丹後の地名 若狭版

若狭

笠原(かさはら)
福井県大飯郡高浜町笠原


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福井県大飯郡高浜町笠原

福井県大飯郡高浜村笠原






笠原の概要




《笠原の概要》
町の南部。笠原川の上流の農業地域。県道16号(坂本高浜線・鯖街道)が南北に通る。今は何もない廃村だが、カシハラなどと同様にクシフル地名を残しているところから見れば、高浜発祥の聖地であったと思われる。高浜どころか舞鶴の東部の村々もそうであったかも知れない。弥生か古墳時代の地名である。実際に笠原は元屋敷と呼ばれていて、高浜のすべての村々はもともとは当地にあったと伝わるという。クシフルは大ソフルのことで、ソの村という意味である。
そうした古い記録はないが、南北朝期には文献に見える。当地は南北朝期以降木津荘に属していた。貞治7年(1368)正月日のもり兵衛譲状によれば、「木津ノ庄ノ内笠原ノ守光ノぬ志」もり兵衛は、もりきよ名田180歩を相若御前に譲与している(滝本善平氏所蔵文書)。同譲状には年貢として絹代用途50文と現米5升を負担することとされている。本来この田地は丹後国志楽荘春日部村のうち守清名(現舞鶴市)の左近次郎分であり、それを近隣の「もり兵衛」が獲得していたものであろうとされる。
笠原村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。当村は佐伎治神社の氏子の1つ。字津波井に阿弥陀堂があった。薗部との間を流れる笠原川は嘉永年間開削の新川という。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て同14年福井県に所属。同22年高浜村の大字となる。
笠原は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北20間、戸数3、人口は男11・女7。


《笠原の人口・世帯数》 3・2


《笠原の主な社寺など》



《交通》
鯖街道
南は笠原峠を越えて福谷村(現おおい町)へ通じる。笠原から石山村・納田終村を経て周山へ出るこの街道を高浜では周山街道といい、鯖が運ばれたことから別名を鯖街道ともいっている。

今は笠原(福谷)峠はトンネルになって、スイスイで行ける、軽トラが走っているのがかつての鯖街道である。そのトンネルの手前に高浜町浄化ランドがあり、その構内にこの像がある。こうして歩荷の背に負われて鯖は内陸へ運ばれた。運ばれた物はおそらく鯖だけではあるまい。




《産業》


《姓氏・人物》


笠原の主な歴史記録




笠原の伝説


『若狭高浜むかしばなし』
魚行商人とオオカミ
 むかし、高浜の魚行商人たちが掘越峠を通って京へと運んでいた。しかしこの堀越峠を行くのは、たいへんなことだったらしい。とくに、冬は命がけの峠越しだ。雪とオオカミとのだたかいが待っていたのだった。
 明治の初めころ、若宮に新左というあまり足に自信のない行商人がいた。新左はオオカミに追われたときのことを考えた。〝わたしなぞ、足が遅いからオオカミに合ったら、ひとたまりもなくやられてしまう。オオカミを何とか味方にすることを考えたほうが良さそうだ〟
 そこで、新左はオオカミのための弁当をこしらえて持っていくことにした。塩分を欲しがるオオカミの習性を利用しておき、自分の身に危険が迫ると、かねて用意した塩辛い握り飯をオオカミに与えるのだった。いつも、そうしているうちに、新左は二匹のオオカミと顔なじみになった。
 「ほら、おまえたちの好きな握り飯だぞ」
と、気楽に握り飯を与えることができるようになっていた。オオカミたちは新左を見ると尻尾を振って近づいてくる。いつのまにか、二匹のオオカミは新左が堀越峠を越えるときは、かならず前後につきそって、ほかのオオカミから身を守ってくれたという。そのお陰で新左は一人でも峠を越えることができたのだそうだ。
 実は、オオカミと友達になれない場合は、行商人は集団で行動した。足の弱いものは魚を半分捨て泣きながら、みんなから離れないよう懸命について行ったという。
 「お~い、もう少しゆっくり歩いてくれないか。もうついていけない」と、弱音を吐くものもいる。
 「こんなところでうろうろしていると、死んでしまうんだぞ。しっかりしろ」
 「ぼやぼやしていると、みんなに置いていかれるぞ。荷物を少しにしろよ」
隊列に遅れそうになるものはせっかく運んできた荷物を捨てるしかなかった。
 仲間からはずれれば、凍死をするか、オオカミに襲われるかする恐ろしい峠であった。そんなこわい峠でも荷物を運んで高浜の人びとは生活しなければ、ならなかったのだろうか。
 また、堀越峠にはマムシがことのほか多かったそうで、上着は脱いでも、膝から下は完全防備で峠越えしたともいわれている。むかしの魚行商人たちは〝京は遠うても十八里〟といったそうであるが、これは行商人たちの〝京はわずか十八里だ、こわいのもたかだか十八里だぜ頑張ろうぜ〟という、こわい峠を越える不安に負けないように、魚行商人自身を励ます言葉でもあったようだ。


福谷地蔵
 むかし、薗部にたいへんお人好しの男が住んでいた。お人好しといっても世間にはたくさんいるが、彼の場合はあまりにも度が過ぎたので、ほとんど哀れといってもよいくらいだった。
 この男には本業というものはなかったが、からだはすこぶる健康で、足には特に自信を持っていた。そんなわけで、高浜や薗部の人たちからはいつも、手紙や荷物を届けてほしいと頼まれるのだった。
 「へいへい、お安いご用で」
彼はこころよく荷物を預かってはそれを背負い、笠原を通り抜け、福谷坂を越えていき、佐分利や川上まで届けた。また帰りには、
 「へいへい、お安いご用で」
と同じように荷物を預かり、高浜や薗部に届けるのだった。彼はそうしたことによって、わずかな金を受け取り、細々と生活していたのである。
 そんなしがない彼にも、たったひとつの楽しみがあった。それは高浜と川上との往復の途中、一軒のもち屋で好物のもちを腹いっぱい食べることであった。そしてそのあとはいつも決まって、畑の大根を引っこ抜きムシャムシャと食べてしまうこのだった。
 そんなある日のことである。いつものように荷物を無事に届けたあと、例のもち屋で腹いっぱいもちを食べ、
 「さあて、仕上げに大根を一本いただくことにしようか」
と言いながら畑へ行くと、この日に限って大根が一本も見当たらないのである。
 「おかしいなあ、きのうまであんなにたくさんあったのに」
男はがっかりして畑をあとにし、福谷坂を歩いていた。
 その時である。この男の腹がキリキリと痛みだし、激しい苦しみが彼を襲ったのである。
 「好物のもちを食べ過ぎたのだろうか。それとも、きのうまでちょうだいしていた大根のせいだろうか」
男はしばらくの間のだうちまわっていたが、やがてポックリと死んでしまったのだった。
 その男の突然の死を知らされた村人たちは、
 「人のいい奴だったのに」
 「あんないたずら、しなきゃよかった」
といって、みんなで申し合わせて畑の大根を隠したことをとても悔やんだ。そして男の死を哀れみ、福谷坂に地蔵を立てて供養したという。その地蔵は福谷地蔵と呼ばれている。





笠原の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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