丹後の地名 若狭版

若狭

井崎(いざき)
福井県三方上中郡若狭町井崎


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福井県三方上中郡若狭町井崎

福井県三方郡三方町井崎

若狭国三方郡十村井崎

井崎の概要




《井崎の概要》
〔中世〕井崎 鎌倉期から見える地名。三方郡倉見荘のうち。永仁3年(1295)12月2日の倉見荘実検田目録案に「井崎真弘」1町7反44歩が見える(大音文書)。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「いさき」は50文奉加している。永禄11年(1568)8月朝倉氏と戦った熊谷大膳に従った者のうちに伊崎の香川半兵衛・熊谷甚内がいたと伝える。
近世の井崎村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年十村の大字となる。
近代の井崎は、明治22年~現在の大字名。はじめ十村、昭和29年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西7町余・南北3町余、戸数56、人口は男123 ・ 女123。


《井崎の人口・世帯数》 551・195


《井崎の主な社寺など》

井崎遺跡・倉見古墳

稲荷神社

『三方町史』
稲荷神社
井崎字夜長に鎮座。祭神倉稲魂命。旧村社。境内社に秋葉神社祭神迦具土神がある。明治四十一年十二月二十一日、次の神社の祭神がこの社に合祀された。
明神社祭神明大神(元、明神ノ上に鎮座)
金毘羅社祭神大物主命(元、茶屋ヶ谷に鎮座)
山神社祭神大由祗命(元、松ケ端に鎮座)
神明社祭神天照大神、豊受大神(元、この社の境内社)
熊野神社祭神熊野大神、日前大神(元、この社の境内社)
 伏見稲荷を勧じょう(神仏の分霊を招いてまつること)したと伝えられているが、初めてまつられたのはいつごろかは明らかでない。ただし、寛文九年(一六六九)三月一日および文化三年(一八〇六)八月十三日の二回本殿再建の棟札があることから、少くとも寛文以前にまつられたことは明らかである。また、『若州管内社寺由緒記』に「稲荷大明神・熊野大権現、此両社村の氏神也、大倉見熊谷大膳太夫様御座候節御氏神と御尊敬の由申伝候」と記されている。
 明治六年、府県社・郷村社の社格の制度が定められたとき、村社に列せられたが、後で無資格社に編入された。しかし、明治十八年一月二十三日にふたたび村社に昇格された。
 拝殿(舞堂)が初めて建立されたのは享保年間(一七一六-三五)のことで、文久三年(一八六三)に改築された。なお、この社には、享保十九年(一七三四)と明和五年(一七六八)に奉納された能舞額が残っている。鳥居は、嘉永元年(一八四八)に建立されたが、年とともに古くなったので、昭和四十二年に、境内入口近くの現在の場所に、石造り朱塗りの鳥居が建立された。
 二月の初午には神官が出向いて、区民ばやしと一緒に参詣し、初午祭と厄年祈とうを行い、社の広場でたき火を囲んでにぎやかに神酒を酌み交わす。
 四月十二日は、この社の大祭で、子供みこしが区内を練り回る。


『三方郡誌』
稻荷神社。井崎に鎮座す。
明神社。〔二社、祭神不詳〕 金刀比羅神社 山神社 共に井崎鎮座 明治四十一年十二月二十一日。稲荷神社〔井崎〕に合祀す



曹洞宗弧円山心月寺

心月寺は明徳4年に創建され真言宗であったが、永正4年曹洞宗に改宗、明治4年薬師堂となった。
『三方町史』
心月寺
所在井崎四九-一二。山号弧円山。曹洞宗。本尊薬師如来。ところが『若州管内社寺由緒記』には「禅宗。本尊釈迦運慶の作」とある。これは次に述べるように薬師堂と名を改めた時、本尊を薬師如来とし、今日に及んでいるものと思われる。
明徳四年(一三九三)七月に初めて開かれ、初めは真言宗であったが、永正四年(一五○七)、円成寺三世登玉のとき。曹洞宗に改宗して同寺の末寺となったと伝えられている。明治七年には、一たん廃寺となり、薬師堂と名前を改めた。明治二十七年十一月に法地として認可され、旧名をとって心月寺と呼んだ。
明治四十三年鐘つき堂が建立されたが、太平洋戦争のとき、昭和十七年に、諸金属供出令によって釣り鐘も供出された。現在の釣り鐘は昭和五十二年十月二十七日に再鋳造したものである。
昭和三十年に開山堂を改築し、昭和四十三年には、本堂のカヤぶき屋根をカラートタン張りに改修した。ところが、昭和五十年八月十五日、施餓鬼読経の最中に出火して本堂を全焼したが、翌五十一年に再建された。庫裏は昭和六十三年八月十三日新築落成した。


『三方郡誌』
薬師堂。井崎に在り。もと心月寺と稱す。同寺は明徳四年七月の草創にして、真言宗なりしが、永正四年、圓成寺三世登玉の代に、曹洞宗に改宗し。爾来同寺末たり。明治七年廢寺とし薬師堂と改稱す。今同區總持として之を維持す。檀家〔五十四戸〕あり、又山林川畑二町餘歩を有す。


井崎城(大倉見城)跡。
集落の北西、佐古と黒田の中間東側に張出した標高270メートル(下の十村駅の写真の駅舎背後右手に見える山)の山頂にある井崎城は、大きくはないが峻険な要害の地で、三方郡西部を一望できる位置にある。城主は守護武田氏の重臣熊谷氏と伝える。「国吉籠城記」によれば、永禄2年(1568)8月中旬頃、国吉城(美浜町)を攻めあぐんだ越前朝倉勢が同城を攻撃している。この時の熊谷氏は伝左衛門・大膳を称し、直之を名乗る。天正12年(1584)に廃城という。
『三方郡誌』
井崎城址。井崎大倉見〔坂越嶽〕にあり、故に大倉見城とも云ふ。武田氏の臣熊谷直之が據りし所なり。永禄十一年八月、朝倉氏の兵来り攻む、直之、山中武邊・山縣下野等近郷の士と共に、城を守る。朝介の兵陷る能はず即日、兵を引きて小濱に向ふ、廢城は天正十二年なるべし。
〔佐梯國吉城籠城次第〕
一永祿十一年八月中旬〔一作三月五日〕に大勢〔朝倉の兵〕重て攻來り、坂尻浦の山道より木野村を通り、味方〔國吉城〕にも椿峠より敵攻よせ候はんと評諚いたし候得ば、左はなくして毛山村へ通りり候。定而熊谷大膳を可攻かと色々談合致候。
一熊谷大膳も籠城、内々より支度いたし候、近辺の地侍には、相田村に山中武邊、藤井村に山片下野、上野村に熊谷蓮西、横渡村に長井左近、田井村に入江左京、伊崎に香川半兵衛・熊谷甚内〔一に向佐村とす〕、気山村に熊谷平右衛門・岡林兵作、其外地侍共籠城いたし、大石大木共引のほせ、用意仕候、敵も弓鐡砲少々打かけ、せむるていにもてなし、日暮候而、敵小濱へよせ、武田孫八郎殿に朝倉太郎左衞門・半田又八色々にたばかり、孫八郎殿を同心して、越前へ歸候、熊谷大膳・粟屋越中兩人共に、義景に一味同心致し候得と、再三御使参候、熊谷も趙中も、たとへ敵に御成候とも義景には一味仕事思不寄御事と致返事、終に談合不申、両人共に孫八郎殿、越前へ一味被成候事無念に被存候、



《交通》
JR小浜線十村駅


《産業》


《姓氏・人物》


井崎の主な歴史記録


『三方町史』
井崎
鰣川の扇状地の北端にあって、伏流水に恵まれ、あちこちに清水がわき出ている。古代には、黒田・岩屋の水田地帯まで入江であったといわれており、入江の水際に沿っているところから「井の崎」といい、それが「井崎」という地名になった、といわれている。また、岩屋地籍の「伊奈美」は、「湯波」ともいい、井崎は、「湯波地の崎」にある集落なので、「湯崎」とよび、「湯崎」が「井崎」に転化して呼ばれるようになったともいう。ちなみに、当区の稲荷大明神は、湯波大明神とも呼ばれている。井崎の地名は、古くは永仁三年(一二九五)の倉見庄実検田目録案(大音文書)に現れる。
 井上平右衛門家は彦火火出見尊の子孫で、若狭彦、若狭姫両神社に、天正年間(一五七三-九一)まで歴代奉仕したといわれている。島津九左衛門家は、その祖先は若狭島津といい、その後、三方や井崎を名乗ったといわれ、両家とも旧家であり、有名人の来訪も度々あったとのことである。また、井崎区は、武家全盛時代には、熊谷直之のよった大倉見城の兵站基地(作戦部隊のための軍需品などの補給基地)にもなっていたところから、武門や在家で構成されてきた集落であると考えられる(大倉見城については佐古の頃参照)。
 『三方郡誌』によると、明治四十二年には、専農二十八戸、兼農二十戸、商業専一戸、商業兼六戸と記されていて、農業を中心とした農村形態が整っていた。
 当区が、旧十村の文化的な中心地となったのは、大正六年(一九一七)に、国鉄小浜線の駅舎が建設されてからで、駅前付近には、旅館、料理屋、各種の商店、日通支店なども設けられた。このよりに交通が便利なことから、公私の施設が誘致せられたり、進出するようになって、区内には活気が出てきた。
 大正七年に、清水吉太郎が、兵田勘治郎などと協力し、十村の産業振興策として、有限責任十村産業組合を創立し、駅前道路が改修され、県道に編入されるとともに、駅前に組合事務所を設置した。その後、業務の拡張に伴い、旧道裏側の池上源吉の敷地を買収して移転し、農業協同組合に発展した。大正十四年には、当区東南の畑地一帯の区画整理によって、成願寺、上野、能登野を結ぶ曲がりくねった道は、幅を広げて直線道路に改修された。また、旧国道から横波を通って十村駅に通じる道も、井崎地籍で、幅七メートルの直線道路に付け替えられ、井崎橋も改修されて県道に編入された。大正十五年には、養蚕試験場嶺南支所、昭和三年には、三方銀行十村出張所が設けられた。ところが昭和十八年には、養蚕試験所が廃止され、その跡地に舞鶴海軍被服所軍需工場が設立された(第四編第四章参照)。
 昭和二十年に、舞鶴海軍被服所軍需工場が廃止され、二十二年には、金沢専売公社出張所事務所が置かれた。これも昭和四十五年には閉鎖されたことは、第四編で述べたとおりであるが、この敷地に、三十一年及び三十二年度に十戸の公営住宅が建てられた。
高岸
町内の若い人たちの中には、新しい住宅に入居を希望する者がかなりあると思われる。町外に出ている者も、美しい故郷へ帰って働きたい希望のあるものも少なくない。さらに、今後、若い人は勿論、多くの町民が町内の企業に職場を持つことは、企業誘致とともに、三方町発展のため、きわめて大事なことであり、住宅の提供こそ大切なことである。このため、三方町では、二・四ヘクタールの敷地を持つ井崎区高岸地籍に住宅団地を建設した。
 この場所は、学校、保育所、診療所に近く、JR十村駅まで徒歩で十分、国道27号まで二百メートルで住宅団地として最適地である。宅地は平均二四七・五平方メートルで木造平屋建て約五八平方メートル、同居家族は一人以上あり、年齢が六十歳以下であることなどを条件に分譲した。
 昭和四十九年に、二十戸の建設が完成し、十二月二十六日に十二世帯が入居した。五十年には、初めの計画通り七十三戸の建設が完成した。昭和五十年一月に、町内で三十七番目の新しい区として発足し、高岸区と名付けられ、初代区長には大音伝三郎が選ばれた。
 昭和六十年二月一日に、当区の近くに警察寮が建設され高岸区に編入された。


井崎の伝説





井崎の小字一覧


『三方町史』
井崎
志良加谷(しらがや) 梅寺(うめてら) 大谷(おおたに) 落合(おちあい) 隠谷(かくれだん) 島田(しまだ) 北谷(きただん) 松加島(まつがはな) 脇の谷(わきのたん) 六才堂(ろくさいどう) 西の坪(にしのつぼ) 下中の町(しもなかのちよ) 下八上(しもはちかみ) 上八上(かみはちかみ) 上中の町(かみなかのちよ) 早加崎(はいがさき) 下古加屋(しもこがや) 椿(つばき) 船橋(ふなはし) 小倉見(こぐらみ) 上小倉見(かみこくらみ) 権現前(ごんげんまえ) 上椿(かみつばき) 芹田(せりだ) 笹原(ささはら) 上笹原(かみささはら) 西沢(にしざわ) 下河原(しもがわら) 村の下(むらのした) 二反田(にたんだ) 志時田(しときでん) 茶屋加谷(ちゃがたに) 遠里際(おりくわ) 西大田(にしおおた) 大田(おおた) 丸山(まるやま) 永林(えいりん) 下西の界(しもにしのかい) 大西の界(おおにしのかい) 明神の上(みようじんのうえ) 中野(なかの) 兼栄口(かまえぐち) 古川(ふるかわ) 保泉上(ほせんかみ) 能登道(のとみち) 円波(えんなみ) 多茂の木(たものき) 千本木(せんぼんぎ) 寺の上(てらのうえ) 宮の下(みやのした) 北口(きたぐち) 夜長(よなが) 宮の前(みやのまえ) 下水掛(しもみずかけ) 上水掛(かみみずかけ) 高畑(たかはた) 小芝原(こしばはら) 高岸(たかぎし) 茶屋の下(ちやのした) 茶屋(ちや) 茶屋ヶ谷(ちやがたに) 狐谷(きつねだん) 大倉見(おぐらみ) 大谷(おおたに) 志良加谷(しらがや)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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