安土(あづち)
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福井県大飯郡高浜町安土 |
安土の概要《安土の概要》 安土山より↑入江の手前側が安土↑ 青戸入江の北側、大島半島の付け根にある安土山の南の入江を埋め立ててできた新興住宅地である。主に関西電力とその関連企業の社宅がある。 安土は、昭和44年~現在の高浜町の大字名。もとは公有水面埋立地。地名の由来は,北面にそびえる安土山による。昭和44年宅地造成のため埋め立てられたが、それ以前は漁家の舟溜りで、付近はナマコの産地であった。同58年の世帯数446 ・ 人口796という。 《安土の人口・世帯数》 300・187 《安土の主な社寺など》 安土山公園 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 安土の主な歴史記録安土の伝説『高浜町誌』 安土山 和田の東北部のなだらかな山(標高約八〇メートル)で、展望台や、柚子園があって公園となっている。展望台より、高浜海岸と、青葉山の眺望は実に天下の絶景である。この風景が大正一三年摂政宮殿下(現在の天皇陛下)が本県に行啓の際、県より献上した写真帳に若越八景の一として収載された。また、昭和三九年若狭湾国定公園指定の記念郵便切手の図案となった。 入江に面する南側をまきといい、往昔牧畜をしていたといわれる。山頂の和田山は屍ケ嶽(しびとがだけ)といわれ、千年前老人を捨てた姥捨山であったといわれる。) 『若狭高浜むかしばなし』 うば捨て山 和田の安土山は千何百年も前のむかしは、屍ヶ嶽(しかばねがたけ)といわれていたそうだ。 伝説によれば、村では六十才以上の年寄りになると、生きている人を家族のものや、あるいは、村の人が山のうえに連れていき、そこへ捨てて帰ったという。そのため、むかしの安土山は白骨で埋まっていたそうで、昼でも無気味なところとしてこわがられたそうである。 年をとったというだけで、病人でも何でもないのに、捨てられる。生きたまま、捨てられる。お年寄りがいる家では、お年寄りが六十才近くになるにつれて、いつとはなしに口数が少なくなり、笑い声が減っていく。 留吉は母親が六十才になるのがこわかった。あと三月、あと二月と月日はどんどん進んでいく。日が進むにつれて留吉やその家族の気持ちは重く沈んでいった。そしてついに、その日が訪れた。 「おばあちゃん、とうとう六十になってしもうたね」 「おまえら、悲しまんでもいいよ。わしは、喜んであの山へいくよ」けなげなおばあちゃんのことばを聞くと、みんなの目から涙がとめどなく流れ落ちた。 「これまでみんな仲良くすごせて、感謝の気持ちでいっぱいや。さあ、みんな笑ってわたしを見おくっておくれ」明るいおばあちゃんの声に、家のものは励まされる始末だった。 留吉はだまったまま、おばあちゃんを背負った。軽かった。おばあちゃんは背負われていく日のために余り食べないようにしていたのだろう。その軽さが、また息子の留吉の胸をどっと悲しみでいっぱいにした。 夜のとばりにつつまれた山の上へと背負われていく間、おばあちゃんはこどものころの歌を歌い続けた。その、ゆったりとしたやさしげな歌声が、留吉の耳になぜか心よくひびいた。幼いころに聞いた懐かしい子守歌のようだった。留吉もいつのまにかおばあちゃんといっしょになって歌をくちずさんでいた。そうしていると、家を出たときの高ぶった気持ちが、いつのまにか消えていった。ずっと小さな声で二人は歌い続けた。やがて、山の上に着いた。それでも、二人は歌をやめなかった。留吉は歌をやめるのがこわかった。 ほっと息をついて留吉は提灯をかたわらに置き、背中から母親をそっと降ろした。 おばあちゃんはまるで、眠っているような顔をしながら、まだ歌をうたっていた。小さく体を丸めながら歌っていた。留吉は、さよならもいわないで、ただ母親の肩に手をそっとおいたのだった。おばあちゃんはゆっくりと何度もうなずいた。それが、二人の永遠の別れだった。 今は、安土山は美しい公園になっている。 .小山弁天 安土山は外海と内海とにはさまれた、和田東北部のなだらかな山である。その山背から眺める丹後半島および青葉山は弓を描くような海岸線と美しく調和し、天下の絶景ともいわれている。 その安土山の西南端には〝小山〟と呼ばれる小さな丘があり、弁財天がおまつりしてある。 伝説によると、むかし和田の郷右衛門という人が、ふとしたいさかいがもとで、一人の普化僧と戦うことになった。二人とも刀を持てばまずまずの腕前だったので、なかなか勝負はつかない。しばらくは刀のすれ合う音だけが、キーンキーンと丘の上に響いていた。その時である。 「やあっ」ほとんど同時にふたりが叫んだかと思うと、次の瞬間バサリと倒れる音がした。そこに横たわっていたのは、真っ赤な血にまみれたふたりの屍だったのである。 後に里人は、相打ちして死んだ二人を葬り、弁財天をまつって、〝小山弁天〟と名付けたという。 安土の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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