高浜町(たかはまちょう)
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福井県大飯郡高浜町 福井県大飯郡高浜村和田村・青郷村・内浦村 |
高浜町の概要《高浜町の概要》 福井県の西端に位置する。高浜原発がある町で、最近はコバンだとか、もう知らぬ日本人もなかろうという町になっている。(もうチトよい事で知られるように努力されたい)。東西に長い(8㎞)美しい白い遠浅の砂浜があり、ワタシらが子供の頃は海水浴で知られていた、これは天下一品のビーチ。 内浦(うらうら)半島によって区切られた西の湾を内浦湾、東の大島(おおしま)半島との間を高浜湾とよぶ。町域の約8割は山林で、南西部の関屋(せきや)川流域、東部の子生(こび)川流域および高浜湾沿いに平野がある。高浜湾に沿って国道27号、JR小浜線が東西に通り、小浜市・舞鶴市と結ばれる。内浦半島の付根田ノ浦に関西電力高浜発電所があり、昭和49年から営業運転されている。 明治22年町村制施行により、高浜村・和田村・青郷(あおのごう)村・内浦村が成立した。同45年高浜村が町制施行。昭和30年、以上の1町3村が合併して高浜町となり、現在に至っている。〔面積〕71.27(平方キロメートル)。町名の由来は、中世以来の地名による。 《沿革》 〔原始・古代〕縄文時代の遺跡。神野浦遺跡から、縄文中期後半から後期後半の縄文土器片と石器片が採集されている。立石遺跡は縄文・弥生・古墳時代と奈良・平安期の複合遺跡であり、昭和35年より発掘調査が行われた。縄文時代の遺物として、石斧・石皿・土器片などや、竪穴式住居跡が発見された。 弥生時代の遺物としては小和田出土の石剣・石戈。古墳は後期に属するものが認識されており、群集墳が多い。広瀬古墳群、小和田古墳群、蛇山古墳群、山の神古墳群、青古墳群、音海古墳群などがある。そのほか薗部古墳、城山古墳、上の山古墳、西三松古墳がある。 〔木簡〕7~8世紀の若狭国は遠敷・三方の2郡に分かれており、9世紀に遠敷郡から大飯郡が分離した。「和名抄」には大飯郡木津郷・阿遠郷が見え、藤原宮出土木簡に現れる地名は「木ツ里」であり、700年代のカタカナ使用の例として重要であるとされる。平城宮出土木簡には「木津」「木津郷少海里」「青郷川辺里」「青里」などの地名が見える。これらの木簡に胎貝、伊和志(鰯)□(月編に昔)などを贄や調として朝廷に献納しており、それぞれの地域に専業集団がいたことが推測される。「木津」は小生川下流一帯の地域と考えられ、「阿遠」「青郷」は現存の町内の残る青を含んだ、関屋川下流一帯、河口一帯と見られる。 〔塩の生産〕町内には製塩遺跡が多く発見されている。遺跡所在地で現在知られているものは日引・神野浦・音海・小黒飯・中津海・立石・若宮・薗部・岩神・和田である。 〔中世〕 〔御家人と荘園〕若狭は平安末期においては平経盛の知行国であった。平氏滅亡後は鎌倉幕府の支配が強まり、稲庭時定を筆頭とする御家人たちによって支配されていた。建久7年(1196)の若狭国御家人注進状案には在地名を名乗る御家人の名が書き上げられている。そのうち当町内の地名を冠している者は、青六郎兼長・青七郎兼綱・青九郎盛時・木津平七則高・薗部次郎久綱・和田次郎実員の6名である。青姓が3名見えることからも、かなり強力な在地支配権をもっていたことがうかがえる。 木津庄は鎌倉末期から南北朝の頃成立し、室町期まで続いたと考えられ、現在の町内の中央部に位置したと考えられる。和田荘は元町内の和田・馬居寺・上車持・下車持の地域に比定されると考えられている。そのほか、町内に存在した荘園として立石本荘・立石新荘がある。 〔高浜の国人たち〕若狭国はその後、稲庭時定が所領を没収され、若狭忠季が守護として支配する地となった。承永の乱後は地頭による土着御家人への圧迫が強まり、青奥次郎入道・木津平七・薗部刑部丞・青保公文職などの跡職が地頭により押領されている。その後、若狭国は北条氏が守護となり、北条時氏の時、得宗領となった。鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の争乱が始まると若狭国の支配権をめぐって、戦闘が相次いだ。この時期、当町内には目立った動きはほとんどみられない。一色氏が守護になると、国人たちは対立するようになり、応安4年(1371)守護と衝突した。この時、若狭の国人たちは国人一揆側と守護側に分かれて戦っている。青・河崎・和田の各氏は守護側について戦い勝利している。一色氏に代わり武田氏が守護になると、高浜には武田氏の有力被官である逸見駿河守が置かれた。逸見氏は本拠を砕導山城、のち高浜城に置いていた。逸見氏は徐々に武田氏と対立するようになり、たびたび守護に対し反乱を起こすようになった。この時期の城は、白石山城・十念岳城・青城・源力木山城・難波江城・神野城・山中城などがある。逸見氏が滅び、織豊期になると、高浜城主も溝口秀勝・堀尾吉晴・山内一豊・寺西秀正・浅野久三郎・木下利房・津川一義とめまぐるしく変化した。 〔近世〕 〔江戸期の村々〕江戸期の当町域は小浜藩領であった。「元禄郷帳」に見える当町域の村々は、子生・坂田・中津海・鐘寄・畑・立石・高浜・薗部・岩神・笠原・和田・馬居寺・上車持・下車持・三松・日置・青・横津海・関屋・上津・六路谷・蒜畠・今寺・高野・小和田・中山・広野・高屋・難波江・小黒飯・青海・神野・神野浦・山中・上鎌倉・下鎌倉・下・宮尾・日引・上瀬の40か村を数える。「旧高旧領」などでは青海村は音海村、神野浦村は神野浦と見える。 寛永11年(1634)に小浜藩主となった酒井忠勝は、高浜を海上交通の要所として重要視し、奉行を配置した。また、高浜には蔵屋敷も建設されており、この地域の年貢米は高浜に集められたと考えられる。高浜・和田の奉行は原則として兼務だったと思われる。高浜村には小名として横町・赤尾町・本町・中町・大西町・岸名町・今在家町・北町・舞々・笠屋・南町などの町場が存在し、家数も672軒を数えた。 〔漁業と塩業〕漁業は高浜・和田・音海・神野浦・日引などを中心に行われ、立網・あじ網・置網を使って、春には鱒、秋には鮭・イカ・鰹・冬には鱈などがとられており、豊富な資源があったことがうかがえる。また、鱈・鰤が3代将軍徳川家光に献上されたこともある。鯨漁も行われており、1頭とれれば相当な収入になったと見られる。 塩は近世になっても引き続き生産が続けられていたが、塩年貢が高く、上納は非常に困難を極めていたようである。また、燃料の不足から次第に塩生産は縮小され、塩師も次第に専業から、農業との兼業になっていった。そのほか桐油生産があげられる。 〔近現代〕 〔行政区画の変遷〕当町域は明治4年小浜県、敦賀県、同9年滋賀県を経て、同14年福井県に所属した。この間明治12年上鎌倉村と下鎌倉村が合併して鎌倉村となった。同15年三松村が東三松村と西三松村に分村。同22年市町村制施行により、塩土・若宮・三明・事代・宮崎の5町および子生・坂田・中津海・鐘寄・畑・立石・薗部・岩神・笠原の9か村が合併して高浜村、和田・馬居寺・上車持・下車持の4か村が合併して和田村、東三松・西三松・日置・青・横津海・関屋・上津・六路谷・蒜原・今寺・高野・小和田・中山・高屋の14か村が合併して青郷村、難波江・小黒飯・音海・神野・神野浦・山中・鎌倉・下・宮尾・日引・上瀬の11か村が合併して内浦村となった。同45年高浜村に町制施行、昭和30年高浜町と和田・青郷・内浦の3か村が合併して高浜町が成立した。 〔史跡・文化財〕国天然記念物に杉森神社のオハツキイチョウ(六路谷)、国重文に中山寺本堂・木造馬頭観音坐像・木造金剛力士立像(中山寺)、木造馬頭観音坐像(馬居寺)があり、県名勝に今戸鼻(音海)、県文化財に木造阿弥陀如来坐像(中山寺)、和鐘(佐伎治神社)、県無形民俗文化財に大刀振および田植(六路谷)などがある。 石川県の高浜村 今の石川県羽咋郡志賀町の役場がある中心地は大字高浜町であるが、この能登高浜は当若狭高浜に由来する。 『高浜町誌』 能登高浜について 若狭高浜から分村したと伝えられる能登高浜(現石川県羽咋郡志賀町)は、同町高浜の小浜神社文書『志賀町史史料編第二巻』によれば、寛永九年(一六三二)大念寺村のうち砂浜に新村をたてたことが知られる。村立ての人々は高浜出身の者だけでなく、翌一〇年の同村宗門書き上げには「若狭国中郡小浜・高浜之者共に御座候、寛永八年九年十年二罷越居住仕罷在侠」とあって一二名の名を記している。したがって立村当初は一二軒で構成され、大念寺新村として発足したのであった。ところが、正徳二年(一七一二)の大念寺新村先祖由緒等書上『前同文書』に 就御尋申上候 一 私共在所先祖若州小浜・高浜之者共ニ御座俟所ニ、年々当 御領江為商売入猟ニ罷成候処ニ、心易口過も仕ニ付大念寺 村領之内御検地之外、砂浜無地此所江妻子等引越居住仕度 存、寛永八年二居住仕度旨願申候所ニ、勝手次第居住仕度 候様ニ被仰渡、同九年御郡御奉行武部右馬允殿ヨリ御折紙被 下ニ付妻子等引越居住仕候、然所ニ承応四年ニ諸役御免許 之御印被為成下頂戴仕候、其後寛文十年ニ御成替被為下今 以頂戴仕難有忝罷在候御事 〇中略〇 一 唯今家数弐百拾七軒御座候、少も相違無御座候、自然御改 之上、家数家軒ニ而茂相違御座候ハ、私共越度ニ可被仰付 候事 〇後略〇 とあって、八〇年間に二一七戸の大村となっている。同文書解説には「若狭からの移住組のほか、諸産業の発展と相まち、当志賀町の親なる川である於古川、米町川の河口という地の利の良さも加わり近郷近在から人々の移住がみられた為である」と記す。それにしても急激な増加であり、これはある時期に多数の移住のあったことが考えられよう。主として近在の寄合村であれば高浜という名称は出来にくいはずであり、高浜という名称はやはり高浜の居住者が多数を占めたためと推察されるのである。前出の大飯郡万小物成帳に除分として記された事書きに「高浜猟師七十七人欠落ニ付、海成之内万治三子年ヨリ御赦免」とあり、万治三年(一六六〇)以前に高浜村猟師ら七七人の村抜けがあったことを示している。時期的にも大念寺新村の発展と一致し非常に面白い。おそらく大挙して同村へ移住したのであろう。江戸期にこれほど大量の流動はまず考えられず、受入れ態勢のととのった基盤があって初めて可能となる。この場合能登高浜以外に考えられず、一七世紀中頃以降商業活動も活発となり、慶応二年(一八六六)には三八五戸にも達したという。. 高浜漁師介左衛門と助五郎以下12名で出発した村であったが、地の利と「居屋敷の儀は望次第、諸役御免」の土地取り放題のうえ無税地とされたため、一気に爆発的に人が集まり栄えたという。「住みたくなる町」とはこんな町である。高い高い土地と重い重い税金では人はいなくなる。消費税増税にはクスっともいわず、市の手数料はあげ放題、それで「住みよい田舎町」にするという、さすがにどこぞの町のヒットラー殿である。 各地で商店街が衰えるというのは一つには家賃が高い、これでは商売できないし、仮にできても店舗改善とかに回せる費用は捻出できない。資本主義的私権と関係するため難しいがこれはよく考えて将来を見通した手を打たないと発展は絶対にありえない。貧乏人からフンだくるヤシ税金はいうまでもない、資本や地主に好き放題をさせる強欲資本主義のままではまちがいなく国亡ぶ。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 高浜町の主な歴史記録高浜町の伝説『若狭高浜のむかしばなし』 若狭小鯛 神功皇后は三韓征伐の際、龍首の船を仕立てて、敦賀気比の港から高浜沖にさしかかり、漁師が小鯛を釣っているのに逢われた。皇后さまは大変興味深くご覧になられた。お座近くに控えていた武内大臣は、その漁夫に、その鯛を献上するようにと命じられた。漁師はかしこみ承って、小鯛五尾をお手元に捧げた。武内大臣は、小鯛を逆さに取り小柄をもって腹をさき割り、焼き物として献じた。皇后さまはお召し上がりになり、その味「古今に類なし」と賞味された。これが若狭小鯛の世に出た初めだという。 今も天皇陛下ご即位の大典には「神饌若狭小鯛」としてご用命がある。 与謝野禮厳(与謝野鉄幹の父)は次のように詠んでいる。 里ならば 花とも見えて手折るらむ 若狭小鯛を高浜に来て 『若狭高浜のむかしばなし』 介左衛門と助五郎 〝どんどん、どんどん〟、能登大島村の神主の岩尾豊前守の家の戸を激しく叩く音がする。 「だれや、こんな荒れた夜更けに戸を叩いているのは」 眠い目をこすりながら表戸のつっかい棒をはずした。激しい雨風といっしょに二人の男がころがり込んできた。身なりは漁師のようだったが、これまで見たこともない顔であった。 「どうしたんだ。とにかく、家に入って、さあさあ、着物をかわかしなさい」 さっそく火をおこした。暖かくなって、人心地がついた様子で、二人の男はぽつりぽつ りとはなしはじめた。 「おれたちは、若狭高浜の漁師で介左衛門と助五郎というもので、昨日の朝から沖へ漁に出ておった。ところが急に嵐がきたんや。えらい風と雨に、網は引きちぎられ、舟はどんどん流されてしまった。おれたちは舟にしがみついているのが、精一杯だった。そうしてさっき、ここの浜に着いたばかりで、この暴風雨にたまらず、お助け願おうと、こちらの戸を叩いてしまったわけでして」 「それはそれは、たいへんな目にあわれたのですな。ゆっくりなさってください」 夜が明けると、嵐は静まって、良い天気だった。神主は、さっそぐ隣の次郎兵衛と勘左衛門を呼んで、二人の漁師のために納屋を借りてやった。 「これからは、ここを二人の仮の住まいにするといいだろう」 「何から何まで、ご親切にありがとうございます」 それから、介左衛門と助五郎はその納屋で網をつくろい、大島の沖で漁をするようになった。二人の漁の仕方は、この村の漁師が見たこともない新しいものだった。二人はいつも舟いっぱいに魚を積んで戻ってきた。 「きょうも、あの二人は舟が沈むくらい魚がとれたようだと」 「われわれとは漁法が違う」 「なんとか、あやかりたいものだ」この地の漁師たちは、二人のことを毎日うわ さしていた。大漁続きの二人を見て、神主は考えた。そうしていった。 「これはすごい大漁だ。お二人はこの地で漁を続けた方が良さそうだ。ずっとこの村におられたらどうか。そうして、ここの漁師たちにもあなたがたの新しい漁法を教えてやってくださらんか」 「そういわれれば、われわれは大漁ばかり。これからもこちらに住んで漁師を続けることにしよう」 介左衛門と助五郎の二人は、神主の申し出を受けることにした。 その一方、神主は若狭から、まだ結婚前の次男三男の漁師たちを呼び寄せ、この地に永住できるようにしようと計らった。そして、それらの漁師たちが住む村を立て、永住権を与えてもらえるよう、加賀藩主に願い出たのだった。 村立てが、許されたのは、寛永九年(一六三二)も押し詰まった十月九日のことであったという。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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