成願寺(じょうがんじ)
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福井県三方上中郡若狭町成願寺 福井県三方郡三方町成願寺 若狭国三方郡十村成願寺 |
成願寺の概要《成願寺の概要》 国道27号沿いの「運転者教育センター」の東側にある古い村。地名は真言宗成願寺があったことによる。 中世の成願寺は、戦国期に見える地名。倉見荘のうち。永仁4年(1296)2月の倉見荘実検田目録の寺田として成願寺7反140歩が見える(大音文書)。寺院としての成願寺は文安6年(1449)5月の東寺修造料奉加人数注進状にも見え、成願寺の4人の僧が400文を奉加している。地名として確認されるのは、この地で勢力を有していた熊谷弾正(勝直か)は、天文21年(1552)粟屋氏残党に与したため成願寺から三方郷宝福寺に蟄居させられていたが、同年6月9日武田氏に討たれた。 近世の成願寺村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年十村の大字となる。 近代の成願寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ十村、昭和29年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北6町余、戸数32、人口は男85 ・ 女87。 《成願寺の人口・世帯数》 90・28 《成願寺の主な社寺など》 丹後街道から一直線の長い参道がある。 三十三間山の麓、巨木鬱蒼の鎮守の杜に鎮座。 旧郷社。「延喜式」神名帳の「闇見神社」とされ、享禄5年(1532)の神名帳写に「正五位闇見明神」とある。祭神は大闇見戸売。別当は成願寺大坊。 江戸時代までは天満宮あるいは天神社と称し、「若狭国志」は「今称天神、里民伝言、創建以後及一千年余、奉祠僧云、社祭菅公像、此尤可疑、然以創建年代考之、則蓋後所配祭、倉見庄数村以此社、歴世共祭祀、且外無可称闇見神社者、則恐此也」という。中世には倉見庄の総鎮守であったといわれ、江戸時代にも成願寺・倉見・白屋・岩屋・黒田・井崎・横渡・能登野・上野の各村を氏子圏として宮座が構成されていた。現在も4月5日の例祭神事は各地区が回り持ちで担当、頭屋儀礼が行われ、王の舞と獅子舞が奉納される(県指定無形民俗文化財)。祭礼と頭屋儀礼については社蔵の倉見之庄天満宮御祭礼帳に詳しいという。 『三方町史』 闇見神社 成願寺字御手洗水に鎮座。祭神(主)は沙本大闇見戸売命であり、菅原道真もいっしょにまつられている。これを相殿という。式内社(延喜式巻九・十の神名帳に記載された朝廷崇敬の神社、祈年祭の官幣国幣にあずかる)・旧郷社である。 明治四十三年七月二十三日、次の神社の祭神がこの社に合祀(いっしょにまつる)された。 諏訪神社祭神健御名方大神・八坂刀売神(元、上野字諏訪の森に鎮座) 住吉神社祭神表筒男命・中筒男命・底筒男命(元、倉見字庄法庵に鎮座、旧社殿などは住吉神社跡として保存されている。集落のすがた参照) 愛宕神社祭神迦具土神・別雷神・玉依姫命(元、成願寺字大羽日に鎮座) 加茂神社祭神加茂健角身命(元、白屋字堂田に鎮座) 熊野神社祭神伊邪那美命(元、白屋字風呂の上に鎮座) 日吉神社祭神大山咋命・天照皇太神(元、白屋字山王に鎮座) 山神社祭神大山祗命(元、白屋宇山王に鎮座) 八幡神社祭神誉田別尊(応神天皇)(元、倉見住吉神礼境内社) 延喜式神名帳(延喜式に登録された神名帳)に「闇見神社」とあり、国帳(国内神名帳)に「正五位闇見神社」と記されており、旧十村第一の古い社である。正五位とは十二町三百石(広さ十二町、米ならば三百石)で、位を田や米であらわしたものである。古来、倉見荘にあったことから、住民からは倉見の明神とか、倉見の天神とか呼ばれていた。 「闇見神社明細帳」(酒井家編年史料稿本)によると、「垂仁天皇の時代、北陸の海辺や若狭の国で、出雲国の簸の山八岐の大蛇の霊魂を持つ大蛇が人々を苦しめた。素盞嗚尊稲田姫神であるという老翁二人がこの大蛇を退治したが、その大蛇は二段になって飛び上がり、その声は雷のようで一段は美濃国へ落ち、一段は若狭の山辺に落ちて闇見の神となる。大蛇の落ちた時、闇になったため闇見神社として祭った」と記されており、闇見神社のはじまりに関する伝承を知ることができる。 祭神の沙本大闇見戸売神は、若狭耳別の祖で、弥美神社(現美浜町宮代)の祭神である室毘古王(開化天皇の皇子彦坐王の子)の母であると伝えられ、あわせまつってある菅原道真はあとにまつったものであるといわれている。正保二年(一六四五)に酒井忠勝が、天満天神をまつる天神社に鳥居を造営している(『若狭郡県志』)。 「大般若訳書記」(元倉見属住井上安清所蔵)には三十三間山は、近江国酒波寺(真言宗)が所有していたが、その収益は「下し山」(おろす-他人に年貢をとって土地を貸すこと)として倉見、能渡(登)の社(現闇見神社)が得ていた。ところが戦争が各地で始まると、軍用金として山手代を山や畑に対して割り当ててくるようになった。そのため、双方が相談の上、神社が所蔵していた後冷泉天皇の直筆といわれる前記の大般若経六百巻を、山手代として酒波寺に納め、その代わりとして、三十三間山の若狭寄り一帯の山地を神社が手に入れたことが記されており、三十三間山は、このようにして倉見の荘民のものとなった。それ以後、闇見神社では三十三間山を宮山として、この山からの収入を、神社の運営費にあて、諸人(氏子の代表)を中心に祭りが行われてきた。明治維新までは、真言宗大坊と岡本坊が別当寺として闇見神社を支配していた。 四月五日に例祭が行われるが、それに先立って前日当屋で幣裁ち・当屋祈願・王の舞仕上げが行われる。例祭当日は、午後一時ごろから大欅広場で「当(屋)渡し式」が行われ、王の舞・獅子舞がある。つづいて献幤(祝詞幣、災拔幣、大御幣、小御幣)・みこし渡御・御旅所行事(神主、警護が神酒をいただき、王の舞・獅子舞の奉納)があり、みこしを納めて祭礼は終る。この社の祭礼行事「大御幣つき」については、本編第四章にて述べる。 このように行われる大祭(明治維新前は、三月五日)の儀式や行事は、慶長年間(一五九六-一六一四)以来、少しずつ変ってきたが、昔のしきたりのまま続けられている。 明治六年郷社に列せられ、大正元年八月二十六日、神饌幣帛料供進神社に指定された。 『三方郡誌』 闇見神社。郷社式内。成願寺に鎮座す、もと天神社と稱す。祭日三月五日、倉見・白屋・成願寺・上野・能登野・横渡・岩屋の村民ともに祭る、此日獅々舞王舞を奏すす又競馬の儀を行ふ、御輿は二基渡御す。國志に曰く、里民傳言、創建以後、及二一千年餘一、奉祠僧云、社祭二菅公像一、尤可レ疑、然以二創建年代一考之、則蓋後所二配祭一、倉見庄數村以二此社一歴世共二祭祀一、且外無下可レ稱二闇見神社一者二、則恐此也、と國帳に正五位闇見明神とあるは此社なるべし。天神社に二座ます、里人闇見の天神と稱し、また闇見の明神とも稱する事にて知るべし。一座は素より祭り来れる闇見神にて、今一座は後に天満天神を祭れるなるべし。成願寺村はもと倉見の内なりけるか、此祠に奉祠せし寺を成願寺と稱せしか、自然地名に呼びならひ、其寺亡びし後も、舊の名に呼びて、別なる一村の如くなりしなりと云ふ。祭神は神社私考に曰く、按に古事記に日子坐王〔孝元天皇々子〕の御子室毘吉王は、若狭耳別祖と見え、またその御母を沙木之大闇見戸賣と稱せり、彌美神社は耳別氏の祖神として、室毘古王を祀れるなるべく思はるゝにあはせては、この闇見神社も其御母沙本之大闇見戸賣を祀れるにやあらむ、然らば御名の大闇見は此處の地名を負給へるにて、大は美稱なるべし云々。元亀元年、織田信長、越前を征せんとて、熊川より佐柿に至る。道に社前を過ぎし時、祈願するあり。正保二年、酒井忠勝、華表を造立す。大坊岡本坊は本社の社僧なりき。明治二年二月郷社に列せらる。 〔瀨尾舊記〕 一信長公、從西近江、若狭熊川へ御入泊り、 一天神馬場先き大槻へ御付被成候處に、御馬高鳴身振、少も先きへ不行、諏訪馬場先に而駿河守〔逸見〕落馬、腹痛み、騒動するなり、 一信長公御馬より御下育て、両社之御とがめと思召、別當へ御使者立也、 一大坊早速参上被申上、畏て御座有時に、出陣之門出、か樣之儀神前とがめと存ずるなり、早く御宿寶楽を願と御信心に被仰出、畏て候、 一天神・諏訪両川社へ御加持、武運長久之御誓願有り、還而右之段被申上、 一逸見を連可参と上意承て御前に出す、然とも腹之痛み少しも不止、猶以痛みつよし、 一信長公法印に御願有、此者貴僧に奉預度存候、大坊畏而駿河供ない宿房へ御歸り也、 一信長公打立へしとて、子息〔帯刀允〕に父之役儀仰付、御かちにて橋を過させたまい、御馬に召す、其より皆々馬上にて佐梯へ御入、其時より返る橋と申也、國士皆々御供に而、粟屋が館へ御入、数萬之軍勢に而敦賀へ押寄、手筒山城主、柴田勝家・木下藤吉・池田信輝撃之、金崎城主朝倉中務生捕、勝時上る、其後に粟屋・逸見國中攻落せと御上意也、是より信長公、若州西近江しつめんため小勢にて若州へ御帰り、成願寺御泊り、法印対面有、目出度敬白す、 一信長公、貴僧武運長久之御加持に而、早速手筒城攻落、金崎生捕大悦甚敷、是より若州西近江一見之ために罷帰り候以前預置申候・見か父はいかがと御尋有、 〔合祀〕諏訪神社 もと上野に鎮座せり、國帳に正五位須波明神とあるは此神なるべし、傳云ふ、千四百年許以前に、信濃國より諏訪明神を祭来れりと古来神殿なし、白蛇の纏ひたる形の神石を、瑞籬を作り圍みて祭り來れり井崎の井上氏歴代奉祀に預り、毎歳七月二十七日倉見・白屋・成願寺・上野・岩屋の五筒村共に之を祭る。元亀元年、織田信長、此神に祈願の事あり、闇見神社の絛參照せよ。明治二年二月村社に列せられ後無格社に編入さる。四十二年七月闇見神社に合祀す。)/124(諏訪神社 〔上に見ゆ〕 上野鎮座以上七社(住吉、日吉、加茂、熊野、山、愛宕)、明治四十二年七月二十三日、闇見神社に合祀す。 『大日本地名辞書』 闇見神社。倉見駅と能登野の間なる成願寺に在り倉見庄の鎮守とす、古事記、伊邪河宮(開化)段云、「御子日子坐王、娶春日建国勝戸売之女、名沙本之大闇見戸売、生子室毘古王」、沙本は大和の地名にて、春日も大和なれど、室毘古王は即ち若狭耳別の祖なれば、耳別の氏人が祭れる祖廟なるべし、延喜式本郡又和爾部神社あり、(所在不詳)和爾部氏も春日氏と同祖の家にて、日子坐王室毘古王に姻親の子孫ありしとおもはるれば、和爾部の人々の此に移住したるを知る。 こんな案内板がある。 近江坂古道の謂れ この古道は、近江の酒波寺岩釼神社(さなみじいわつるぎじんじゃ高島市今津町)と若狭の闇見神社間を人馬が往来した道である。 南北朝以前は、滋賀県大杉から三十三間山、新庄、大日の沢白石平山、黒川谷に至る山城は酒波寺の寺領であった。山入(芝や薪を採る)の年貢を倉見、能登野から酒波に運んだり、酒波から祈祷のため倉見に出向いたりと往来がなされていた。 南北朝時代になると、北朝の将軍足利尊氏が軍資金を集めるために山にも重い課税をし始めた。酒波寺が年貢を払えないため倉見一族と話をし、西暦一三五一年に三十三間山西側の山入権を倉見一族に渡し、その交換条件に後冷泉天皇の直筆と伝える大般若経六百巻を酒波寺に渡したという話が残っている。 その後も若狭と近江間では、祭礼や流鏑馬行事、大般若の祈祷会等で人馬の往来が絶えることなくこの古道が使われていた。 三十三間山の名称は、京都東山にある三十三間堂(蓮華王院)の棟木を納めたことからこの名がつけられたと言い伝えられている。 今津町酒波寺住職佐藤宥樞 若狭町間見神社宮司渡辺眞澄 クラミというのはヘビかも知れない、それともミミのミか。 酒波寺↑ 高野山真言宗成願寺大蓮山大坊 闇見神社の少し南側。 成願寺の旧名は大蓮寺だそうで、霊亀2年(716、あるいは和銅5年)行基が一宇を建立して聖観音を祀ったのに始まるといい、盛時には36坊を数えたと伝える。「若州管内社寺由緒記」は「中比源朝臣左京権太夫信州に住居の時、関東副将軍成しが其節讒言にて此辺へ流人にて此寺に一七日御参籠有レ之、則蒙二慈現一御建立にて延久享(ママ)暦年中の御寄進状御座候、其後天正の比迄堂社も有レ之候へ共、検地以来寺領も被二召上一本堂も無レ之寺地山林計御免に御座候」と記す。明治末年にはかつての坊のうち大坊(本坊)・岡本坊が存したが、現在は大坊が成願寺大坊と称している。 『三方町史』 成願寺大坊 所在成願寺一三-一四-一。山号大蓮山。高野山真言宗。本尊阿弥陀如来。和銅五年(七一二)(あるいは霊亀二年〔七一六〕ともいう)に、僧行基が開いたと言われている。成願寺はさかんな時は三十六の坊を有し、大伽藍を形づくっていた。ここでいう坊とは、小規模な僧坊のことで、僧(修業者)の住所であり修行場であった。寺の中心となる建物で、法会・儀式などが行われる金堂(本尊仏を安置する本堂)を本坊として最初に建てられたが、成願寺の本坊であるため大坊と名づけられた。成願寺という寺名は。本坊をはじめ二十六坊、境内地、山林などすべてを含んだ大蓮山寺域全体を指すもので、一建物を指すものではない。このように本坊である成願寺大坊が現存しており、成願寺は廃寺になったのではない。現在の成願寺大坊も成願寺という寺号を略して大坊とのみ親しく呼ばれることが多かったため正式名称を知る人が少ない。現在、宗教法人として登録されている名称は「成願寺大坊」である。これは、本来「成願寺」とすればよいところを、登録当時、一般には「大坊」とのみ呼んでいたため、「大坊」の二字をつけて「成願寺大坊」としたものである。 本尊阿弥陀如来の両脇侍として、聖観音菩薩と不動明王が安置されている(阿弥陀如来の両脇侍は普通、観音・勢至両菩薩であるが、勢至菩薩が伝えられていないため不動明王像を安置している)。本尊阿弥陀如来坐像と、脇侍聖観音菩薩立像は、三方町の文化財に指定されている。阿弥陀如来坐像は、昭和五十九年の豪雪で建物が一部壊れた時大破し、修復したものである。 神仏混交時代には、この寺の住職は、闇見神社の別当職をつとめてきた。また、この寺は、近年まで檀家を持たず、旧十村地区の祈とう寺として信仰を得、信徒は村内のほか、大鳥羽村、八村北前川にまで広がっていた。明治末期に岡本坊を吸収合併したので、同坊の檀家井上喜右衛門家は、その一族とともに当寺の檀家となり現在に至っている。現在、三十六坊中はっきりと名称が伝えられているのは岡本坊と般若院の二力寺で、岡本坊は石垣に囲まれた跡地が残っているが、般若院の跡地は不明である。岡本坊は、諏訪神社をまつっていた井上喜右衛門家の建てた菩提寺で、住職は闇見神社の社僧として格式も高く、成願寺大坊の住職とともに神社の仕事にかかわっていた。岡本坊の本尊であった六臂如意観世音菩薩は、現在成願寺大坊に安置されている。現在の成願寺大坊の周囲には、当時、僧坊が建ち並んでいたと思われる平地が幾段も連なっているが、今では水田や畑となっている。また、飛地境内地の地蔵堂には勝軍地蔵尊(愛宕権現)をまつり、縁日には信者の参詣も多い。 『三方郡誌』 大坊。真言宗古義派。成願寺に在り。岡本坊と共に、成願寺中の一坊なりき、成願寺は大蓮山と號す。傳云う、霊亀二年〔或云和銅五年〕、行基来りて、一宇を建立し、聖観音を安置す。追年三十六坊を建つ。その最初建てし所を大坊と名け、又本坊と號すと今皆廃して大坊と岡本坊とを存するのみ。檀家なしと雖も、信徒三百除戸ありて、毎年一回、住職を戸毎に招聘して、祈祷をなす、紀伊金剛峯寺末なり。)(岡本坊。真言宗古義派。成願寺に在り。成願寺中の一坊なりき本尊如意輪観世音は、若狭西國三十三所の靈場十九番の札所なり、高野山金剛峯寺末に屬す。 浄土真宗本願寺派大蓮山蓮生寺 『三方町史』 蓮生寺 所在成願寺一六-六。山号大蓮山。浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寛文十一年(一六七一)三月十五日に、第一世住職釈教順によって開かれ、翌寛文十二年八月十三日に、寺号を「蓮生寺」と名付けられたという。寛政(一七八九-一八〇〇)の初めには、火災に遭い、創立以来の由緒書きなどを焼いてしまった。そのため、それより前の住職の系譜や、門徒の過去についてはほとんど分からない。寛政八年(一七九六)九月十日、第七世住職釈忠玄(西江州上野山名願寺より入寺)が本堂を再建し、布教伝導に努めた。 太平洋戦争後、第十三世住職釈義盈病死の後、およそ三十年間は無住の状態で、その間、蓮本鶴城・遠山諦敬・遠山信敬の各氏を代務住職に依頼していた。しかし、昭和五十七年四月からは、蓮本史郎が長崎県佐世保市から入寺して、第十四世の住職を継いでいる。 釣り鐘は、太平洋戦争のとき、昭和十七年に供出された。現在はこれを記念してコンクリートで釣り鐘を模造したものが釣ってある。 『三方郡誌』 蓮生寺。眞宗本願寺派。成願寺に在り。寛文十二年八月十三日、僧教順の建立なり 成願寺城 『三方郡誌』 成願寺堡址。成願寺城の尾に在り、守護代記に、天文二十一年三月、熊谷弾正不義有に仍て、成願寺村を去り、其後殺さる也と見ゆ。弾正此に據りたるなるべし。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 成願寺の主な歴史記録『三方町史』 成願寺 この集落にある闇見神社の始まりは、垂仁天皇の時代で、二千年以上も昔であると古くから言い伝えられている。また、地名のもとになった成願寺も約千二百八十年前に創設された(第五編第二章参照)と言われており、この地域には古い昔から集落ができていたものと推察することができる。 成願寺の地名については、伴信友の「神社私考」(巻四)の闇見神社の項に、「此神社の在る成願寺村は、倉見村に隣れり、もと倉見村の内なりけるが、此社に頂れる寺に、成願寺といふが在りけるから、おのづから地名の如く呼あへりけるが、後に其寺亡びぬれど、旧の名を呼で、今は別なる一村の地となれりと里人いへり」とあり、又「若狭郡県志」に「成願寺村は倉見庄に属し、小浜を去る四里半なり。この村に古寺あり成願寺と号す。故に号亦之に従う」(原漢文)とあって、この集落の地名の由来を知ることができる。 成願寺の寺名は、古くは永仁四年(一二九六)二月の倉見庄実検旧目録(大音文書)に出現する。 このように成願寺村は、古い歴史を持つ闇見神社や、大伽藍のあった成願寺があり、昔から、井崎-岩屋道、白屋道が旧国道に続く交通の要地として人馬の往来が多く、物資の集散するにぎやかな場所であった。 明治、大正期の住民の職業は、米作が中心であったが、一、二の家を除いて、養蚕(夏蚕、秋蚕、晩秋蚕)が大事な副業であった。その外の職業としては蚕座(蚕を入れて飼育する用具〔竹製〕)製作業・人力車引きが各二戸、専業養蚕業・製油業・染物業・宿屋兼飲食業・木賃宿(旅人宿)・瓦製造業が各一戸あり、さらにこれらの外に、小間物・たばこ・おもちや・呉服・とうふ・石油・菜種油・ローソク・陶器・駄菓子などを売る商店が国道に沿って並び、いかけ屋・屋根ふきの職人もいた(成願寺「郷土誌」)。 明治四十二年九月に、皇太子の福井県訪問を記念して、上野区と連合して二三・七ヘクタールの土地の耕地整理に着工して翌年完成した。その後、水田耕作の機械化に伴い、表151の(5)に示すように、昭和四十三年度に九・八ヘクタールの土地改良が完了した。 昭和二十三年四月に、農協成願寺出張所が大ケヤキ広場に開設された。 成願寺の伝説成願寺の小字一覧『三方町史』 成願寺 北ヶ市(きたがいち) 馬場の下(ばんばのした) 志津計(しつけ) 岩屋道(いわやみち) 回り淵(まわりぶち) 岸の下(きしのした) 正源節(しょうげんすじ) 長徳筋(ちょうとくすじ) 細ヶ前(ほそがまえ) 大鳥居(おおとりい) 長場の上(ばんばのうえ) 御手洗の水(みたらしのみず) 風呂谷(ふろだに) 本堂(ほんどう) 南林坊(なんりんぼう) 南ヶ市(みなみがいち) 茶の木(ちゃのき) 堂上の下(どじょうのした) 目白ヶ市(めじろがいち) 桂畑(かつらばた) 百聞道(ひゃっけんみち) 上河原(かみがわら) 角善田(かくぜんだ) 谷田(たんだ) 南谷田(みなみたんだ) 小羽日(こばにち) 穴田(あなだ) 山ヶ波那(やまがはな) 大羽日(おばにち) 広田(ひろでん) 砂馳(すなはせ) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『三方町史』 その他たくさん |
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