旧・上中町(かみなかちょう)
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福井県三方上中郡若狭町 福井県遠敷郡上中町 |
旧・上中町の概要《旧・上中町の概要》 成立と消滅 昭和29年(1954)1月1日、鳥羽村・瓜生村・熊川村・三宅村・野木村が合併し、町制施行して成立した。町名の由来は、近世以来の地名によるという。 平成17年(2005年)3月31日、 三方郡三方町・遠敷郡上中町が合併し、三方上中郡若狭町が発足し、旧・上中町は消滅した。 「平成の大合併」とはいえ、若狭町の成立は旧郡をまたいだ合併でハタから見ていると何か歴史的地勢的な必然性が感じられないようにも見える。若狭には原発というドル箱を持つ町と持たない町があり、持つ町はそのドル箱を合併で分けたくはない。三方町と上中町と小浜市には原発がないが、それなら小浜市と合併するのがスジだろうとの声もあるが、それでは小さな町は吸収合併の形になり、主体性を奪われかねず、そもそも何のための合併かわからなくなる。そうしたことで取り敢えずということか、郡をまたいだ隣りあわせの町が合併したようである。 地勢 若狭地方の中央、小浜湾に注ぐ北川の上流域に位置し、北から西は小浜市、北から東は旧三方郡三方町、東から南は武奈ヶ岳連峰・佐々里山脈を隔てて滋賀県。北川と支流鳥羽川流域の平野部以外はほとんどが山地。古くから開発された地と考えられ、4世紀後半から5世紀にかけて築かれた複数の古墳が発見され、銅鐸も出土した。町内を通る旧九里半街道(国道203号)は京畿への最短路で、町の中央部で国道27号に合流する。JR小浜線が国道27号に並走し地内に上中駅がある。 沿革 古代 豊富な古墳 縄文・弥生時代の遺跡として堤の向山遺跡、大鳥羽の大鳥羽遺跡があげられる。向山遺跡からは、明治33年に銅鐸が出土している。その形態は扁平鈕式、袈裟襷文である。大鳥羽遺跡は、弥生中期・後期の集落跡であり、有樋式石剣が採取されている。石剣の出土は県内でも大鳥羽遺跡だけである。 町内には多くの古墳がある。脇袋の膳部山の山麓には上の塚・中の塚・西塚古墳があり、いずれも前方後円墳である。大鳥羽の城山古墳は、5世紀中に建造されたものと推定される若狭唯一の山の上の前方後円墳である。全長63mで、埴輪・葺石が認められる。上の塚古墳は全長約100mあり、若狭地方最大の前方後円墳である。中の塚古墳は相当破壊が進行しているが全長約72m。西塚古墳は、全長約74mで、周囲には20m幅の濠がめぐらされている。大正5年発掘が行われ、竪穴式石室、神人画像鏡・刀剣・短甲・馬具など多くの副葬品が出土している。この脇袋の古墳群は、5世紀に若狭の首長であった膳臣一族のものと考えられている。天徳寺には十善の森古墳がある。前方後円墳で、全長約68mである。後円部には横穴式石室があり、前方部にも後世になって造られた横穴式石室をもつ。後円部の石室からは、流紋文格規短鏡断片・装身具・馬具・武器などが出土している。畿内周辺で発見された横穴式石室としては古いほうに属する。日笠には、上船塚・下船塚の2つの前方後円墳がある。上船塚古墳は全長約75mで、濠・葺石・埴輪が認められる。下船塚古墳は、二段築成の墳丘であり、全長約85mである。濠・葺石などが認められる。天徳寺の丸山塚古墳は直径約50mで、11mの羨道をもつ外さ最大といわれる円墳であった。画文帯神獣鏡・挂甲・須恵器などが出土したが、北川の水害復旧工事の土取りのため破壊され、壊滅した。下タ中にある大谷古墳群には、6世紀後半頃の円墳12基が見られる。また、末野には奈良期~平安期の須恵器製造の窯跡が見られ、古代の若狭地方の須恵器製造の中心だったのではないかと考えられる。 玉置駅と玉置郷 律令制下の当町域は遠敷郡に属し、若狭と近江を結ぶ街道沿いの地域として重要視された。特に玉置では駅家跡と思われる遺跡が出土している。この遺跡からは、昭和38年の発掘により、直径30㎝、長さ120㎝の杉材の掘立柱列、須恵器が発見され、平城京出土木簡に見える「玉置駅」ではないかと考えられている。そのほか木簡の中に見える町内の郷名は、藤原宮出土木簡では「玉杵里」「手巻里」「三家里」、平城宮出土木簡では「玉杵里」「玉置郷」「玉置駅」「手枕里」があり、「野里」も町内の郷名かと考えられている(県史)。「和名抄」にも玉置郷・安賀郷が見える。安賀郷は現在の安賀里に比定されている。 中世 瓜生荘と鳥羽荘 平安末期に平氏が代々国司として支配した若狭国においても、源平争乱時には源氏に味方する国御家人たちが現れている。その国御家人の中に町内の地名を負った者の名が見える。虫生五郎頼基・井口太郎家清・瓜生新太郎清正・安賀兵衛大夫時景・鳥羽源内定範である。おそらくこれらの国御家人たちは、虫生・井口・瓜生・安賀(安賀里)・鳥羽あたりを本貫としていた人々と思われる。建久7年(1196)遠敷・三方両郡の惣地頭として右衛門次郎忠季が入部し、堤を本貫としたらしく、のちに津々見氏あるいは若狭氏を名乗るようになった。承永の乱の後、若狭の国御家人の過半が地頭などの圧迫を受けていたが、町域内では安賀土佐法橋跡が地頭に奪われたことが知られるのみであるから、鳥羽谷を中心とした稲庭時定の子孫たちの抵抗力が強かったものと推察される。この頃町内にあった荘園・保は瓜生荘・鳥羽荘・鳥羽上保・鳥羽下保・安賀荘・三宅荘・吉田荘・玉置郷・津々見保などである(若狭国惣田数帳案)。瓜生荘は若狭忠季が地頭職をもっていた地であり、本家は園城寺門跡寺院の円満院であったが、室町期には同じく園城寺門跡寺院聖護院の院家である若王子領となる。吉田荘と三宅荘はともに皇室領として戦国末期まで存続している。安賀荘は延暦寺領であったが、戦国期には幕府料所となった。鳥羽荘も延暦寺領であったが、鎌倉期初頭の若狭国最有力御家人稲庭時定の子孫の鳥羽氏が預所として勢力を有した地である。この鳥羽氏や瓜生氏は応安4年(1371)の若狭国人一揆の中心的人物として守護一色氏に敵対し、同年5月26日に玉置河原で決戦を行ったが、敗れて没落した。一色氏は永享12年(1440)まで守護であったが、その後武田氏が若狭を支配するようになった。戦国期には、町内にも多くの山城が築かれた。香川大和守の麻生野堡、鳥羽右衛門の霧ケ嶺城、粟屋光若の山内城などと、ほかに9城が確認されている。 近世 江戸期の村々 江戸期の当町域は小浜藩領であった。「元禄郷帳」に見える当町域の村々は、山内・小原・三田・悪無サカナシ・三生野・海士坂・麻生野・黒田・大鳥羽・長江・持田・有田・下吉田・上吉田・脇袋・末野・安賀里・瓜生・新道・熊川・河内・三宅(枝村に仮屋など)・井ノ口・天徳寺・神谷・日笠・杉山・裟婆賀・兼田・加福六・虫生・玉木・上野木・下野木の34か村を数える。「旧高旧領」などに裟婆賀村は堤村、玉木村は玉置村、虫生村は武生村と見える。前期村々のほか「旧高旧領」には中野木村が記されている。 小浜から町内を通り、熊川を経て水坂峠を越え、近江今津に至る街道は九里半街道と呼ばれた。この道は古代より日本海側から京への交通路として重要視されており、浅野長政は熊川を宿駅に定め、中世末には下大杉に新関が立てられた。近世では、熊川を通って運ばれる荷物は年間20万駄以上あり、蔵米・海産物などが京へ運ばれた。熊川には、近世、口留番所が置かれ、現在でも街道筋は当時の面影がある。 松木荘左衛門 近世初頭、京極氏の支配を受けることになった遠敷郡の人々は、年貢の増徴に苦しんでいた。特に大豆の租率の上昇は、人々の暮しに深刻な打撃を与えた。京極氏の転封後、酒井忠勝が小浜藩主となったが、年貢率は京極氏の時代のものを引き継ぎ、人々の生活は楽にならなかった。これに対し農民たちは、寛永17年(1640)領内252か村が協議のうえ、新道村の庄屋であった松木荘左衛門(長操)ら20人余が代表となって領主に強訴を行った。荘右衛門らは、数十回、9年間にわたる投獄にもめげず嘆願を繰り返し、その結果、ついに租率は下がり、農民たちは少しの安楽を得ることができた。しかし荘左衛門は強訴の罪により、承応元年(1669)磔刑に処せられた。領主の酒井忠勝は江戸でこの報を聞き、特赦にしようとしたが処刑が終ったあとであった。農民は荘左衛門の徳をしのび、その年取れた新大豆を霊前に供えたと伝えられている。現在、熊川の松木神社に霊が祀られ、処刑場の日笠には記念碑がたっている。 近現代 行政区画の変遷 当町域は明治4年小浜県、敦賀県、同9年滋賀県を経て、同14年福井県に所属した。この間三宅村が明治初年仮屋村、同7年市場村を分村し、同年瓜生村が瓜生村と関村に分村し、同17年には有田村と下タ中村に分村した。同22年市町村制施行により、山内・小原・三田・悪無・三生野・海士坂・麻生野・黒田・大鳥羽・長江・持田の11か村が合併して鳥羽村、有田・下タ中・下吉田・上吉田・脇袋・末野・安賀里・瓜生・関の9か村が合併して瓜生村、新道・熊川・河内の3か村が合併して熊川村、仮屋・三宅・市場・井ノ口・天徳寺・神谷・日笠の7か村が合併して三宅村、杉山・堤・兼田・加福六・玉置・上野木・中野木・下野木の9か村が合併して野木村となった。昭和29年鳥羽・瓜生・熊川・三宅・野木の5か村が合併し、町制施行して上中町が成立した。 史跡・文化財・文化施設 国史跡に西塚古墳・上ノ塚古墳・中塚古墳(脇袋)、上船塚古墳・下船塚古墳(日笠)、国重文に木造聖観音立像〈観音堂安置〉(悪無、安楽寺)、木造十一面観音立像〈観音堂安置〉(脇袋、法順寺)、国選択無形民俗文化財に六斎念仏〈三宅〉(三宅)、六斎念仏〈瓜生〉(瓜生)があり、県史跡に十善の森古墳(天徳寺)、県天然記念物に上村家のタブの木(三宅)、県文化財に石造九重塔婆(神谷)、木造聖観音菩薩立像・木造薬師如来立像(麻生野、雲岳寺)、木造薬師如来座像(玉置、玉泉寺)、木造薬師如来立像(安賀里、諦応寺)、熊川区有文書(熊川)、雲流文縁方格規矩四神鏡ほか・画文帯神獣鏡ほか・有樋式石剣(市場)・県無形民俗文化財に河原神社神事(上野木)がある。 旧・上中町の主な歴史記録『大日本地名辞書』 遠敷は和名抄乎爾布と註す、小丹生の義なるべし、宝亀二年紀、復無位若狭遠敷朝臣長女本位とあるは、此地の名家なりけん、(大安寺資財帳に若狭国 若狭郡県志云、遠敷郡、在大飯郡与三方之中間、故或称中郡、近世私分下中上中両郡、併大飯三方四郡也。 補【遠敷郡】○遠敷始て光仁天皇紀に見ゆ、或は乎入に作る、〔続紀〕宝亀元年七月庚辰従五位下若狭遠敷朝臣長売、授正五位上。天平十九年六月十七日〔二月十一日か〕奏上大倭国大安寺流記に「若狭国乎入郡島山佰町、四至、四面海、右飛鳥浄御宇宮天皇歳次癸酉納賜者」、按、和名抄十二郷あり、其佐文サブリ・木津・阿袁アヲ(原本袁を桑に作る、蓋誤)三郷即大飯郡の地にして、蓋分郡以前の旧に依り重出せしものなり、戦国の時私に中郡と称し、又上中下中二郡に分つ、後之を廃す、 若狭郡県志云、遠敷郡在大飯郡与三方郡之中間、故称中郡、近世又私分之為下中上中両郡、併大飯三方四郡也。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『上中町郷土誌』 その他たくさん |
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