丹後の地名 若狭版

若狭

阿遠郷(あおのごう)
若狭国大飯郡阿遠郷
福井県大飯郡高浜町青の一帯


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福井県大飯郡高浜町青の周辺

福井県大飯郡青郷村・内浦村その他






阿遠郷の概要




《阿遠郷の概要》


郷域は広大で、舞鶴側へも入り込む。
阿遠郷は、奈良期~平安期に見える郷名で、「和名抄」若狭国大飯郡4郷の1つ。大飯郡、若狭国の一番西に位置する。
高山寺本は「阿遠」、東急本は「阿桑」につくる。東急本は遠敷郡にも「阿桑」郷を載せ、「阿乎」の訓を付すが、誤りか、あるいは天長2年(825)までは遠敷郡のうち(日本紀略天長2年7月辛亥条)だったので、過去の記録が重複したものか。
平城宮出土木簡の庸米付札に「□敷郡〈青郷川辺里〉庸米六斗〈秦 □〉・天平二年(730)十一月」ある。この川辺里は、現在の舞鶴市の河辺川流域東大浦地区の字河辺原・河辺由里・河辺中の一帯に比定される。郷域郡域国域は後の丹後側に大きく入り込んでいたことになる。
さらにのちの資料になるが、文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案によれば「青郷六十町八反百廿歩 除田井浦二丁八反四歩定」とあり、田井浦2町8反4歩も本来当郷に属していたが、同田数帳案によれば田井浦は丹後国加佐郡志楽荘に押領されているとあり、中世の国境が定まることにより、田井浦は丹後国に属したことが知られる。川辺とか田井の地名は今の大飯郡側には見当たらず、今の舞鶴市田井も元々は当郷に属していたと見られる。
前後するが、若狭国神名帳の「正五位鞍道明神」、〔東寺百合文書〕の「大治元年(1126)二月源某所領-田畠山林等- 譲與-丹生二郎隆清- 公験状-青郷六ヶ所-云々- 海一所字鞍道浦」「仁平元年(1151)三月附属状-隆清が嫡子丹生若丸に其継祖父平某祖母小槻氏が-鞍内浦」と見える、この鞍道明神、鞍道浦、鞍内浦は舞鶴市成生の北になる成生岬の黒地湾(スダジイの巨木のあるところ)のことかも知れない。田井や登尾には倉内サンが何軒かある。
青をオウと読めば、大飯郡青郷域は舞鶴市の今の大浦や大波、大山、大丹生などに及び、丹後国加佐郡凡海郷も、あるいはここから分立したものかも知れない。
凡海は「於布之安末」、「於布之安万」オフシアマ、海部の棟梁の意味ではなく、青海を書き替えただけのことで、オーワダと読まれるべきものかも知れない。

秦人の郷
調の付札として「若狭国遠敷郡〈青里戸主秦人麻呂戸 秦人果安御調塩三斗〉・天平勝宝七歳(755)八月十七日□□島」、とあり、郡郷制下でもなお里が使用され、塩が生産されている。また、秦人というのは秦氏ということか、「人」というのはカバネの一緒というが何かも一つわかりにくい。秦人とあれば当町だろうと『町誌』は見ているが、新羅系渡来人の裔の系統ということか、小和田の石剣・石戈があるので弥生期の早い時期から渡来があったと見られる。

御贄の郷
贄の付札として「若狭国遠敷郡〈青里御贄 多比鮓壱?隔の土遍〉・秦大大山」(平城宮木簡)、「若狭国遠敷郡〈青郷御贄 貽貝一?(隔の土遍)〉」(同前)、「青郷御贄伊和志月+昔五升」(同前)がある。若狭国は毎月旬日ごとの旬料と正月三日の節料という2種の贄を貢進する規定であるが、鯛ずし・貽貝・鰯干物の品目は見えないが、若狭国は「貽貝保夜交鮨」を調として納める規定になっていた。
木簡によれば、若狭国から贄を貢進しているのは当郷のみで、宮内省大膳職所属の江人の居住地であったと推定されている。

「延喜式」神名帳の大飯郡7座のうちに「青海神社」が見え、今の高浜町青に鎮座し、飯豊青皇女(飯豊天皇・オケヲケの妹、姉、叔母ともされる)の伝承がある。「飯豊」は書き違えか「飫富(オフ)」のことであろう。『古事記』の編者・太安麻呂の太氏・多氏である。本貫地は大和国十市郡飫富郷、今の奈良県磯城郡田原本町多で、名神大社の多神社(多坐弥志理比古神社)がある。神武の長子・神八井耳を祖先とし、志幾大縣主とも同族という、天皇氏以上のとんでもない氏族。多と書けば並かなぁだが、飫富と書かれると並外れの文化力を感じさせられる、そうした文化だけでなく金属と武力の、文化経済政治武力すべて先進を兼ね備えた大和の中枢大勢力であったと思われ、大和を日本の中心に押し上げ、天皇制を確固たるものにした氏族である。阿蘇君とも同族、信濃や東北にも飯豊や飯富の地名を残しており、当地一帯にも早くから進出して、あるいは先祖帰りして、オーとか三宅の名を今に残したものと思われる。


中世も青郷で、鎌倉期~戦国期に見える。
鎌倉初期建久7(1193)年6月の若狭国御家人交名に青六郎兼長・同七郎兼綱・同九郎盛時が見えるが、青奥次郎入道跡は承久の乱の時以来地頭によって押領されている。上に引いた資料のほかに、
友次浦はもと当郷に属していたが、青山中1町4反を除いて当郷から分立している。また、当郷内には日置宮神田3反、金剣宮田2反、妙法寺田などの除田があった。元亨年間(1331~34(南朝))頃の朱注には「国領」とあり、地頭は近江前司で、御家人青七郎兼綱の所領は関屋三郎が伝領したことが記されている。
文永7(1270)年8~9月の太良荘末武名をめぐる相論によれば、鎌倉初期の若狭国の最有力御家人稲庭時定の子中原時国は青郷地頭であったと時国の娘は述べている。それに対し、宮河乗蓮(家仲)の娘は反論して、中原時国は当郷の地頭代であったと主張している。
建武3年(1336)3月、筑前多々良浜の合戦で菊池武敏を破った足利尊氏はこの時の散飯の儀式をのちのちの吉例としたが、この散飯儀式のための料所としてまず「若州春郷之内をくるい」を与えられ、入洛後は「春郷」全体を与えられたと伝えている、この「春郷」とは青郷のことと思われ、戦国期に当郷は幕府料所として知られる。
青氏一族は南北朝末期の応安4年若狭国人一揆蜂起の時守護一色氏方として参陣したことが知られるが、その後は次第に見えなくなり、かわって戦国期には幕府奉公衆大草氏の活動が知られる。
幕府料所青郷の代官大草三郎左衛門公友は「青郷内保小和田并難波江」などの代官職を抵当に借銭をしており、そのため文明15年8月2日には小畑友康から、同19年12月8日には中興亀寿から返済するように訴えられている。また、文明13年8月16日には武田氏家臣の大塩賢惟が大草公友に貸した銭が徳政の対象とならぬよう幕府に5分1銭を納めている。この大草氏は長享元年の奉公衆番帳の二番衆のうちに「若州大草三郎左衛門尉」と見え、難波江城に拠り、大成寺の開基となったと伝えられる。
16世紀後半になると青郷は戦国大名武田元光の請負地となっており、武田氏重臣であった粟屋元隆反乱直後の天文7年(1538)9月、幕府は「御料所若州青郷」を直接支配地とするため、蔭涼軒主を下して元光と交渉させたが、元光は承知しなかった。元光は同年10月頃に、大草氏が在京して幕府に奉公していることは知っていたが、直接支配とされたのでは自分としても面目を失うので、あと3年ほど請負期間を延長してほしいと幕府に要請しており、基本的にこの要請が認められたものと考えられる。
同9年3月28日大草公広が「大庄」である青郷を入手したとあるが、実際に支配はできなかったらしく、翌10年大草公広は約束の年が過ぎたので青郷を返却するよう幕府から武田元光に命じてほしいと言上し、同年8月25日にはこのことを元光に命じるべきだとする将軍近習らの意見書が書かれている。
その後当地は高浜城に拠る武田氏家臣逸見昌経の勢力下に置かれ、永禄4年(1561)6月昌経が武田義統に叛いた時、義統を助けて出兵してきた越前敦賀郡司朝倉景紀の軍によって高浜と青郷は焼かれ、昌経は逃亡している。また、義統に忠節を尽くした竹原源八兵衛は、同9年11月11日「松永杏名 青郷之内御切銭十貫文」などを与えられている。青郷には小和田・難波江が含まれていたが、そのほか明応元年(1492)8月4日の良有檀那売券に「青之郷ナハイ・中山・コ輪田・高浜」とある。


青保は、鎌倉・南北朝期に存在が確認される。建長2年(1250)6月10日の若狭国旧御家人跡注文案に「青保」の公文職は佐分時家が有していたが、承久の乱後地頭によって押領されたとある。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案では青郷と並んで青保が見え、田数は59町320歩、除田のうちに金剣宮2反がある。元亨年間(1321~24)頃の朱注には「春宮御厨」と記され荘園化しており、地頭は近江前司某であったが、相論の結果今は「天野左衛三郎」が知行しているとある。もとの地頭近江前司某は青郷の地頭でもあったからその地頭代中原時国は「青郷保」の地頭であったと、時国の娘である中原氏女が文永7年閠9月の重陳状で主張している。
南北朝期の延文4年(1359)8月11日に但治光政が「青保一乗寺免田畠并山野」を安堵しており、康安元年(1361(北朝))7月4日にも同人は「大飯郡内青保領家方散田」1反を一乗寺如法経田として寄進している。この一乗寺は現在の中山寺のことである。また、領家方とあることから下地中分の行われたことが推定される。下って文明15年(1483)8月2日には幕府奉公衆の大草公友が「若州青郷内保小和田并難波江村両所」を質に借銭をしていたが、これは青保に含まれていた小和田・難波江が青郷に吸収されたことを示すものと思われる。
また、一乗寺と金剣宮の免田が保内にあったことも考え合わせると、保域としては青葉山の東および南東の地を想定しうる。しかし戦国期明応元年(1492)8月4日の良有檀那売券では難波江・中山・小和田も青郷内とあるため、青保は青郷内に吸収され消滅していると判断される。

遺称としては大字名の青、青郷駅、青郷小学校などがある。








阿遠郷の主な歴史記録



『大日本地名辞書』
阿遠(アヲ)郷。和名抄、大飯郡阿桑郷、註阿乎、高山寺本、阿遠郷。○阿桑は阿袁の誤なるべし、今青郷(アヲノガウ)村及び内浦村にあたる、青郷に今青てふ大字も残る。

『大飯郡誌』
阿袁郷 諸本作阿桑註阿乎高山寺本阿遠 現の青郷内浦二村及丹後の一部 田井浦南一帯 を含みしものならむ。
〔稚狭考〕 阿桑は青の郷と知らる。
〔若狭舊事考〕 阿袁郷…十四村…内浦…これも…阿袁郷内なりしなるべし。
〔神社私考〕 青村は青郷中にあり…御名も此青村より出でたるなるべし。
〔地名辞書〕 阿桑は阿袁の誤なる可し今青郷村及内浦村にあたる青娜に今青てふ大字も殘る。
(青海神社條下) 按に飯豊皇女の御名は正しく青の海とよみ此地は其御料地もしくは御名代なるべし此皇女を飯豊青皇女とも申奉るにて知らる又舊亊本紀并釋紀帝王系圖には皇女を忍海(オシノアマ)部とも申奉るは此なる阿袁郷の海部をも其家の私民と爲し給へるよりに似たり。
〔福井縣史〕 青海神社今青にあり…これ御名の根本。

青郷 〔和名抄〕阿袁郷の内青保等を除きし部分にして、現今の青郷内浦の二村及び丹後國田井浦-加佐郡東大浦原志楽庄-をも含みしが如し。
〔大田文 國領〕 六十町八反百廿歩 除田井浦貳町八反四歩 地頭近江前司恒岡則行則信 尊御家人青七郎跡関屋二郎傳領也。
 領家 高雄神護寺 田井浦二町八反四歩被抑領丹波國志樂庄畢(按に、被抑領畢是れ除く所以、されど此浦原此郷に屬せり、是れ此書入ある所以、田井保と或は混するも、保と或は別なるのみならず、押領訴訟盛なりし時代とは云へ、丹後より遙に飛入りて三方郡の一部を抑領せしとは考得ず、且三方郡のは浦名なく、丹後のは現に浦名存じ、青郷の接續地にして、地勢も寧ろ本郡に屬す可きが如く、松尾寺-青葉山の西麓丹後加佐郡志楽村-も、若州の観音として聞え、其創建者も内浦人-神野浦春日-にして、近世も爭ひし事等を含考すれば。吉坂以北一帯の地と共に、此浦は青郷に含まれしものなる可し。)
 〔東寺百合文書〕 建久七年交名状…青六郎兼長、同七郎兼綱、同九郎盛時(此郷は國領、青保は御領なれば、次の引證文中の青郷は或は青保の事かとも思はるれど、〔大田文〕後康安永享の頃にも郷と保との別明なれば、如何ある可き、或は此郷も御料となりしものか。弃疑焉)
 〔若狭守護職次第〕 應安三年四月-國人…青一族云々。
 〔大館常興日記〕 天文七年九月御料所若州青郷事蔭凉軒日行事申請。)
附 妙法寺 或は青郷村関屋の一部ならひ乎、蓋し早く寺廃たれ一領地名として遺りしもの乎-今地名無し-
 〔大田文〕 國領 二町七反二百歩 地主職関屋三郎傳領之處被付青郷之地頭之由候屬越訴被訴訟最中也。

青保 青郷村の一部にして早く皇室御領となり久しく続きしこと無疑
 〔大田文〕 春宮御厨 五十九町三百二十歩 除…重國名…恒貞浦…細工保…金劔宮…地頭職近江前司與天野左衛三郎相論當知行天野左衙三郎(其後にも此名見ゆ)
細工保 〔大田文〕青郷と青保とは見ゆ、-其他各所に散見す-今の青郷村内の部落夫なるべし。
重國名 現今の青郷村に在りしが如し.〔大田文〕
にては青郷と青保とに跨れり。
〔大田文〕 國領 十五町壹反 領主御家人青左衞門跡同源次傳領也。
〔稲井新史〕 鎌倉時代の末期に至れり。

影正名 青郷か青保の内に在りしが如し。
恒貞浦 青保の内に含まる、現今の三松-青郷村-難波江小黒飯-内浦村-等ならむ。
 〔大田文〕 國領 十五町六反百十歩 地頭職税所分。
友次浦 青郷の内に含まる。現今の神野浦山中-内浦村-等ならむ乎。
 〔大田文〕 國領 六町六反三百歩 除青山中一町四反也 地頭職税所分。
 山門沙汰 尊勝寺護摩堂 青山中一町四反。
 (按に、青郷の内に山中を含む、内浦村の一部なる事著し、山中には現に日枝神社(慶安の時にも村人不知初祀)あり。)

青海皇女
顕宗仁賢の兩帝互譲の美徳を発揮されし際、皇姨飯豊青海皇女 -又御名忍海部-十一ヶ月間政を攝せられしは史上に顕著なるか、本郡青-阿遠-は其御料地か御名代なりしなり
 〔神皇正統記〕(顕宗天皇)履中天皇の孫なり御母弟姫…白髪(22清寧)の天皇養ひて子としたまふ。御兄仁賢…ゆづらしゝかば同母の御姉飯豊尊しばらく位に居たまひきされど…飯豊天皇をば日嗣にかぞへたてまつらぬなり。

大化の新制布加れし際の條里の跡は知悉し難きも、現存する左の小字名抔は或は其名残ならん乎。
(青郷村) 三ッ松坪の内本郷村本郷櫻坪鉢ヶ坏瀬戸田坪犬見石の坪等の坪。

. 東三ツ松ノ坪内日置ノ中坪青の坪田中坪坪ノ内関屋の坪、坪ノ内は大化大寶修里の制の字名に遺れるならむ青郷は藤原時代の〔倭名抄〕にも載せ、現今の青郷内浦及び丹後の一部-田井松尾等-をも含まれし事は、全郡誌に考證せり。其郷名大飯遠敷の兩郡に跨り、本村の南半は蓋し遠敷郡の阿袁郷なりし事も並説せり。爾来明治維新まで郷名として用ひられ、現今尚村名として行はる。祟徳の朝の文書には青郷云々と見え。
 〔東寺百合文書〕 處分所領田畠山林等事 大治元年二月 豊後大掾在判 青郷 六ヶ所 海一ヶ所
       加護者也
 後鳥羽の朝の文書にも其領主の名を載す。
 〔建久七年交名状〕 青六郎兼長 同七郎兼綱 同九郎盛時
 鎌倉時代の〔太田文〕に、國領青郷六十町八反百廿歩-除田井浦二丁八反四歩-應輸田二十
四町七反二百七十歩不輸田十町九反百四十歩を収め、妙法寺友次浦重國名細工保、日置宮をも含まれ、其頃は関屋氏之を領せるなり。

 〔太田文〕 國領-青郷…地頭近江前司恒岡則行則信御家人青七郎跡関屋二郎傳領也
國領-妙法寺…地主職關屋三郎傳領之慮…被訴訟最中也
 春宮御厨青保五十九町三百二十歩*除二十九マチ二十歩-お収め、重國名恒貞浦(三松の一部か)細工保(三松ならむ)金剣宮等を含み、近江前司と天野左衛門三郎相論と記せり。

 重國名は青郷と青保に渉り、國領十五町一反、領主御家人青左衛門尉跡同源次御領也とあり。

 蒜畠の助時 佐古-佐古は迫の義助時所有の峡谷の義ならむ-高野の時政等は名の字名に遺れるならむ。細工保は下司御家人木崎七郎太夫跡同二郎太夫傳領と見ゆ。恒貞浦-十五町六反百十歩-は地頭職税所分とあれば、其當時の地名と所領者とを略知ることを得。妙然寺七反日置宮金剣各三反の在りしことをも了し得。
 青保が南北朝の頃、右衛門尉光政の所領たりしは、〔中山文書〕に生守-村名丸山附近ならむ高浜牧山寺遺趾参照-は同時代の寫經に、影正山、九山は足利時代文安の景正名主左衛門藤原末次の寄進に見え、一乗寺の名も其頃〔中山寺文書〕に續出す。

青の一族は南北朝時代にも此に蟠居し、
 〔神宮寺日記〕 應安四年五月(一色詮範)守護代国人…青一族…引具云々(國中一揆討伐の絛に)
 青保の名は足利時代に尚存せり






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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