丹後の地名 若狭版

若狭

車持(くらもち)
福井県大飯郡高浜町車持


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福井県大飯郡高浜町車持

福井県大飯郡和田村車持






車持の概要




《車持の概要》
高浜町の一番東の集落で、同じ車持川の谷筋で、上流側の上車持と下流側の下車持に分かれる。「エルどらど」という原発のPR館や「道の駅」があるあたりの山側にある集落である。何とも古い歴史時代以前の古代地名を残している。

上車持村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。村内に天王社(現広嶺神社)がある。「若狭郡県志」に「祭牛頭天王而為産神六月十四日有祭」と記す。字梅ヶ谷には臨済宗相国寺派正法寺がある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年和田村の大字となる。
上車持は、明治22年~現在の大字名。はじめ和田村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北3町、戸数23、人口は男65 ・ 女60。昭和30年頃当地と下車持を合併して車持と称した時期があった。

下車持村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。小名に高森・本村がある。「若狭郡県志」に「下車持村属本郷、去小浜四里許也」とあり、かつては本郷(現おおい町)と関係が深かったようである。神社は高森山に香山神社、字笠掛谷に笠掛明神社。寺院は字大野に臨済宗相国寺派海蔵庵。青戸の入江に向けて張出した峰の先端に南北30メートル、東西幅12メートルの城跡がある、「若狭郡県志」に「下車持村山上に、有本郷泰栄陣小屋之跡、謂小屋場」と見え、本郷氏の陣所と伝承する。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年和田村の大字となる。
下車持は、明治22年~現在の大字名。はじめ和田村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北3町、戸数24、人口は男70 ・ 女73。昭和30年頃当地と上車持を合併して車持と称していた時期があった。


男はつらいよの車寅次郎のクルマであるが、群馬(上野国群馬郡は7世紀末までは「車評」であったことが藤原宮跡出土木簡によって明らかとなっている)、来馬、久留間、黒味などいろいろ記され、あちこちにみられる地名である。当町の長井や小浜市飯盛などに黒駒神社があるが、これは本来はクルマ神社と読むので、当地とも何か関係があるのであろう。祭神は素盞嗚命となっている。天日槍であろうか、いずれにしても渡来の人々の社であっただろうと推測できる。古い大氏族で本来は「車を持つ」氏族とかいった意味ではない。

「続日本紀」延暦2年(783)7月18日条に、
越前国の人外正七位上秦人部武志麻呂には請に依りて本の姓車持を賜ふ
新日本古典文学大系本の車持についての脚注には、「大化前代、朝廷の車の製作や輿輦のことなどに当った車持部の後裔氏族。その伴造氏族として公(君)・朝臣・連・首姓の車持氏がいる。なお秦人部と車持との関係については未詳。」としている。
これはかなり時代が下った頃の話であるし、当地の車持と関係があるのかも不明であるが、渡来系氏族らしいことは分かる。クラは高句麗(コクリ)のクレであろうか、或いはフラの転訛でムラジと同じ意味かも知れない。
モチはムチ、大穴牟遅のムチで、主とかいった意味で、車持は高句麗村の主の意味か、単に村主の意味か。クレムチ、或いはフラムチ神社とかあったのではなかろうか。
ムチはシ(主)と言っても同じで、クロジ、クラジも同様の意味か、もしそうなら「若狭国神名帳」の正五位鞍道明神は当地にあった主神ではなかろうか。成生岬の黒地湾なども関係があるのかも
クルマのマはマルやマロの意味で、国とか村とか、あるいはそこの親分に対する尊称と思われる、クルは句麗かも知れないし、フルかも知れない。元々の本来の意味は大きな村とか大きな村の親分様の意味か。

《車持の人口・世帯数》 137・50


《車持の主な社寺など》

式内社・香山神社(かぐやまじんじゃ・かごやまじんじゃ)

国道27号線添いに鳥居がある。高浜町とおおい町の境にある海岸まで張り出した山(高森山)の稜線に鎮座。今は裏手を通る南山手線からも入れる。国道ギリギリまで海であったが、いつの頃からか埋め立てられて今は何やら建物が並ぶが、周辺には人家はない。参道を小浜線の鉄道が横切る。社宝に方鶴鏡・掛仏・写経・棟札。おおい町本郷つんぼ山(船岡山)経塚跡から出土した外筒・経筒・合子などを保管。祭礼は4月23日・10月28日。
『稚狭考』に、
大飯郡馬居寺村の惣社高森明神は海畔にあり、その森の中に社並に社人社女居家あり、此森に詣するに限りて高森ザシといひ来れるは其謂しらす。丹波小原明神に参詣するにも山城にて小原サシといふなり。
手前側(北側)が香山神社(下ノ宮)、奥側は摂社・牛尾神社(上ノ宮)。東向きに鎮座。香山神社は小堀の氏神で、牛尾神社は下車持の氏神。

社前の案内(10年くらい以前にはあったが、今はない)
延喜式内社・若狭国正五位 香山(かぐやま)神社(通称 高森乃宮) 福井県大飯郡高浜町高森七の一 高森(香具)山鎮座
祭礼 古義祭 春の宮当祭 三月十三日、秋の同祭 十月八日 例大祭 春期四月二十三日 秋季十月二十八日
祭神 天香山命(開拓の祖神) 猿田彦命(道びきの神) 蛭子命(恵比須の神) 事代主命(福徳の神)
神徳 古くより高森十六所明神と尊称し、「命の神」「福の神」と仰ぎ、交通、治病、招福、厄除、安産、幼児の守護神
由緒 往昔第一代神武天皇の功臣天香山命を先人達が開拓の祖神と崇め祭祀せしか。又上古天香山命の後裔若犬養宿禰の氏人の若狭(当地方)に在りて祖神も氏の神として加来山(香具山)に創祀したものと推考される。御鎮座は奈良朝の大宝二年(七〇二)の頃か、少なくとも天平十三年(七四一)より延暦十二年(七九三)の間の年代と推定され、今より千二百五十年余前の創建ならん。降つて平安朝の延長五年(九二七)の延喜式神名帳に撰上ありしより、正に千五十年の古社なり。 中世暦応元年(一三三八)丹州、丹後の大川十六所明神が当地に飛遷(合祀)すと云う。鎌倉、室町時代は社領も百五十石あり社運隆昌なりしと云う。次降幾度かの造営修補を経て、現在の社殿は江戸時代文化十年(一八一三)の造営なり。 昭和五十二年十月吉日記
伴信友の詠歌 『こもまくら高森山の高々にあふぎて祝ふ神祭りかも』文化元年(一八〇三)の春祭りに参拝の折り詠ねる。


社前の案内
摂社 牛尾(うしお)神社(別称 八王子乃宮) 神輿神社(末社)は両神秋御祭神の荒み魂を祀る(輿車の神)として崇拝す
古義祭 春期三月十三日 秋季十月八日。例大祭春期四月二十三日 秋季十月二十八日。
祭神 天照皇大神の八王子乃命 五男の命は天孫降臨の折り力を助け給う神、三女の命は世に云う海上全般の守護神
天日槍命を主神と仰ぎ奉る
由緒 上古第十一代垂仁天皇の御宇に来朝帰化せる新羅国の皇子天日槍命の族及びその末葉達が、当地に在りて祖神を祭祀せるものならんとも推考され、奈良朝の延暦十年(七九一)より以前の御鎮座と伝えられ、今より約千二百余年前と推定される。其の後太政官符に依り、牛を殺して漢神を祭るも禁止せられしより衰微せしが、中世平安朝の暦応元年(一三三八)丹州丹後大川天日八王子御前(あめのひはちおうじごぜん)当地に飛遷す依って社殿造営の上遷宮(配祀)すと伝う。
又後世(戦国時代)対岸の犬見の氏神も移座、即ち当社に合祀せりと伝う。区内の社壇零落し神格失却の故ならんか、今も尚犬見の白石に高森屋敷(小丘)在り。鎌倉室町時代は本社と共に社領も有り隆昌なりしと伝う。
現社殿は本社と同期の江戸時代文化十年(一八一三)の造営なり
昭和五十二年(一九七七)十月 記


『高浜町誌』
元村社
香山神社

天香山命
猿田彦命
蛭子命
事代主命
下車持
高森      
七三五・五坪
四八戸
(大飯町小堀を含む)      

四月二三日
一〇月二八日      
社殿
御輿舎
社務所      
  式内社
「延喜式」神名帳にのる
社宝「方鏡」       
 牛尾神社 天忍穂耳命、外七神
 夷神社 蛭子命
 熊野神社 伊弉諾尊
伊奘冊尊
 琴平神社 大物主命
 荒神神社 素戔嗚尊
 瘡神神社 大己貴命
少彦名命
香(かぐ)山神社
 下車持の東端、大飯町小堀との境にある高森山に鎮座する。祭神は天香山命・猿田彦命・蛭子命・事代主命。旧村社。「延喜式」神名帳にのる。
 香山神社又香子(かこ)山明神などとも出ている。(神名帳写)上の宮・下の宮の二宮あった。「稚狭考」は「大飯郡馬居寺村の惣社高森明神は海畔にあって、その森の中に社並びに社人社女の居家があり、この森に詣ずるに限って高森ザシといい来ったのはそれらしい」と記してある。氏子圈は下車持・小堀の二区、社宝に方鏡がある。その他懸仏二二面、水晶軸法華経八巻、小堀丸山より発掘された古鏡がある。



:境内社↑

『大飯町誌』
香山神社
 高浜町下車持字高森所在。西部を区切っているのが高森山(薫山)、ここに氏神香山神社がある。式内の古社で延長五年(九二七)より前の創建であることは疑う余地がない。しかし、中古伝えるところでは、「それ当社は、丹州天日八王子日御前並びに吉野蔵王権現十六所大明神が、暦応元年(一三三八)卯月上旬にこの高森に飛び移って来られた。それで右衛門尉助教が社殿を造立し奉ったものである。すなわちその翌年暦応二年の三月十一日に柱立てをし、卯月十四日巳刻に上棟し終わったのである。その後、私河上肥前守沙弥道応が御社頭の朽破したのを見て、至誠信心を巡らして当社を造替したい所願である。伏して願くは天下泰平国土豊饒、現世安穏後生善所、道をもって楽を受けんことを。時に永享四年(一四三二)八月十八日(ここまでが古い棟札の文句らしい)」。
 この建立以来「旦那がなく破損していたところ、当御代に及んで従四位若狭少将酒井讃岐守源朝臣忠勝公が、再興造営上葺を御寄進なされた。天長地久子孫繁昌御願円満を期するものである。右両宮の社領は五十石あったが、太閤様御代に召し上げられ、山林ばかりが今にそのまま下されている。」(『若州管内社寺由緒記』の口訳)とある。
 この文中の古い棟札は現存していて永享七年となっている。四年は写し誤りであろう。酒井忠勝の修補は、正保二年(一六四五)である。その後文化十年(一八一三)建て替え、明治三十八年(一九〇五)現社殿補修及び拝殿を造営した。当社は元上社と下社に分かれていて、上を牛尾神社(天日八王子社といっていた下車持氏神)、下を香山神社(十六所明神と旧称、小堀村の氏神)として明治以前は別の扱いをしていた。式内確認に際して香山神社を本社として牛尾神社を摂社としたものである。
 牛尾神社は古くは犬見の白石にあったことは犬見の部で書いたとおりで、この神社がもとより大飯町域の神社であったことが分かるのである。境内社は夷神社(蛭子命)、熊野神社(伊弉諾尊・伊奘冉尊)、琴平神社(大物主命)、荒神神社(素盞嗚尊)、瘡神神社(大己貴命、少彦名命)、稲荷神社(倉稲魂命、大田命、大宮姫命)の六社である。香山神社の祭神は、猿田彦命、蛭子命、事代主命であり、牛尾神社は五男三女の神(天忍穂耳命、天穂日命、天津日子根命、御津日子根命、田寸津比売命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命)である(日吉大社では大山咋命としている)。


『郷土史大飯』
西部を区切っているのが高森山(薫山)ここに氏神香山(かごやま)神社がある。式内の古社で延長五年(九二七)より前の創建であることは疑う余地はない。然るに中古伝えるところでは「それ当社は、丹州天日八王寺日御前並に吉野蔵王権現十六所大明神が、暦応元年(一、三三八年)卯月上旬にこの高森に飛びうつって来られた。それで右衛門尉助教が社殿を造立し奉ったものである。即ちその翌年暦応二年の三月十一口に柱立てをし卯月十四日巳刻に上棟しおわったのである。その後、私河上肥前守沙弥道応が御社頭の朽破したのを見て、至誠信心を巡らして当社を造替したい所願である。伏して願くは天下泰平国土豊穣、現世安穏後生善所、道を以て楽を受けんことを。時に永享四年(一、四三三)八月十八日(ここまでが古い棟札の文句らしい)。この建立以来旦那がなく破損していた所、当御代に及んで従四位若狭少将酒井讃岐守源朝臣忠勝公が、再興造営上葺を御寄進なされた。天長地久子孫繁昌御願円満を期するものである。右両宮の社領は五拾石あったが、太閤様御代に召上げられ、山林ばかりが今にそのまま下されている」(由緒記の口訳)とある。
 この文中の古い棟札は現存していて永享七年となっている。四年は写し誤りであろう。酒井忠勝の修補は正保二年(一、六四五)である。その後文化十年建かえ、明治三十八年現社殿補修及拝殿を造営した。当社は元上社と下社に分かれていて上を牛尾神社(天日八王子社といっていた下車持氏神)、下を香山神社(十六所明神と旧称 小堀村の氏神)として明治以前は別の扱いをしていた。。式内確認に際して香山神社を本社として牛尾神社を摂社としたものである。牛尾神社は古くは犬見の白石にあったことは犬見の部で書いた通りでこの神社がもとより大飯町域の神社であったことが分かるのである。境内社は夷神社(蛭子命)熊野神社(伊弉諾尊伊弉冉尊)琴平神社(大物主命)荒神社(素盞嗚尊)瘡神社(大巳貴命、少彦名命)稲荷神社(倉稲魂命、椎彦霊命)の六社である。香山神社の祭神は、猿田彦命、蛭子命、事代主命であり、牛尾神社は五男三女の神(天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、御津日子命、田寸津比売命)である。(日吉大社では大山咋命としている)。


『大飯郡誌』
〔若狭国神名帳〕正五位香子山神社カコヤマ
〔新撰姓氏録〕右京諸蕃 香山連百済国人達率名進之後也。
〔若狭郡県志若狭国史〕在所不詳(参考同上二書天日八王子神社在小堀下車持二村間)
〔神社考〕按に下車持村の内字高森本村と云ふ處の高森山足に高森とて大なる森あり(山の名も此森によりて負ひたるなるべし)其處に高森明神と云ふ社あり香山延毘須とも夷三郎殿又蛭子とも称ひまた西の神とも瘡神ともいへりこれ決く香山神社なるべ志(若狭郡県志)に西神祠在下車持正保二年少将忠勝修補といへる社これなり…香山と申すは山の名なるべし。
(注 今当税所次第に…加来(カク)下野権守其代に加来三部入道定円…地名を氏に呼へるならむかしからば社号の香山も其處の山ならむ此考当らば彼高森本村といふ辺を古は加来と云ひ加来山といひ其山に坐すをもて香山神社と申せしなるべし。(延喜十二年)六月造皇嘉門(ワカ)若犬養氏…は…天香山命の後に当れり…氏人の若狭に在りて御門造りて奉る…勢あり…其氏神香山命を祀れるにやあらむしからば香山といふ地名の在りとせば社号の地名にうつりたるものとすべし)


指定村社香山神社 祭神猿田彦命姪子命事代主命 下車持字高森に在り 社地八百七十四坪 氏子五十六戸 永續資金 百壹圓餘 社殿〔〕拝所〔〕 社務所〔〕神輿舍〔〕手水屋形〔〕 鳥居一基 制札 〔大正四年十二月建(其頃建物悉改築)〕
由緒 延喜式香山神社(全郡誌神社章参照)(大正四年十一月六日指定)。
〔若狭郡縣志〕 天日八王子社-在小堀村ヨリ下車持村之間
 正保二年酒井忠勝依有所願修補神殿三月二十三日九月二十八日有祭此日神輿遊行 十六所明神-在小堀村三月二日九月八日祭之。
境内社七社 牛尾神社 祭神〔天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、御津日子根命、熊野久須毘命、多紀毘売命、市寸島比売命、田寸津比売命〕 社殿〔〕 拝所〔〕
〔村誌稿〕 此社を原と天日八王子社と稱し、維新後現稱に更む、本郷村、犬見白石の高森屋敷のを何時頃か移座せし也現拜社殿は明治三十八年九月造營せり〔取意〕。
夷神社 〔祭神蛭子命〕 (〔神社私考〕には此社と瘡神と本社とを混説せり)。
〔神社私考〕 香山延毘須…西ノ神とも瘡神ともいへりこれ香山神社なるべし三方郡須倍神社をも西ノ神とも延毘須とも稱ひ〔摂社に瘡明神あり〕…同神なるべ(須倍神社の條)西ノ神と申すも(攝津)廣田(神社)にて(夷三郎殿と稱ふ末社を)西ノ宮といへるよりうつりたる唱なるべし…されど當社は素よりの祭神は別におはして蛭子は後に合せて祭りれるにぞあるべき。
能野神社 〔同伊弉諾尊伊奘冊尊〕社殿〔〕。
琴平神社 〔同大物主命〕    社殿〔〕。
荒神々社 〔同素盞嗚尊〕    瘡神々社〔同大己貴命少彦名命〕。
〔若狭郡縣志〕 西神社在下車持村正保二保酒井忠勝公依有祈願之事修補神殿(遠敷郡粟田村)西神社…民間詣此社謂佐須〔稚狭考〕高森明神に詣るに限りて高森ざしといふ(按に無格社笠掛神社)此社より西に現在せり、瘡神なり、之を何時頃よりか分祠せし故西の神の稱あるならむ?
 此社は高森山一名薫山〔即ち香山〕の麓に鎮座し、(社名亦之に原づく?)曰く高森明神と汎稱し、地形勝を占め、華表先よ心青戸入江を隔てゝアズチ山〔和田山〕を望む風景また無く佳く、神寶亦可記物多し。
 木製掛佛〔径六寸五分〕裏に年號をも記し本郡にては勿論全国にても恐らく稀有の物なら可く(全郡誌に写出)又徑三寸五分の方鏡の裏に鑄出したる掛佛も亦珍らしき物たり其他三寸乃至六寸の大小掛佛(通常金製)廿二面を算し中には天文五年の裏銘を讀得るものあり近古に於ける隆盛を偲ばしひるに足れり木板巾僅に三寸の水晶軸法華經八巻あり之も世に多く見ざる物なるが如し。
 明治二十一年九月六日小堀の東境丸山より發掘せし古鏡〔径四寸〕及經筒松田社掌の家に保管しあり。
〔宝永四年國中高附〕 小堀天日八王子三月廿三日九月廿八日兩日共に御輿出御。
 十六社明神三月二日九月廿八日三寸御供備申候。
(拜殿は明治三十八年九月の造營に係り、
現今は四月二十三日〔村ヨリ供進〕十月廿八日を例祭とするも、尚三月二日〔小堀奉仕〕九月八日〔下車持奉仕〕宮の當と稱する臨時祭を行ふ、蓋舊時の遺例なるべし)。


残念にも古い本来の由緒は残っていないようであるが、式内社とかよりも若丹にとっては超重要な神社であったと思われる。
貞観年中(859~77)作とされる、丹後一宮・籠神社に伝わる国宝「海部氏系図」には、…-三世孫倭宿祢命-孫健振熊宿祢-…とあり、健振熊宿祢の註文に「此若狭木津高向宮尓海部直姓定賜弖楯桙賜國造仕奉支品田天皇御宇」とある。
成立年代不明ながら、同社に伝わる「勘注系図」の、十八世孫丹波國造健振熊宿祢の註文にも、「息長足姫皇后征-伐新羅國之時、率、丹波・但馬・若狭之海人三百人、為水主一、以奉仕矣。凱旋之宕、依勲功、于若狭木津高向宮定-賜海部直姓、而賜楯桙等國造奉仕。品田天皇御宇。故海部直、亦云丹波直、亦云但馬直矣。葬于熊野郡川上郷安田」と見えるが、その「若狭木津高向宮」とは当社でなかろうか。
高向はタカムクでなくタコウであろう、若狭木津タコ宮である。当地は当時は木津であったものか、今は木津の東端で、朝日が昇るカグ山(光明山)であろうから、木津の神社としてよいだろう。
タコは高と通音で、タコ宮とは高森である。また上車持の奥の峠をタコ峠と呼ぶ、越えた所の佐分利川添いの集落はタコ村と言った、今は万願寺と呼ぶが、寺以前はタコ村であり、川を越えると静志神社が鎮座する。タカ・タコはarの類語であり、光明の意味がある。天日槍渡来群の残した地名と想われる。神功皇后伝説は、新羅の天日槍と総称される渡来群が丹波、但馬、若狭にやって来たという過去の事実を逆に言ったものかも、よくあるハナシである。コバンをクレテンデスワナ、いらんと言うとるのに、ワタシラは被害者ですで、とか今でもある。丹波、但馬、若狭はどうやら天日槍の重要な橋頭堡であったようであるが、その中でも当社あたりはトクに重要な所であったものか。。

香山というの大和三山の「天香山」と同じであるが、万葉集の原文では高山とあるのを香久山と読んでいる(中大兄三山歌一首)。またカゴはカネつまり金属全般のことであるが、初めは「アカガネ(銅)」を意味する朝鮮語系の古語だったようであるという。
香山は銅山でもあったと見られる。
『古語拾遺』に、
石凝姥神をして天香山の銅を取りて、日の像の鏡を鋳しむ
香久山は銅の呪力信仰を秘めた鍜冶神の神体山とされる。
また神武紀には、
是夜。自ら祈ひて寢ませり。夢に天神有して訓へまつりて曰はく。「天香山の社の中の土を取りて、天平瓮八十枚を造り、并せて嚴瓮を造りて、天神地祇を敬ひ祭れ。亦嚴呪詛をせよ。如此せば、虜自づからに平き伏ひなむ」とのたまふ。
…時に、弟猾又奏して曰さく、「…今當に天香山の埴を取りて、天平瓮を造りて、天社國社の神を祭れ。然して後に、虜を撃ちたまはば、除ひ易けむ」とまうす。天皇、既にして夢の辭を以て吉兆なりと爲ひたまふ。弟猾の言を聞しめすに及びて、盆懷に喜びたまふ。乃ち椎根津彦をして、弊しき衣服及び蓑笠を著せて、老父の貌に爲る。又弟猾をして箕を被せて、老嫗の貌に爲りて、勅して曰はく、「汝二人、天香山に到りて、潛に其の巓の土を取りて、来旋るべし。基業の成否は、當に汝を以て占はむ。努力、愼歟」とのたまふ。…

などとある。
椎根津彦が天香山の埴で天平瓮を作り天社国社の神を祀り賊を平定したという。天香山の埴土は呪力を有する土で、倭国支配の象徴と観念されていたようである。どこかでも書いたが椎根津彦は志理都彦と同じで、たぶん天日槍である。香山は天日槍の銅山であろう。

当社参道の埴土↑。この埴土があれば、丹後は支配できる、別に品田天皇とかよりもすっと昔からそう観念されていたものであろう。
ついでながら椎根津彦はシリツヒコであり、新羅の彦と思われ、天日槍であろう。大和も当地あたりと特別にかわった国ではないようである。

加佐郡の大川神社は鍜冶神として祀られるのではなかろうか、鐘寄にも大川神社(ホコラだが)がある。
牛尾神社は天日八王子社と呼ばれており、その天日とは天日槍のことであろう。鉱山神として祀られていると思われる。水銀があるような所によく牛尾の名が見られる。


広嶺神社

獣除けのフェンスで閉じられている。
『高浜町誌』
元村社
広嶺神社

素戔嗚尊

上車持
字宮ノ上  

二四九坪
二四戸
上車持  

四月一四日  

社殿
拝殿
鳥居  

神楽舞
引山  
 
 大神神社 素戔嗚尊
大己貴命
 
 天王社    

『大飯郡誌』
村社廣嶺神社〔祭神素盞嗚尊〕 上車持字宮ノ上に在り 社地二百四十九坪 氏子二十四戸 社殿〔〕拝殿〔〕鳥居一基 境内社大神々社〔祭神素盞嗚尊大己貴尊〕 社殿〔〕 由緒〔明細帳〕慶応二丙寅十月三十日出雲より勧請。
〔若狭郡縣志〕 天王社-在上車持村祭牛頭天王而爲産神六月十四日有祭(貞享二年造營の棟札あり古の社地は現今のより一町餘東に在りしとぞ)。



笠掛神社

ここも閉じられている。
『高浜町誌』
笠掛神社 手置帆負命
彦狭知命
下車持
笠掛谷
九六三坪
二一戸
下車持 
二月一一日 社殿
鳥居
  瘡神
疱瘡、腫物一切に霊験があるとされている

『大飯郡誌』
無格社笠掛神社 〔祭神手置帆負命彦狭知命〕下車持字笠掛谷に在り 社殿〔〕〔文化四年雲濱鑑〕 笠懸明神。
〔村誌稿〕取意 境内九百六十三坪。神事二月十一日、瘡神と俗稱し、疱瘡は勿論、腫物一切に靈驗ありとて拝祈す、全癒すれば小笠を納む、(按に社號之に因り)、笠は瘡に通ずればならむ、高森の香山此の末社西の神は蓋し此社の分祀なる可し。〔村誌稿〕には〔國帳〕の鞍道明神は此社か廣嶺社ならむとの説あれど難採 全郡誌社寺章参照)。.



臨済宗相国寺派青龍山海蔵寺

『高浜町誌』
臨済宗相国寺派 青龍山海蔵寺
一 所在地 高浜町下車持第三号三十六番地
一 開 創 元亀二癸未年 月 日(一五七一)
一 開 基 慶周和尚(元亀二年一月二十八日示寂)
一 本 尊 延命地蔵菩薩
一 檀家数 二一戸
一 由緒沿革 当寺は、今から凡そ四百十有余年前、元亀二年(一五七一)慶周和尚によって開創せられた。その他の由緒については寺伝不詳で、くわしくはわからないが、歴代に中興の和尚があって、寺門の復興、興隆につくした事跡がある。その間において、堂宇の補修、再建等があったようだが、降って昭和一一年には、本堂、客殿の増改築がなされている。
 境外に阿弥陀堂を存し、本尊は阿弥陀如来である。


『大飯郡志』
海藏庵 臨済宗相國寺派 下車持字大野に在り 青龍山 寺地百三坪 境外所有地五反七畝七歩 檀徒百二十一人 本尊地蔵菩薩 堂宇〔〕 阿彌陀堂〔〕庫裡〔〕 門〔〕 由緒〔明細帳〕元龜二癸未年建立の由。
〔元禄五年改帳〕 開基慶周元龜年中示寂 建立者諾檀那中 名寄一石二斗年貢地也。.



臨済宗相国寺派白滝山正法寺

『高浜町誌』
臨済宗相国寺派 白滝山正法寺
一 所在地 高浜町上車持第八号三番地
一 開 創 永禄六癸亥年(一五六三)(若州管内社寺由緒記による)
一 開 基 陽堂恵春首座
一 本 尊 延命地蔵大菩薩
一 檀家数 二〇戸
一 由緒沿革 〝若州管内社寺由緒記〟によれば「永禄六年白石山城粟屋右衛門太夫殿建立と申伝候」とあるが、当寺に於ては草創年代不詳という。
 開山は陽堂恵春禅師、文亀二年三月二六日示寂、明治一七年第九世謙堂和尚の代に現在の堂宇を建立して、今日となる。
 境内に毘沙門堂あり、本尊毘沙門天は同区の守護神として毎年初寅を以て祭礼が行われる。.


『大飯郡誌』
白瀧山正法庵 同(臨済宗相国寺派)  上車持字梅ヶ谷に在り 寺地百六十九坪 境外所有地二町二反六畝二十六歩 信徒百十八人 本尊地蔵尊 堂宇〔〕書院〔〕庫裡〔〕毘沙門堂〔〕由緒〔明細帳〕不詳?
〔元禄五年〕中興開基慧春首座天正十年三月示寂 建立者諸檀那中 名寄九斗五升七合年貢地也



「若狭郡県志」に「下車持村山上に有本郷泰栄陣小屋之跡、謂小屋場」と見えて、本郷氏の陣所と伝承する。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


車持の主な歴史記録


『高浜町誌』
香山神社所蔵の経塚出土遺物及び鏡像・懸仏
 香山神社所蔵の経塚出土遺物(写真)は現大飯町で発見されたものだが、現在は高浜町内にあり、しかも町指定文化財となっているため、発見の経過を記録しておく必要から本誌にとり入れた。
 高浜町内における平安期の資料は仏像遺品を除いて殆んどなく、同時代の推移を知ることは不可能な状態にある。広意義に大飯郡としてとらえた場合、この出土遺物は大きな意味を持ち、歴史的・或いは信仰を考える上において貴重な資料となる。遺物は明治二一年(一八八八)九月一六日に現香山神社宮司松田忠夫氏の祖父にあたる森寿氏によって発見されたもので、銅製経筒・土師質の外筒・和鏡・合子の四点が残る。
 若狭地方では近世の経塚(一石一字経を埋納)はかなり確認されているが、中世以前のものはきわめて少ない。詳細は後述するが、香山神社所蔵の遺物は平安末期の習俗・信仰形態を伝えるものとして注目されよう。同社は『延喜式』神名帳に載る「香山神社」に比定され、享禄五年(一五三二)の神名帳写『小野寺文書』に「正五位香子山明神とある。祭神は猿田彦命・蛭子命・事代主命となっており古い信仰形態を持つ神社である。
経塚の位置  和鏡を収納した松田森寿氏の箱書によると、大飯町小堀と本郷の境をなす丸山の頂上より発掘したとある。上田三平『越前及び若狭方の史蹟』には本郷地籍の西つんぼ山々頂で明治二一年に発掘され、方形の石囲いがあって経筒・和鏡・陶器・合子・刀片などが検出されたとある。
 松田宮司の話では、つんぼ山とは舟岡山を総称していうらしい。通常、山はこだまするものだが、舟岡山にかぎってこだまは返えって来ず、そこであの山はつんぼだから反応しないということになって先の名称になったという。その舟岡山の西側海岸部には大規模な奈良時代の製塩遺跡がある。この山は現在土取りによって殆んど消滅し無惨な姿となってしまったが、経塚は国道二七号線新設のとき削りとられた山頂に存在したらしい。
 内部構造は計画的に発掘されたものではなく偶然の発見によるためその形態は明らかにされていない。しかし、上田三平氏の記録にあるとおり、原形は他の経塚の例から推察すると、小マウンド(盛土)の形成されていた可能性が強い。松田氏は祖父より古墳から掘り出したと聞かされており、これらから前述のことが想定されるのである。埋納施設は一般的な観点から小石室が構築され、偏平な石材を盖にしたものではなかったか。
 本来経塚とは平安時代の仏教思想の一つである末法思想によって造営されたものである。釈迦の開いた仏法は次第に功徳が失われ、釈迦入滅後二千年経つとその効力が無くなると考えられた。平安時代の永承七年(一〇五二)はまさにその年にあたりこのときより世界は暗黒になる。それより五六億七千万年後に弥勒菩薩が出現し大衆を救うと信じられていたのである。いわゆる弥勒出世の願いである。そのときのため貴族達は競って写経し埋納した。これが経塚の発生とされている。この形態は近世まで続くが、当初の純朴性は随時変化してゆき、その願望に著しい差があるといわれている。以下出土遺物について若干述べてみたい。
経筒・外筒  銅製の宝珠鈕経筒と称されるもので、直径五センチ総高二二センチ、厚さ五ミリが計測された。底は打ちこみになっており、盖は宝珠形をつまみとなる。聞くところによれば、発掘当時には経軸の残存がみられ紙が付着していたという。とすれば埋経されていたのは紙本経だったということになる。埋経本来の主旨から考えると紙本では永却末代まで残らないと思うが、もっともてっとりはやく、誰にでも出来るという利点からであろうがこれがもっとも多く使われているようである。又、伴出したとされる陶器は土師質のものであり、他例では経筒の外筒として用いられているが、おそらくこれも外筒として使用されたものであろう。銅製経筒に銘文はなく、したがって干支を知ることはできず正確な年代決定は把握できないが伴出の和鏡と同年次であることに相違はない。
 なお紙本経には肉筆経と版経があり、肉筆経は白紙経・紺紙金泥・銀泥経がある。白紙経をさらに分類すると墨書経・朱書(血書経)朱墨文書経・朱墨両書経にわけられ、その他として瓦経・銅版経・青石経・滑石経・一字一石経・貝殻経・柿経(こけら、うすい木片)がある。
和鏡(山吹双鳥鏡)  古代の鏡は現代の観念とは異って、主として信仰の対象として用いられた。古墳時代は神と直結し、仏教伝来とともに至宝の明鏡となり万物を照らす仏の知恵となったのである。その歩みは古墳時代の漢式鏡などから飛鳥・奈良・平安前期の唐鏡そして平安後期からの和鏡へと移行して行く。しかし、埋納の意味は古墳も経塚も同じく破邪を目的としておこなわれたものであろう。これらは記銘経筒と共に、工芸的、かつ年代を求める上に貴重なものである。古墳時代と異なることは、司祭政王権の絶対的要素であった鏡が、社会機構の変革と仏教伝来による信仰形態の複合性から、多くの利用方法が考えられたということであろう。鏡の持つ霊力は広義に解釈され、本来、神に結びついたものが仏教に採用されて来る。たとえば、興福寺・東大寺など寺院建立の折、鎮壇具として埋納され寺院の永却不滅を祈願したり、仏像の宝冠、光背などにも破魔鏡として用いられている。古墳時代から日本でも外来の鏡を模してボウ製鏡がつくられており、著名なものに和歌山県隅田八幡所蔵の人物画像鏡がある。
 奈良時代や平安時代前期では唐鏡の模倣にすぎなかったが、平安後期にいたって、我国独自の文様を創り出し、世に藤原鏡と呼ばれる和鏡が出現する。この時代の鏡は特別のものを除いて一般に八~一一センチ程度の小型鏡が多く、文様表出は鋳型に直接ヘラ押しをしたためやわらかい線となり、せんさいな感じをうける。
 香山神社保存の経塚出土鏡は、血径八・八センチの円鏡であり鏡胎もきわめて薄く外傾式の縁で四ミリの厚さしかない。内区は細線単圈に山吹を配し、双鳥の飛雄を現わす山吹双鳥鏡と呼ばれるもので鈕は菊座低鈕となっている。東京国立博物館蔵の山吹双鳥鏡は久安年間(一一四五~五一)のものといわれているが、それとの類似性があり一つの形式として考えるならば同時期として見ることができよう。
 このような純和風化された文様は、藤原文化の耽美性を背景に顕し、仏像や文学の世界にみられるもののあわれの情緒を写し出している。いうならば、和鏡の創立期ともいうべき平安期の優雅さであろうか。和鏡が盛行し確立する鎌倉時代の鏡と対比してみるとその差異は明らかであり、鎌倉前期といわれる名田庄村三重出土の松鶴鏡の荘重さはまったく見られない。
合子  合子は白磁平合子の身だけ残存し蓋はなかったようである。この当時のものは殆んど中国景徳鎮産といわれているが、これが果たしてそうであるかどうかは明らかにできない。しかし、形は花文型をなし、口径五・八センチ、高さ一・九センチが計測され、小型ながら焼成も良好である。他例では集団的に多く出土しているがここの場合は単出である。合子の用途はまったく不明だが、人によっては化粧品の容器とする場合もあるようだ。他に鉄片も記録されているが、おそらく刀子だったと考えられよう。
 以上であるが、何分一〇〇年以前のことであり、記録らしい記録もないまゝ、ごく一般的な述べ方をして来たが、多くの事例からつんぼ山経塚の造成は、平安時代後期におこなわれたと推測できるようである。これら埋経の目的も純粋な弥勒出世の願いから随時利己本願的になり、逆修供養としての要素が強くなる。元奈良国立博物館長蔵田蔵氏はその目的を次のように分類されている。
  (1)弥勒出世を待ち埋経を役だたせる。
  (2)極楽往生
  (3)出離解脱
  (4)自他利益
  (5)現世幸福
  (6)追善供養
(1)が埋経の第一義の目的で『如法堂銅筒記』『上東門院願主』『藤原道長経筒銘』などをみてもそのことが理解できる。他はいずれも仏教信仰には当然の思想であり、ただ(6)のみは鎌倉以後に限られているようである。
 高浜町域の立石庄など藤原氏一族に伴う庄園もあって、大飯郡においても末法思想による経塚造営の風潮が、いち早く流布したとしても不自然ではなく、香山神社保存の出土遺物は若狭地方に比較的早くその思想が普及したことを示すものとして注目されよう。
 今一つ、香山神社で取上げなければならないものがある。それは鏡像・懸仏の存在することである。日本の神社では御神体を鏡にしているところが非常に多い。もともと鏡は神であってそこには影像がなかった。しかし仏教の伝来によって仏像が礼拝の対象として影像を与えるようになったのである。その影響で神像を創出し、神鏡に線刻して御正体とすることがおこなわれた。仏菩薩が姿を変えたのが日本の神々であるとの考えから鏡の面に本持仏を線刻してそれを拝したのである。たとえば大日如来は天照大神、阿弥陀如来は八幡神としこれを鏡像と称した。御正体には鏡像と懸仏があり、平安時代に経塚と共に盛行したと思われるが、古いものでは永延二年(九九八)の記銘鏡像がある。
 香山神社所蔵の懸仏といわれるものは、鏡像と懸仏を併用した比較的古い形式のものである。本来は鏡として用いられていたものであろうか、方形素鈕の磯馴松双鶴鏡と呼ばれるものである。一辺は一〇・七センチの正方形で、外縁はカマボコ型中縁となっており、厚さは五ミリが計測された。一見、鎌倉時代の蓬来鏡に似ているが諸様式は明らかに藤原鏡である。
 この鏡の鏡面に銅製の半肉像を貼り花筒を両脇に配する。花筒の花は線刻してあり、両肩には懸架するための穴をうがったもので、鏡像と懸仏を併用したまったくの神仏混合体というべきものである。平安時代からおこなわれた神仏の混合推移を実によく現わしたものといえよう。仏教伝来の当初は国神があるから外来仏は祀るべからずとの反対もあったが、反対派の衰退によって仏教が大きな力を持ち、国神との問題はあったが政治的配慮がなされ、社寺共に勅使を派遣し祈祷などをやらせている。その一つの方法が神宮寺の造営であった。
 平安時代に仏教が入山することによって山神との関連を深く結びつけた。さらには本門迹門説を引用し、外来仏は本地仏であり日本の神はその垂迹である、インドの仏が衆生を済度するために日本に現われたのだと説いてより一層に神仏の深い関連性をつくり出したのである。神前において心経と転読、仏前に神酒を供し拍手をうつという風潮は若狭一の宮でおこなわれていたらしい。
 香山神社の鏡像は、鏡本体は平安後期のものであり、それを利用してつくられた鏡面の半肉像は線刻と併用されていて、平安末期或いは鎌倉前期と見るべきであろう。これは垂迹美術の最も顕著なものであり、このような仏教美術が当社に保存されていることは、当地方の人々の信仰がいかに深かったかを示すものであろう。
 なお同社にはこの他嘉暦三年(一三二八)紀銘の木製懸仏や、文明一一年(一四七九)の紀年銘を持つ銅板張りの他多くの懸仏も残されている。)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『高浜町誌』
その他たくさん



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