難波江(なばえ)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
福井県大飯郡高浜町難波江 福井県大飯郡内浦村難波江 |
難波江の概要《難波江の概要》 若狭湾(高浜湾)に向かった青葉山麓東斜面にある農業地域。県道21号(舞鶴野原港高浜線)と県道149号(音海中津海線)が分岐する。 難波江村は、早く戦国期に見える村名。若狭国大飯郡のうち。 文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写の春宮御厨青保の項に記される恒貞浦は当地をさすと考えられており、村名は「親元日記別録」政所賦銘引付文明15年(1483)8月2日条に「若州青郷内保小和田并難波江村」とみえる。明15年8月2日小畑友康は、大草三郎左衛門尉公友が「若州青郷内保小和田并難波江村両所已下代官職」を質券地として借銭しながら返済しないと幕府に訴えている。「青郷内保」という表現から、当村はもと青保に属していたのではないかと考えられる。当村の代官であった大草氏は室町将軍家の奉公衆で、当村を含む青郷は幕府料所であった。また、明応元年8月14日に熊野那智大社の御師禅長坊良が売却した檀那所在地のうちに「青之郷ナハイ」が見える、この「ナハイ」は当村のことであろう。 近世の難波江村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」によれば戸数27・人口164、反別96町8反余、産物に粳120石・蕎麦4石・櫨実1,200貫・桐実50石などがある。同22年内浦村の大字となる。 難波江は、明治22年~現在の大字名。はじめ内浦村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北5町、戸数28,人口は男79・女89、学校1、小船3。昭和46年関西電力高浜原子力発電所が設置され、それに伴い青~音海間に道路が開通した。 《難波江の人口・世帯数》 48・19 《難波江の主な社寺など》 字大森に古墳があり、その跡地に小祠を祀るという。 日枝神社 『高浜町誌』
『大飯郡志』 村社日枝神社 祭神大山咋命 難波江字ノ谷に在り 社地五百十坪 氏子廿八戸 社殿二間二間半 拝殿二間四方 神樂殿二間半五間二尺 鳥居一基 境内社二社 八幡神社祭神(三神)社殿一尺五寸四方 山神社 祭神大山祇神 社殿二尺五寸四方 〔同 前〕 山王社難波江村爲産神正月三日九月八日有祭禮 〔同 前〕 山王正月三日九月三日十一月三日御供備江翁面當申候 臨済宗相国寺派蓬莱山海見寺 『高浜町誌』 臨済宗相国寺派 蓬莱山海見寺 一 所在地 高浜町難波江字大森七番地 一 開 創 永和年間 一 開 基 一伝妙清大和尚 一 擅家数 一 本 尊 釈迦牟尼如来 一 由緒沿革 当寺の創建施主は、大草兵庫守と伝え、開山は一伝妙清大和尚、 開山和尚の示寂のことについては永和というだけで、くわしくはわからないが、南北朝末期と推測される。 当寺境外仏堂に阿弥陀堂がある。本尊木造阿弥陀如来坐像が安置されている。そのほか、寺内には本尊阿弥陀如来のほか、達磨大師、地蔵菩薩、韋多天像等の木像仏体が祀られている。 『大飯郡志』 (蓬莱山)海見庵 同(臨済宗) 同(相國寺末) 難波江字大森に在り 寺地二百五坪 境外所有地六反五畝二十六歩 檀徒百五十六人 堂宇六間四間 本尊釋迦如来 由緒〔明細帳〕不詳 〔同前〕開基一傳清和尚永和年中示寂 建立者大草兵庫守 名寄一石一斗五升五合年貢地也 難波江城趾(大草兵庫城趾) 難波江城跡は、難波江・小黒飯両集落の間にある山頂(約80メ-トル)に主郭がある。 今はその下を県道149号(通称・原電道路。原電とは原発ゴリ押し派、小判連中の言葉で標準語の原発のこと)がトンネルで抜け、原発関連のダンプ街道になっている。海岸は難波江の白浜と呼ばれ海水浴場。 郭は海岸に突出した丘陵状の一山を利用して造成されて、東南の下辺は海に接続し、山城でありながら水城と同様の形態を示す。構えは連郭式である。当地からは海を隔てて高浜にある逸見氏の本城が一望できる。「若狭郡県志」に「大草兵庫城趾」として「在二難波江山上一、伝言大草兵庫所レ拠之城跡也」とある。 大草氏については「太平記」に「大草三郎左衛門」の名があり、「南山巡狩録」に「三郎左衛門公経」の名がみえる。三河国額田郡大草(現愛知県額田郡潮田町)より起こり、南北朝時代足利尊氏に仕え活躍した一族。若狭とのかかわりは南北朝以降と考えられ、御料所青郷の代官であったと思われる。 文明8年(1476)11月日付の公友大宝寺遺跡寄付状(中山寺文書)によって大草公友が当地に在住したことがわかり、「親元日記別録」政所賦銘引付文明15年8月2日条によって大草三郎左衛門公友が所職の一部(小和田村・難波江村代官職)を質にして借銭していることが知られる。青郷代官としてその支配は内浦(うらうら)半島にまで及んだ大草氏は、日置の大成寺を創建した。 『高浜町誌』(図も) 難波江城(大草兵庫城址) 国道二七号線を西へ走り、当町日置地籍より右折すると県道高浜停車場線・音海線となり内浦半島へ抜ける。西三松をすぎると海岸線に沿って曲折する道路が続き難波江・小黒飯の集落が所在する。この地域は中世以来内ノ浦と称されていた。このことは日引正楽寺の聖観音立像(一一世紀)の台座裏書に「大永二壬六月十七日 若州大飯郡宇千之浦」と記されていることでわかる。 城郭は小黒飯の南、難波江の北側に位置し、両集落の間を海岸線に向かって伸びる稜線のやや突出した海抜八〇・三メートルの山頂に主郭を配する。それより海岸に向かって東と西に走る朶峰稜線に郭を連続してつくっており、最高所との比高差は三五メートル内外となる。現存する城郭の下側山腹には、海岸線にそって旧道が残されており、原電道路開通以前はこの道が利用されていた。しかし、この道は中世にはなく、江戸末期小黒飯村が中心となって近隣村落の協力を得て開さくしたものである(小黒飯『忠住家文書』)。中世では城の西北谷間の小道が利用されていたと考えられよう。 城郭は海岸に突出した丘稜の一山を巧妙に利用して造られており東・西側は海岸に接続する。山城とはいい乍ら水城に近い要素も兼ね、また総構えも地形に順じて巴型を呈するが基本的には連郭式である。主郭は西側に一段高くなる最高所につくられており、ここでは土塁が顕著に認められる。これはやはり西側かかつての交通路であったためで、こちら側をとくに防備する必要があったと思われる。土塁の両端には櫓台と思われるやや広い一画があって、北側が大きく南側ではやや小さくなっている。広い北側櫓台の下側稜線には三段の堀切りが設置されており、その延長は難波江から小黒飯へ抜ける谷間の頂点に到達する。稜線からの攻撃に備えたものであろう。 主郭は西南に向かって伸びるが、先端は西北へ張出す山嶺となるため、次郭をそれに合せて造成しかなり広い平場を形成する。その先端にも小郭を付属させている。西南の先端にも一段下って一郭をつくり東南にも小郭を配す。主郭を中心とする西南郭は陸路への防備と考えられよう。 一方、主郭の北東より東へ急傾斜して七〇メートルラインまで下るとそこには当城のうちもっとも広い一郭が所在する。ここでは中央東側の海に面して方形の櫓台をつくり、それより東側朶峰に一つの小郭を付属させる。 南側ではかなり広大な郭を二段にっくり西側谷間に向かって帯状郭が張付いている。さらに稜線先端には堀切りをもうけて防備を固めているが、このところは非常になだらかな谷間の斜面となるからであろう。それより南側へ五段の小郭が連続し、最先端にはやはり空堀を持つ。南側・東側の先端はいずれも海岸に近く、山の終焉は断涯となり海側の防備線はかなり強い。 城主は『若狭郡県志』に「大草兵庫城址」とあって「在二難波江山上一伝言大草兵庫所レ拠之城跡也」と記す。しかし、地籍は小黒飯であり難波江ではない。 大草氏は三河国額田郡大草邑より起こったとされており(『姓氏家系大系』)、南北朝期には足利尊氏方として活躍した一族である。『太平記』に大草三郎左衛門の名があり、また『南山巡狩録』に三郎左衛門尉公経がみられる。 若狭とのかかわりは南北朝以降と考えられ、観応二年(一三五一)の争乱以後御料所青郷の代官として存在したらしい。おそらく熊川の沼田氏らとともに若狭へ配置されたのであろう。ただし、郡県志にいう兵庫なる人物は室町時代に一人もみられない。その存在性についても一応疑問も持たれるが、一乗寺(中山寺)宛の永徳二年(一三八二)一〇月一二日付畑寄進状に兵庫介なる人物がみとめられ、或いは、この人物が兵庫に当てられるのかも知れない。 若狭大草氏が、三河大草氏の本流となるのか庶流であるのか明らかにできないが、代々三郎左衛門を名乗っているところから本流である可能性も考えられよう。といっても大草氏の系譜もはっきりとはせず、断続的にしかわからない。兵庫介以後、大草氏の出典は『中山寺文書』に 寄附 若州大炊郡大宝寺遺跡事 右彼依大宝寺久破壊之儀既無住持之、寺僧然間此本尊同堂舎 共、去正長年中奉移一乗寺江是故、当寺遣跡鎰懸限山中東西南 北之境ホ、任先規急令一乗寺江附処也、仍為後亀寄附 如件 文明八年十一月 日 公友(花押) 一乗寺 寺僧中 とあって大草公友の存在したことが知られる。公友に関する資料はこれ以外にも『親元日記』文明一五年(一四八三)八月二日の条にみられ(高浜の庄園・青郷の項を見よ)、三郎左衛門公友を名乗っている。この公友であろうか長享元年(一四八七)九月一二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到の中に二番衆として若州大草三郎左衛門尉がみられる。若狭の幕府奉公人沼田・本郷・大草らはいずれも二番衆であり、この組は室町期を通して動いていない。 大草公友以降に出現するのは天文~永禄にかけてであり、永禄では三河守公広が出現する。大草氏も沼田氏と同じく幕府直属士官として常に在京したことが考えられ、将軍家内方の行事を勤めている。 天文五年(一五六三)二月二一日、将軍足利義晴が御台所の御産所御成のときも供衆として大草三郎があり、同三月一〇日「御胞衣諸公方様被二申次一、御衣御祝アリ、大草調コ進之一」、同一六日後七夜御祝、御色直のとき「武田大膳大夫申沙汰、大草調進」とあって大草氏が調進役を勤めている(『御産所日記』)。 この三郎は三郎太郎公広のことであり『大館常興日記』天文一〇年二月二七日・同八月廿五日の条にもみられる。彼は永禄六年(一五六三)諸役人附に三河守公広と名乗っており、それよりのちの永禄一一年五月一七日、足利義昭の朝倉亭御成のときも走衆三河守公広が認められる。おそらくこの人物が若狭大草氏最後の当主であろう。これ以後、若狭で大草氏の文献を拾うことはできない。 かつては青郷代官として内浦半島まで支配した大草氏は、大成寺を創建するほどの大きな経済力を持っていたが(『大成禅寺会要記』)、室町末期にはその勢威を失ってしまったのであった。. 大草兵庫城址 大草兵庫忠由の城址は小黒飯南側海岸に突出した丘陵上(約八〇メートル)にある。山頂には今尚多少の塁形と間道らしきものがあり、殿池及び殿畑等の地名がある。 大草兵庫守忠基は南北朝時代(一三四一年ごろ)足利尊氏に仕えて活躍し御料地青郷をも支配した。日引より瑞応山大成寺を日置に移築している。同族大草伊賀守は、日置の神社三宝荒神を日引に移している。 郡県誌 大草兵庫城址在二難波江村山上一 伝言大草兵庫所レ拠城跡也 『大飯郡志』 難波江の城趾 〔若狭國志〕 在山上傳言兵庫頭大草某所據事跡不詳 今尚多少の壘形を認め得可く、殿池殿畑の地名存せり。傳ふ同大字の壽奎庵は其菩提所にて、同庵に在る永和乙卯年三月晦日逝去壽奎寺殿昌応道永大居士の霊牌は此人のなりと。同庵境内山上其石碑あり 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 難波江の主な歴史記録難波江の伝説『若狭高浜むかしばなし』 ハシダンの柿 晩秋のある晴れた日のことである。諸国巡礼中の弘法大師が、青葉山のふもとにある難波江という地をお通りになっていた。 その道のちょうど両脇には、柿の木がたくさん並んでおり、その木々には真っ赤に熟れた数え切れないほどの柿が、今にも落ちんとばかりにぶらさがっていた。 「まったく、よく実った柿だなあ」 弘法大師は、次から次へと目に飛び込んでくる立派な柿に感心しながら、てくてくと歩いていた。 柿の木の陰からその様子を見ていた里人は、さっそく弘法大師に近づいていった。 「もしよろしかったら、わたしの育てた柿をおひとつ差し上げましょう」 里人がそう言うと、弘法大師はたんへんお喜びになった。 「それはそれはありがたい。では遠慮なくいただくことにしよう」 里人は、たくさんある柿の中から一番立派なものをひとつ選び出した。そしてそれをプツンともぎ、惜しみなく弘法大師に差し上げた。 弘法大師は、たいへん感謝してその柿を受け取り、何やら念仏を唱えながら去っていったのだった。 その翌日のことである。 「そろそろ、柿をとってくるとするか」 のんびりしていた里人は、ようやく家族のために柿をもぎに出かけた。そして、昨日よりさらに赤く熟れている柿を、まずひとつだけ口にしてみた。 「ふむふむ、こいつはうまい。昨日のお方もきっと満足されたに違いない」 もぐもぐとおいしそうに柿を食べながら、里人はいつものように種を出そうとした。 「ん?」 ところが、いくら舌で搜しても種はひとつも出てこない。 「こいつは種のない柿なのか…いや、そんなはずはない。きっと、あやまって呑みこんでしまったのだろう」 そう思い込んだ里人はおなかをさすりながら、柿をいくつか家に持って帰った。 さっそく家中でその柿を食べていると、里人のおかみさんが、 「ありゃ、種がどこかへ行ってしもたわ」 と不思議そうに言った。 「やっぱり今年の柿は、種がどこからか抜けてしまったのだろう」 里人は心の中でつぶやいた。昨日柿をもらった弘法大師が、そのお礼に難波江の柿の種を全部抜いてしまわれたとは知らずに… それからというもの、難波江の柿には種がなくなり、渋みも抜けて風味 難波江の小字一覧関連情報 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2020 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |