小黒飯(おぐるい)
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福井県大飯郡高浜町小黒飯 福井県大飯郡内浦村小黒飯 |
小黒飯の概要《小黒飯の概要》 おぐるい、おくろい、をくるいなどとも言う。難波江の先、原発の直前の小黒飯漁港があるところで漁村である。高浜湾に面して東端は名勝名島千畳敷がある。 小黒飯は、戦国期に見える地名。若狭国大飯郡のうち。弘治4年(1558)正月20日に書かれた室町将軍家の饗膳故実書である「御散飯供御調進次第」に、建武3年(1336)3月の筑前多々良浜の合戦で菊池武敏を破った足利尊氏は、この時の散飯の儀式を吉例としてのちのちまでも続けることとしたが、その料所として「若州春郷之内をくるい」を与えられ、同年入洛した後は「春郷」全体を与えられたとある。この春郷は青郷の誤写と思われ、戦国期に青郷は幕府料所となっている。また「をくるい」はこの散飯の儀式にちなんで「小黒飯」と書くようになったと記している。 小黒飯村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「稚狭考」には弘治年間まで当村から禁裏御用の魚を納めるとあり、慶長7年の若狭国浦々漁師船等取調帳には「小黒飯 〆九艘十八人 一かわ、大あみ」と見えている。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内浦村の大字となる。 小黒飯は、明治22年~現在の大字。はじめ内浦村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北2町、戸数15、人口は男50 ・ 女35、小船27。 《小黒飯の人口・世帯数》 47・20 《小黒飯の主な社寺など》 名勝名島千畳敷 『高浜町誌』 名島と千畳敷 名島は小黒飯の北東約八〇〇メートルにある海上の小島で、その岩上に、老松が枝をたたえて美しい。 千畳敷は名島の対岸で、巨大な扁平の岩が波に洗われていて、この千畳敷より見る名島の風景は一幅の名画である。 若狭国志には 小黒飯浜海中有二小島一 松樹茂生二子千巌間一 千畳敷は化石や貝類が多く、稀に鯨の牙等があったことがあり、海中には色彩の美しい小石が多い。 『大飯郡誌』 名島 小黒飯の海上、碁散する群礁を云ひ、其千疊敷と称するものは、岩面大且平にして其名に負かず、礁上の松樹は千姿萬態其奇其恠名状すべからず、附近貝類多く、盛夏の候舟艇一航、或は海水浴を試み、或は生獲の貝を下物として醉郷に入る等、遊客常に斷かず。 〔若狭國志〕 小黒飯濱海中有小島松樹茂生于巌間。 小黒飯の先、原発までの道から、海側にある。木々の間から見え隠れするが、車を止める所がない。県道とは名ばかりのまったくの原発専用産業クソ道路で、原発ダンプ専門クソ街道である。パーキングなどあるはずもなく、歩道もない。この辺りに駐まってもらっては困るの考えでもあるのか。旧道が残っているところもあるのだが、みな封鎖していて資材置き場のようにしている。こんなクソは即すべて撤去させてパーキングにしろや。衛星写真で宇宙からみるのだから隠しようもなかろうが。この辺りの自然は原発のものではない。腐った時代遅れのヤシ県道、ドクソどもの観念に基づいたクソ「道路」である。自治体役人どももたっぷりと小判をもらっているのかと疑いたくなる。これではせっかくの名勝もないに等しい。カンコーカンコーなどとは言わぬがいいだろう、ゲンデンゲンデンコバンコバンといっておれ。 天満神社 海岸ぶち、県道脇に鎮座。 『高浜町誌』
『大飯郡志』 村社天満神社 祭神菅原道真公 外一神(合祀) 小黒飯字ヲラに在り 社地七十二坪 氏子十五戸 社殿二間一間半 拜殿二間二間 神樂殿二間半四間二尺 鳥居一基 境内社 蛭子社 祭神蛭子命 社殿一尺五寸一尺五寸 由緒〔明細帳〕寳暦十年八月十六日勧請? (宝永四年國中高附) 天神 正月朔日九月九日十一月十日御供備江(〔郡縣志〕載同事)面當申候 大正五年十五日左の一社を合併す。 無格酒垂神社 祭神佐久夜姫神 小黒飯ナヲラ社殿一四半四方 按に〔若狭國神名帳〕に正五位酒垂明神あり幾百年前より在る古社なり而るに比較的新しき社に合併す可惜哉。 字南脇谷に古社・酒垂明神社が鎮座していたが、大正5年当社に合併。酒垂は「サカダレ」と読み、小黒飯から田ノ浦へ出る坂道を「サカダレ坂」と呼んでいる。 臨済宗相国寺派娜島山寿奎寺 『高浜町誌』 臨済宗相国寺派 娜島山(なじまざん)寿奎寺 一 所在地 高浜町小黒飯第二十九号二番地 一 開 創 永和三年 一 開 基 一伝清大和尚 一 檀家数 一四戸 一 本 尊 釈迦牟尼仏 一 由緒沿革 小黒飯山の城主大草兵庫頭忠由公は、永和元年(一三七五)三月急逝されたのち、公の菩提を弔うために、一伝妙清和尚によって小黒飯山北麓の谷あいに一寺を建立したのが、そもそも寿奎寺の初まりである。 忠由公逝きあと同公夫人は落飾してこの寺に入り忠由公の霊を弔うて生涯を閉じたという。 当寺は斯のように由緒ある寺であるが、開山以来幾度かの火災をうけて、それを証するものは残っていない。現在の堂宇は弘化二年(一八四五)の建立と伝える。 青の郷、三松方面から内浦に向かう処に脇坂峠がある。切り立つばかりの断崖は荒海に臨んで通行極めて困難な個所であった。 当寺に節巌和尚あり、村人たちの難儀のさまを見かねてこの危険な坂道の改修を志し、文政六年(一八一三)から二〇年にわたり、和尚は自らの生涯をかけてこの難行に取り組み、遂に天保四年(一八三三)に完通した。以来村人たちはこの難道も安心して通行が出来るようになった。里人たちは今に至るもなお和尚の徳を讃え伝えている。 庵内に永和の大草の霊牌を安置し、境内山上其石碑をも存す。 開基一伝清和尚永和年中示寂 建立者諸檀那中 (寿奎庵に有る大草氏の位牌には寿奎寺殿昌応道永大居士永和乙卯年三月晦日とあり(大飯郡誌) . 『大飯郡志』 (名島山)壽奎庵 同(臨済宗) 相国寺末 小黒飯字寺ノ下に在り 寺地百四十六坪 境外所有地二町三反九畝八歩 檀徒七十九人 本堂五間半八間半 本尊十五菩薩立像 〔明細帳〕 文應六年六月開山普明國師大草兵庫頭忠由の爲に創立す。 庵内に永和の大草の霊牌を安置し、境内山上其石碑をも存す。 (元禄五年改帳) 開基一傳清和尚永和年中示寂 建立者諸檀那中 名寄一石五斗六升五合年貢地也 (壽奎庵に有る大草氏の位牌には壽奎寺殿昌応道永大居士永和乙卯年三月晦日とあり乙卯は元年にて二月二十七日の改元なれば些の支吾無し) (脇坂を開修せし節巖は此等の住持なリ) 《交通》 脇坂 難波江と西三松の間の山だが、今はトンネルが二つあって、この道を通ることもないが、昔の交通では超難所であったという。難波江層群といって三畳紀の地層の頁岩、固くて触れようものなに手が切れそうな岩でできた山が海まで突き出している。 今は安寿と厨子王の像があるところからよく見えるが、当時の面影はない。 いまその厳しい山は削平されてサーファー用の駐車場になっている。 『高浜町誌』 青の郷、三松方面から内浦に向うには「脇坂」を通らねばならない。この坂はむかし、切り立った断崖がそびえ、直下何丈(数十メートル)すぐ海に迫り、人の通行極めて危険な難所であった。当時の小黒飯寿奎庵の住持節巌和尚は、村人の難儀を思って文政年間(文政六年春一八二三)から二十有余年の歳月をかけて、道路の改修を手がけた。その並々ならぬ苦辛の程を見た高浜の商人堀口屋清右衛門(堀清)がこの難工事に協力の手を差しのべるに至り、天保四年(一八四三)遂に完成して人々の通行が容易となった。〝堀清〟は峠の傍らに『大乗妙典一字一石』の碑を建て(天保一四癸卯七月)道中安全と、これまでの遭難亡霊の追善供養とした。 それ以来今日に至る、幾度かの改修工事が行われたことは後の表の中に付記したとおりで、特に昭和三九年には、陸上自衛隊第三三施設部隊によって脇坂三三九メートルの大改修がなされ、道路幅も広く自動車の通行も自由となり、内浦との便はもとより観光道路としての性格も生まれてきたようだ。 岬の先端にはこんな石碑がある。 こればその古道か… 原電道路 最近に至り、〝関西電力高浜発電所〟が内浦地区田の浦に建設されてから内浦方面への道路は急速によくなり、さらに通称「原電道路」といわれる新道路が出来た。正式には『県道高(停)音海線』と称し(後に主要地方道舞鶴野原港高浜線となる)道路幅九メートル、青郷青区から国道二七号線とT字型に分岐して西三松に向い、「三松トンネル」及び「三ッ第ニトンネル」合せて二一三メートル、五億二二〇〇万円の巨費をかけ、昭和五七年四月二一日に開通した。この道路は難波江で『音海・中津海線』を分岐する新道として、内浦地区の交通が一段と便利になるとともに、国道二七号線への連絡がよくなった。 《産業》 『角川地名辞書』 小黒飯漁港(高浜町) 大飯郡高浜町の北部、小黒飯にある第1種漁港。内浦半島の東岸、若狭湾に臨み、水域面積13万㎡。小湾入の北を防波堤(長さ約147m),南を防砂堤(長さ60m)で囲んで泊地とし,奥の中央に物揚場(水深1.5m),両側に船揚場がある。6t1隻と5t以下の地元漁船32隻が根拠地とし、小型定置網(シイラ・トビウオ・ハマチほか)、囲刺網(カレイ)、採草(ワカメ)に従事する。昭和61年陸揚量41t,うち85%は高浜・小浜へ出荷している。 伝説・民俗欄参照 『稚狭考』に弘治年中(一五五五~一五五八)まで禁裏御用の魚を献上していたことが記されることから専用漁業権ともいえる特権的な漁業慣行が当時の小黒飯の漁師に付与され保持してきた由緒ある集落である。という。 《姓氏・人物》 小黒飯の主な歴史記録小黒飯の伝説・民俗『高浜町の民俗文化』 小黒飯の雄島参り 小黒飯の雄島参りは毎年六月二〇日頃の吉日を選んで行われているが、平成四年度は六月二五日に実施され漁業協同組合の代表五名が代参した。船は通常、漁業協同組合の船一艘で参拝するが、新造船があるときはその船を使用する。船には御供・紅白の奉納幟の他に、バケツに半分ほどの海岸の粗砂を積んでいく。 午前九時に出港。途中、毛島の沖で停泊して船上から若狭湾沿岸の漁師達が「山当(やまあて)」としている青葉山を遥拝し、海に神酒を注いでから直会が開始される。約一時間停泊した後、冠島へ向かい到着は十一時頃となる。冠島への上陸方法は、できるだけ岸辺に近い海 上に船を停泊させ、膝まで海につかり海中の丸石づたいに上陸する。全員で老人嶋神社・船玉神社・蛭子神社(瀬ノ宮神社)に参拝し幟と御供を献饌する。蛭子神社(瀬ノ宮神社)は耳が不自由な為、祠に向かって握り拳大の石を投げつけて音を出したり、大声を出したりして参拝に来たことを告げる。その後、島の最南端の洲先に移り、青海神社から賜った「神人和楽」の扇子を足元にひろげ、宇良神礼(京都府伊根町)に向かって遥拝する。この後、冠島を出発し小黒飯港へ直行する。帰港の際、港湾で反時計回りに船を三回まわらせてから着岸し雄島参りは終了となる。しかし、昭和初期までは冠島からの帰りには宮津まで船足を伸ばし、「知恵の文殊さん」として有名な智恩寺と西国三三ケ所第二八番札所の成相寺に参詣してから小黒飯へ帰ったという。 小黒飯漁港は古来より天然の避難港として知られ、小黒飯は『稚狭考』に弘治年中(一五五五~一五五八)まで禁裏御用の魚を献上していたことが記されることから専用漁業権ともいえる特権的な漁業慣行が当時の小黒飯の漁師に付与され保持してきた由緒ある集落である。また、江戸時代初期以来たびたび高浜の漁師と漁場争論を繰り返し行ってきた。 『若狭高浜むかしばなし』 刀祢と狼 ある大晦日のことである。小黒飯で庄屋を営んでいた刀祢さんは、小浜の殿さまのところへ年貢を納めに出かけた。その帰り道、日もとっぷりと暮れてしまい、刀祢さんはいつもより足を速めて歩いていた。すると遠くの方から、 「ウォーウォー」 狼たちの吠える声が聞こえてきた。すっかり気味悪くなった刀祢さんは、ますます足を速めるのだが、家まではまだまだ遠い道のりである。 ずいぶん歩いて、ちょうど脇坂にさしかかった時、 「もう、大丈夫だろう」 と安心していると、突然目の前に狼たちの群が現れた。 「これは何てこったい」 刀祢さんはあわてて逃げ場を捜したが、いつのまにか狼たちに四方を取り囲まれてしまった。仕方がないので刀祢さんは、すぐそばにあったタモの木に必死でよじ登った。狼は木に登ることができないので、 「これで狼たちもあきらめるだろう。」 と思っていた。しかし、狼たちも負けてはいない。狼どうしが背へ背へと乗ってきて狼ばしごをつくり、刀祢さんに近づいてきたのである。刀祢さんはさらに上へと登っていったが、もうこれより先、登る枝はない。 今や食いつかれそうになり、刀祢さんはいよいよ腰にさした刀を引き抜いた。そして狼たちを容赦なく順番に切り落としていった。こうして刀祢さんは、やっとのことで逃げ帰ることができたのである。 年が明けた。刀祢さんは昨日の恐ろしい出来事をもうすっかり忘れ、すがすがしい気分で膳についた。刀祢のおかみさんの作ってくれたお雑煮を、ありがたく頂戴しようとしたところ、何やらもじゃもじゃとしたものが浮いているではないか。 「おまえ、これはいったい何なんだ」 おかみさんは、いつもと違う音色で言った。 「それはわたしの毛です。どうぞ召し上がれ」 刀祢さんは、おかみさんに何か悪いことがおきたのではないかと心配した。そして突然、おかみさんの顔付きが鋭く変わったかと思うと、ドロンと狼に早変わりしたのである。 あの晩、刀祢さんが刀で切り落とした狼たちは、先回りして刀祢のおかみさんを食い殺し、おかみさんに化けていたのであった。それを知った刀祢さんの悔しさと言ったら、たいへんなものだった。 それからというもの、刀祢さんの家では、代々元日にはお雑煮を食べず、二日を祝い日としているという。 小黒飯の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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