丹後の地名 若狭版

若狭

藤井(ふじい)
福井県三方上中郡若狭町藤井


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福井県三方上中郡若狭町藤井

福井県三方郡三方町藤井

若狭国三方郡八村藤井

藤井の概要




《藤井の概要》

JR藤井駅があるあたりの集落。
中世の藤井保。鎌倉期~戦国期に見える保名。初見は文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案の便補保のうちに藤井保14町330歩が見え、元亨年間頃の朱注に「尊勝寺領」とある。宝徳2年(1450)9月の東岩倉寺(観勝寺)真性院雑掌申状案に、当保など5か保の領家職は平安期の康和年間に堀河天皇勅願の尊勝寺領として宛てられ、同寺の法華堂の所領とされたと見え、当時の若狭国司平正盛が当保の寄進を進めた可能性が強いとされている。延文4年(1359)3月には当保の地頭某が気山大夫に当保内の天満宮楽頭職を補任し給地2反を宛行って、姓名は不詳だが地頭の存在が知られる。南北朝期中頃の後光厳院の時代に尊勝寺法華堂が破壊されたため、本尊などは尊勝寺末寺の東岩倉寺真性院に移されたと先の宝徳2年9月の申状案に見えて、こうした理由から当保は東岩倉寺真性院領となったとみられる。また京都吉田神社の祠官吉田兼煕が当保内の小田を宝寿庵に寄進し、子の兼敦もそれを安堵したので、応永9年(1402)11月6日に守護一色詮範の家人石川入道が兼敦のところに礼に参上し、吉田家も藤井保と関わりを有していた。この宝寿庵とは天文6年(1537)4月19日の熊谷亀寿田地売券に藤井保内にあると記されている宝珠庵を指すものと思われる。戦国期には真性院領としての史料はなく天文6年4月に熊谷亀寿が藤井領家新屋分の田地2反を小浜の西福寺に売却して、この地は永禄4年(1561)11月武田信豊によっていったん没収されたが、新寄進として安堵されている。次いで弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進算用状および天正6年(1578)11月5日の柳隣斎長晴書状ではいずれも「藤井村」と見える。なお永禄11年(永禄1568)8月に熊谷大膳に従って朝倉氏と戦った者のうちに藤井の山片下野がいたと伝え、また元亀元年(1570~73)4月に織田信長を遠敷郡熊川に迎えた者のうちに藤井の山県下野守・白井民部丞・寺井源左衛門・畑田修理亮がいたと伝える(国吉籠城記)。
近世の藤井村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年八村の大字となった。
近代の藤井は、明治22年~現在の大字名。はじめ八村、昭和28年から三方町の、平成17年からは若狭町大字。明治24年の幅員は東西3町・南北4町、戸数78、人口は男201 ・ 女177。


《藤井の人口・世帯数》 287・91


《藤井の主な社寺など》

藤井遺跡
藤井駅の近くに所在する縄文時代から平安期にかけての複合集落遺跡。現在は沖積面下に埋没している微高地に立地する。昭和59年圃場整備事業に伴って三方町教育委員会が試掘調査・第2次調査を実施した。検出された縄文時代の遺構は、中期末~後期初め(約4,000年前)の石囲い炉2基、配石遺構1基、埋甕1基であった。石囲い炉は屋内炉と考えられるが住居跡自体は不明。縄文土器は近畿地方一帯に広がる土器型式(北白川C式~福田KⅡ式)を主体に、北陸系の土器を少量混在していた。石器は石鏃、磨製石斧、石錘、磨石類、石皿、石棒等が出土している。特に石棒は4点あり、若狭で初めての出土例である。弥生時代の遺構は住居跡と思われる方形の落込み1基と土器溜2基が検出された。弥生時代後期(約1,800年前)に属する。土器溜は古墳時代前期の土器をまじえ、長期にわたる廃棄が行われている。その他、盆状の木製容器やヒョウタン、モモ種子等も出土している。奈良時代以降では溝で連結された方形の柱穴をもつ掘立柱建物1棟がある。藤井遺跡の東の尾根上には古墳時代前期の松尾谷古墳(約1、500年前)があり、藤井遺跡がこれを造成した集団の中核的集落であった可能性が高いという。

松尾谷古墳・藤井岡古墳・藤井岡三昧古墳

国道27号、藤井あたり、北向き。左手(東側)の山にある、車が走っているあたりの山である。見てわかる通りの三方断層(三方花折断層帯)の一部。右ずれ、東側隆起、いずれも2、3メートル、北川断層は共軛関係。
この南側では寛文2年(1662)の地震で菅湖、久々子湖のあたりが隆起した。その先は海底まで続いて、原発が震えて隠す巨大地震の巣。


国道27号から向陽寺の方へ入ってすぐの三叉路、左側山の方へ行く道がある、これを行くと頂上に松尾山浄水場がある、浄水場建設工事中に発見され、ここに松尾谷古墳(前方後方墳)があった、そしてこの西・北側に藤井岡古墳・藤井岡三昧古墳があるという。
『若狭町古墳マップ』(写真も)
松尾谷古墳
若狭地方では、前方後円墳に先だち4世紀前半に、全長35mの前方後方墳、松尾谷古墳が丘陵尾根上に造られました。前方後方墳は、初期の大和政権と比較的結びつきが弱いか、下位に位置づけられる場合に採用される古墳の形です。三方周辺の狭い地域を治めた首長の墓と考えられています。


古墳時代前期後半の前方後方墳。藤井・南前川に所在。若狭唯一の前方後方墳。三方平野東縁の尾根上(標高80m)に立地する。南北に主軸をとり、北面する。全長約35m、後方部長15m、後方部幅12m、前方部幅24m。昭和59年水道施設建設工事の際に発見され、三方町教育委員会が発掘調査を実施した。前方部で2基(第1、第2主体部)、後方部で1基(第3主体部)の割竹形本棺を直葬した埋葬施設か検出された。副葬品は第1主体部に管玉3・ヤリカンナ状鉄器1、第2主体部に鉄剣3、刀子柄1、第3主体部にヤリカンナ1があった。また第1・第2主体部掘方より鉄斧頭1、墳丘を画する溝より器台形土器1・短頸壺1が出土。築造年代は古墳時代前期後半(4世紀末から5世紀初)と考えられている。なお墳丘盛土下の旧表土層から弥生時代後期の土器と石鏃が出土している。
『三方町史』
松尾谷古墳
松尾谷古墳は、三方町南前川六〇号松尾谷、藤井六三号横山、六四号谷田にわたる通称松尾山(標高一〇〇メートル)より北側に下降する稜線上に築造された前方後方墳である。さらに、当古墳より北側の稜線上に建てられる六号神社という祠は、台状に並んだ方墳(辺長約一〇メートル)二基を削平し作られていることが最近確認され、稜線上には方墳二基と前方後方墳一基が分布していたと考えられる。また、古墳からは北西方向に鰣川流域平野および三方湖が眺望でき、平野部を見おろすことができる稜線上の適地が選ばれている。
 松尾谷古墳は、三方町東部地区簡易水道浄水場の建設をすすめる段階で発見され、町教育委員会において昭和五十九年八月から九月にかけ発掘調査を実施した。
 墳丘の後方部南および東側は、工事により削り取られていたために原形を呈していなかったが、後方部を南に向けほぼ南北に主軸をもっ全長約四十メートルの前方後方墳で、前方部長二二メートル、後方部長一八メートルの規模を有している。稜線上の自然地形を利用し、基底部の地山を一部削り出し、さらに一部盛土を行って墳形を整えているが、主軸より左右対称でなく、また、くびれ部などのコンターが明瞭でない。後方部墳頂標高は、八〇・二〇メートル、また、前方部墳頂標高が七七・七五メートルを測り、この比高差が二・四五メートルある。
 遺体を埋葬した主体部は、前方部墳頂に主軸と直交する形で二基の墓壙が掘られ、その中に、長さ約三・九〇メートル、幅〇・七〇メートル(一号棺)、および長さ約三・一五メートル、幅〇・七〇メートル(二号棺)の割竹形木棺が二基、また、後方部墳頂には、主軸と平行し墓壙が掘られ、長さ約三・三〇メートル、幅約〇・六〇メートルの割竹形本棺が一基安置されていた。前者の前方部一号棺にはヤリガンナ一点、管玉三点、一号棺には鉄槍一点、鉄剣一点、鉄鏃一点、後者の後方部の棺にはヤリガンナ一点が副葬されていた。また、前方部の墓壙溝より鉄斧頭一点および墳丘基底部東側の周溝より土師器の器台形土器、短頸壺が出土している。なお、古墳が築造された稜線上には、弥生時代後期前葉頃の高地性集落などの遺構があったと考えられ、盛土下の基盤面より弥生時代後期(V様式)の弥生土器を包含する層が確認され、土器三〇片余り、石鏃三点が出土している。
 古墳の築造年代は、周溝より出土した器台形土器が、古墳時代前期の四世紀前葉から中葉に編年されるもりであることから、若狭では最古で、全国でも古い時期に属する前方後方墳である。
 なお、この古墳は発掘調査終了後に松尾山浄水場建設のため破壌されている。現在の受水槽付近が古墳の跡地である。


『若狭町古墳マップ』より
藤井岡古墳・藤井岡三昧古墳
いずれも鰣川右岸の丘陵尾根上に5世紀初めにつくられた円墳です。藤井岡古墳は全長27m、藤井岡三昧古墳は全長20m前後です。前者は葺石・円筒埴輪列を備え、甲胄型埴輪が出土しました。脇袋古墳群と東日本との関係も示唆する古墳群です。


若狭町「藤井岡古墳」で甲冑形埴輪が出土 古代若狭が大和政権と関連か 福井


天満神社

向陽寺の奥に鎮座。当社に伝わる例祭神事は県無形民俗文化財。
『三方町史』
天満宮
藤井字宮内に鎮座。祭神菅原道真。この社の境内社に春日神社祭神天児屋根命・大髭神社祭神大髭大神がある。指定社。旧村社。明治四十一年九月十一日、次の神社の祭神がこの社に合祀された。
日吉神社祭神大山咋命 (元、区内に鎮座)
上下宮祭神若狭彦命・若狭姫命(元、字神宮寺に鎮座)
若宮神社祭神若宮大神 (元、字若宮に鎮座)
山神社祭神大山咋神命 (元、字青池谷に鎮座)
山王社祭神山王大神  (元、字山王に鎮座)
 約六百年前に、京都の北野天満宮を春日神社の末社としてその境内に迎え入れたと伝えられているが、神社所蔵の大般若経六百巻の奥書には承保四年(一〇七七)八月吉日と記されており、これが本来当社に伝えりれたものとすれば、九百余年前にはすでにこの地に神社が鎮座していたことになる。とすれば、この場合にも後で合わせまつった方を主とするならわしで、天満宮と呼ぶようになった可能性がある。ところで、延文四年(一三五九)三月の「藤井保天満宮の楽頭職(楽事に関することの長の職)に気山太夫(中世の気山の田楽の芸能座の中心人物)を補任するところであるから毎年祭礼には怠らず参勤すべきである」との補任状(向笠江村伊平次文書)の存在や、その他の言い公えなどを合わせ考えると、当時氏子や崇敬者は向笠の外に相田・佐古・西田にもかなりいたよりであり、天満宮勧じょう年代の古さも推察できる。
 この天満宮の祭礼につしては、寛政年間(一七八九-一八〇〇)から、氏子は先祖(在来の住民)と、平(外来の住民)に分かれ、祭礼の支配権と役割について対立が続いたが、明治三十三年三月に一応調停ができた。しかし、その対立が再発し、八村長や三方郡長の仲介によって、明治三十八年五月に和議契約(藤井区有文書)ができた。ところが、その後もいろいろ論議がくりかえされ、大正二年に「天満宮祭礼永続契約書」(藤井区有文書)が作られてから対立はなくなった。さらに、昭和十五年には、先祖、平の区別撤廃の確認と、誰でも役割(主として子役)を受け持つよう改正した。また、当屋は「百姓分」(藤井区の田地を一町以上持っている者)が勤めることになっていたが、昭和二十四四年にはこれも廃止し、六つの隣組が輪番で当屋をはじめ、祭礼の諸行事はすべて担当するよう改正した。
例祭は四月二日であるが、三月三十日から例祭が終るまでいろいろな行事や儀式が、当屋や神社などで、昔から引きっがれている文書に記されたしきたりによって今日も行われている(本編第四章参照)。四月三日、当(屋)渡し式、精進あげがあって祭礼のすべてが終る。
 天満宮の本地仏は十一面観音立像で、三方町文化財に指定されている(本編第四章参照)が、いつのころからか、境内社春日神社にまつられていた。ところが近年になって向陽寺宝物殿に秘蔵されている。
 昭和十二年七月に社務所改築、五十三年には石の鳥居に建て替え、六十二年に社殿の屋根を銅板でふき替えた。この神社の後の山に秋葉神社愛宕神社があって、毎年七月十八日には秋葉神社へ、二十三日には愛宕神社へ大皷ばやしをあげている。


『三方郡誌』
天満社。村社。藤井に鎮座す、口碑に云、六百餘年前、北野天満宮を勧請すと明治二年四月、村社に列せらる。


曹洞宗藤井山向陽寺(狼寺)

国道27号から山側へ天満神社のほうへ少し入ったところ。跡地は国道の反対側にある。別名狼寺と呼ばれ、開基にまつわるオオカミ伝説を伝え、「山狼大明神」の位牌やオオカミの木像が残る。現在地へ移る前の向陽寺の跡地には井崎の大倉見城主で、のち関白豊富秀次に仕えた熊谷大膳亮直之の首塚と伝える石仏がある。
『三方町史』
向陽寺
所在藤井五六-一。山号藤井山。曹洞宗。本尊十一面観音坐像。明徳二年(一三九一)に、僧大等一祐が開いた寺で、本山は能登の総持寺、現在は横浜市鶴見町大本山総持寺であって、その直属の末寺であり、格式の高い寺である。ところが、「若狭国志」には、「夜向陽寺に宿すと永源寂室の詩に見えるが、寂室は貞治年中(一三六二-六七)の人で向陽寺創建前に死んでいるから時代が合わない」とあり、貞治年中にはすでに向陽寺があったとも考えられる。
 寺宝「向陽寺伽藍記」(慶長六年〔一六〇一〕第十世印文書)によると、「一祐は伊勢天照大神宮および、京都の清水寺に参詣した時、藤井の二字を夢見た。その後、行脚の途中、向笠の月輪寺に泊った時、一僧が、月はようやく藤井の山に昇る、と言ったのを聞いて、藤井山のふもとへ行き、川の流れに沿って谷を上り、開いた寺」である。一祐が座禅して修行したという大きなミカゲ石(座禅岩)が、打露小屋(うつろごや)にあらて、その上に大等一祐の石像(等身よりやや大)が安置されており(元向陽寺から奥へ約一キロ、安置年月日不明)、現在もそのまま残っている。この場所を通称「ボンサン」と呼んでいる。さらに伽藍記に。「一祐が人間の骨がのどにささって苦しむ狼ののどの骨を、法衣でなでてぬいてやったこと、また伽藍を建てる時、鍋を持参して賄をしていた女は非人で、竜のうろこ二枚を残し鍋を投げ捨て串小川のふち(深いところ)へ入ったこと、このため住職交替の時は血脈をこのふちへ投げ入れることが一祐の遺言である」と記されており、住職交替時の血脈のことは現在も守られている(伝えられるうろこ・法衣は寺宝として秘蔵)。
 この寺は若狭最初の禅林(禅宗の寺)で、これを記念して建てた「明徳二年建之 慶応三年再建」の石柱が、旧国道と向陽寺道の十字路(昔の丹後道路)に建っている。山門には、永平玄透禅師(永平寺五〇世、文化四年〔一八〇七〕七九歳没)書による「若狭最初禅林」のケヤキー枚板の扁額(幅九〇センチ、長さ一六九・七センチ、全文字書刻(写真186)が掲げられている(気山村熊谷又兵衛寄進)。
 その後、通称「山家(やまが)」(国道から約四キロ奥)に、仏殿・開山堂・山門・鐘つき堂・庫裏・秋葉堂などから成る伽藍を建てた。寺領は一町八反六畝(一八六アール)で、門前には八戸の民家があり、約六反(六〇アール)の水田もあったが、民家は次々と相田・藤井へ下山した。寺も大正六年の大雪で大きな被害を受けたため、大正七年三月、建物全部を現在地に移転改築することに決定し、大正十二年四月に、移転を完了した。これが現在の向陽寺である。このとき移転された建物は、本堂のほか、開山堂・山門・庫裏・納屋・土蔵・鐘つき堂・秋葉堂(通称あきわさん、天満社後方の山上に移転)などであった。
 山家の向陽寺跡を元向陽寺といい、その中心に石像が建立されており、六地蔵・石段・がけなどは背のまま残っている。現在の串小川沿いの林道が開設されるまで(昭和八年)は、元向陽寺への通路は山の中腹にあって、文政年間(一八一八-三〇)、第三十一世宜豊のとき、十塚から奥の向陽寺までの道端に、一町(一〇九メートル)ごとに石観音像三十三体を建立したが、現在もそのまま残っている。
 この寺の釣り鐘は、享保元年(一七一六)に初めて鋳造され、安永年間(一七七二-八〇)に再鋳造されたが、昭和十七年、太平洋戦争のとき供出された。現在の釣り鐘は、昭和三十四年に再鋳造したものである。禅堂は昭和二年三月に新築され、放光堂(宝物殿)は、昭和二十二年六月に、八村南尋常小学校(現在の明倫小学校)の奉安殿を移築したものである。金庫内に秘蔵されている寺宝の十一面千手観音(黄金仏)は、楠正成の守り本尊といわれているが、この観音像がここにあるのは、正成が訳あって観音像を一祐に預けたものと伝えられている。また、開山大等一祐の真筆である紙本墨書の掛軸が寺宝として秘蔵されている。
 ところで、第三世宗玉(応永三十三年〔一四二六〕死去)が、末寺として藤井集落内に玉寿庵を開山し、向陽寺が移転すると閉山した。現在玉寿庵跡は製茶工場となっている。また、正保二年(一六四五)に、第十二世祖順が死去した後は、十世代百年間にわたって竜沢寺の住職がこの寺の住職を兼ねていた。この兼務住職がようやく解消されたのは、第二十三世代恵寂(延亨二年〔一七四五〕死去))のときからであった。現住職行雄は第四十一世である。


『三方郡誌』
向陽寺。曹洞宗。藤井〔小字寺谷〕に在り、藤井山と號す。伽藍記に云、明徳二年僧大等一祐の草創なりと、されとも永源寺寂室の夜宿向陽寺の詩、寂室録にあり。寂室は貞治六年九月を以て寂す。即ち國志にもいへる如く、明徳の以前にあれは、年代合はず然とも寂室録の向陽寺は此向陽寺なるべし。されはその草創は、正に貞治以前にあるへきなり。寺域は山谷の地を占め、藤井村の邑を去る二十五町、林巒幽邃なり、境内四百三十九坪、佛殿〔八間六間〕開山堂〔三間三間〕山門〔三間三間〕鐘楼〔二間二間〕其他庫裡秋葉堂等あり。又境外寺領一町八段六畝餘あり。惣持寺末にして、明治の初めまては住持輪番地なりき。若狭曹洞第一の舊跡なり。
 〔寂室録〕…
〔藤井山向陽寺伽藍記〕…



藤井城
『三方郡誌』
藤井堡址。藤井に在り。永禄元亀の頃、山縣政冬か據りし處なり。

《交通》
JR藤井駅

《産業》


《姓氏・人物》


藤井の主な歴史記録


『三方町史』
藤井
昭和四十九年の土地改良が行われたとき、集落の北西約五百メートルの水田に遺跡が発見された。同五十九年の発掘調査により、縄文土器(中期、後期)や遺構が発掘され、約六千年前の人々の生活がうかがえる。さらに、弥生時代の遺物や遺構も発見された(第二編第一章参照)。この地域には松尾谷古墳をはじめ、十塚、藤井岡古墳群、藤井岡三昧古墳などが散在し、約千八百年以前から集落をつくり、農耕を行っていたことを物語っている。また、明倫保育所一帯を大屋(おおや)と呼んでいるが、大屋とは豪族や貴族を尊称する言葉で、この土地からも土地改良工事のとき弥生式土器が出土しており、弥生時代に栄えていたことを証拠づけている。
 藤井城主は山形政冬であったといわれている(「三方郡誌」)が、その在所は不明である。昔から若狭と近江の国はたがいに物資の交流をしていたが、両者の間に争いが起こり、近江からの鉄製品の移入が止まった。そこで、若狭藩主は出雲から砂鉄を海路を経て鳥浜港に陸上げし、人馬によって藤井の集落から約四キロメートル奥の向陽寺谷馬場(うまば)まで運んで製鉄した。現在でも現地に製鉄途中のかたまりを見つけることができる(三方町郷土資料館に展示)。安政年間(一八五四-六〇)にこの製鉄所は廃止されたが、これを記念して、安政六年二月、天満宮に一対の石灯ろうが奉納されている。また、当時向陽寺門前の住人が、ここで造った鉄のしょく台を所有する者がいたが、太平洋戦争中供出した。
 元治元年(一八六四)三月十四日夜半、民家から出火し、大風のため集落の九割が全焼した。また、明治二十一年三月二十七日にも、午後十二時ごろ出火し、六十五戸が全焼し、二回の大火に遭っている。
 昭和二十八年九月二十五日に襲った台風十三号で、串小川が増水して民家に浸水、堤防が壊れて約二十三ヘクタールの水田が土砂で埋れた。このとき、当時の区長常田多右衛門が、一部反対する区民を説得し、県の指導により九割の国庫補助を得て、復旧工事とともに土地改良を行い、昭和三十六年六月に完成した。この工事は、相田区のハス川流域区画整理とともに、ハス川土地改良事業の第一号であり、三方町土地改良事業の推進に大いに貢献した。
 昭和四十年九月の風水害では、住居の半壊、床下浸水、橋や水田の流失など非常に大きな被害があった。このため、昭和四十二年、串小川上流に砂防えん堤を造った。さらに、同六十一年にその上流にも建設した。また、圃場整備事業と平行して向陽寺付近から下流の串小川を鰣川まで直線に改修するため、昭和六十二年十一月に着工し、平成三年度完成を目指している。
 この集落は、串小川によってできた扇状地であり、地下には岩石が多く、昔から井戸を掘ることが困難なため、串小川の水を各家の近くを通るように小川をつくり、これを家の中まで取り入れて、飲料水や生活用水に使っていたが、昭和二十八年に三方町で初めて簡易水道を造った。昭和五十七年には東部簡易水道が串小川上流に水源を求め、松尾山に浄水場を造り、平成元年一月二十七日に竣工式を行った。
 昭和三年、区民の集会場として木造二階建ての公会堂を建築したが、老朽化したので、昭和六十年二月、工費三千百万円で、木造二階建ての集落センターを新築した。
 昭和三十六年、新設した藤井駅は無人駅であり、開設当初は列車の停止回数が少なかったが、利用する者が多かった。しかし、昭和六十年代からはほとんどの列車が停車するようになったが、高校生以外の利用者は少なくなった。
 十塚にある地蔵堂には、天長九年(八三二)三月十四日、弘法大師が一泊して刻んだと伝えられる地蔵尊と、八十八体の仏像がまつられており、毎月、観音講、大師講、地蔵講、梅花念仏が、それぞれ日を決めて行われている。八月二十三日には施餓鬼が行われる。


『三方町史』
藤井遺跡
 遺跡は、鰣川流域平野のほぼ中央の藤井集落西側、JR小浜線藤井駅近くの水田に位置する。現在の三方湖より約三キロ離れた内陸にある。遺跡の標高は海抜十五メートル内外と低く、三方断層より発達した崖錐および串小川によって形成された小規模な扇状地面とその下にひろがる低湿地に立地している。
 本遺跡の周辺には北に南前川遺跡が確認されており、東側国道27号線の背後の山麓や山裾には古墳群が密に点在している。若狭で最古の前方後方墳として有名となった松尾谷古墳、その他に岡の山二号墳、下り山古墳、道の上古墳、藤井岡三昧古墳、藤井岡古墳、権兵衛の古墳、高野谷古墳と円墳を中心とする古墳が分布している。
 本遺跡の発掘調査は町教育委員会が県営圃場整備事業にともない、事前調査を昭和五十九年五月から十月にかけて実施した。試掘調安によって遺跡の範囲確認をした上で工事計画で盛土によって保存される地点と、どうしても削平するため遺跡が破壊されてしまう部分を決め、後者については本調査を実施している。
 発掘調査の結果、縄文、弥生、古墳、奈良・平安各時代の複合遺跡であることが明らかになり、本町の代表的遺跡であることも分かってきた。さらに遺跡東方に分布する古墳群と密接に関係する集落跡であることも考える必要が生じてきた。本遺跡の古墳時代の土師器として布留式とよぶ土器も出土している。
 弥生時代以降の遺構としては弥生後期の住居跡と想定される方形落ちこみ一基が検出され、土器溜ともいうべき多量の土器が廃棄されたように不整楕円形に土器が集積している遺構が二基検出されている。竪穴式住居跡と思われる遺構からは炭化材が発見されたので焼失家屋の可能性もある。奈良・平安時代の遺構としては、溝で連結した方形掘方をもつ掘立柱建物跡一棟分が検出された。掘方埋土より勾玉が一点出土している。弥生時代中期の土器片に比較的まとまった遺物として弥生時代後期から古墳時代にかけての土器が出土している。土器は二重口縁に擬凹線をほどこし、土器内面をへら削りした甕や壺、高杯、器台、鉢、椀など各種の器形がセッ卜で出土している。さらに弥生時代後期に属する盆状の木製容器、種子の入ったヒョウタン果皮、モモの種子など多彩な出土品がある。
 縄文時代に関しては、調査地域の西南部で縄文中期末から後期前半にかけての石囲い炉跡二基と配石遺構一基、埋甕一基が検出された。一号炉跡は河原石を配して、炉の底には土器破片がびっしりと敷かれて、火熱により赤く変色していた。炉跡の基底から周囲一・五×三・五メートルの範囲に黄色粘土の住居跡の貼床と想定されるものも検出されている。埋甕は粗製の無文深鉢土器の底部中央が穿孔されており、埋甕の周囲にも部分的に集石遺構が認められている。
 縄文土器については縄文中期末醍醐Ⅲ式から縄文後期前半の福田KⅡ式併行の近畿地方の影響の土器が主体で、これに後期の大杉谷式併行の北陸地方の搬入品と思われる土器が出土している。
 石器としては石鏃、磨製石斧、石錐、凹み石、磨石、石皿などが検出されており、特記すべきものに比較…

藤井の伝説

『越前若狭の伝説』
向陽寺   (藤井)
藤井山向陽寺は大等一祐禅師か明徳二年(一三九一)に開いた道場である。禅師は尾張(おわり、愛知県)の人である。伊勢大神宮に参り、「藤井」の二字を手のひらに授けられた夢を見た。また京都の清水(きよみず)観音に参り、同じように「藤井」の二字を夢に見た。その後当国に来られ、向笠(むかさ)村の月輪教寺に数日泊っていた。住職の与吟は禅師を尊敬した。密宗の法で二十三夜を待ち、月の出るのを見て一僧六月(意味不明)、ようやく藤井という二字二処の霊夢に符合することを喜んだ。
翌朝早く藤井のふもとに行き、老翁に出会い、山の順路を尋ね、中腹の白砂(しらす)という所に至り、そこにいおりを結んだ。樹下石上を住いとして修業した。そのときの坐禅石は今なおある。禅師の坐禅中は、おおかみの群が集って、岩を回って常にお守りした。禅師は法衣をおおかみにいただかしめ、説法された。「お前たちは、この法衣をちょうだい(頂戴)し。畜生の道をのがれた。以後この山において法を守護し、人を害してはならない。」よってこの山のおおかみはその後人を害しなかった。今その法衣を狼袈裟(おおかみけさ)という。
若狭の国の人は禅師を厚く尊敬し、一宇を造立することを請うた。禅師は今の地か霊地なので、そこを選んだ。造立の工事のとき、どこからともなく女人がひとり、なべを持って来たり、普請(ふしん、工事)のまかないを営んだ。毎日朝に来て、夕べに帰る。禅師は山の下の信女であると思っていた。工事が完成したとき禅師は尋ねた。「お前はどこの者で、だれの家の女か。長い日数の間苦労をいとわず大勢のまかないをしたのは、いかなるわけか。」女がいうに「わたしは人間ではありません。前世は駿河守の妻です。恨みによって浅ましい境界に落ちました。どうか和尚(おしよう)の大慈悲により三帰五戒を授けて、この報いからのがれさせてください。」とのことであった。
禅師か三帰五戒および血脈を授け、説法をすると、女は竜のうろこ二枚と玉を一つ残し、かの持参のなべをかぶり、門の外へ出ていった。禅師は不審に思い。あとから人をしてつけさせると、女は坂の上でなべを投げ捨て、ふもとの川の深いふちにはいった。よってその坂を鍋破(なべわり)坂あるいは鍋破(なぺわり)谷といい、そのふちを駿河淵(するがふち)、その山を竜女の岳と名づける。住持か替るたびに血脈をこのふちに授けることは、開祖の遺言である。
  (向陽寺伽藍記)

一祐和尚は尾張に生れ、俗姓を土岐といい、芙濃(みの)に長く住んでいた。修行のとき太神宮と清水寺に参けいし、両所で藤井の二字を夢想した。その後この国に行脚(あんぎゃ)して向笠村月輪寺にしばらくいた。住職の与吟という人か二十三夜に東の方の高い山に月か出るのを歌によんだ。一祐かその山の由来を問うに、藤井山と答えた。これは先に藤井の二字を夢見たのに符合した。翌朝山のふもとの藤井村を尋ねた。大工の作太夫という者に出あい、「この山は高くて奥深い。谷川の流れは大きくて深さか知れない。いずれの所に道があるのか。」と問うと、作太夫は「鳥や獣の道さえない。道を知らずして本懐をとげることはできない。わたしか案内しましょう。」と答えた。
岩石をよじ登って、藤井村から四キロばかりの白砂という谷を座禅の床と定め、かやを切って雨のおおいとし、石を座席として座禅をした。その座禅石は今もある。和尚の徳に化せられて、おおかみが一日中その石の周囲を回っていた。開山はおおかみに「仏衣を頂戴(ちょうだい)し、畜生道をのがれ、以後この山にて人を伏してはならない。」といって仏衣をいただがせた。そのけさは今もある。それからはこの山路でおおかみはついに人をあやめない。
その後寺を建立のとき、どこからともなくひとりの女がなべを持って来て、普請(ふしん)中まかないを営んだ。その日数は久しく、まかないを供した人数は数知れない。建立が終って後、和尚は彼女にいった。「あなたはどこから来て莫大な営みをしたのですか。」女は答えた。「わたしは駿河(するが)国(静岡県)の生れです。和尚に願いがあって来ました。血脈をちょうだいして成仏(じょうぷつ)したい。」和尚は血脈を認め、勤苦に報いて仏衣をいただかせた。するとたちまち蛇(じゃ)のうろこを二枚出して、化生(けしょう)のしるしを見せた。
女はかのなべをかぶって門外へ走り出た。和尚か人をして見させると、坂の上でなべを捨て、ふもとの谷川の深いふちへはいった。それからそのふちを駿河淵(するがふち)、坂をなべわり坂と名づけた。住持の代り日には今に至るまで代々血脈を駿河淵に納める。  (社寺由緒記)

若狭の藤井山向陽寺の大等一祐禅師は。尾張の土岐氏の子である。伊勢の大神宮に参り、衣冠の人が藤井の二字を授ける夢を見た。ついで京都の清水寺に参り、観音大士か藤井の二字を与える夢を見た。師はこれをふしぎに思った。
明徳二年若狭に至り、三方郡月輪教寺に休んだ。この寺の住職は密宗の与吟法師といい、禅師を尊敬した。ある朝禅師は東山をさして「なんという名か。」と問うた。与吟は「藤井山といいます。」と答えた。師は「わたしは先に藤井という字を夢に見て、ふしぎに思っていた。今はたしてこの山に会うことができた。」と、この山に入り、精舎を創立し、二十五年間住んでいた。道業純粋であって、平日猛獣をならし、教を聞くこと人のごとくである。また神人がお供えを送って戒を受けた。応水二十二(一四一五)年五月二十四日病がなくして、なくなった。  (日城洞上諸祖伝)

禅師か坐禅をしていると、一匹のおおかみか来て、のどに立った異物をとってほしいそぶりをした。禅師は自分がかけていたケサで手をくるんで、おおかみの口の中へ差し入れ、のどに立っている骨をとってやった。そして禅師はおおかみに「今後この山の中で人畜に害を与えるな。」とさとした。おおかみはその教えに従い、害をすることかなくなった。このケサをおおかみ済度(さいど)のけさと呼び、今も寺の宝物として伝えられている。  (永江秀雄)

向陽寺には「山狼大明神」と書いた位はいとおおかみの木像が安置されている。    (若狭の伝説)

  註
「若耶群談」によると、おおかみの法衣は、宇波西神社の宝物である。そうならば、「日城洞上諸祖伝」中に、お供えを送り戒を受けたとある神人は、上瀬大明神のことであろうか。(杉原丈夫)

大膳の首塚   (藤井)
熊谷大膳直之(だいぜんなおゆき)は十村井崎大倉見(おぐらみ)城主であり、豊臣秀次の重臣であったが、秀次が秀吉の意図によって高野山で自殺させられたとき、それに連坐して大膳も京都で切腹した。このとき大膳の家来の熊谷甚助は主人の首をさげて若狭へ帰り藤井の向陽寺に埋葬を頼んだ。向陽寺はこれを承知したので甚助も寺の門前に家を作って住み、いつまでも主人の霊に仕えた。向陽寺は大正八年に現在の藤井部落へ移転したが、その跡地を今も甚助屋敷といい、その一隅には大きな岩の上に石のずし(とびらのついた箱)をすえて石仏をまつってある。これか大膳の首塚であるといわれている。
なお大膳の死後、その大倉見城は秀吉の部下の軍勢に攻め落とされた。大膳の子の熊谷四郎は南前川の前久五郎という家で食事をし、そのかわりにそこにやりを置き、山を越えて新庄まで逃げたが、そこで村人のために殺された。その後、新庄では四郎社という神社を造ってその霊をまつった。また四郎の着ていたよろいは今も新庄に保管されているという。   (永江秀雄)

直之が二尊院で自害したとき。下男に一閑老人という者かあり、主人の首級を持って、海津から新庄越えにて向陽寺に来たり、五月二十三日に葬った。自分は殉死し、子どもの熊谷勘介を門前に住まわせ、墓を守らせた。  (三方郡誌)

    註
直之の自害は七月である。五月に埋めたというのは信じがたい。(三方郡誌)




藤井の小字一覧


『三方町史』
藤井
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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