丹後の地名 若狭版

若狭

岩屋(いわや)
福井県三方上中郡若狭町岩屋


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福井県三方上中郡若狭町岩屋

福井県三方郡三方町岩屋

若狭国三方郡十村岩屋

岩屋の概要




《岩屋の概要》
円成寺のみかえりのマツがある付近。何の木の栽培なのか、果樹園が多い。
中世の岩屋。三方部倉見荘のうち。建久7年(1196)6月の若狭国源平両家祗候輩交名案に岩屋太郎信家が見え、当地の武士と考えられる(京府東寺百合文書ホ)。永仁3年(1295)12月5日の倉見荘実検田目録案および翌4年2月の倉見荘実検田目録に「岩屋真弘」2町5反、「岩屋十禅師、若王寺」2反が見える(大音文書)。また同目録には「比田延安井弘重」あるいは「大野弥三郎」「大野孫次郎」「稲見円仏」というような地名・人名が見えるが、これらは江戸期の岩屋村内に飛騨・大野・稲見という小字名として残った。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「岩屋村」は190文を奉加している。この頃から武田氏庶家武田信高・信方父子は岩屋に城を築いてこの地に勢力を伸ばしていたが、永禄9年(1562)頃から当主武田義統に背いて朝倉氏方となる動きをみせ始め岩屋村を支配していた入江氏もその動きに同調したため同年11月義統は岩屋村を白井勝胤に与えている。
近世の岩屋村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年十村の大字となる。
近代の岩屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ十村、昭和29年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西10町余・南北3町余、戸数85、人口は男184 ・ 女193、学校4。


《岩屋の人口・世帯数》 377・101


《岩屋の主な社寺など》
双子山上古墳・双子山下古墳


日吉神社

これだろうか??鳥居が見えるが、フェンスが閉じられている。この山は鈴ヶ岳で山城があったという。
『三方町史』
日吉神社
岩屋字山王谷に鎮座。祭神大山咋命。明治四十三年一月十八日、次の神社の祭神がこの社に合祀された。
神明社祭神天照皇大神 (元この社の境内社)
若宮神社祭神若宮大神 (元、津崎に鎮座)
 約五百年前に、江州坂木の日吉山王宮を勧じょうしたと伝えられ、山王社とも言っている。初めてまつられた年代は明らかではないが、宝暦十一年(一七六一)の屋根ふき替えの棟札が残っていることから、これより以前にまつられたことは確かである。現在の本殿は天保(一八三〇-四三)の初めごろ再建され、これと同時に拝殿も新築されたと伝えられている。
この社のほかに、次のような岩屋の区民や集落(隣組)でまつる神社と例祭がある。
住吉神社 例祭 七月十四日  (奥)
秋葉神社 例祭 七月十七日  (円城寺)
広峰神社 例祭 七月三十一日 (岩屋)
不動さん 例祭 九月一日   (奥)
八幡神社 例祭 九月十四日  (比田)
金毘羅宮 例祭 十月十日   (湯波)
神明神社 例祭 十月十一日 (岩屋)
大山の神 例祭 一月九日  (大野・奥・比田)


『三方郡誌』
日吉神社 岩屋に鎮座す。)125(若宮神社、〔祭神不詳〕、岩屋鎮座、明治四十二年一月十八日、日吉神社〔岩屋〕に合祀す、


曹洞宗大陽山円成寺


『三方町史』
円成寺
所在岩屋四二-四。山号大陽山。真言宗。本尊釈迦如来。文明元年(一四六九)四月十五日に、鏡真によって開かれたと伝える由緒ある寺である。また、この寺には、第十一世淳長のお手植え(宝暦元年〔一七五一〕)と伝えられる黒松の名木「みかえりの松」(県指定天然記念物)がある。
なお、この寺の宝物として、紺色の紙に金でい(金粉をにかわ水にといたもの)で細かに書かれた御陽成天皇直筆の「宝篋印陀羅尼経」一巻が秘蔵されている。
ところで、この寺は、若狭の守護武田家の重臣で、大倉見城主であった熊谷大膳の祈願所であって、山門は、大倉見城の裏門を彼が寄進したものである(山門棟札)。その後、寛政七年(一七九五)七月、第十三代住職仁長のときに再建された。それが現在のもので、総ケヤキ造りの古いものである。
昭和二十九年本堂の屋根瓦ふき替えが行われ、昭和四十八年には庫裏の屋根をカラートタンにふき替えた。釣り鐘は太平洋戦争中、昭和十七年に供出されたが、昭和二十六年十二月に再鋳造された。


『三方郡誌』
圓成寺。曹洞宗岩屋に在り・白玉山と號す。本尊は釈迦像なり、文治元年四月十五日、僧鏡真の創建なりと云ふ曹洞宗開宗の以前にあれは、當時は何宗なりしか詳ならず末寺は井崎の心月寺・能登野の長福寺・横波の玉泉院〔長福玉泉の二寺は今廃す〕等なり。寺に寶物として後陽成天皇宸筆紺紙金泥陀羅尼経一巻を蔵す。此は名僧瑞方面山の、京都にある時、得たる者なるを、宝暦十年、圓成寺に宝篋印塔を建立するに際し、寄附したるものなり。

円成寺のみかえりのマツ(県天然記念物)



円成寺のみかえりのマツは宝暦元年(1751)第11代淳長大和尚の手植えといわれ、昭和49年県天然記念物に指定された。
幹の径は1メートル少々か、四方八方へ張り出す枝がすごい。松は自然にこんな姿にも成長するものなのだろうか。
『若狭町の文化財』
【円成寺のみかえりのマツ】[県指定]
太陽山円成寺の寺院前にある広場に、土地の人が大門の松と呼ぶ黒松の名木がある。宝暦元年(1751)第一一代淳長大和尚の手植えと言われている。
 枝張りは束西二四・五メートル、南北二四メートルと、どの方向から眺めても絵に描いたような美しさである。雪をかぶった姿は一興である。
 「みかえりのマツ」の名前は「枝が何度もかえるように折れ曲がっていること」、あるいは美しい枝ぶりを見て、「道行く人が思わず振り返りたくなること」から名付けられたと言われている。



岩屋城
円成寺裏山の標高135メートルの丘陵状尾根にある岩屋城跡は、東西90メートル、南北最大幅20メートル、武田氏系図にみえるものであろう。城主は「若狭国志」は永井左近、「若狭郡県志」は貫所左衛門とする。永井左近とすれば天文年中に武田信豊の被官永井彦右衛門尉忠家があり、その一族であろう。貫所氏も武田氏被官という。
『三方郡誌』
岩屋堡址。岩屋に二の堡址あり。一は鈴峯に在り、鳥羽右兵衛佐が築きて據りし處なり、或云、武田五郎據れりと、一は圓成寺の後山にあり長井左近が築きて據りし處なり、或云、貫所左衛門か城址なりと、武田五郎、貫所左衛門ともに事蹟詳ならず。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


岩屋の主な歴史記録


『三方町史』
岩屋
大昔には、伊奈美から大野に通ずる旧道以北の地はすべて入江であり、また、かつては大本の生い茂る林野であったといわれている。このことについては、第四編第一章で述べたように、昭和三十五年に行われた土地改良工事のとき、さらに、昭和五十七年から六十年にわたって、二十九ヘクタールの水田の大型区画整備工事を行ったとき、根廻り直径二メートルにも及ぶ埋没林の根株(根木)が驚くほど多く掘り出されたことからも明らかである(黒田の項参照)。
 先住の古代の人々は、この水際に沿った高台に住み、能登野・倉見に次いで早く開けた所といわれている。その後、入江や鰣川流域の開拓に従って、倉見・能登野方面からの移住者がこの地に住みつくようになり、奥岩屋と口岩屋とができたという。奥岩屋は最初に高台に住みついた地域で、北ヶ市・中・上庄の三班、口岩屋は移住者の住みついた地域で、大野・比田・湯波(伊奈美)の三組に分かれている。
 岩屋の地名の初見は、おそらく永仁四年(一二九六)の倉見庄実検田目録に「岩屋十禅師・若王子二反」とあるものであろう(大音文書)。当時十禅師社と若王子社という二つの神社があったこともあわせて明らかになる。
 ハス川は、洪水ごとにはん濫して流れを変えたこともあり、一時は高岸下流辺りから比田・伊奈美の方向へ流れていたことがある。闇見神社の氏子の中で、比田・伊奈美に移住した者たちが洪水による荒地を開拓し、水田を開き、また、大野も、闇見神社の氏子の移住者が開拓に従事し、集落を形成したといわれている。このように岩屋には、闇見神社の氏子が移住したが、井崎、黒田へも移住しており、これらの移住者は、今でも闇見神社の氏子であり、闇見神社所有の山林の株を持っている。鰣川の伏流水がわき出している稲荷川の水が、夏は冷たく冬は湯のように温かいところから、伊奈美は湯波とも呼ばれるようになった。大音文書の永仁三年(一二九五)倉見庄実検田目録案には「稲見」と書かれている。
 岩屋には二つの堡址(土石を積み上げてつくった小城跡)があり、一つは鈴峯にあって、鳥羽右兵衛佐が築いてよったところであるが、武田五郎がよったともいわれている。一つは円成寺の後山にあって、長井左近が築いてよったところであるが、一説には貫所左衛門の城跡であるともいわれている。ところが、武田五郎、貫所左衛門ともに詳しいことは分からない(『三方郡誌』)。
 産業では、米作が中心であるが、大正十四年にハス川沿いの畑地が区画整理をされてから、養蚕のために大規模な桑園が開かれ、津崎地籍には、松見雲浜製糸岩屋工場が設けられた。しかしその後、製糸業が下火になってからは、桑園の跡地に葉タバコを栽培したが、間もなく栽培する農家は無くなった(第四編第三・四章參照)。
 昭和三十四年には、二十世紀ナシを栽培し、昭和四十七年の作付け面積は六百アールで、年産七十トンであった。現在では二十世紀の外、幸水・豊水・新水などを新しく栽培し、その面積も十ヘクタールに達しようとしている。この三方二十世紀は、昭和六十二年から福井ナシと名前も変わり、新しく観光ナシ園も開いて、シーズンには活況を呈している。
 兵田勘治郎は、明治二十一年二月二十八日に、兵田長治郎の長男として生まれた。大正十四年二月に村長に就任し、官行造林、村の中央道路の改修と畑地の区画整理、福井県養蚕試験所嶺南支場の誘致、小学校校舎の移転などを行い、晩年には宗教を通じて社会の浄化に努めるなど、郷土の発展に大きな業績があったので、昭和三十一年九月に、彼の顕彰碑が円成寺境内に建てられた。


岩屋の伝説





岩屋の小字一覧


『三方町史』
岩屋
大坪(おおつぼ) 上大坪(かみおおつぼ) 小笹(こざさ) 大ク谷(おおくだに) 大野谷(おおのたに) 九量田(くりょうだ) 大縄(おおなわ) 市の坪(いちのつぼ) 島田(しまだ) 五良丸(ごろうまる) 向黒(むかいぐろ) 姥田(うばだ) 矢代目(やだいめ) 昼場(ひるば) 鳥居田(とりいだ) 山王谷(さんのおたに) 北ヶ市(きたがち) 畔高(あぜだか) 榎木畑(えのきばた) 広畑(ひろばた) 細畑(ほそばた) 三年畑(さんねんばた) 畑山(はたやま) 小谷(こたに) 鳥越(とりごえ) 山越(やまごし) 村中(むらなか) 苗代(なわしろ) 二反田(にたんだ) 山蔵(やまくら) 根木(ねき) 風呂屋(ふろや) 西の谷(にしのたに) 大谷(おおたに) 兵田(ひょうだ) 李(すもも) 津崎(つざき) 下り枝(さがりえだ) 開(ひらき) 町畑(ちょばたけ) 高畑(たかばたけ) 窪み(くぼみ) 寺の下(てらのした) 長尾端(なごばな) 瀬戸分(せとわけ) 上水掛(かみみずかけ) 上川原(かみかわら) 下川原(しもかわら) 子上畑(ねがみばた) 植木(うえき) 夜長(よなが) 常田畑(つねだばた) 湯波中(ゆなみなか) 八反坪(はったんつぼ) 炭焼田(すみやきでん) 七反田(しちたんだ) 町田(まちだ) 芳原(よしわら) 小深田(こふかだ) 北子(きたこ) 鳥引(とりびき) 上西の界(かみにしのかい) 年清水(としょうず) 宗広(むねひろ) 三反田(さんだんだ) 下西の界(しもにしのかい) 菱田(ひしだ) 小野谷(おのたに) 車谷(くるまだに) 鈴ヶ岳(すずがだけ) 小畑(おはた) 浅井谷(あさいたに) 東谷(ひがしだに) 馬越(うまごえ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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