丹後の地名 若狭版

若狭

安賀里(あがり)
福井県三方上中郡若狭町安賀里


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福井県三方上中郡若狭町安賀里

福井県遠敷郡上中町安賀里

安賀里の概要




《安賀里の概要》
脇袋の北、鳥羽川の支流安賀里川が西流する。丹後街道が通り、遠敷郡の東端になる。
古代の遠敷郡安賀(あか)郷の地。
「和名抄」若狭国遠敷郡八郷の1つ。高山寺本は訓を欠く。東急本は「安加」の訓を付す。郷域は現在の当地安賀里付近に比定される。
中世は安賀荘。鎌倉期~戦国期に見える荘園。南北朝期から「あがり」とも称す。暦仁元年(1238)12月3日の太政官符に、延暦寺大法師円尊が師の大僧正円基から相伝した所領のうちに阿字不動院領「若狭国安賀庄」とあるのが初見、のち建治2年(1276)10月21日には大僧都慈基が相伝しており山門領であった。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案の新荘のうちに安賀荘67町4反74歩とある。また同帳案に若狭一宮・二宮の神田1町3反が「安賀郷」にあると記されていて、厳密にいえば安賀郷のすべてが荘園化したわけではない。安賀荘の公文は若狭最有力在庁官人であった稲庭時定子孫の鳥羽国範(西迎)で、国範から子の国茂へ譲与されていたが、国茂の母の鳥羽尼心蓮が孫の季継に譲ったことから争いとなり、建治2年(1276)春には心蓮ならびに彼女を支持する脇袋(瓜生)範継と国茂との間に合戦があり、10余人が死傷したという。康安2年(1362)5月3日のヘカサキ重雄書状の端書に「山門領アカリ」という遺筆があり、これは当荘に半済が行われたことを示す記事と考えられ、また「アカリ」の呼称もこの時代から知られる。この半済が原因となってか、山門と守護一色氏との対立も強まり、応安2年(1369)正月15日に当荘の山徒金輪院が一色氏に反抗するという事件が起こり、これをきっかけとして同4年の若狭国人一揆がおこる。この一揆の敗北により一揆方の鳥羽・脇袋氏もまた没落した。こののち室町幕府が当荘に支配権を及ぼすようになり、同6年12月まで京都の北野天満宮が当荘を支配しているのは、幕府の寄進によるものとみられる。永享7年(1435)8月11日に将軍足利義教は延暦寺衆徒の強訴事件に関連して焼失した延暦寺根本中堂造営料に当荘をあて、幕府納銭方の正実坊がその奉行職に任じられたという。戦国期になると明確に幕府料所となっており、永正2年(1505)以前に近江の国人朽木氏が代官に任じられており、年貢銭は近江国高島郡保坂関を経由して京都に運ばれた。戦国大名武田氏下での料所安賀荘の年貢収納については「大館常興日記」の天文7年(1538)9月3日条~同11年5月11日条まで断統的に記事が見える。若狭の幕府料所の年貢収納については武田氏が全体として責任を持つが、個々の料所には代官が置かれており、安賀荘の代官は熊谷弾正大夫勝直であった。幕府側で催促などを担当していたのは幕府奉行人の飯尾尭連であり、年貢銭は宮内卿殿御局のもとに納入された。元亀3年(1572)9月の将軍足利義昭に対する織田信長の異見書のうちに、安賀荘代官職について粟屋弥四郎が訴えてきたので、信長は義昭に取り次いだが、義昭はこれを無視したと記されているので、幕府滅亡まで料所であったことがわかる。文明15年(1483)9月14日に「安加庄勢大夫吉延」が明通寺寄進札に見え、弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進算用状には「あかり村」とある。

近世の安賀里村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。安賀庄に属す。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年瓜生村の大字となる。
近代の安賀里は、明治22年~現在の大字名。はじめ瓜生村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北7町、戸数62、人口は男172 ・ 女151、学校1。


《安賀里の人口・世帯数》 236・68


《安賀里の主な社寺など》

日枝神社

立派な古木がたくさんある鎮守の杜の中に鎮座。
元は山王権現で、有田村・下吉田・安賀里村3か村の氏神。祭日の4月2日には神輿が出て能が奉納されたという。近代に入り村社日枝神社(祭神大山咋命)となった。
『遠敷郡誌』
日枝神社 指定村社にして同村安賀里字宮ノ腰にあり、古来山王宮、山王權現等と稱し来り、氏子は有田吉田阿賀里の三村にして神輿ありしと云ふ、祭神は大山咋命にして元久元年安賀高賢の創建と傳ふ。

『上中町郷土誌』
山王社 安賀里
元久年中安賀高賢が勧請したりと伝へらる、日吉神なり四月二日神事能あり。
日枝神社 安賀里
同村安賀里宮ノ脇にあり、古来山王宮山手権現と祢し氏子は有田吉田阿賀里の三村にして神輿ありしと云、祭神は大山昨命にして元久元年安賀高賢の創建と伝ふ。
社寺由緒記  安賀里山王権現 山王は有田村下吉田村安賀里三ケ村之氏神にて御座候、古へ安賀里高賢殿当社へ御立願被成富士之御猟へ御立被成候由、首尾能御帰りの刻元久五六年の頃七堂に御建立被成候由申伝候其後越前朝倉殿乱世之砌炎焼仕縁起等失却仕候、只今の社は□四面に御座候、社領も多有之候処大閤様被二召上一社領無レ之谷一円畠一反得御免有之候、袮宜梅本坊と申候
 延宝三年     安賀里村庄屋    源助



曹洞宗城谷山諦応(たいおう)

銀杏観音でよく知られた寺院。
山門前の銀杏の巨木に観音像が刻まれている。
木造薬師如来立像は平安前期の作、欅の一木造で昭和59年県文化財。丹波氷上郡氷上町御油の円通寺の末であった
『遠敷郡誌』
諦應寺 曹洞宗丹波丹道寺末にして本尊は釋迦如来なり、同村安賀里字池谷に在り、永正七年火災に罹る、境内佛堂に薬師堂あり、元祿七年の創立にして開山堂には承陽大師を祀る。

『上中町郷土誌』
諦応寺 曹洞宗 安賀里
安賀里村にあり城谷山と号す、曹洞禅宗にして東堂位の僧住職となる。文亀元年創建し大永二年六月改造す開祖を順応慶随と云い末寺所々にあり長源寺、良昌寺、大蔵寺、雲岳寺等なり。
(社寺由緒記)
禅宗城谷山諦応寺田井入道様御開基にて唐絵涅盤像一幅同十三仏の絵一幅蜀紅錦袈裟一衣干レ今御座候。粟屋馬之丞親宗鱶御菩提所二而御寄進の田地山林の御手跡其外方々より御寄進の御手跡なども有之古い田地五十石余御座候出承り候え共、大閤様御代被二上只今は一反有田村有レ之畠三反余山は寺の谷一円寺内共古えより御免許に而御座侯
 延宝三年 安賀里村庄屋  源助
 泰応寺の什物
右寺の什物に錦の袈裟一衣唐の鐃鉢一対あり。
諦応寺銀杏観世像の作者
三方町倉見永正院は現在住職なくあき寺になっているが同寺に伝わる棟札に文政十一年中興開山仏山恵隆とあり同区の古老の言に依れば恵降和尚は永山院の興隆に尽したが後安賀里諦応寺に転任し銀杏の木に観音像を彫刻したと云い伝えられている。同和尚は晩年京都に移り東山に歿したと云う。倉見永正院には面山和尚賛明庵和尚の画像を蔵する。文政十一年は約百三十年前也。


『上中町郷土誌』
極楽寺 真宗 安賀里
真宗本願寺派にして本尊は阿弥陀如来也、同村安賀量梶井に在り永正六年創立、境内仏堂に観音堂あり馬頭観世音を祀る。
(社寺由緒記)
安賀里村極楽寺西本願寺宗此寺古き寺と承り候え共為差由緒も不二相聞一略之
延宝三年 安賀里村庄屋  源助
極楽楽寺宝物一、安賀高賢所持守仏像 御厨子入にして高さ一尺三寸金箔
一、親鸞上人御真筆南無阿弥陀仏の名号掛軸
一、馬頭観世音堂内安置の仏像明治初年日枝神社より移したものと云う。


『若狭町の文化財』
【木造 薬師如来立像】【県指定】
欅材の一木造り、彫眼、墨彩の手法で内刳りは施されていない。両袖はじめ衲衣各所に旋転文(渦文)を刻むなど彫成手法の随所に平安前期の古様をとどめる。一〇世紀頃の造像と推定され、当地方での造仏の初期的作例として貴重である。



浄土真宗本願寺派極楽寺

日枝神社の下のほうにある。馬頭観音があるという。
『遠敷郡誌』
極樂寺 眞宗本願寺派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村安賀里字梶井に在り、永正六年創立境内佛堂に観音堂あり、馬頭観世音を祀る。


安賀里城
諦応(たいおう)寺の裏山。「若狭郡県志」に、粟屋氏出城跡は「上中郡安賀庄村山頭有粟屋式部丞出城之跡矣」。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


安賀里の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
安賀里
旧瓜生村の中央稍北部に位し、東南山脈連亘すれども南北は広々たる平地なり。丹後道貰通せるを以って交通繁く元村役場、登記所及駐在所の設あり、其他各商店軒を並べ殷賑を極む。
往昔安賀庄は此の辺に其所在を求むべし、鳥羽庄と同じく其の起源は知り難く、文永二年田数帳に本家円満院安賀庄六十七町四反七十四歩とあり。朽木文書永正二年十二月に御料所若州安賀庄とあり。尚大館常興の日記によれば天
文九年去年の公用として五万疋を納入し、四月亦一万疋の納入を見たる事福井県史に見ゆ。
字宮の脇に鎮座せる日枝神社の祭神は大山咋命にして昔は有田、下吉田三村の氏神であったことは寺社由来緒記に出て居る。尚同記に元久二年安賀高賢が七堂伽藍を建立寄進した樣に出ている。
寺院は真宗西本願寺派法正山極楽寺あり。又順応和尚の開基にかかる曹洞宗城谷山諦応寺あり。後者は粟谷鯢秀有柄川宮の祈願所となり、前者は内藤氏代々住職にして境内には馬頭観音堂あり。
吉沢山には安賀高賢の城跡及邸跡あり。城山に粟谷城跡あり、字松尾寺に竹林山松尾寺跡あり、又字山田には矢代谷とて昔頼政山鳥を射し谷もありと云う。安賀里の名称は安賀郷の起源に出ている如く、源頭朝此の地を安賀氏の荘園に定めしより起ると云い、尚一説に安賀里に里の袮の残るは安賀郷を建置せられし頃郷の下に条里坪の区割ありしに因るか。

『上中町郷土誌』
安賀郷
和名抄に云遠敷郡安賀郷今瓜生郷と混じ、安賀里末野等瓜生村へ入る、鳥羽村も本郷の属域なり山谷一境をなす。
守護職次第記に云う、一色修理大夫入道信伝貞治五年八月より給え爰応安二年正月十五日於安賀荘金輪院楯つくの間守護代押寄せ及合戦之処に手負出来打まけて在所を焼き払われ得替之了。
    ○
若狭旧事考に云う。今安賀里、末野、上吉田、下吉田、有田の五村を安賀ノ庄と云う。此内安賀里と云うが、もと安賀の本土にて、其名を郷におよぼしたるものなるべし。当国の守護職次第に、応安二年正月十五日於安賀庄金輪院楯つくの問守護代押寄及二合戦一云々と記せり、此頃既に庄号を呼べり名義は考なし。さて今村の名に安賀里と呼ぶは安賀に里と云う言を助(ソエ)たるにて、大飯郡の佐分を佐分利とも呼び、又遠敷郡の村に今和久里というを昔は和久とも呼べりと云い伝う。又有田村は安賀里村に隣りて、其処に字を小安賀里また安賀里山など云う小里あるをおもえば、有田村も旧は安賀里の内らんと。


安賀里の伝説

『越前若狭の伝説』
蛇(じゃ)神さん          (安賀里)
今から三百年余り前のことである。安賀里村の山田喜左衛門という家の娘が、有田へ嫁入りをした。そのころ、長い日照りが続いてお百姓はみんな水当てにたいへん苦労をした。喜左衛門の娘も、嫁に行った先で毎日毎晩いっしょうけんめいに水当てをしていた。しかし、しゅうとめさんに「うちの嫁は水当てがへたや。」というていじめられ、とても苦しんでいた。
ある日、安賀里の親元へ休みに帰った娘は、四五人の友だちといっしょに山へよもぎ摘みに行った。よもぎを摘みながら新道(しんどう)村の奥に当たる池の谷という所まで来ると、そこに大きな池があって美しい水がいっぱいたまっていた。喜左衛門の娘は、この池に足を入れていつまでも涼んでいた。やがて、友だちか「さあ、帰ろう。」というと、この娘は「私はもう家へ帰らない。どうか、安賀里へ帰ったら私の両親に、あす赤飯をひつにいっぱい持って来てくれと、ことづけしてほしい。」と言った。
あくる、両親はひつにいっぱいの赤飯を持って池の谷へ行った。そして、娘の名を呼ぶと池の中から、にょうっと大蛇(だいじゃ)の姿を現わした。「もう一度、もとの姿を見せてくれ」と両親が頼むと、娘はてご(わらで編んだ入れもの)をわいがけて(肩から脇にかけて)もとの姿で現われた。そして「これでお別れします。」といい、「赤飯は頭へ、ひつごとかぶせてほしい。」といった。両親がそのとおりにすると、娘は水の中へずぶずぶと沈んでしまった。両親は涙ながらに帰って来た。
そのあくる日から、大蛇が安賀里と新道の境にある足谷山をくずしにかかった。この山をくずして新道の池の谷の大池の水を、安賀里や有田の方へ流そうとしたのである。新道では「雨も降らんのに、なぜ川の水が濁るのだろうか。」と、村の人がみんなで池の谷までやって来た。すると、くずした土の上に大蛇が疲れて昼寝をしていたので、これは大変だといって山に火をつけ、大蛇を焼き殺してしまった。
その次の日から、新道には色々な病気かはやって死ぬ者が多かった。易者に占ってもらうと、「大蛇を殺した報いだ。」とわかった。それで新道の人々は池の谷にお社を建てて、大蛇(じゃ)をおまっりした。それが今に蛇神さんといって伝わっている。日照り続きで田の稲も枯れるという大干ばつのときには、安賀里の村をはじめ遠く近くから、雨ごいにお参りをするが、必らず雨が降るといわれている。      (永江秀雄)
参照 池の尻明神(上中町新道)




安賀里の小字一覧


『上中町郷土誌』
安賀里区の小字名
三ッ峯谷 山田尻 五郎谷口 左五郎谷 五郎谷 笹谷 奥五郎谷 小五郎谷 冨貴田 部屋ヶ谷 部屋ケ谷口 谷口 堤谷口 堤谷 奥堤谷 谷二口 欠代谷 岩ケ谷 鳥頭谷 頭田 棚ヶ谷 長尾 竜ヶ谷 宮ノ腰 玄鉄 尾崎 古館 水呑 槙ヶ谷 松尾寺 明ヶ谷 墓ケ谷 谷池 寺ノ下 竹ノ越 主ノ越 美残 山本 丸山 吉祥谷 岡ノ神田 鷹帽子岩 川原畑 河守 堀 福貝 辻堂下 梶井 古館下 御旅 杉谷 馬場尻 華表前 十王堂 七反田 四反田 五反田 上下宮田 町田 八反田 向日田 中曲 坂尻

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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