丹後の地名 若狭版

若狭

海士坂(あまさか)
福井県三方上中郡若狭町海士坂


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福井県三方上中郡若狭町海士坂

福井県遠敷郡上中町海士坂

海士坂の概要




《海士坂の概要》
鳥羽谷の一番奥の集落。地名の由来は、山向こうの田烏から坂を越えて海士が水産物の商いに来たところから海士坂と名付けられた。田烏でとれた魚は鳥羽谷道を通り九里半越で京へ運ばれたという。
字独活坊は真言宗の寺院跡で石地蔵・五輪塔があり霊地とされている。慶長3年(1598)10月15日の代官所物成目録に「(鳥羽谷ノ内) 海士坂村」518石余が見える。
近世の海士坂村は、江戸期~明治22年の村。小村に田井処村がある。小浜藩領。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年鳥羽村の大字となる。
近代の海士坂は、明治22年~現在の大字名。はじめ鳥羽村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北1町余、戸数45、人口は男124 ・女119。


《海士坂の人口・世帯数》 151・48


《海士坂の主な社寺など》
私熟を開いて青年を指導した漢学者田村常吉の彰徳碑がある。毎年8月20日夜、囃子と読経のなかを、身の丈約5mのわら人形に点火する仏送りの行事が伝わるという。
天満宮

天満宮では、4年に1度4月3日に能の奉納が行われたという。祭神は菅原道真で宝治元年(1247)4月麻生野へ勧請すると伝える。近代に入り村社となり明治11年字上ノ山に移す。境内に紅梅神社がある。同42年に白山神社・香理神社・熊野神社を合併した。
『遠敷郡誌』
天満宮 村社にして同村海士坂字上ノ山にあり、祭神は菅公にして寶治元年四月麻生野へ勸請すと傳へ、明治十一年今の所へ移轉す、境内に紅梅神社あり、明治四十二年合併されたるもの三あり、何れも祭神不詳なる、白山神社は字清水下に香理神社は字宮前に熊野神社は字鏡にありたるものなり。

『上中町郷土誌』
天満宮 海士坂
祭神 菅原道真公
由緒 自山城国北野宝治元年丁未四月麻生野村へ勧請此神奉祭祀明治十一年二月当今の処へ移転す
境内神社
     紅梅神社
祭神 不詳
由緒 紅梅姫明神社左同村紅梅谷若狭国神階記遠敷郡従三位紅海姫明神云々古同処有紅梅彦神社今絶矣(若狭郡県誌に依る)
     白山神社
祭神 不詳
由緒 不詳(元字宮前にありしを明治四十二年四月天満宮へ合併)
     熊野神社
祭神 不詳
由緒 不詳(元字鏡にありしを明治四十二年四月天満宮へ合併)
            以上鳥羽村誌に依る
社寺由緒記  氏神天神、山王此神社は麻生野村に御座候右神社の山一ヵ所は海士坂村分に御座候其外由来不二相知一候
    妙理権現 此社は海士坂片山と申所に小さき社御座候由緒は不二相知一候
     延宝三年
         海士坂庄屋    庄太夫
追記 紅梅神社に付て、伴信友全集二巻一六一頁に曰「麻生野海士坂村に紅梅明神社ありこれもこの紅梅彦姫の中を祭れるか又彦姫の二神を合祀れるにもあるべし」と



曹洞宗松尾山大蔵寺

若狭観音10番札所の曹洞宗大蔵寺
『遠敷郡誌』
大蔵寺 右同寺来本尊は多寳如来にして同村海士坂字泉坂に在り、境内佛堂に観音堂あり、十一面観世音を本尊とす。

『上中町郷土誌』
大蔵寺 曹洞宗 海士坂
創建 寛永九年九月九日 鶴州和尚開山
由緒 創建以来平僧地の所明治十三年五月十三日能義道和尚法地開闢先住職す
礼寺由緒記に 松尾山大蔵寺本尊釈迦雲慶の作、其外 由緒不二相知一候 阿弥陀堂、本尊阿弥陀行基の御作其外由緒不二和知一候
本尊 多宝如来
大蔵寺観世音緑記
松尾山大蔵寺は人皇四十九代光仁天皇の御宇松尾山薬師寺と号し言家(真言宗)に偶し七堂伽藍全備せり、抑も此処に安置し奉る聖観世音の出来を尋ねるに創立開祖鶴州禅師は毎夜放光杵薩の夢を見ること度々なり。不思議なる哉。禅師教導次で此の地に到り玉ふにたまたま松尾山廃地に心を感じて一夜坐禅し玉ふ。暁の頃明星を一見し、格外の光明霊気たなびき思わず放光菩薩を礼拝し感泣しきりなり。傍に殿堂あり扉を開き礼拝し玉ふ時光明赫々たり。緑に応じ気に望んで礼拝し奉れば行基菩薩の御作観世音菩薩なり。禅師常に夢見し玉ふ。放光菩薩は是れこの菩薩の光明なりと。直ちに人家に下りて朝食を乞ふ 前件を語り玉へば村民競ふて一宇創立せんことをはかり、茲に寛永九年観音堂を建立し傍に一寺を創設し以て松尾山大蔵禅寺と改称し玉ふことは偏へに観音の妙智力なり。その後天明三年の頃遠近斉しく疫病流行し諸民惨死する者挙げて数ふべからず。然るに正身の菩薩は乞食の僧と現じ遠近を神通遊化して諸人に御符祈祷を施行し玉へば、悪病立ち所に平癒し之を信ずるものは身体益々堅固にして家門愈々隆昌せり。諸人居所か聞きたるに大蔵寺の僧なりと告げ玉ふのみ。ある時鳥羽谷村のある貧家に一泊し玉ふに憫れなる哉二十三四才の娘一人業病に悩まされ日夜苦痛悲惨限りなきを見玉ふ。一宿の次で御符を授け灌水を以て身を洗ひ玉へば不思議なる哉、かかる難治の業病も一夜の中に平癒して元の姿となる。歓喜我を忘れて礼拝し低頭して何国の御僧なるかと尋ね来れば海士坂観音と言ひ了って、たちまちに五雲に乗じて化し去り海上坂村へ下り玉ひしという。諸仏菩薩の慈念衆生は均しく猶如赤子の思ひにして元より浅深優劣の論量を絶するといえども縁に随い感に赴く、度生の辺りまた区々にして差なき事能わず。故に当所に安坐しまします観世音菩薩は右、貧女の因縁あるを以て特に悪病平癒の菩薩と称し伝ふるなりという。


田井城跡
西田坂に武田氏家臣香川右衛門太夫の弟香川信濃守が拠ったという田井城跡。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


海士坂の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
海士坂
海士坂は鳥羽地区最北に位し、戸数五十戸、中央に村社天洲宮、その西北に曹洞宗大蔵寺あり、同境内に聖観音を祀る御堂あり霊験あらたかなりと伝う。県道は部落を縦貫し山腹のトンネルを潜りて田烏漁港に向う。
東方三方郡西田に通ずる田井坂と向笠に通ずる坂路あれど二坂とも嶮峻にして交通まれである。
嘉永年代御領分高は
 海士坂  五百十八石五斗六升とあり。
部落名発生を尋ねると往昔麻生野区および海士坂区は同一なりしも、文化の発達と共に二分せられ、山向うの海岸田烏から海士が坂越に商い来た、故に海士坂と名付けられた。
字独活坊は寺院跡で石地蔵、五輪塔ありて霊地とし、西田坂に田井域跡あり、城主は香川大和守の弟信濃守といい伝う。
赤坂古墳群附近から土地改良工事中水筒形(ふくべ)土器が出土した。
なお田烏トンネルの左奥三町余り行った処字滝の上に高さ三丈の滝あり、水量豊富景観また佳である。産業としては古来養蚕が盛んで桐実も産出する。
部落の北端に私塾を開き、近郷の青年達を指導した漢学者田村常吉翁の彰徳碑がある。
六斎念仏は古くから伝えられ、盆の行事として部落各戸を巡廻し、葬式後もこの唱名念仏を行なう。
    ○
素人演劇団天坂座
海士坂には地方では珍らしい農村娯楽と青年の修養機関とを兼ねた素人演劇団天坂座がある。昭和三年頃田村義夫が座長となりて組織され歌舞伎を主として上演し、相当上達して他の町村へも出演し名声をも博した。

海士坂の伝説


『越前若狭の伝説』
てんぐじい   (海士坂)
むかし海士坂にてんぐじいと呼ばれるこびき(木挽き)がいた。名は小太夫(こだゅう)といい、金毘羅(こんぴら)さまを熱心に信仰していた。京都の本願寺のとびらをつくるとき、それが一間半(約三メートル)もあるので、こんな大きな木をひくこびきはいないかと全国をさがした。ところが若狭の国の海士坂にてんぐじいのこびき小太夫のいることがわかった。招きを受けた小太夫は、本願寺へ行って四角四面の幕を張りめぐらし、その中で木をひいた。小太夫は毎日毎日身を清め、二足のぞうりを用意して、一足は金毘羅さまにお供えし一足は自分かはいてこびきをした。自分のぞうりも、供えたぞうりも痛んだ(破れた)が、やがて一間半のとびらができ上がりだ。今なお本願寺のおとびらが、若狭のてんぐじい小太夫の作と言い伝えられている。    (永江秀雄)


海士坂の小字一覧


『上中町郷土誌』
海士坂の小字
梁谷 宮畑 白岩 長畑 坂ノ尻 石ノ谷 丸山 門ヶ谷 的場 泉坂 菴ノ下 上ノ山 大町 殿の奥 西ノ倉 道ノ下 中筋 向ノ上 向川原 宇治ヶ谷 清水下 川崎 上茅原 矢畑 相ノ森 下茅原 窪田 広野 角田 山の端 中居前 六座頭 元谷 下ノ谷 角力谷 粟ケ谷 人ケ鼻 奥ノ田 大岩 丹田 建上林 鏡 中橋 片ケ谷 片山 宮前 古和田 柿木原 南ケ谷 鳥ノ奥

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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