立石(たていし)
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福井県大飯郡高浜町立石 福井県大飯郡高浜村立石 |
立石の概要《立石の概要》 高浜中心地の西の果て、西側から行くと高浜中心地の入り口になる。国道27号とJR小浜線が東西に並行して走る。図書館のあるあたりも当地で、その奥の湯谷も元は立石であった。「立石」は境界に立てた標識のことであろうか。木津と青の境界か。 新開地のような感じを受けるが、ずいぶん古い土地で地下には縄文期からの遺跡がある。立石遺跡は弥生時代・古墳時代・奈良期・平安期の複合遺跡で、北部の海岸沿いには才ケ鼻製塩場跡がある。 中世は、立石荘で、平安末期~室町期に見える荘園であった。治承4年(1180)5月11日の皇嘉門院惣処分状の九条家領のうちに「わかさ たていし本新」とあり、この頃すでに当荘は本荘・新荘に分立していた。文永2年11月の若狭国惣田数帳案では立石荘の田数として本荘は15町、新荘は76町と記し、元亨年間頃の朱注は新荘について「本家二条殿御領」とある。 応永2年(1265)5月24日の足利義持袖判御教書案によれば、伯耆守武音に丹波国石田本・新両荘半済分を「若狭国立石内拾壱箇」の替地として与えている。この立石拾壱箇は、長禄3年6月27日東山香林寺が嘉吉2年から守護半済によって押妨されているとして訴えている「若狭国立石荘拾壱箇名」のことと考えられ、守護武田氏は若狭入部まもなく当荘を半済地として押領していた。 近世の立石村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。江戸末期に海岸警備の砲台場があった。「大飯郡誌」に「酒井侯台場跡。立石に在り僅かに之を認む」とある。 明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年高浜村の大字となる。 立石は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。 《立石の人口・世帯数》 230・90 湯谷569・219 《立石の主な社寺など》 立石遺跡 立石集落の南、国道27号で二分されている畑地で、昭和35年、36年の二次にわたり発掘調査が実施された。砂浜の中に粘土を敷いた炉跡、柱穴が検出され、竪穴住居の一部が発見された。縄文後期初頭の中津式並行の時期(約三千年前)の集落跡であることが判明した。おもな出土品としては縄文式土器、石鏃・磨製石斧などの石器類がある。 才ケ鼻製塩場跡 『高浜町誌』 立石才ヶ鼻遺跡 立石遺跡は縄文時代の集落跡として前述の如き多彩な内容を有する。その中で、才ヶ鼻地籍からは、これまでにも多量の製塩土器の出土が知られている。採集されている土器は、浜禰ⅡA・ⅡB式土器と船岡式土器で、古墳時代中期から奈良時代にかけての遺跡があったことがわかる。. 立石住居跡 『高浜町誌』 立石住居址 立石住居址は立石地蔵南側の畑地で国道により二分されている。昭和三五年より三七年に亘り京都同志社大学考古学教室酒詰教授により発掘され、縄文時代後期の炉跡、石斧、石棒、石槍、耳飾及び縄文土器及び須恵土器等が発見された。. 立石地蔵 今の国道27号を西から来れば、旧国道の方へ入って200メートルくらいの旧国道沿いにある。近所のおバアちゃんか、お世話されていた。案内板には、 立石子安地蔵尊の由来記 天保時代の末期(一八四〇年頃)当立石村千坂長助家(現存)に男子が育だない為、当主が悲願を込めて、子安地蔵尊の建立を思いたち、自力で原石を立石の浜辺まで運び、約五年間そのまま放置されたと言う。その現状を見て神野村桃源寺養洲和尚、川上村勧喜寺匡道和尚が願主となり、立石村中発起して協力し、建立に取りかかったと言う。 子安地蔵尊像は園松寺の孕観音を模写して、内之浦日引村の石匠牧野九左工門・浅五郎親子と藤原藤五郎(現存)が精魂をこめて漸く弘化三年(一八四六年)四月、近隣には、まれに見る温顔あふれる立派な子安地蔵尊立像が完成・建立されたと言う。 子宝に恵まれない婦人、安産を願う人、当区はもとより近隣遠くは京阪地方からの参詣者もあり、お守りを授けにこられる信者も多数ある。又、安産祈願はもとより旱ばつの年には雨乞いの行事が行われ、当区の農民が地蔵尊前で般若心経を唱えて雨の降るまで毎晩祈願したのである。 建立五十年祭は明治年度に行われ、百年祭は昭和二十年四月二十四日、近隣の禅宗和尚、建立当時の世話人、一般信者区民等多数で、戦時中最も危機な時期にも拘わらず大般若経を奉唱し盛大に法要をされたのである。 当区では毎年盂蘭盆(地蔵盆)には、区民総出で御詠をあげて供養をしている。盆踊り、露店等の催しもあり、大勢の参拝者がある。 又、毎月二十三日には、地蔵講を行い多くの信者によって御詠歌をあげ供養している。 いつまでも末永く子安地蔵尊の御利益、御加護を祈願するものである。 立石地蔵尊御詠歌 子安すやす 生ると願は 立石の 地蔵菩薩を たのまぬはなし ありがたや 地蔵菩薩の みちびひきで みだの浄土へ いくぞうれしき 合掌 立石子安地蔵尊建立百五十年大祭 平成七年十月二十一日 『高浜町誌』 立石地蔵と鼇山の石碑 立石地蔵は立石の旧国道と県道の分岐点に一丈六尺(五メートル)の子安地蔵がある。有志が発願して大般若経の一字一石を埋め、内浦の日引石を以て、園松寺の孕(はらみ)観音を模写して弘化三年(一八四六)四月に建立された。 日引の石匠九右エ門、藤五郎、浅右エ門が心魂を傾注して作成した。立石地蔵の左下には塩土に生まれ、臨済正宗三五世南禅寺第一座になられた竃山和尚の郷土の風物をたたえた青葉山感懐の石碑(九〇センチ四方)がある。 竃山和尚は画を京都の望月玉蟾に学び巧であった。. 碑面は風化していてほぼ読めない。 赤松明神 字清水に赤松明神があったが、明治44年佐伎治神社に合祀された。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 立石の主な歴史記録『高浜町誌』 立石遺跡 本遺跡は、若狭地方の縄文遺跡として最初に発掘という考古学のメスを入れた遺跡として知られるとともに、県内における縄文時代の遺跡として全国的に紹介されているもののひとつである。砂浜に残された地下博物館とでも表現したい内容を有する遺跡である。その理由は、縄文時代を中心にして弥生時代、古墳時代、奈良・平安時代の複合遺跡であり、おおげさにいえば連綿と現代まで各時代を追える遺跡であるといえよう、基本的には、各時代の集落遺跡であるが、奈良時代には土器製塩がされたようで、製塩土器の発見もあり、生産遺跡も残されているようである。立石遺跡とうりふたつの遺跡として知られるのは、小浜市阿納塩浜遺跡であるが、立石遺跡は方がどうやら大規模で多彩の感がある。 立石遺跡の調査経過 次に貝井義男氏所蔵のメモによる同志社大学の調査の経過を紹介してみたい。立石遺跡については昭和三三年頃国道二七号線敷設工事が行われていたある日、立石の畑地を散策中の郷土史家桜井帯刀氏が数片の土器破片を拾った。この数点の土器破片が立石遺跡発見の動機となった。ちょうどこのころ(昭和三三年)同志社大学考古学研究室石部正志氏が大飯町宮留で発見された縄文土器片や大飯町の古墳など調査に毎年連続大飯町に来町し更に考古学研究室のリーダーとして船岡製塩遺跡発掘中桜井氏は立石の数片の土器の鑑定を願った。このことが石部正志氏が立石を調査される第一歩となった。後日、貝井氏宛に書簡が寄せられ 「高浜町文化財保護委員桜井帯刀氏の案内で初めて現地(立石)に足を踏み入れた時は(昭和三四年八月末)興奮した。畑地至るところに土師器や須恵器破片が表土に露出散在し縄文土器片も見られ縄文時代と古墳時代の複合遺跡が畿内北部に存在した。」 とあった。 高浜町文化財保護委員の桜井氏の案内で立石を訪れた石部正志氏はこの時点で発掘調査の必要性を痛感され、諸手続の後昭和三五年八月二二日から八月三一日の五日間、高浜町教育委員会が立石の考古学調査を実施した。 一、立石遺跡第一次発掘調査について 高浜町教育委員会が昭和三五年八月立石の(中津海字才ヶ鼻第二一四号四一番地)考古学的学術調査を実施し同志社大学考古学研究室に委託した。発掘調査は同志社大学文学博士の酒詰仲男教授で発掘担当者は同志社大学大学院博士課程在学中の石部正志氏であった。発掘期間は昭和三五年八月二二日から八月二六日(五日間)で発掘調査は八月二二日午後一時より開始され荒木治雄氏の所有地に東西一四メートル南北ニメートルのトレンチを実施。国鉄線路南側の長船静子氏所有地の東西六メートル南北二メートルのトレンチより石器類、縄文土器破片や土師器須恵器片が出土し、野瀬幸次郎氏所有地より大量の縄文土器片が出土した。(縄文時代後期)五日間に互る発掘調査の結果は石鏃が五、石斧が四、磨石が一〇、石皿が四、石棒が一、石匙が二、石錘が一六、縄文土器片、土師器片須恵器片の計はリンゴ箱に六個分であった。発掘された出土品は学術研究上同志社大学考古学研究室で保管された。 一、学術的調査報告書は昭和五六年度現在に至るも高浜町教育委員会に手交なし、したがって立石遺跡(第一次)発掘調査の学術的研究結果は不詳である。僅かに発掘調査が実施された昭和三五年八月二二日から二五日の毎夜宿舎において発掘者の研修が行われ縄文土器片の拓本や石器類の実測スライドによる実習等に文化財保護委員桜井帯刀氏と貝井義男氏両名が参加研修した。その時の記録と八月二六日午後二時役場の二階で催された座談会は講師が石部正志氏で立石遺跡の概要が僅かに知られるだけである。昭和三六年三月二〇、二一両日、郷土史研究家のグループが約一ヶ年かかって採取した高浜町内の遺物の展示会を催し同志社大学石部正志氏の来町を得て城山荘で鑑定を依頼した。昨年の発掘出土の縄文土器片は後(磨消縄文)であったが約一ヶ年かかって採取した縄文土器片には縄文式時代中期の竹管文が圧倒的に多く、爪型文土器片(縄文時代前期)もあり桜井氏採集の曲玉も珍らしく、従来の後期と思われていた立石遺跡も縄文時代中、後期(約三〇〇〇年)との確定を得、学会にも報告されている。この鑑定会が第二次学術的考古学調査となった。 一、立石遺跡第二次考古学調査については同志社大学考古学研究室より、その概要が高浜町教育委員会に手交されているので全文を紹介する。 立石遺跡第二次考古学調査の概要 同志社大学考古学研究室 発掘担当代表 石部正志 白石太一郎 昨年(一九六〇年八月)の調査に於ても、かなり豊富に資料を得る事が出来たが当地が畑地として古くから利用されてきた関係でゴボウの根掘り等の為に相当深く掘り返された部分が多かった為、本来の遺物の埋存状態や住居跡等の遺構を明らかにする事が出来なかった。同志社大学考古学研究室が調査後、高浜町郷土史研究同好会(桂寛、鳴戸直一、桜井帯刀、吉田自然、貝井義男)の方々が殊に立石遺跡に対する関心を深められ一片一片を地図に記入しながら表面採取に努められ、こうして集めた採取遺物の展示会が本年三月催された。展示会を見学し本遺跡の重要性を痛感した事が第二次発掘の直接の機縁になったのである。本年は昨年の発掘で一番多くの遺物を出土した第一トレンチ(試掘構)より東へ約一五〇メートル程へだたった千坂秋次氏所有の畑地を全体で約一七坪弱ほど発掘したわけであるが遺物の包含が最も濃密であったのは、最初に設けた第Ⅴトレンチの西側であった。すなわち千坂氏の畑の中でも西北隅に近いあたりであって同じ畠の東側の赤松泉への道の際の所では、ほとんど全く縄文時代の遺物を発見する事は出来なかった。第Ⅴトレンチ西部では古代の遺物は現在の地表下二〇から七〇センチメートルに包含されており五〇センチメートルぐらいまでは古墳時代の土師器や師楽式土器片が少量まじって出土するが、それより以下では(五〇から一二〇センチメートル)全て縄文文化に属する遺物のみが発見された。殊に土器片は豊富であった。 平地では長年月の間に少しづつ土砂が堆積するので時代の古いものほど下層にあるのが普通で立石遺跡においても千数百年前の古墳時代の遺物は少くとも三〇〇〇年以上古い縄文時代の遺物より、やや高い位置より出るのであるが、そういうわけであるから同じ縄文土器でも下層から出るものほど時期の古いものがあるかも知れない。そう思って注意しながら発掘を進めたが立石は砂地であるため土の色などに変化が乏しく、はっきりと土層を区別する事が出来なかった。 しかし、上層と下層では少し縄文土器の文様等に変化が認められたのである。上層の土器片は私達が中津式と呼んでいる中国地方から近畿地方に広い分布をもつ縄文式時代後期(磨消縄文)の遺物が多かったが、下層には他の地方では余り見かけられない文様の破片が多く、その特徴から縄文式時代中期の土器と認められる(縄文を地文とした竹管文)。将来これらの土器を立石式と命名したいと思っている。 発掘の進行につれて第Ⅴレンチ西部三メートル程の間のみ、地表下五〇から六〇センチメートル位から大形土器片が続出するようになったので、すぐ下に住居跡の床があるのではないかと推察されたが、案の定、粘土で固めた真赤に焼けた炉跡と二本の柱穴が発見された。当時の住居跡は地面を数十センチメートル掘り下げた半地下式の竪穴式住居が多く、直径四から六メートル程の円形、又は方形を呈する。土間の中央に炉があって周囲に柱穴があるのが普通である。立石は砂地なので床面や壁は全く認められず、僅かに炉と柱穴二本だけが判明したにすぎないから、どのような住居であったかは分からない。又、同じ場所に時期を異にした二軒の住居が建てられたかも知れないので(複数穴)発見された炉と住居跡が同じ住居のものかも決められないのである。 しかし、竪穴式住居があった事は実証できた。このすぐ北隣りの荒木太市氏所有のゴボウ畑からも昨年土器が多く出た地点がある。鉄道線路をはさんで南側の野瀬幸次郎氏所有の畑からも多くの土器が出土している。また昨年発掘した荒木右近氏の畑にも土器が多く出た地点がある。 このように部分的に多量の遺物を出土する地点は、今回の結果から考えて、立石遺跡は五から六軒の住居跡があったものと思われる(多量の遣物出土地点の下に住居跡があると認めてよい)。縄文時代の立石は小さな集落ではなかったかと想像される。年代の推定に役立つ豊富な資料を得、更に住居跡の存在を確認出来た事は今年の大きな収穫であった。 一、立石遺跡第二次考古学調査に於ける出土品 (写真や拓本は略) 縄文時代中期、竹管文、大型復元可能破片十七、破片ミカン箱四。縄文時代後期、磨消縄文(中津式)土師器、須恵器、師楽式土器(薄手)各破片多量、(石器類)石斧三、破片二、石錘二十六、磨石十四、石鏃六。 資料はいずれも高浜町中央センターに所蔵されている。 立石の伝説立石の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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