終)に対し下村と呼ばれたことによる。 中世の下村。鎌倉期~戦国期に見える村名。若狭国遠敷郡名田荘のうち。建治3年8月日安居院実忠は名田荘領家職を外孫三条実盛に譲る旨再度譲状に認めたが、譲渡の対象である名田荘7か村の内の1村として「下村」とある。鎌倉期に入って名田荘は上荘・下荘に分かれるが、当村は上荘の中心で、上荘内各村の年貢収納をつかさどる預所が置かれていたと考えられる。 近世の下村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。 下は、明治22年~現在の大字名。はじめ奥名田村、昭和30年からは名田庄村の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北1町余、戸数84、人口は男212・女222、学校1。奥、平成18年からはおおい町の大字。名田村で最も人口の密集した地域であったことから村役場と駐在所が設置されたが、役場は同34年井上へ移転した。 《下の人口・世帯数》 268・96 《下の主な社寺など》 坪の内古墳群 集落西北の山裾にある2基の古墳。古墳後期に属する。南川流域では最も上流に位置する古墳。昭和43年発掘調査された。1号墳は大正年間の土取りのため破壊されているが、片袖式の横穴式石室で、高杯・坏・直刀・鉄斧などが出土。2号墳は円墳と思われ、袖無式の横穴式石室で、全長約8メートル、幅は奥壁近くで約1・1メートル、羨道部で約1・4メートル、入口へ行くほど広がる。石室内から人骨の一部、歯などが検出され、追葬のあったことを示している。副葬品は、直刀・刀子・鉄鏃などの武器、金環などの装身具、坩・はそう・平瓶・坏・高坏などの須恵器が検出されたという。 『名田庄のむかしばなし』 坪の内古墳 ―下村- 「下」の小林左兵衛家の西方山麓に大きな墓がある。これを「坪の内古墳群」と呼んでいる。大正の初め、道路工事のためここから土砂を採ったとき、刀や土器が多く出土(この時一号墳が荒らされた) したが、その中には、金色に光る剣があったといわれている。 大正の終りの頃、宮内省嘱託の「尾上金城」という人がこの墓を視察に来られたが、墓の近くで車から降りられた時、一天にわかにかきくもり大雨が降り出した。この時尾上氏は、「これは大したところへ来た。自分が皇陵を発見する時は必ず大雨が降る。」と感激され、墓をよく検分された上、 「これは人皇第十代までの天皇の御陵であろう。しかし現在各地に各代の天皇陵は定められているので、今からこれをくつがえすのはむずかしい。」と言われたという。 そうした経過があって後、第二十一代雄略天皇陵であるとの説が現れ、これを肯定するに、雄略天皇陵はその前面に淵があるという説に対し、古老から、江戸時代後期までそこに淵があり、魚をとったことがあるとの話が出るなど一時は鳥居を建てて注連縄を張るなと壮厳な聖域とされたことがある。 苅田比売神社(式内社) 『名田庄村誌』 苅田姫(比売)神社 所在地 下字宮山 創 建 大同二年(八〇七) 祭 神 苅田姫大明神 当社に所蔵する貞享三年(一六八六)の棟札によれば、創建は大同二年である。神仏習合し、本地は薬師如来としている。永正十一年(一五一四)に再建、さらに朽損したので、貞享三年に再建したという。 郡県志によれば、小倉村にも苅田姫明神社あり、祭日は二月三日・九月三日で下村のものと同じで、神社そのものが同体の神としている。若州管内社寺由緒記には、下村の氏神としての苅田姫明神は、本地が薬師如来、大同二年三月十八日の建立、その頃の神主は刑部太夫といったが子供はない由のべ、さらに下村の条下に、 下 村 一、我此道場如二帝珠一。我心影二現神祇前一。能礼諸礼諸定衆頭面接具皈命頂礼 大日本国、此六道若狭國名田庄苅田姫大明神は、悉本覚真如都心、入二和光 利物一門顕二大明神一、欲レ救二迷妄群生一者也。 右意趣は、天長地久御願円満、殊は信心大施主藤原朝臣別而当村氏子等繁昌 五穀成就、衆人愛敬致二精誠一祈祷申七日也。再拝云々敬白。 貞和四年八月廿一日建立 延宝二卯九月廿五日 知見郷禰宜 という知見郷禰宜の書いた由緒書をのせている。しかしこれは知見郷というので、恐らく小倉村の苅田姫社のものらしい。これによれば、貞和四年(一三四八)が小倉村苅田姫社の創建年と伝えられていたことがわかる。恐らく延喜式神名帳にみえる遠敷郡苅田比売神社は下の神社で、小倉のものは、分祀したのであろう。国中高附によれば、下の社では、中古は能を行なっていなかったという。中世以来、能が行なわれていたらしい。能や申楽の面と思われるものが、神社に現存するので、かかげておこう。 『遠敷郡誌』 苅田比売神社 村社にして同村下字宮山にあり、祭神不詳にして舊時苅田姫大明神と稱す、貞享三年記古傳に大同二年建立永正十一年再建とあり、延喜式に苅田比売神社本國神階記に從三位苅田姫明神あり、神名帳考證にある苅田比賣神社の記は中名田村の條に記せり。 鎮守の森は巨木林立だが、わけても本殿脇のムクの木、県の↑天然記念物に指定されている。 当社に伝わる獅子舞は県無形民俗文化財。安永4年(1775)に伊勢の太神楽から伝えられたという獅子舞で、神楽舞・四方舞・王の舞・花の舞・猿の舞のほか、5年に1度の太神楽の時にだけ舞う剣の舞の6種があり、8月15日と10月3日に演じられる。 神社当番の引き継ぎに戸渡し神事が行われる。県無形民俗文化財として文七踊がある。中世以来能が行われていたらしく、古い能面が残る。 苅田彦・苅田姫は元々は一体の夫婦神で名田庄のどこかで一緒に祀られていたものでなかろうか。それが分けられて姫だけが当地に移されたのかも知れない。 マサカリかついだ金太郎とかイカリ姫とかのカリなら、カルなどと同じ銅、さらに金属全般を指しているのかも、本地薬師というのであれば、鍜冶屋が祀った社でなかろうか。 曹洞宗清福寺 苅田比売神社の奥にある。 『名田庄村誌』 清福寺 宗 派 曹洞宗 所在地 下第二十五号一番地 この寺の歴史は波瀾にとむ。すなわち多くの寺が合併して成っている。古く迫寺と称する七堂伽藍を完備した寺が、現在の奥名田小学校地藉にあった。この寺は天台宗であったが、戦国時代に兵火にかかり、烏有に帰した。所がその後に神楽寺という密教系統の寺がその附近に建立されたといわれる。史実については、詳かではないが、右二力寺の所有した現在の本尊の釈迦如来坐像や三界万霊等の碑は、清福寺の境内に移され現存している。 のち延宝三年(一六七五)に口名田興禅寺の五世白厳龍積を開祖とする知足寺が、現在の清福寺の下に建立された。これよりやや時代がおくれ、興禅寺六世天瑞円至が。現在清福寺のある所に、姫宮山宝鏡寺を建立した。 爾来、下村は知足・宝鏡両寺の檀家が、互いに対立して、常に争いが絶えなかったという。 たまたま知足寺住職であった棟嶺は、部落の平和と寺檀の将来をおもんばかり、一大決心をもって両寺の合併統一を提唱し、明治十七年幾多の困難を克服して、遂にその悲願を達成した。 かくして桂林山清福寺と寺号を改称し、新寺が誕生した。本来開山ともいうべき棟嶺は、興禅寺二十世天洲竜山を請して開山となし、自らは第二世となった。 しかも「自分は長くこの寺に留まるべきでない」といって、間もなく清福寺を去り、西谷の興福寺に隠棲された。のち興禅寺二十二世に迎えられ、暫らくして再び西谷に退き、明治四十二年四月十六日示寂された。和尚の功績と典型的禅僧の勝躅は永く後世にのこすべき美談であるといえよう。 四世湖隆の代に本堂および玄関等を改築した。五世孝順の代に至り、明治二十五年庫裡を改築、仏具荘厳等をよく整備された。特に人望の篤かった孝順は、小浜空印寺二十七世に請待され栄転した。六世祖田に至り、昭和十二年界隈に稀な鐘楼堂を建立した。 また七世浩哉は萱ぶき本堂を入り母屋づくりの銅板屋根に改修し、開山堂を改造して伽藍の面目を一新した。 当山の本尊は木造阿弥陀如来坐像で安貞元年(一二二七)当村に建立された至道山清福寺という無量寿堂があり、ここに奉安してあった本尊といわれている(正徳二年の緑起による)。桧づくり九十七センチ、鎌倉時代の作とされている。 曹洞宗知足寺 『遠敷郡誌』 知足寺 曹洞宗興禪寺末にして本尊は観世音なり、同村下字寺谷に在り、永仁二年真言宗榮藏主なるものあり慶隣庵と號せしが延賓三年龍積改めて禪宗となす。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 下の主な歴史記録『名田庄村誌』 下 村内では最大の耕地を持つ下区の一帯は南川の断層崖にそって東西に長い。日照時間も最長であって、本村の穀倉地帯をなしている。 千数百年の昔から一大集落を形成していたようである。下古墳の発掘調査によって明確であるように、有力氏族が居住していたことが想像される。 字寺谷に曹洞宗知息寺があったが、現在は清福寺と合寺されている。明治二十二年、町村制の実施に伴い当区の西、納田終までを奥名田村とし、村役場・駐在所等の機関をもうけた。以後十二年間、奥名田村の心臓部としての役割を果してきた。 古くから当区一円の営農熱は極めて旺盛である。さいきんは交通機関の発達により、小浜市への通勤就労者が漸増の傾向にある。大正三年の戸数は九十四戸、人口は五百六人、昭和四十三年の戸数百戸、人口四百十一人であった。 『名田庄村誌』 坪の内(下区)古墳群 (一)大正年間の発掘 大正二年六月十三日の福井新聞に、次の記事が掲載された。当時の古墳観を示すものとして興味があるので、全文をかかげておく。 古代の石櫃を発掘す 鎗・刀・壺類あり 遠敷郡奥名田村下、第十号八番地、農小林清美は、去る七日雇人夫を使役して、畑地の開墾を為すへく自己所有の地なる同字京が鼻と袮する山林に接続する不毛地を掘さく中、地下三、四尺の所にて鍬先に堅き物触れたれば掘り開きしところ、意外にも長さ一間幅三尺高さ四尺ほどある自然石を以て構造せし一個の石櫃なりしなり。 何物の容れあるにや、と石蓋を開きで内部を調へたるに、長さ五寸幅一寸七分の鎗の如き武器と、長さ三尺位いの古刀一振五個に分折しあり。 その何れも古色蒼然として掬すべきも、亦赤錆附着して僅に原形を存せるのみなり。この外には土器の破片、壼類二個分を発見したるが何の時代、如何なる理由に依り茲に埋没したるや、更に考証すべき歴史上の資料なきも、同所の地形は平地より高きこと五尺の小丘にして、今回発掘せし場所より約二間を隔てたる位置に、大なる古墳と認むべきものあり。右は鎌倉時代の豪勇朝日奈三郎義秀が討死せし塚なりと言い伝え居れば、或は前紀の武器の如きも、或いは当時のものにあらざるか。尚後報を得て、再記することあるべし。 また若州新聞(現在は廃刊)大正二年六月十三日(第九六八号)附には、「朝比余三郎の古墳か」の見出しで次の記事が掲載された。 本郡奥名田村字下の小林清美は、去る七日畑地開墾の為人夫を使役して同字地籍、京ヶ鼻と称する山林に接統せし土地を発掘中、何か鍬先きに当りたる物あるより、猶も注意して発掘せし所、自然石を以て製したる幅三尺長さ一間高さ四尺の石櫃を発見したれば、取敢えず内部を調査したるに、錆び朽らたる長さ五寸、幅一寸七分位い鎗の如き武器一個及び長さ二尺位いの古刀一振り(五個に分折しあり)と、外に食器並びに壹の如き土器二個存在せしより直ちに其の趣き小浜署へ訴え出でたるが、同地は平地より稍高く五尺程の小丘にして、其の附近には古墳とも認むべき更に大なる古墳二ヶ所あり。何等口碑の伝はるなきも古老の説によれば右は往古より朝比奈三郎の墳墓の地と伝へられつゝあるを以て或いはそれ等に関係を有するものにあらざるかと。兎に角研究の価値あるべし。猶人骨等は更になかりしと、(以上の二新聞記事は小林佐兵衛氏保存のもの) 右の二新聞記事によれば、これらの古墳が鎌倉時代のものではないかと考えられていたようである。文中、朝日奈・朝比奈と記されているが朝夷とも書かれる。朝夷三郎義秀との関係が当時の古老によっていわれているのは、名田庄には朝夷三郎の伝説地が各所にあるところから、そうではないかと考えられたのであろう。 その当時、雄略天皇の御陵ではないかという説もあり、古墳の周囲に注連繩が張りめぐらされていたこと、筆者少年の頃の記憶がよみがえってくる。ともあれその当時としては明らかにされなかったことであり、その後も関心が持たれず、出土品も散逸してしまい、研究者もあらわれないままに五十余年の歳月が流れてしまった。 (二)発掘調査の実施 名田庄村において村誌編集の計画がなされたので、名田庄村教育委員会においては、その資料の一つとすべく、昭和四十二年二月二日附で、下坪の内古墳群の発掘調査を文化財保護委員会に申請、同年四月五日付の文化財保護委員会事務局長福原匡彦名による埋蔵文化財の発掘許可書を得て、四月発掘調査を実施した。 発掘は、小浜水産高校教諭森川昌和氏を主任とし、大森宏氏・城谷義視氏・大学生等合わせて十数名により行なわれた。出土品についてはそれぞれの分野の専門の学者により鑑定がなされ、約一ヵ年半ののち研究報告書が成った。 (三)坪の内古墳群発掘調査報告 坪の内古墳群は、大正二年に道路改修工事が行なわれたとき、下区坪の内の山裾の部分を土取りしたことによって発見された。当時、須恵器・直刀などの鉄器が出土し、初めて古墳であることが確認され、その時に輪郭をとどめない程に破壊されてしまった。それが現存する一号墳と名附けたもので、同時に二号墳の確認もなされたようだ。発見された古墳は今日までそのままの状態で残されてきたが、名田庄村誌編纂との関連で、中世以前の歴史を探る必要上、調査が計画され、昭和四十三年三月二十五日~四月三日に発掘が行なわれた。 本古墳群は、南川の最も上流域に位置しており、小平野を前而にひかえた入りくんだ山裾に点在している。一号墳はその先端にあり、二号墳はそれより北方、約十メートルに存在する。両墳とも、墳形は確認できなかったが、まず、円墳と推定してよいだろう。 なお、本古墳群の調査にあたっては、地主、小林佐兵衛氏の屎いご理觧のもとに行なわれたものであることを銘記しておきたい。 1 一号墳 大正年間の破壊によってそのほとんどは消失し、奥壁石一枚と、北の側壁が下ー段のみで、他は羨道部が堆積土の状態より推測して、破壊を免がれているものと思われた。調査は、玄室内に残存遺物がないか、羨道部の状況から羨道部内遺物の有無と、構造の追求を目あてとして行なったが、遺物は、玄室内では皆無、羨道部で鉄鏃二・須恵器片・縄文土器片等が発見されたのみである。しかし、大正二年の破壊時には、高坏二・坏・坩・直刀・鉄鏃・刀子・鉄斧一等が出土している。坏の中には朱を入れてあるものも認められた。 構造については、玄室南側に側壁を埋めるために掘りこんだと思われる落込みが見られ、それらを復原して見ると、主軸を東北東にとり、玄室巾一・四メートル、長さ二・六メートル、羨道部巾〇・五メートル、長さ〇・九五メートルというきわめて小規模な石室である。しかし、その規格は整然とした片袖型の形式を保っている。高さは、玄室は北壁・奥壁共に一段よりなく推定することすら不可能である。破壊については、大正年間の破壊を挙げたが、羨道部の追求から考えて、大正年間以前に第一次破壊のあったことが判明した。それは羨道部の表面より、わずか二十五センチの深さより鉄鏃が出土しており、この様に低い石室は考えられず、当然のこととして第一次破壊が考えられる。 2 二号墳 内部構造の調査は第一・第二天井石がとりのぞかれることによって石室の排土は全般に併行して行なわれた。規模は、一号墳より大きく袖無型と称せられる横穴式石室(第2図)である。主軸は、ほぼ南北に東へ三十度偏向して南へ開口し、玄室を意識したと思われるAB地点までの長さ、三・九メートル、全長は東側で七・八メートルである。巾は、奥壁近くで一・一メートル、AB地点一・二メートル、羨道部とおぼしきところで一・四メートルが計測され、末広がりの様相を呈している。高さは奥壁で、一・七メートル、天井石近くになる程狭くなって行く、半持上り式の状態であった。床面より、垂直に約一メートルで上部へせばめられ堆積されている。他の地点での計測は破損されていて不可能であった。 使用されている石材は、いづれも二次加工のされない自然石であり、奥甓の最下段や、側壁の下部では、長径一・二メートルから一・五メートル。短径〇・五メートルから○・六メートルの偏平な大石を使用し、その上に不整形な石を三ないし四段に積上げている。奥壁の積石状況は、土圧の影響等もなく、ほぼ原形を保つていると考えてよい。床面は、敷石や、はっきりとした粘土層も確認されず、その設定は微妙である。したがって遺物の出土状況や、地山とは異った黄色粘土層を床面と推定した。その床面も水平ではなく、奥壁より羨道部へ緩傾斜し、約四十センチの高低差がある。AB地点の設定は、閉塞石の存在が全く認められないところから推定したものである。 3 遺物の出土状況 石室内は人骨の断片が残存し、装身具の一部・鉄鏃類・須恵器等の副葬遺物が検出された。これらの遺物は、すべて床面上において検出されたものである。もちろん床面は、前述の如くきわめて不規則であり、副葬品の出土状況もひとしく比例している。遺物の出土状況は、便宜上、石室を東西に分離し、南北線を○区より六区まで一米毎に区分配列をなした。東側では、人骨の頸部や、欽鏃・刀子および長さ八十四センチと六十七・五センチの直刀が検出され、高坏・つぼ・坏等の須恵器が伴出した。西側では、同じく平瓶・坏等の須恵器、鉄鍬・刀子等の鉄器類、銅の地金に箔鍍金をした金環が認められ、それらは全てAB地点以北に点在した。また、羨道部附近では、故意に打ち割られた様な形態で須恵器の破片が一括して発掘され、全体には東側に多くの遺物配列があった。一号墳と二号墳の出十遺物は次のとおりである。 出土遺物(写真6・7)一号墳 高坏二・坩一・坏四・鉄鏃七・直刀一・鉄斧頭一。 二号墳 長頸壷二・坩三・ハソウ一・平瓶三・高坏一・坏九・直刀二・鉄鏃二十八・切羽二・刀子八・刀柄部一・金環六。 4 まとめ 本古墳群は、山裾の緩かな斜面を利用して自然石を乱積した横穴式石室を内部主体とする小円墳であることがわかった。外部施設の葺石その他は全く認められない。一号墳はすでに破壊されており、構築状態は不明である。しかし、残された遺物によって造成年代は推定されよう。二号墳は、一号墳よりやや大きなプランを持ち、一部の破損はあったものの、石室内部は正常な遺物配列を保ち、それらは一貫して検出された。一号墳では大正年間に出土した須恵器の形式に変化が見られる。只一個であるが須恵器のI形式後半(六世紀前半)に編年される高坏(写真7)が含まれていることである。これが第一次埋葬のものとすれば、若狭では古墳時代後期のもっとも古い時期に属するもので、上中町の十善の森古墳に続くものとなる。しかし他のものは明らかにⅢ形式後半(六世紀後半)のものであり、それらとの伴出はどうしても考えられない。 また、二号墳は、その石室構築に半持上り式を採用して古い様相を残してはいるが、出土遺物の須恵器は、やはりⅢ形式後半のものである。したがって坪の内古墳群の造成された年代は、I形式の高坏を度外視して考えるならば六世紀後半と推定できるようである。 もっとも、一号墳の石室構造は全く不明なので、確実な断定はできないが、二号墳よりもやや先行するものと思われる。 最後に、本古墳群の発掘された排土の中に、縄文式土器片の混入が認められたが、このことは、すでにこの地区において、縄文時代より人々が生活していたことをしめすもので、長い年代に渉っての土地利用が考えられる。 (四)坪の内古墳の立地条件 下区坪の内古墳群は、他の各地の古墳と同様に日当りのよい地形的に恵まれた地に築かれている。もともと下区集落全体がそうした立地条件である。播磨風土記賀毛郡玉野村条にも朝日夕日の隠れない地に墓を造る、という記事があるから、高燥の地に墓を造るという通念があったと見てよい。高燥といえば、土地が高く風通しや水はけがよい所ということになる。したがって南面した山丘がそうした地と考えられる。ところで坪の内古墳群の場合、山丘の地ではない。一・二号墳が山麓であり、古墳と思われる今一つ(確たる立証ができない)は集落内にあるが、前記の条件を備えている。 各地の古墳を考えると小丘地にあるもの、平地にあるもの等、しゅじゅである。山丘地にあるものは大体において前期のものであり、中期以後のものには平地が多いとされている。その変遷の理由は如何であろうか。斎藤忠氏の見解によれば、前期に平地をできるだけさけたということには、思想上の特殊な事情があったとされる。 すなわち集落の立地条件である平坦部から離れた別地に死者の霊を固く封禁し、死者の穢れに染まりたくないという思想が一番強くはたらいたのではなかろうか。当時のひとびとは、このような死者の霊を固く封禁しようという強い考えをもつとともに、なお他面死者の霊に畏み親しもうとする気持をも、いだいていたものと思われる。首長的な立場にある人を葬る場合には、その関係者は壮大な墳丘の威容による誇示的な立場をも忘れなかったのである。集落から必ずしも遠く離れた地をも選ばず、集落地から近く、しかも集落地とそのまま接し続かず、地形的にもあるいは精神的にも何か集落地と隔絶した観を持つ丘陵の地形を選んだ大きい理由は、このような複雑な考えにもとづくものらしい。なお中期以降の古墳には、一部に平地に立地するものも見受けられるが、この頃になると封禁的な意図はかなり薄らぎ、死者に対する親近感がより強くはたらき、集落地と地続きである場合もあまりこだわらずに選ばれるようになったものと思われる。このように時の変遷とともに、考え方もかわってきたが、しかも前期からの丘陵上という立地条件は、たとえ当初の考え方とは遊離しても、墓制の伝統として依然として力強く踏襲されていったのである、と斎藤氏はいわれる。 右の説から下坪の内古墳の場合を考えれば、山麓であり、集落よりややはなれていてうなずかれる。 今一つ古墳と思われるものは、天満宮の祠がその上に建てられている個所である。この地は苅田比売神社創建時(大同二年)の境内であったと伝承されている。古老の言い伝え等によっても、この地は当時は多分森の中であったと思われる。後日の検討を期待したい。 (五)坪の内古墳の被葬者と下集落 古墳について、その被葬者が何人であったかということは誰しも知りたいことである。坪の内古墳発掘調査の際も、誰の墓かとの質問が頻発された。斎藤忠氏によれば、被葬者の名を明らかにすることはきわめて至難である。絶望的であるとさえいわれる。とくにその頃の有名人がいたという史実でもあれば、その人ではなかろうかという推論もできるが、そうした人もいない。坪の内古墳の場合その人を明らかにすることが全く不可能というのが現実である。ただ古墳構築の状態から推して、その当時下村に在住していた相当有力な豪族であったということはまちがいないものと思う。この古墳は前記調査研究報告書の通り、六世紀後半に営造されたものと推定されるが、古墳の発見された地はすでにこの頃、下区の祖先の生活と関係があったことを証明し、下区の集落としての古さを考察するのに、有力な根拠になる。 下の伝説、民俗など『名田庄村誌』 神迎えの行事 神迎という行事は、旧十月(今は新の十一月)出雲へ全国の神さんが集まり、そして帰られるのを迎えるという行事である。知三地区方面は、十二月一日、御宮さんで厄年の人が祈祷してもらうくらいである。旧奥名田地区では十一月三十日にもちまきの行事をしたのであり、今でも残っているところがある。最も盛大なのが下部落であるので、これを調べてみた。 男子は二十五歳・四十二歳・六十一歳、女子は十九歳・三十三歳・六十一歳を厄年と称している。この年には、何事にも十分気をつけなければならないという。この厄年が大部分終る十一月末、出雲へ行かれた神様が帰られる日、厄年が、ほとんど終った御礼と、厄を幾分かずつ、みんなに持ってもらう意味で、もちまきをする。男の二十五歳と女の十九歳は、親にこの厄祝い行事をしてもらう。男四十二歳と女三十三歳は、自分の力でこの厄祝い行事をするといわれる。自然この 年には、そのふるまいは競争のようになった。男女共、六十一歳は子にしてもらうものだという。子供らが集まって、親へ着物を祝ったり洋服を祝ったり、そして糯米を祝う。六十一歳は、赤ジュバンと称して昔は赤いジュバンを着て参拝し、六十一歳から三ツ子になるのであるといわれる。 還暦にはこのような解釈もありうる。男の四十二は、「死に」に通じ、女の三十三は、女の大役「産産」に通じるのではないかと思う。自分の力でするといわれる中年の厄祓い行事はなかなか大したものである。昔は男の四十二歳で米七俵をついたということである。今でも二俵位はつかれる。 親類や近所等へ配る。神迎えの日は、近親者に祝いにきてもらう。このもちをヒツに入れて男には、かついでもらい、女は重箱に入れて手に下げて持って行ってもらう。酒に酔った近親が数人、時には十数人揃って参拝する。お宮さんへ参拝後、このもちをまく。このときヒツーつ、重箱一つには人もちと称して、二十余センチ直径位の大きなモチを入れておく。 この日、もち拾いのために、あばれることは長年の慣習となっているが怪我をするものは減多にない。昔は喧嘩もあったらしい。今は警察官が見える。十キロ余りの遠方から拾いにくる人もあったし、数百個のもちを拾う人も珍らしくない。午後、始まって夕方までかかり、年によっては十余俵のもちを撒くこともある。夜は酒盛と変る。 『名田庄村誌』 文七踊り(昭和三十七年五月県無形文化財指定) (一)文七踊りの由来と芸態 文七踊りは、元禄時代(一六八八―一七〇三)に雁全文七によってつくられたものといわれているが詳かではない。しかも「雁金踊」として、雁金文七を取扱った踊ともされる。その振付は「絵本づくし」(安永年間)に見える。尺八を後帯にして。侠客風に威張った踊りである。 歌詞はわからないが、元禄時代以後の節附(浄瑠璃)に文七節という名称が散見している。あるいは雁金踊りの歌曲の節附を取って用いたものであろう。主として上方の盆踊りで踊られた。もとは歌舞伎の所作踊り、あるいは踊の類から出たものであろう。そのはやしは、「ヨイ、ヨイ、ヤットセイ」とはやす。 また文七節として、文七がかり、浄瑠璃や祭文にこの節附の名が見える。恐らくは元禄時代に行なわれた雁金文七を歌った小歌より出た名と思われるが、明らかでない、「落葉集」卷五に文七女踊り山下座に有り、と記して三下りの踊歌を掲げてある。これは元禄十六年に行なわれた祗園町踊りの唱歌であるが、文七節とはあるいはこの節附より出ているのであろうといわれる。 以上、文七踊りは雁金文七の作ではなくて、雁金文七を取扱った踊、または文七を歌った歌ということになる。ともあれ文七踊りは、もと座敷芸であったものが、祇園町踊りとなり、これが盆踊りにとり入れられ、広く行なわれるようになったとの伝承は正しいようである。 文七踊りが京都をはじめとし、京都府の各地に伝播し、北桑田郡を経て、山越しの地続きの名田庄に伝承されたといわれているが、確かな資料は残されていない。そのため何時頃から名田庄に行なわれたか不詳である。江戸後期頃からではないかと考えられる。 文七踊りは旧口名田から旧奥名田に至るまで、すなわち旧名田庄の各部落に行なわれていたものである。今はなき納田終の谷弥吉氏の語られたところによると、文七踊りは京都府北桑田郡の弓削地方に出稼ぎに出ていたひとびとがこれを習い伝え、名田庄全域にひろまったもので、名田庄では納田終がその発祥地であったという。 しかし知三地区の伝承によると、文七音頭は丹波が本場で、知井坂越しに同地に出向き習ったものだという。これは音頭を習ったものとも考えられるが、丹波への出稼ぎは名田庄各地から出ていたから、各所の経路から入ってきたと見ることが正しいように思われる。何れにしても丹波の地から伝えられたと思う。 ところで文七踊りの芸態であるが、尺八を後帯にさして、侠客風に威張った踊りのようである。故谷弥吉氏の話によると、伝承当時の本当の文七踊りは、現在のものとは全く異なり、かつ踊りの内に汐汲(しゃく)み踊りというのが加わっていたという。本当の文七踊りもまた汐汲み踊りも谷氏の記憶に乏しく、その芸態を知ることを得ないことは残念である。 ところで昭和四十三年十一月二十八日に小浜市で、NHKふるさとの歌祭りが全国に放送された。名田庄では文七踊りを出演した。その後地続きの美山町へ村誌の資料取材のため出向いた。その節文七踊りのことについて、その芸態を聞いてみた。美山町長大牧覚太郎氏の語られるところによると、全国放送の時の名田庄の文七踊りをみたが、元来文七踊りは非常にむずかしいものであった。それがだんだん簡単化されたようである。現今美山町でも、盛んに文七踊りが踊られているが、簡単な踊りやすい芸能になっている。名田庄のものは、原型と美山町のものの中間位いのものであるとのことであった。 昭和四十二年宝塚歌劇団の民俗芸能研究室の酒井協氏が来村され、文七踊りを収録された際に、文七踊りについて「この踊りは農民の稲刈り、雀追い等農民の農作業の所作をまねた農民踊りである」といわれた。無意識のうちにそうなっているとのことであり、われわれもそのような感じがする。 民芸はその地に入り、その地域性が附加されあるいは変容されるものとされているから、京都風の原型が各地に広まり、それが農民性のものに変ってきたと考えられる。名田庄においても、各部落において幾分のちがいが見い出される。 囃子ことばも、「ヨイ、ヨイ、ヤットセ」が、「ドッコイショ、コリャショ、ソリャヨーホイセー、ヤットコセ(ヤットコショ)」と変っている。これは、そりゃよい穂にせー、やっと(沢山)よこせ(とれよ)であり、「ドッコイショ、コリヤショ」は農作業のかけ声であるともいわれ正に農民のことばらしい。この文七踊りは、名田庄に伝承された最初の原型が次第に農民踊り化して行ったか、あるいは時を異にして農民踊り化したものが、丹波の地から移入されたかのいずれかであろう。 (二)文七踊りの今昔 大正年代から昭和初期にかけてまで文七踊りは、名田庄の盆踊り・豊年踊りとしてお盆の期間、十三日から二十三日頃まで、各部落において、毎夜深?まで時に夜明けまでも踊られた。他の部落までも出かける程であり、若者の唯一の楽しみ、否村人全体の楽しみの行事とされていたものであった。 各部落において鎮守の境内に古風な燈籠をつるし、臼(餅搗古臼)を載み重ね。音頭とりがこれにのぼり、声の反響をよくするため、番傘を尾根にして、自慢の美声を競う。これを円陣に囲み、老若男女、子どもたちまでこれに参加し、夜のふけるのも忘れて踊った。 文七音頭は、浄瑠璃もどき、浄瑠璃くずしのもので、長い物語り式となっている。音頭そのものに味わいが感じられ、それが踊りの芸態とマッチして、これを聞くだけでも楽しみである。 ところで、大東亜戦争の敗戦後レコード踊りが流行した世相に流され、青年達の気風に合わないとして、それに文七踊りが技巧を要し、一夜づけに踊れない困難さもあってか、レコード踊りの大流行となり文七踊りはすたれてきた。しかし文七踊りの発生は元禄の世に起源があり、その封建の世に生き続けてきた歴史性がある。文七踊りの復活をねがう中年以上の人たちにより、文七踊り保存の熱が、昭和四十二年頃より起り、お盆の一夜に文七踊りの夕が、名田庄の各部落に催されてきていることはよろこばしいことである。 ちなみにこの文七踊りは、昭和四十年無形文化財として、福井県指定を受けている。 (三)文七音頭の外題 文七踊りの音頭は、浄瑠璃もどきのものであるので、浄瑠璃の外題と一致している。妹背山川場の段・忠臣蔵九段もんやぶり・三勝半七・熊谷陣屋の段一の谷・阿波鳴戸十段目・忠臣蔵段外二度目等数多くのものがある。 『名田庄のむかしばなし』 苅田比売神社のいわれ -下村、別称苅田姫大明神- 人皇五一代平城天皇御宇大同二年に創建(名田庄村誌及び下集落誌)された苅田比売神社の由来は、小倉、知見新助家の古文書に述べられている地美出雲守及び東光院にかかわる一連の伝えと年代的に合うものがあるので、その関連において伝えるままに記す。 時は宝亀九年(七七八)悲運の帝、淳仁天皇の皇子「苅田丸」が二十五才の時、皇女玉姫とともに地美城を出て都に上り、光仁天皇に拝えつして、父君淳仁天皇と母君苅田姫の神廟建築と祭祀を営むことを願い出た。天皇はこころよくこれを許し、天皇ご直筆の法華経一部と、神領として島の地三百石を与えられたという。 苅田丸は難波から舟出して淡路に渡り、淡路大明神を建立して淳仁天皇を厚く祭祀した。 苅田丸はその後若狭へ来て、湯谷城に元若狭国司であった高橋人足の長男「老」を訪れ、次いでその弟であり苅田丸を育てた、高橋仁士と地美城で対面し、禅尼となった玉姫とも会って、むかしの思いを涙で語り合ったという。そこで苅田丸は、淡路に、淡路大明神を建立したことを伝え、若狭を訪れたのも実は母君苅田姫の神廟建築のためであると話した。仁士達はこれを喜び、早速大工を入れて建築にとり かかり間もなく竣工した。 そして苅田丸は、このことを使者をたてて天皇に言上した。 天皇は直に勅使として文屋真人と良弁大師をつかわされ、ご自筆の法華経一部と正一位苅田姫大明神のご神名を授けられたという。 これが大同二年(八〇七)とすれば、苅田丸が神廟建設を願い出た宝亀九年(七七八)から二十九年の後となり、その年月はあるいは実状と合致するのではなかろうか。なお一説には、苅田姫大明神は元小倉地籍にあったとか。下の苅田姫神社はその分神であるなと諸説があるが、とれが本当のことなのかははっきりしない。 ちなみに記すとすれば、現在の神社本殿破風の懸魚に十七弁の菊紋が刻まれていて、天皇家とのゆかりをささやかれたこともある。 雪女(雪女郎)の話 -下村の上庄― そのむかし、雪がしんしんと降り積もるいやに静かで寒い夜のこと、その頃のならわしによって、隣近所の人達が下村上庄の東左ヱ門に貰い風呂に集まっていた。 そこへ、「今晩は」と背戸を開けて、今までに見たこともない雪のように白い顔をした美人が入ってきた。 居合わせた人達は口ぐちにいろいろどたずねると、その女は、「町へ行くつもりでここまで来たがあまり寒いのでお風呂をお願いしたい。」と言うのであった。 「そうか、そりゃ寒かろう、入れてもらわれ。」と皆の人が言い、東左ヱ門のおばあさんに案内されてその女はお風呂に入ったという。 ところが、いつまで待っていてもその女は風呂からあがってこない。風呂もらいに集まった人達の間で花が咲いたよも山の話も跡絶えて無気味になり、そっと風呂場をのぞいてみると、もうそこには女の姿はなく、風呂の湯は冷たい水にかわっていた。 ああ、あれは、雪の精が白ずくめの女姿で現れるという雪国の伝説にあるあの、「雪女」またの名で言う「雪女郎」なのだ、ということになり、江戸から明治の時代にかけての「飯盛女」とか「白首女」のあやしげな女の話が次々にはやされ、今に伝えられている。 庵の屋敷 -下村の川向い(道谷)- 下の川向いの山腹、道谷(みつたに)に雑木に覆われた平坦地があり、そこに、はっきり認められる屋敷跡がある。古くからこれを「庵の屋敷」と呼び、村人の間にさまざまな話題を伝えてきた。 それは遠く鎌倉時代のことといわれるが、戦いに敗れのがれきて、一ツ谷で果てた「朝比奈三郎」の奥方が、主の霊を弔うために武者数人をしたがえてこの地にのがれ、八里離れた山ふところに居を構え、自らは尼になって永く住みついたと伝えられる。 今もなお、道谷と揚り子との境の尾根伝いに山道の形跡がみとめられるが、この道が庵の屋敷へ食料などを運搬した道であったと伝えられることからも、かなり永い間在住したと伝えることを裏づけるようでもある。 この尼さんは非常に美しい人で、村の若者の一人が思いつめてその屋敷に通いつづけ、やがてその若者は尼さんと一緒になり、子どもができたという。 ところが間もなく若者は尼さんをすてて、村の娘と結婚したため、尼さんの恨みがたたり、娘との間に生れた子はどの子も不具な子ばかりであり、程なくして男は死に、家も絶えてしまったと伝えられる。 下村の不動さん -下村不動谷- 下村の不動谷は、そのむかし、暖かい水が流れていたので「湯屋の谷」と呼ばれていたが、不動さんがお祭りされているから「不動谷」と称するようになったと伝えられている。 この不動さんは、霊験ことのほかあらたかといわれ、丹波の国からも参拝者が多く熱心な信者によってまつられてきたものであり、毎年八朔(九月一日)には盛大な祭典が行われ多くの参拝者で賑わい、護摩祈祷には信者がお堂にあふれたといわれる。 この不動さんは、天武天皇の代(六七三~六八九)に「神変行者大菩薩」がこの地に登り草創されたと伝えられている。 その後、元明天皇の和銅四年(七〇八)に、行基菩薩がこの山に登られ、山頂の行者堂に端坐されること三日三晩、その修行の最中のこと、突然虚空から、「如何に行基よ、謹んでよく聞け。自分は無相空寂周辺法界の者であって、ある時は仏になり、ある時は降魔憤怒の形を無辺に示現している。しかし末世下根の者にはこの姿を見ることはできないのである。しかるに汝は、身命を惜しまず、信念深き故に今こそ自分の姿を現わすであろう。」とのお告げがあった。 行基菩薩はいよいよ真剣に行をつづけたところ頭上に当の不動尊が現れた。行基菩薩はよろこんで独鈷を投げたところ、忽ちにしてそこに清流の滝が出来たと伝えられている。 行基菩薩はその時、頭上に仰いだ不動尊の神形を留めようと、直ちに一刀三礼して不動尊を刻んだと伝えのこされている。 それは今から千三百年も前のことであるが、その後の弘仁時代(八一〇~八二四)に弘仁仏師によって改められたという。 その後も幾変遷、霊験はいよいよ尊ばれて参拝者が後を絶たなかった。 時は大きく降って享保二○年(一七三五)俗にいう卯の洪水にあい、お堂は流失したがご本尊は大した被害もなく、村人たちは尊厳によるものと思い、更に信仰を深めたといわれる。 翌年直ちに堂宇が再建されたが、昭和二十八年、台風十三号の大水害にあい再び堂宇を流失した。しかし、この時も尊像は無事であり、その後また、信者達の浄財をもって本堂並に周辺の整備がすすめられ、なお多くの信仰をあつめている。 『越前若狭の伝説』 おみごく (下) 下の氏神である苅田(かりた)姫神社の神様が出雲(いずも)からお帰りになる十月三十日には、村中が神社にお参りして神迎えをする。そのとき「おみごく」といって小判形の大きなもちを作って神様にお供えし、これを各家に一つずつ配る。これはむかし人身御供(ひとみごく)のかわりにもちを供えたなごりであるという。 そして、このとき各家でも重箱に一杯の白もちを神社に供えて、これを境内にまく。特に、男女の厄年の人は沢山のおもちを作ってお供えし、これを参拝者にまいて拾ってもらい、厄払いをする。これらのならわしは大昔から今に至るまで続けられている。(永江秀雄) 下村の獅子舞い (下) 苅田比売(かりたひめ)神社は貞享三年(一六八六)再建された。その工事のとき地中からきり(桐)の株が出てきて、その形が獅子(しし)に似ていたので、大工がこれを入念に彫って獅子頭(かしら)を作った。そこで師匠を招いて、獅子舞いをおそわり、今日に伝えている。 (杉原丈夫) 苅田姫神社の本殿の石垣を造ったとき、伊勢から石工(いしく)が来ていた。境内に大きなきり(桐)の株があったが、それがしし(獅子)の頭に似ていたので、石工はこれでししかしら(獅子頭)を作り村人にしし舞いを教えた。それから下村の苅田姫神社のしし舞いが始まったという。 (永江秀雄) あんの屋敷 (下) 下の道谷という山の中腹に、あんの屋敷という平地がある。朝比奈(あさひな)三郎が戦いに敗れて京都の方から逃げて来たとき、納田終(のたおい)の骨谷(こつだん)といって多くの骨を埋めたという谷や知井(ちい)坂の下方の染が谷(そめがたん)といって血で染めたという谷でも激戦があり、朝比奈は井上(いかみ)の一つ谷で討ち死にをした。その奥方は尼の姿になり、落武者を連れて、このあんの屋敷にかくれ住み、ついにここでなくなった。あんの屋敷とは尼の屋敷ということである。ここには軍資金と宝物とがかくされていると言い伝えられている。 (永江秀雄) 名田庄 (下) むかし弘法大師が、薬師坂から下区に菜種のたねを持参し、奥名田地方に栽培させた。収穫のとき、大師はその種を南川に流した。種は三重橋のあたりでとまり、それより先へは流れなかった。よって大師は、この地を菜種の庄と名づけたが、村の人は名田ん庄といった。 (名田庄の歴史) 雄略天皇(下) 下区の小林佐兵衛家から雄略天皇のおきさきが出た。天皇はときどきここへ来られた。下区にある古墳は雄略天皇の御陵だという。(郷土の伝説) 参照皇子塚(名田庄村挙原) 下の小字一覧『名田庄村誌』 下地区 呑稲 野中 南切石 切石 小橋 丸山 木崎 山本 白鳥 坪山 糸鼻 紫梅 栗木 森ノ下 上河原 前河原 柘榴 古川 桃木 石橋 坂尻 山畑 山神 坂ノ谷 中ノ谷 空地 湯屋谷 湯ノ口 坂ノ下 宮山 大野 大森 森本 宮ノ下 寺ノ谷 風呂 荒川 梶ノ下 山崎 小山 岩ケ谷 吉野 高畑 神田 白川 笹山 砂田 萩谷 栗田 小谷 本田 桑原 大川 川島 堂谷 谷口 井寺 沼田 金川 平河原 下河原 道谷 清滝 大縄 嵐山 章負谷 山鼻 小田 玉川 山円 批把 亀山 飛鳥川 揚り子 向山 丸出 坂ノ谷山 不動谷 井寺山 下山谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『名田庄村誌』 その他たくさん |
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