宮尾(みやお)
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福井県大飯郡高浜町宮尾 福井県大飯郡内浦村宮尾 |
宮尾の概要《宮尾の概要》 県道脇、左は聖石で、その先の集落。東は内浦湾に面して東向きの斜面にある農業地域。 宮尾村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内浦村の大字となる。 宮尾は、明治22年~現在の大字名。はじめ内浦村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北8町、戸数17、人口は男49・女38、学校1、小船1。 《宮尾の人口・世帯数》 21・9 《宮尾の主な社寺など》 産霊(うぶたま)神社 聖石から少し下った所に鎮座。 『高浜町誌』
村社産靈神社 祭神天御中主神高皇産霊神 宮尾字油里谷に在り 社地二百三坪半 氏子十七戸 社殿 一間四方 神樂殿 四間半二間半 社務所 四間二間半 明治廿九年成 〔若狭郡縣志〕・若王子社 在宮尾村爲産神(寛永四年 改国中高附)妙見菩薩 〔神道八所卷〕 妙見大明神本地星御身體立像唯一尊御座棟札于時寛文十一年二月明和五戊子年九月 臨済宗東福寺派如意山宝珠(ほうじゅ)寺 県道21号脇、宮尾の入口にある。 『高浜町誌』 臨済宗東福寺派 如意山宝珠寺 一 所在地 高浜町宮尾字上大川 一 開 創 不詳(推定 正嘉の頃か およそ七三〇前) 一 開 基 竹叟和尚(清叟竹公首座白雲仏昭禅師) 一 本 尊 聖観世音菩薩 一 檀家数 一四戸 一 由緒沿革 当寺は竹叟和尚の開山と伝えるだけで、由緒不詳である。今の堂宇は火災後の再建であるという。 『大飯郡志』 (如意山)寶珠庵 同(臨済宗) 東輻寺派 宮尾字上大川に在り 寺地百二十坪 境外所有地四反五畝一歩 檀徒八十五人 堂宇三間五間 本尊観世音 達磨地蔵 由緒〔明細帳〕 (不詳竹叟和尚開山と傳ふ、現今の堂宇は災後の再建なりといふ) 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 宮尾の主な歴史記録宮尾の伝説聖石県道ぶち、産霊神社の入口に巨大な岩石があり、住民は聖岩と呼び、高野聖が岩の落下に出会った受難の場とも伝承する。 『若狭高浜むかしばなし』 宮尾の聖石 宮尾の県道の脇に、四メートル半もありそうな大きな石が座っている。ビロウドのような苔が表面を覆い、何やら厳粛な雰囲気のする石だ。 それもそのはず、この石の下には一人のお坊さんがいるといわれている。このお坊さん、昔は宮尾の村に住み、村人だちから「聖さん」とあがめられていたそうな。 ある日、このお坊さんがこの辺りを通りがかった。そのとき、山の上からすさまじい音をたてながら、巨大な石がころがり落ちてきた。ごろごろ、どっし…ん。 あっという間の出来事だった。お坊さんには逃げる間もなかった。石はものすごい勢いでお坊さんを下敷きにし、そのままその場に居座ってしまったのだ。 今も、石の下にはこのお坊さんの亡骸があるといわれ、人々はこの石を「聖石」と呼んでいる。 産霊神社のすぐ背後にあって、神社の降臨石、磐座だと思う。神社以前の聖なる岩で社殿なき時代はこの岩の前で神事が行われたと思われる。この一帯は墓地(両墓制か)などもあり、村開闢以来の聖なる一帯なのだろう。 左の玉垣は産霊神社のもの、右は県道でその上は墓地。 石柱は「舞鶴要塞第三地帯標」と書かれている。当時はセキュリティーの厳しい所だったのだろう。写真など写そうものなら、ちょっと来い、であった。 宮尾の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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