蒜畠(ひるばたけ)
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福井県大飯郡高浜町蒜畠 福井県大飯郡青郷村蒜畠 |
蒜畠の概要《蒜畠の概要》 舞鶴辺りではニラバタケと呼んでいるようだが、正確にはヒルバタケである。西側の舞鶴からなら、吉坂トンネルを越えた広い所ヘ出た集落である。国道(丹後街道)沿いに若州女留関所跡がある。 蒜畠村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年青郷村の大字となる。 蒜畠は、明治22年~現在の大字名。はじめ青郷村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北2町、戸数8、人口は男26・女30。昭和28年9月の台風13号が当地方を襲い、山崩れのため6世帯が全半壊し13名の犠牲者を出した。 《蒜畠の人口・世帯数》 35・10 《蒜畠の主な社寺など》 八幡神社 集落からは北ヘはずれた所に鎮座する。 『高浜町誌』
無格社 八幡神社 祭神応神天皇比メ大神神功皇后 上津字村中に在り 社地百二十三坪 信徒八人 社殿二間一間半 〔若狭郡縣志〕 在蒜畠村或稱若宮八幡八月十五日有祭禮。 同 同 同 蒜畠字箱垣 に在り 社地三百二十四坪 氏子八人 社殿二間半二間 〔同 〕 在上津村林中爲産神八月十五日有祭禮 若州女留関所跡 国道27号線に向かってこんな碑がある。六路谷集落へ入る道との三叉路付近、バス停があるところ。国道から見える。達筆な文字でこの前ではワタシなどは文盲同然だが、「若州女留関所之古跡」と書かれているよう… 皆に知ってもらいたいなら、わかりやすい文字にすべきでは… 『高浜町誌』 蒜畠関所址 蒜畠の東側国道沿いに若州女留関所の古跡に石碑がある。 この石碑は昭和三九年関所の番人であった今村久右工門の子孫が建碑した。この関所は関が原の合戦後(一六〇〇年)京極高次が作った。京極高次の夫人常高院は豊臣秀吉の側室淀君や徳川秀忠夫人とは姉妹のため、豊臣、徳川の紛争の渦中にまき込まれることをそれ、婦人を取り締ったといわれる。 京極氏の松江転封後も藩主、酒井忠勝はこの制度を踏襲して明治二年まで続いた。 番所は七〇坪の宅地と建物、木戸、門柵及び制札所があり女は和田陣屋発行の通行証がなければ通行が出来なかった。 蒜畠女留番所 小浜藩領には疋田(始道ノ口・敦賀市)、粟柄(美浜町)、熊川(上中町)などとともに丹後国への出入口に当たる蒜畠にも番所がおかれていた。これらは俗に女留関所とも呼ばれており、出国する女性をきびしく詮議したという。徳川幕府の成立と同時に江戸へ人質として諸大名の奥方を置いたが、それらが謀反のため帰国するのを警戒して設置され、天和二年(一六一六)頃から始まったと伝えられる。いわゆる入鉄炮・出女を看視する法度にもとづくもので、各藩ともに設置されたらしい。小浜藩も同様で国境警備の地としてきわめて重要視したらしく、寛永一三年(一六三六)一一月付酒井忠勝書下『酒井家文庫』には、 一 丹後口 都筑外記・木戸十乗坊・香川勘右衛門・杉原彦左衛門、其所之代官二人、目付壱人可指加事 とあって、戦時の体制を指示している。通常は在地の者を番人として配置していた。もっとも当初は、道ノ口番所の例をとれば、扶持三五俵程度の小身者を配置しており、小浜藩直轄番所として存在したが、蒜畠の場合その経過を知る資料はない。番人の扶持方は、前出の「永代万書記」に 一 和田組蒜畠番人之扶持方共、右三ケ村(和田・笠原・子生)より毎月相渡ス、渡シ候分ハ月ニ目録を小払ニ入可申事、尤右之通、五月末ニ手形可取事 とあり、和田組の負担であったことがわかる。勿論蒜畠番所を通行するためには通行手形が必要であった。手形発行は和田陣屋がおこない、左のような願書を出し許可を得なければならなかった。 指上申証文之事 一 女壱人 年十六才 何町何左衛門娘誰 右之者、此度奉願上京都蛸薬師通高倉東へ入所、田辺屋平兵衛方へ奉公ニ差遣候段、聊相違無御座候間、 蒜畠 御番所御通シ被為下度奉願上候、尤此女ニ付自然如何様之義出来仕候共、加判之者罷出急度埓明可仕候、為後日之、町代・刀袮・五人組頭・親類加判証文 仍而如件 願主 - 年号月日 親類 - 五人組頭- 刀袮 - 同 - 町代助役- 町代 - 同 -― 女子の通行手形は俗に女手形・女切手とも呼ばれ、男子の街道往来より厳重であった。 吉坂峠(一〇二メートル)を以て丹後の国と境し、しばしば国境の諍いが絶えなかったようで「犬石」の伝説も生まれたところである。 ここ青の郷蒜畠には、関所跡がある。京極高次が若狭を領したとき、女人の他領流出を禁じて『女留関所』を設け、和田陣屋で往来手形を受けたもののほかは「これより通行まかりならぬ」と、厳重な見張りをしたところである。後世酒井氏はここに関所を設けて、往来を一層厳重にした。すなわち、小浜藩三関の一つである。これも明治二年正月一七日限りに廃止され、今日はその場に〝関所趾碑〟だけが往時を物語っている。 『大飯郡志』 関門趾 蒜畠に在り、其趾に朽標を存ず。往時婦人は和田陣屋にて通券を乞得て通過せりとぞ。 〔若狭郡縣志〕関門…蒜畠村亦有関門凡國中之女不撰老少禁無訴而赴他邦故就関其役人請而受許容之状授此等之藩鎮而過関門也。 〔若狭國志〕關防…一在大飯郡蒜畠村各邦城出入之要喉也守門者検察国人婦人出他邦不禁入于國婦人有故往他邦則請宰臣受證状授司正以過関?傳豊臣秀頼公所生號淀殿者備中守淺井長政女而京極高次夫人號常高院者之姉也故大阪戰伐之時高次有意以設之始置関至于今云 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 蒜畠の主な歴史記録蒜畠の伝説『大飯郡誌』 機織池 (傳説)蒜畑区字娶(ヨメ)にあり、一の池二の池三の池ありて、古へはこの地の人々比の池に雨乞をせしといふ。傳ふ、一婦今寺より関屋に嫁す機織の拙を姑に責めらるゝを歎き一日機を負ふて実家に行く途中この一の他に身を投げしとの故に婦人比の池畔を過ぐれば幽かに機昔を聞くと昔時はこの池の水源に瀑布ありて、三町許を隔てゝも尚物凄き昔を聞きたりしが、約四十年前、大雨の際巨巌池中に落ち、水浅くなりて昔も聞えずなりきと。 『若狭高浜むかしばなし』 蒜畠の機織池 昔、今寺から関屋へと嫁にいった娘がいた。ところが、この娘は機織りのことでいつもいつも姑から叱られていた。 「おまえは、どうしてこう機を織るのが下手なんや。おまけに、のろいときてる。そんなことでは、着物をつくる前に新しい年が来ちまうよ」 それでも娘は、涙をこらえながら機を織り続けた。カッタン、カッタン。けれど、機は姑の望むようには仕上がらない。 「いったい、どんな織り方してるんや。まともに織れるまで、おまえに食べさせる夕飯はないよ」 機を織る障子の向こうからは、姑たちの笑い声が聞こえてくる。娘の指先は血に染まり、ほとんど眠っていない身体はぐったりとしてきた。 「朝までに仕上げなけりや、承知しないよ」 姑はそういい残すとさっさと寝てしまった。 けれど、朝までに織り上げることなど無理な話だった。あまりの悲しさに、娘は家を出ることにした。 機を背負いながら里の家に帰る途中、蒜畠村の一の池、二の池、三の池の脇を通りかかった。娘は月の浮かぶ水面をぼんやりながめながら、池のふちに長い間立っていた。そして、とうとう引き込まれるように「一の池」へ身を投げてしまった。 それから、女の人がこの池の脇を通ると、池の中からかすかに機を織る音が聞こえるそうだ。カッタン、カッタン。それは、まるで哀しいすすり泣きのようだという。 蒜畠の関所趾 むかし関所だったというめじるしの木が、腐りかけたまま蒜畠に残っている。この関所あとは、京極高次(一五六三~一六〇九)が設けたのだという。高次は織田信長に仕えた後、本能寺の変では明智光秀の方についたものの、妹を豊臣秀吉の側室にしたので、秀吉に許された。そうして高次は大津六万石の大名となることができた。しかし、関が原の合戦では今度は徳川方についた。その合戦が終ると、妻が徳川秀忠の姉であったことも手伝って、高次は若狭の八万五千石の大名になった。その高次が、若狭を治めることになったとき、蒜畠などに関所を設けて、女性が他の国に出ていくのをきびしく取り締まった。というのも、豊臣側から徳川側へと寝返った高次だけに、豊臣の残党をたいへんに警戒していたのだろう。高次のその用心深さが関所となったといえる。 関所はその後、若狭の大名が京極忠高から酒井忠勝に変わってからも、ずっと残されておかれた。それだけ、重要な関所だったともいえる。 蒜畠の小字一覧蒜畠 谷(たに) 久保瀬(くぼせ) 向畑(むこばた) 登尾(のぼりを) 一本木(いっぽんき) 谷口(たにぐち) 箱垣(はこがき) 原田(はらだ) ツカ 深田(ふかだ) 土用(どよう) 谷畑(たにばた) 中畑(なかばた) 助時(すけとき) ダラ 時佐古(ときさこ) 娶佐古(みょうがさこ) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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