神野(こうの)
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福井県大飯郡高浜町神野 福井県大飯郡内浦村神野 |
神野の概要《神野の概要》 北に神野浦をひかえた山中の集落。中央を県道21号(舞鶴野原港高浜線)がほぼ東西に通る。 神野村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」によれば戸数24・人口120、反別118町6反余、産物に粳121石・大豆30石・麻40貫・櫨実1,000貫・桐実70石などがある。同22年内浦村の大字となる。 神野は、明治22年~現在の大字名。はじめ内浦村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北2町余、戸数27、人口は男78・女73、学校1。 《神野の人口・世帯数》 52・22 《神野の主な社寺など》 八幡神社 八幡神社は、享保5年(1532)の若狭国神名帳写や「若狭国志」に見える「正五位鞍道明神」に比定されている。「若狭郡県志」に記載される佐伊谷(現才谷)には、江戸末期まで民家4戸と産神山神神社があったが、民家は丘陵地に、神社は八幡神社に合祀されたと伝える。 ワタシは鞍道明神は成生岬の黒地湾にあったとみていて、当社をみたかったのだが、地図にもナビにもあるのだが、見当たらない。道も狭くて車をとめられない、そんなことでわからなかった。 『高浜町誌』
『大飯郡志』 村社八幡神社 祭神仲哀天皇神功皇后応神天皇 神野字日口谷に在り 社地四百三十一坪 氏子二十五戸 社殿二間四方 拝殿二間四方 神樂殿二間一尺六寸四間 鳥居一基 境内社二社 廣峰神社 祭神素戔嗚尊 社殿一間四方 青葉神社 祭神伊弉諾尊伊奘冊尊 社殿一間四方 由緒不詳(按に〔若狭國神名帳〕正五位鞍道明神? 〔若狭郡縣誌〕 八幡社 在神野村爲産神九月七日有祭禮 (宝永四年國中高附) 八幡宮九月七日古多樂跳今無之 臨済宗相国寺派観潮山桃原寺 県道沿いにある。この裏山が神野城址という。 『高浜町誌』 臨済宗相国寺派 観潮山桃源寺 一 所在地 高浜町神野寺之上 一 開 創 天正元年(一五七三) 一 開 基 安寂忍公和尚 一 檀家数 三二戸 一 本 尊 延命地蔵菩薩 一 由緒沿革 開山安寂忍公和尚の示寂は、「天正三年中」と郡誌にある。その他の由緒については、いつのころか火災があって、それまでの御本尊は“小野篁”の作であったとのみ伝えているぐらいで詳しくはわからない。 近年の記録では、明治二〇年“杉本亀太郎”が本堂を再建したとあるが惜しいことに大正の中ごろ、火災によって焼失し、現在の本堂はその後に再々建されたものである。 『大飯郡志』 (観潮山)桃源寺 同(臨済宗) 同(相國寺末) 神野字寺之上に在り 寺地二百廿二坪 境外所有地六反九畝十五歩 檀徒百九十一人 本堂五間半八間半 本尊地蔵菩薩立像 由緒〔明細帳〕天正年間開基安寂創立 〔同前〕 開基安寂忍公座元天正三年中示寂 建立者諸檀那中 名寄八斗六升年貢地也 神野城 桃源寺裏山の台地に内藤氏の平山城跡があるという。 『高浜町誌』神野城 神野浦をのぞむ山の中段に丘陵状の一峰があり、そこに小郭をつくっている。桃源寺の裏山にあたる。 『若狭郡県志』には内藤党の支族、同豊後守(諱欠)の居城と記されている。全長九〇メートル、最大幅二六メートルを計る小城だが背後の空堀と一文字土居は見事である。 神野村城址 神野城址は神野、寺の上にあり墓地となっている。若狭郡県誌には神野村に城址あり伝えいう内藤豊後守の城なりと. 『大飯郡志』 神野の城趾〔同上〕(若狭国志) 土人云豊後守内藤某所居事跡不詳盖武田家麾下士也(沿革條下参照 文和の頃?) 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 神野の主な歴史記録神野の伝説『若狭高浜むかしばなし』 神野の延命地蔵 神野の人びとがいつもおまいりしていたのは、桃源寺にある本尊の延命地蔵だった。神野には信心深い人が多かった。ところが、そのご本尊がある日のこと、火事で焼けてしまったのだった。村人たちはたいへん嘆き悲しんだ。 「ご本尊が焼けてしまわれた。こんな不幸があるだろうか」 「このままにしておいては、いけない」 「わしたちの手でなんとか、お寺を建てなおさなければ」 神野の人びとはどうしたらいいかと、心を痛めていた。当の寺を焼かれた和尚さんも、つらい毎日をおくっていた。ご本尊を守れなかったくやしさと情なさでいっぱいだった。また悲しむ村人だものことを思うと、心痛はつのるばかりだった。 そこで、和尚さんの池上照堂は思い立ったのだった。なくなったご本尊を求めて旅に出ようというのである。 「お寺をつくり直すためには、まずご本尊をおまつりしなければならない。そのため、わたしは遠くまでもご本尊を探しに出かけようと思う」 みんなは和尚さんの出発を見送った。 「どうぞ、お気をつけて」 「立派なご本尊をお探しになられますよう」 和尚さんは西へ西へと向かったが、ご本尊に出会わなかった。そこで、さらに足を伸ばし、九州へとたどり着いた。その地で、和尚さんは焼けてなくなった延命地蔵と同じお地蔵さんにめぐり合うことができたのだった。 和尚さんは、その延命地蔵を背負って神野へ帰ってきた。村人たちの喜ぶ様子を見て、和尚さんのそれまでの苦労が吹き飛んでしまった。 「和尚様、和尚様はたいへんな思いをして、ご本尊を見つけてきてくださった。今度は、わたしの力で何としても本堂を建てて見せることにしよう」 檀家の人びとはきっぱりといった。また、心ある村の人たちもすすんで協力した。そうして、神野の桃源寺は立派に建てなおされたのだった。 坂谷孫左衛門の灯篭 むかし昔、神野の村に坂谷孫左衛門というおじいさんが住んでいた。もうかなりの年だったが、からだはとても丈夫だったので、いつも進んで人の役に立つことをしていた。 村人だちからは。 「ほんまに頼りになるじいさんや」 となかなかの評判だった。 この日も、朝早くから起き出して、家の前の道をシャッシャツ、シャッシャツとほうきで丁寧にそうじしていた。その時である。むこうの方から、灯篭を持った旅の僧がゆっくりとこちらの方に歩いてくるのが見えた。 「こんな朝早くに、お客さまじゃろか」 そう思った孫左衛門は、ほうきを動かす手を止めて、急いで家に帰っていった。 「きっと遠くからはるばる来たのじゃろうから、うんとおいしいお茶を出さんとなあ」 孫左衛門がお茶のしたくをしていると、まもなく門の外から声がした。 「わたしは旅の僧である。このあたりで坂谷孫左衛門という者を知らぬか」 自分の名を呼ばれてびっくりした孫左衛門は、とにかく表に飛び出していった。 「孫左衛門はわしじゃが」 彼がそう答えるとすぐに、旅の僧は門をくぐり抜けて孫左衛門の庭に入ってきた。そして、杖でコンコン、コンコンと地面をたたいては、庭中を歩き回るのだった。 「どうやら何かが埋まっとるらしい」 孫左衛門は、しばらく様子をうかがっていたが、お客さまに早くおいしいお茶を飲んでもらいたかったので、そっと声をかけてみた。 「旅のかたや、ここいらでちょっと一服しませんかね」 ところが旅の僧は、孫左衛門の誘いも耳に入らないほど、相変わらず地面をコンコン、コンコンとたたいている。 しばらくすると旅の僧は、大きな山桃の木の横に、持っていた灯篭を満足げに置いた。そして、 「万一、神野の村がどうにもならなくなった時には、この灯篭の下を掘りかえすがよい。金が埋めてある」 と言い残し、お茶も飲まずに去っていってしまった。何だか訳のわからなくなった孫左衛門は、 「お茶も出せなくて残念だったなあ」 とつぶやきながら、旅の僧が置いていった灯篭を不思議そうに見つめるのだった。 その後、神野の村がたいへんだったことも時にはあった。しかし、がまん強い孫左衛門は、決してその灯篭の下を掘りかえそうとはしなかった。たとえそこに、金が埋まっていようとも。 あれから、もうずいぶんの年月がたっているか、灯篭のまわりにはいまだに苔もはえず、あの時のままの状態が残されているという。 神野の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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