相田(あいだ)
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福井県三方上中郡若狭町相田 福井県三方郡三方町相田 若狭国三方郡八村相田 |
相田の概要《相田の概要》 JR小浜線と国道27号は西部を南北に走る。鰣川中流域で国道から東は山裾の森林で、小浜線の両側には水田が広がる。 権兵衛の古墳・高野谷古墳・きよしの古墳群がある。 中世は藍田荘で、戦国期に見える荘園名。文明8年(1476)7月6日慶寿院等順が仁和寺真光院に貸した銭35貫文を真光院領若州藍田荘の年貢をもって弁済するよう下知してほしいと幕府に訴えているのが初見(政所賦銘引付・室町幕府引付史料集成上)。その後守護武田国信は当荘を一円に押領したらしく、同18年9~10月に返付するよう守護方雑掌の寺井氏と交渉が行われているが、守護方は半済方のみ返付すると返答している(十輪院内府記文明18年9月26日・28日、10月28日条)。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「あい多村」は80文を奉加している。 近世の相田村は、江戸期~明治22年の村。三方部のうち。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。22年八村の大字となる。 近代の相田は、明治22年~現在の大字名。はじめ八村、昭和28年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西4町・南北7町、戸数98、人口は男223 ・ 女214。 《相田の人口・世帯数》 312・100 《相田の主な社寺など》 権兵衛の古墳・高野谷古墳・きよしの古墳群 きよしの古墳2・3号墳の発掘調査が行われている。 きよしの古墳群は相田集落南東の丘陵にある古墳後期の横穴式石室をもつ円墳3基。2、3号墳は昭和48年発掘調査ののち工場敷地となったため、1号墳周辺に石室は移築保存されている。 2号墳は、直径約13メートルの円墳、高さ約5メートル、埴輪・葺石等の外部施設はない。北に開口する片袖式の横穴式石室で、羨道部の長さ約1・1メートル、幅約0・9メートル、玄室部の長さ約3・2メートル、幅2・2メートル、高さは奥壁付近で約1・2メートル。玄室の床にはこぶし大の自然石を敷きつめ、石室の石材は比較的小型の自然石で、石室は天井へいくほど狭くなる持送り。出土遺物は豊富で、須恵器の坏・高坏など31点、土師器の壺・高坏など6点、直刀・鉄鏃・刀子など鉄製品47点、轡・兵庫鎖・辻金具などの鉄製馬具14点、鉄斧1点、勾玉3点、管玉44点、切子玉8点、そろばん玉5点、平玉1点、ガラス玉66点、練玉1029点などと多彩であり、とくに翡翠製の勾玉はこの種の古墳からの出土は珍しい。出土遺物から同古墳は6世紀の中頃の築造と考えられている。 3号墳は直径約16メートルの円墳で高さ約5メートル。両袖式の横穴式石室、両側壁の石材がかなり抜取られていた。羨道部の長さ約2・5メートル、幅1・3メートル、玄室部の長さ約3・7メートル、幅約2・5メートルで、奥壁付近の高さは1・6メートル。玄室の床は20センチ内外の扁平な石を敷いている。2号墳に比べて、石室の石材は大型の自然石を使用している。出土品は、須恵器の坏・高坏・ハソウ・提瓶など25点、直刀・鉄鏃などの鉄製品8点、兵庫鎖断片の馬具、石突2点、玉類としては勾玉・管玉・練玉など109点。2号墳とさほど築造年代の隔りなく、6世紀中頃と考えられている。 当古墳群の特色として多量の玉類の副葬、両古墳に馬具が認められること、若狭地方の横穴式石室のほとんどが南に開口するのが通例なのに北にいずれも開口していることなどがあげられる。当古墳群周辺には藤井古墳群・南前川古墳群もある。 天神社 小字上仲溝の国道27号ぶちの天神社は「若州管内社寺由緒記」に「天満天神宮 本地十一面観音 建立はこぎし殿と申伝候、入□の時分こぎし殿御覧被レ成候得ば両眼つふれそれより以来御神躰拝み申者無レ之候と申伝候」と記す。 『三方町史』 天神社 相田字上門口に鎮座。祭神は菅原道真であるが、王子大神は創建の時からまつってある。旧村社。明治四十一年十一月五目、次の神社の祭神がこの社に合祀された。 権現社祭神権現大神 (元、この社の境内社) 八幡社祭神誉田別尊 (同) 神明社祭神天照大神 (同) 天王社祭神牛頭天王 (同) 愛宕神社祭神迦具土神(元、平石に鎮座) 金毘羅社祭神大物主大神(元、高野谷に鎮座) 山神社祭神大山祇命 (元、社の跡に大きな石燈籠がある) 日吉神社祭神大山咋命 (元、区内に鎮座) 春日神社祭神天児屋根命(元、宮の窪に鎮座) 山王社祭神山王大神 (元、高谷口に鎖座、社跡に石鳥居がある) 『若州管内社寺由緒記』に、「天満大神宮、本地十一面観音。建立ハこぎし殿と申伝候。入仏之時分こきし殿御覧成され候得ハ、両眼つぶれ、それより以来御神体拝ミ申者無レ之候と申伝候」とあり、神の威力の大きいことを物語っている。 また、相田「郷土誌」に、天神社秘蔵の文書によるとして、「享和元年(一八〇一)八月十六日、大椎大権現の千年祭を執行す。時に祭主成願寺岡本坊袮宜茂市郎。庄屋治郎兵衛にとあり、千百八十数年前には、社があったことになる。この社の境内には、大空洞のあるシイの大きな古本があることから大椎大権現と名づけられたと思われるが、上記以外、この社の由来については明らかでない。 この社は、昔から「権現さん」とも呼び、敬われてきた氏神で、例祭は四月二日である。昔は、当屋は十八軒で輪番に行っていたが、昭和初期からは、区を五組に分けて当番制で、特別の申し出がない限り、区の集落センターを当屋として祭礼を行っている。当屋での諸儀式をはじめ、みこし巡行や、王の舞・獅子舞など、三月三十一日から四月三日の後片付けまで、昔のしきたりにしたがって盛大に行われているが、祭礼行事が終ると、神前に供えた楕円形(手の平よりやや大)の赤餅及び長方形の赤餅(共に小豆で着色)が各氏子に配られる。昔はこの赤餅は赤米を使用したといわれている。現在は赤米は全国的にも極めて少く、約十年前に河村武尚が赤米のもみ種を人手して栽培している。 この社は、寛延四年(一七五一)木造鳥居建立、安永五年(一七七六)みこし新調、寛政四年(一七九二)、文化四年(一八〇七)に鳥居を建て替えた。天保六年(一八三五)石の鳥居建立(現在のもの)、大正十五年社殿改築、昭和三十八年二月、豪雪のため拝殿が壊れ、十二月再建、昭和五十ー年本殿の屋根を銅板にふき替え、昭和五十三年、社殿裏上砂止擁壁構築、昭和五十六年に社務所を新築した。 『三方郡誌』 天神社。村社。相田に鎮座す。明治二年四月、村社に列せらる。 曹洞宗紫雲山伝芳院 国道27号沿いにある大きな寺院 『三方町史』 伝芳院 所在相田五一-四。山号紫雲山。曹洞宗。本尊釈迦如来。『若州管内社寺由緒記』には「□(広)方院 向陽寺二代伝芳良授の時代城主山中左衛門太夫殿御建立の由申伝候」とある。良授は総持寺の弟子で五哲の一人であり、この寺を道場として開いたといわれている。この時の寺は、応永十七年(一四一○)に天神社の境内(現在の社務所の南方約五〇メートル付近)に建てたと伝えられており、その跡地には、礎石や石塔類が残っている。 明治四年、河村長兵衛が土地を寄進したので、寺を現在地に移し、寺の格式も法地となり、向陽寺第三十七世住職道勇を迎えて中興の開山とした。このとき、天神社境内にあった本堂を現在の場所に移して庫裏としたが、昭和十年ごろ、豪雪のために尾根もろとも大破したので、昭和十二年改築した。これが現在の庫裏である。 昭和四年十一月、二階に鐘つき堂のある山門が建てられた。釣り鐘は、太平洋戦争中、昭和十七年に供出されたが、昭和二十五年十一月、再鋳造された。本尊は銅坐像で、元三方寺の本尊であって、三方町指定の文化財となっている(本編第四章参照)。 『三方郡誌』 傳芳院。曹洞宗。和田にあり。總持寺實峰の弟子五哲の一人傳芳良授の道場にして、應永十七年の草創なり、その後、向陽寺の末寺なりしか、數年前、同寺を離れて、寺格を進め、諸堂を再建し、向陽寺仕職土岐居山を迎へて第一祖となし、總持寺直末となる。 天台真盛宗盛運山西方寺 『三方町史』 西方寺(善光寺) 所在相田五六-八。山号盛運山。天台真成宗。本尊一光三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)。通称善光寺と呼ばれている。明治二十八年に、信濃の善光寺出張所として、今立郡横江村下新庄の僧盛運が新しく建立したもので、この時建てた「善光寺出張所」と書いた石柱(高さ約二メートル-三〇センチ角)が、相田の町道から西方寺に通じる三叉路に建っている。本堂の造りや、床下の巡道など、その構造は信濃の善光寺と少しも変わらない。信者は、相田・藤井・能登野などに多いが、小浜敦賀方面にもあって、春秋の彼岸には、昔は特に参詣人が多かった。 本尊の阿弥陀如来像は、金物の立像で。慈覚大師の作と伝えられている。なお、この寺は、二世に渡って尼寺であったが、現在は五代目男僧が住職をしている。 昭和六十年には、本堂の屋根のふき替えが行われた。 釣り鐘は、太平洋戦争中、昭和十七年に供出され、そのままになっている。 『三方郡誌』 善光寺。相田にあり。信州善光寺の出張所なり。明治三十年、加賀の僧軽部盛連の建立なり。是より先き、盛連、北前川の山谷に幽栖し、參詣の徒に法を説けり、信徒の増すに當り、その懇請によりて、今の堂宇を建立したるなり。 相田城 『三方郡誌』 相田堡址。相田に在り。永禄の頃、山中武邊か據りし處なり。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 相田の主な歴史記録『三方町史』 相田 昭和四十八年、相田区の南東にある丘陵地で工業団地造成の計両が立てられたとき、この区内のきよし谷に三基の古墳があることが確認され「きよしの古墳」と名付けられた。同年十月から二カ月を費やして、そのうちの二基について発掘調査が行われ、多くの土器・玉類・鉄製品が出土した(第二編第二章参照)。この古墳は、古墳時代後期のもので約千四百年前に造られたものと推察されている。このほか、高野谷古墳・権兵衛の古墳などがあり、この時代に、既にこの地方でも相当な豪族が住民を支配していたことが分かる。また、氏神である天神社は、約千二百年前に建立されたと伝えられていることから、相田区では、かなり古い時代から人々は既に集落をつくって生活していたと考えられる。文明八年(一四七六)の「親元日記別録」に若州藍田庄とあるのは荘園相田庄をさすものと思われる。また、永禄のころ(一五五八-一五七〇)山中武辺のよったとりで跡がある(『三方郡誌』)といわれているがその在所はわからない。 明治十年から明治二十年にわたり、隣区との間に山林の所有権について争議があり、その裁判のため多額の費用が入用となり、京都在住の前川嘉古(南前川出身)に金を借りた。しかし、その後、その金を返済しない代おり、前川嘉吉の永代供養をすることにして、毎年八月八日(昭和後期になって八月第一日曜)に、伝芳院で施餓鬼(通称ひしかの施餓鬼)が行われている。 毎年台風の時期になると、区の中央を流れる大谷川がはん濫して民家や田畑に大きな被害があったので、集落から下流鰣川までを直線にした上、コンクリートによる三面張り工事を昭和五十九年三月に完成し、増水による被害がなくなった。 区民の集会場である公会堂は、昭和の初めに木造ニ階建てで建築されたが、老朽化したため、鉄筋コンクリート三階建ての区民集会場が、昭和五十四年七月九日に、生活改善センターとして工費約三千八百万円で完成した。 この集落には、二町三反の寺領を持つ三方寺があり(若狭国総田数帳〔大田文〕)、比叡山常寿院の支配下にあったと言われている。織田氏の兵火に遭い、七堂伽藍が焼け、その跡地に釈迦堂を建立して本尊を安置していたが、堂の維持が困難になったので、この本尊を伝芳院へ移したという。これが現在の伝芳院の本尊である。 『三方町史』 きよしの古墳群 きよしの古墳群は、三方町相田三七号大門に一基(一号墳)および能登野一号清し谷に二基(二、三号墳)の円墳で古墳群を形成していた。現在は、デンヨー株式会社福井工場の敷地内の公園に一号墳が保存され、二、三号墳は、発掘調査終了のち公園内に移築復元し残されている。 〔一号墳〕 この古墳は、三基のうち一番北側に位置し、工場造成前は標高約四二メートルの谷あいの水田に分布する円墳で、盛土が流失し横穴式石室の天井石が露出していた。 二、三号墳の発掘調査は、工業団地造成による緊急事前調査として町教育委員会が昭和四十八年十月から十二月にかけ実施した。 〔二号墳〕 この古墳は、丘陵の西斜面に構築され、墳径が約一三メートルの円墳で墳頂部の標高が四七・五メートルの位置にある。墳丘の盛土の状況は比較的なだらかで埴輪、葺石、周溝等の外部施設が認められなかった。 埋葬施設は、天井石および側壁の石材が一部抜き取られていたが。やや北西に羨道(入口)を持つ片袖の横穴式石室であった。石室の規模は、玄室の袖部付近幅一・九五メートル、奥壁幅二・三〇メートル、玄門から奥壁までの長さ三・三五メートルを有し、玄室幅と玄室長の比が一対一 ・五で太短かい玄室のプランを有している。なお、羨道の現存部は、幅○・九○メートル、長さ一・一〇メートルあった。石室全体に使用されている石材は、比較的小型の自然石が使用され、側壁、奥壁ともに持ち送りをしながら積むという古い形態の技法が用いられ、床面全体に敷石が施されていた。 副葬した遺物(表40)は、石室の玄室内の全域にわたり確認されたが、特に、玄門東の北東角、奥壁付近から東よりの南東角にかけては須恵器、鉄製品等の遺物が密集し、重ねられたように出土した。また、勾玉、管玉、切子玉、土製練玉など九種類の玉類が一、一六三点と多量に出土している。特に、この中でヒスイ製の勾玉は、大形で希少である。これは、追葬された時に副葬品を各壁の角に寄せ集めたためと思われる。 〔三号墳〕 この古墳は、二号墳と同じ丘陵の斜面を利用し構築された墳径が約一六メートルの円墳で、二号墳とは南へ約二〇メートル離れ、墳丘の標高が五二・五○メートルあり、墳丘の標高差が五・〇メートルを測る。なお、墳形は、二号墳と比べ丘陵の急斜面で構築されているため壮大に見せている。 埋葬施設は、天井石および側壁の石材の大半が抜き取られていたが、ほぼ真北に羨道部をもつ両袖の横穴式石室で、羨道部から玄室までほぼ完全な形でプランを残していた。羨道部は、羨門幅一・三〇メートル、玄門幅一・〇〇メートル、羨道長二・五〇メートルを有する。また、玄室は、袖部付近幅二・一五メートル、奥壁幅二・七〇メートル、玄室長三・六五メートルを有し、玄室幅と玄室長との比が一・四九と二号墳とほぼ同じで太短かいプランを呈する。なお、床面全体に敷石が施されていたが、一部盗掘で抜き取られているところもあった。 副葬した遺物(表40)は、二号墳と同じく石室の玄室内全域で確認されたが、特に、両袖部の角で須恵器類が密集し出土した。これも追葬の所産と思われる。 〔まとめ〕 二、三号墳ともに埋葬時期は、出土した須恵器の編年から上限が六世紀中葉で、下限が六世紀後半に推定されている。また、両墳ともに確認された追葬の状況から埋葬時期を比較すると、(一)二号墳の一次埋葬、(二)三号墳の一次埋葬、(三)三号墳の二次埋葬、(四)二号墳の二次埋葬、(五)二号墳の三次埋葬の順であったと推定されている。これら追葬により副葬遺物が増加したとも考えられるが、表40のように須恵器類、刀剣塁、馬具類、玉類などがセッ卜で多数副葬されており、若狭地方では遣物の出土点数および種類の豊富な事で他に類をみない代表的な後期古墳の一つである。 相田の伝説相田の小字一覧『三方町史』 相田 下丸田(しもまるた) 丸田(まるた) 新開(しびらき) 下イクリ原(しもいくりはら) イクリ原(いくりはら) 下合田(しもあいでん) 合田(あいでん) 荒し替(あらしがい) 枇杷田(びわだ) 三反田(さんだんだ) 町田(ちょうだ) 佃(つくだ) 河原中(かわらなか) ハシカミ(はしかみ) 高柳(たかやなぎ) ハイノ崎(はいのさき) 寺町(てらまち) 流田(ながれだ) 穴田(あなだ) オンドリ(おんどり) 四反田(したんだ) 深田(ふかだ) 待田(まちだ) 下高田(しもたかた) 的場(まとば) 薮田(やぶた) 下河原(しもかわら) 梅の木下(うめのきした) カイト(かいと) 宮の窪(みやのくぼ) 広さ(ひろさ) 大将軍(たいしょうぐん) 経田(きょうでん) 西の下(にしのした) 紙スキ前(かみすきまえ) 高田(たかた) 大門(だいもん) 清し谷口(きよしだんくち) 中清し谷(なかきよしだん) 上清し谷(かみきよしだん) 上ヒエ谷(かみひょうだん) ヒエ谷(ひょうだん) 上門口(かみもんぐち) 門口(もんぐち) ウエラ(うえら) 上中溝(かみなかみぞ) 中溝(なかみぞ) 大慶庵(だいけいあん) 天王(てんのう) 天王前(てんのうまえ) 天王北(てんのうきた) 梨の木下(なしのきした) シノベ笹(しのべささ) 井川(いかわ) 柿の木下(かきのきした) 茶木の下(ちゃのきのした) 茶の木(ちゃのき) ハセタシ(はせたし) 向谷口(むかいだんぐち) 向谷(むかいだん) 口の虫(くちのむし) 上口の虫(かみくちのむし) 奥の虫(おくのむし) 上奥の虫(かみおくのむし) 奥の虫喰東の尾尻(おくのむしくいひがしのおじり) 馬場(うまば) 伊笹谷(いざさだん) 合谷(あいだん) 大虫(おおむし) 小虫(こむし) 六の虫(ろくのむし) 五の虫(ごのむし) 四の虫(しのむし) 三の虫(さんのむし) 二の虫(にのむし) 一の虫(いちのむし) 高野谷(こうやだん) 平石(ひらいし) 口桂(くちかつら) 高畑(たかはた) 桂(かつら) 滝谷(たきだん) 大谷(おうたん) 白谷(しらたに) 丁子谷(ちょしだん) 相山(あいやま) 打露小屋(うつろこや) カブロヨノキ(かぶろよのき) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『三方町史』 その他たくさん |
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