薗部(そのべ)
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福井県大飯郡高浜町薗部 福井県大飯郡高浜村薗部 |
薗部の概要《薗部の概要》 舞鶴の方から国道27号を行くと、佐伎治神社入口の先に県道16号と立体交差するところの信号が「薗部口」である。このあたりから先の堀川(笠原川)まで海から山までの広い所。 海岸部に奈良時代のものと思われる製塩遺跡がある。その後も製塩は行われ、「若狭郡県志」は「和田・岩神・薗部・三松・宮尾・鐘寄・中津海等ノ村人造レ之、其ノ味比二他郡之塩一則小キ淡シ其ノ土気ノ之所レ使レ然乎」と記す。 建久7年(1196)6月日付の若狭国御家人注進案(東寺百合文書)に薗部次郎久綱の名がみえ、地名を負うた人物と推測されている。 薗部村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。 村内の水田は泥田で、「稚狭考」に、深く泥ある田にて舟の如きものに乗て早苗とる所は大飯郡園部、と記されている。ラグーン(潟湖)の跡であろう。 笠原川(新川・堀川)↑ このあたりはラグーンだったと思われる。 天正地震で引き起こされた津波の跡が見つかったという調査(福井大など)があったのはここで、TV報道によれば、国道27号近くまでその跡がある。1メートルほど地下で、400年ほどでそれくらいの堆積があるようで、1000年以前は浅いラグーンだったと推定できる。海岸の浜堤は高さ10メートルほどもあり、天正津波ではこれは乗り越えなかったと判断して今の原発の防潮堤(8m)は作られているという。 笠原川の河口。松が生えているところが自然の浜堤で、その内陸側はラグーンだったと思われる。 浜堤は高いが、今の海面から見れば高いので、海水面の高い時代に作られたものであろう。浜堤ギリギリまで海面がきていたのではあるまいか、大島-城山島の間は天橋立のような砂州で繋がっていたのであろう。立石の方も高いので、立石-城山島の間も繋がっていたかも知れない(専門家の研究を待つ) この笠原川川口浜堤の開鑿は嘉永年間(1848~54)のもので、天正の頃は浜堤は繋がっていたと思われ、津波はこの部分から入ってきたものでなかろう。 薗部ラグーンは青戸入江と繋がっていたのではなかろうか、天正津波は東側から入ってきたものであろうか。 現在の図(緑の円が薗部のだいたいの範囲)↑ 海面が3メートル上昇すれば、こんなことに↑薗部のあたりは低い。どちらへも川は流れにくい。 5メートル上昇すればこんなことになる↑。最近では人間が土地の盛り土をしているので、過去の姿ではないが、だいたいの様子がわかる。 過去の津波は40メートル超の伝もあり、甘く見るとヤバイ、天正津波以上が絶対ないとはヤシどもでも言えない、コロナウィルスでこんな事態になろうとは誰一人予測した者はなく、人間のアタマによる、せいぜいここ千年ばかりの経験による将来予測などはその程度の甘い物である。だいたい海岸に原発などはアタマがイカレはてた証拠である。高浜原発のいまの防潮堤は8メートルだそうだが、冷却水の取り入れ口にはそうした物がないよう、ここから津波が入ってくることであろう。これは8メートルもあるのだろうか↓(昔のままである) それとも、こちらがそれか? ↓(これは新しい施設のよう)。 岩神村との間を流れる笠原川が湖沼に注ぎ込んでおり、嘉永年間に開削されたという。近隣と同様製塩業が盛んであった。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年高浜村の大字となる。 薗部は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北2町余、戸数97、人口は男266・女270。 《薗部の人口・世帯数》 436・190 《薗部の主な社寺など》 薗部古墳 『高浜町誌』 薗部古墳(実測図18・19) 海岸砂丘上に立置する古墳で、昭和三二年三月に、畑地耕作中に発見された古墳である。玄室の長さ約六メートル、幅一・五メートル、羨道の長さ約二・五メートル、幅〇・八メートル、石室の主軸方位はおよそN50°Wである。用石は長さ平均一メートル、高さ五〇~七〇センチ、面が比較的揃って切石に近い趣きをもっており、床面には海岸の栗石を敷いている。人骨の出土があり、三体以上埋葬されていたと考えられている。出土遺物としては、勾玉、切子玉、管玉などの玉類の他、須恵器は古墳から出土する一般的器種をほぼ揃えている。杯蓋は小形化し、天井部がヘラ切り未調整の製品もあり、六〇〇年を前後するころに築造されたものと判断される。 臨済宗相国寺派圓嶽山正善寺 正善寺では正月行事として厄年に当たる男子の大般若巡りと盆の六斎念仏が行われているという。 『高浜町誌』 臨済宗相国寺派 圓嶽山正善寺 一 所在地 高浜町薗部第四十七号十三番地 一 開 創 天文年中(一五三二~) 一 開 基 建月寅公禅師 一 本 尊 十一面観世音菩薩 一 檀信徒数 一一九戸 一 由緒沿革 天文年中、建月寅公座元の創立と称しているが、確実な草創年月日は不詳である。 開山禅師の示寂については、永禄元年二月十日と伝えているが、後年、天文八正亥四月十八日に改めたと、〔大飯郡誌〕にある。 享保六年に益叟公和尚、旧方丈を建立、寛政一〇年正厳和尚この方丈を瓦葺屋根に改め、降って明治一七年俊嶽和尚代に至り、更に旧方丈を改築以来約百年の経過をたどり、昭和五七年現在の二階建に再改築した。 先住正眼和尚は、当区荒木祐左衛門家より出家して当寺の法燈を継ぎ、昭和二五年には、廊下共、奥行五間半(約一〇メートル)間口三間半(約六メートル)の位牌堂を新築した。この間住職たること約五十年豪放磊落、その気性は逸話に豊み附近住民の敬愛を集めた。 当寺位牌堂には、丈六阿弥陀如来の座像がある。藤原期とも、また鎌倉期の作ともいわれ、文化財の指定にはなっていないが、何ら遜色のない御像である。右如来像は、もと同区円福庵の本尊であったが、堂宇を廃しその寺号を当町関屋の新寺に譲り渡して、事実上廃寺となるに及んで当寺に移し、今日に至っている。 境内には町指定天然記念物「さるすべり」がある。 『大飯郡志』 正善寺 同 相國寺派 薗部字西皆尻に在り 寺地三百四坪 境外所有地八反五畝二十四歩 檀徒四百五十人 本尊 観世音 堂宇〔〕庫裡〔〕木小屋〔〕土蔵〔〕湯殿〔〕由緒〔明細帳〕 〔元禄五年開帳〕 開基建月寅公座元〔挿註小濱高成寺より方法〕永祿年中 〔後より天文八巳亥四月十八日と改書〕示寂 建立諸檀那中 名寄一石七斗一升八合年貢地也 円福庵 開基は玖栄比丘尼(若州管内社寺由緒記)。円福庵は現在は関屋に移籍されており、本尊の阿弥陀如来座像は正善寺に祀られている。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 薗部の主な歴史記録『大飯郡誌』 薗部 [建久の交名状]に其名見え、由来遠く、上古植物資料進献郡民の遺稱傳はりしものなる可し。木津庄の稱も近時まで行はれ、薬物を名産とし、佐伎治神社の祭神の素盞鳴尊なる抔傍證するに足れり。 〔裏日本〕 園部は大化以前まで件造の支配にて部曲の民の團結に給せられたゐ地なり…薗といふ伴部は…職として貢献したる…材木なることを發見す。…園部といふ地の存するは(丹波と)紀伊國名草郡と肥前國基肆郡…上古の木國にあり名草郡の園部に式内伊建神社あり伊建は五十猛に同じ…書紀の神代卷に「素戔鳴尊の子五十猛命…韓国より八十木種を持歸り…紀伊國に坐す所の大御神とあるを正しき證據とす…木國…に園部村ありて存するは…古代より宮内省に園神と韓神と坐し…延喜式…に園神社一座韓神社二座已上並坐宮内省とある…園神は五十猛命…園部といふ部民は古代より園神の神部にて材木を貢献する公民なり…江家次第の園韓祭に「…山人を迎ふ」とあり山人は卸ち園部の杣人なるべし。 (園部に五十猛命の父母を祀れる其所縁を想はしむゐに足るにあらずや 薗部は或は古代の部曲の遺名にして早く木津と分立せしものならむ乎。 〔裏日本〕(丹波)園部は大化以前まで件造の支配にて部曲の民の團結に給せられたる地なり…何を職として貢献したるかと考ふるに材木なる事を發見すろ其故は他に園部といふ地の存すゐは紀伊名草郡と肥前基肄郡と兩所にありいづれも上古の木國にあり(兩國に五十猛命を祠る説を擧ぐ)…古代より宮内省に圜神と韓神と座し…推考すれば園神は五十猛命にて韓神は大屋津姫と抓津姫なるべしされば園といふ部民は古代より園神の神部にて材木を貢献する公民なりと定むゐも甚しき誤にあらざるべし。 (編者) 按に此地方を早く木津郷と稱し木津庄の名も久しく行はれ又佐分利川口に下薗(部の略か)あるなど上古の林業を想はしむ。 〔裏日本〕 部とは直隸の公民にして後の士族の如し古代は部曲の民といへり應仁仁徳の朝より以来は國郡制を進め村邑を拓いて部曲の名を扶植せられたしに…多くは貴族豪姓に壓迫せられ…大化の改革にて盡く部曲の民か廢せられ…荘園と變化したり故に各地に何部といふ地名の遺れるは大化以前に置れたる部曲の遺名なるを以て此字によって其地の拓けたゐ時代を知ゐ標準となすことを得。 ソノベというのは京都府にも船井郡園部町があるが、蔬菜とかのソではなく、ソフルのソであろう。 『新撰姓氏録抄』右京皇別下に、「薗部。志紀首と同氏 多朝臣同祖。神八井耳命之後也」とあるのが近いと思われる。 当地周辺は天日槍、サシスセソばかりで、当地も元々はその意味のソであろう。 薗部の伝説『若狭高浜むかしばなし』 九体地蔵 今からずいぶん昔のことである。九人の商人の乗っていた船が、高浜沖あたりに差しかかった時、突然の暴風雨にあった。すさまじい大波にもまれてついに船は難破し、やがて薗部海岸に漂着した。 地元の村人たちは、打ち上げられた船を見つけて言った。 「難破船だ」 「財宝を積んでいるかもしれないぞ」 「こいつはいただきだ」 欲のかたまりとなった村人たちは、期待しながら船の中へずかずかと入っていった。 財宝のありかはどこかと探っていると、船の奥から何やらうめき声が聞こえてくる。 「助けておくれ」 「ここはいったいどこなのか」 村人たちは、難破船の商人たちがすでに死んだものと思っていたので、初めは幽霊ではないかと疑った。しかしよく見ると、けがをした商人たちが九人、彼らに助けを乞うていたのである。 ところが村人たちは、商人たちの傍らにあった財宝に目がくらんでしまった。 「ええい、皆殺しにしてしまえ」 村人たちは、情け容赦なく九人の商人たちに寄ってたかって、命も財宝もことごとく奪い取ってしまった。 その後、村人たちは奪い取った財宝が泥にまみれていたので、たらいにつけて洗っていた。すると、たらいの中に殺された商人たちの霊がうつっているではないか。それからというもの、毎夜家の外からは鬼の泣くような低い声が聞こえてくるのだった。 「これはきっと、殺された商人たちの怨霊のなすわざだろう」 「財宝を返すから、もういい加減にしてくれ」 村人たちは日ごと襲ってくる怨霊に、とうとう耐えられなくなった。そして、自分だもの愚かしい行為を深く反省し、商人たちの霊をなぐさめるため、横町に九つの地蔵をまつったのである。 そんなある夜のこと、ひとりの武士がこの像の前を通り過ぎようとした時、何者か得体の知れないものが道に立ちふさがった。武士はやにわに腰の太刀を引き抜いて斬りつけると、カッと音がした。よく見ると、それは石地蔵だった。今でも、九つの地蔵のうち一体は、肩に刀の傷が残っている。 それから後に、この土地は〝鬼が浜〟とも呼ばれるようになったという。 薗部の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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