丹後の地名 若狭版

若狭

上吉田(かみよしだ)
福井県三方上中郡若狭町上吉田


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福井県三方上中郡若狭町上吉田

福井県遠敷郡上中町上吉田

福井県遠敷郡瓜生村上吉田

上吉田の概要




《上吉田の概要》
北川中流右岸の平地、国道27号と国道303号が合する地点のすぐ東側、田圃の中に位置する。中世の吉田荘が上・下に分かれて成立したもの。

吉田荘は、鎌倉期~戦国期に見える荘園。鳥羽川と熊川の合流点の西に立地。当荘の南の三宅荘も長講堂領であったから、吉田・三宅荘とまとめて呼ばれることが多い。建久2年(1191)10月の長講堂領目録に「吉田・三宅庄」とあり、元三雑事などを負担しているのが初見で、後白河法皇建立の長講堂に寄せられた荘園の1つ。建治3年(1277)7月に中原氏女は争論の相手である鳥羽国茂が長講堂領支配の当荘公文職にありながら、農民から数十石の年貢を責め取ったと批難している。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案には新荘のうちに吉田荘18町98歩があり、元亨年間頃の朱注に「地頭得宗御領、公文御家人伝領也」と記す。建武3年(1336)8月29日には後醍醐天皇方の軍勢と足利尊氏方の軍勢が「吉田河原」で戦っている。応永14年(1407)3月の長講堂領目録にも「若狭国吉田・三宅庄」とあり、聖光院法印仲祐が知行していた。永享6年(1435)2月22日に庭田重有から「若狭国吉田・三宅庄」などについて注進してほしいと依頼された伏見宮貞成親王は、長講堂領で後小松院の御所侍が当知行している地を注進するのははなはだ不審なことだとしているが、これは同年3月6日に将軍足利義教のとりはからいによって、この地を後花園天皇(貞成の子)の乳人である春日局に与えるための注進であった。吉田・三宅は後小松院の時にも乳人に与えられていたが、そののちも天皇の乳母が領家職を持っており、文明10年(1478)11月19日には「内裏御乳人御局雑掌」が「内裏御料所若州吉田・三宅」の代官籾井の被官大木源左衛門が年貢を納入しすぎたことを口実として、年貢を無沙汰していると訴えている。文亀2年(1502)5月14日には「禁裏御料所上吉田并三宅領家職」の段銭を免除するよう武田氏に働きかけたとあり、吉田荘は上・下に分けられるようになった。文亀2年5月20日条には「吉田村」とも書かれている。天文21年(1552)3月21日には若狭を追われた粟屋右馬允などが近江から若狭に入り、吉田などを焼き払ったが、武田氏に撃退された。

中世の上吉田村は、戦国期に見える村。文明13年(1481)11月24日付の若狭国瓜生荘千代房名坪付目録に「壱反斗代壱石四斗 在所上吉田上」と見える。文亀2年(1502)5月14日には「禁裏御料所上吉田并三宅領家職」の段銭を免除するよう武田氏に働きかけたとあり、乳人の領家職は禁裏料とされていた。永正10(1513)~12年にきわめて複雑な難題が持ち上がった。これ以前に代官であった院庁大蔵大輔は召放されて、永正10年10月直務代官が現地に下ったが、現地の武田氏被官藤山右兵衛尉、先政所吉田藤三郎・新道永平が中心となって指出帳の提出を拒否し、農民たちも逃散した。農民たちを含めた抵抗が起こった理由に、これまでの代官が名主の権限を認めない「散田所」支配という厳しい支配を行ったことがある。上吉田の直務回復を担当していた玉蓮院は現地の抵抗を排除するため、永正10年12月17日に武田元信宛の幕府奉行人奉書を得たが、先代官大蔵大輔の時に現地代官として武田氏家臣久村信濃守を任命する契約がなされており、武田氏もそれを支持していたから、武田氏や久村氏の了解を得ないで直務を強行することができず、幕府奉行人奉書はそのまま玉蓮院の手元にとどめざるを得なかった。そこで玉蓮院は同年12月19日に公家庭田重親に頼み込んで、先代官大蔵大輔が召放された以上、久村氏の現地代官もあり得ないことを述べた武田元信宛重親書状を獲得することができた。玉蓮院はこの重親書状を、現地武士で武田氏申次である平城元家に見せて善処を依頼したが、平城元家は申次は辞退したとして、この問題に関与することを避けたため、苦慮した玉蓮院は翌11年正月27日に広橋守光に相談した。守光との相談で玉蓮院は、とりあえず上吉田を久村に返し、そのうえで武田氏に直務実現を働きかけようと述べ、これが了承され翌28日には女房奉書が出されている。しかし内裏側はあくまで直務を主張し、武田元信も現地の農民らの申分を支持する態度を見せたので事態はいっこうに好転しなかった。そこで8月17日には再び地下人の違乱を止めよという女房奉書が武田元信宛に出されている。玉蓮院は、現地の代官らしい宗恵と結んで同11年10月18日付の女房奉書・庭田重信副状などを偽作し、武田氏家臣の松宮中務に対し、天皇即位料として1,000貫文上納すれば上吉田の知行をゆだねること、年々の返済分として上吉田年貢のうち100貫を差し引いてよいこと、利息200貫は内裏料所小浜の公用銭から支出することなどを秘かに取り決め、800貫文を受け取った。他方、同12年7~8月に上吉田の農民たちは、公家勧修寺尚顕を頼って訴えており、幕府奉行人松田長秀・武田氏雑掌吉田氏春らは内々に解決をはかろうとしていた。そこへ9月15日に松宮が先の密約を朝廷に申出てきたので、玉蓮院の謀略が明らかとなり玉蓮院は逃亡した。驚いた朝廷は玉蓮院を召捕り、松宮や宗恵を上洛させて真相を究明すべしとしている。結局永正10年から大永6年までの15年間「松みやに御かり物のかたに給る」ことで落着し、松宮は大永7年4月17日に約束の年季が明けたので年貢を納入すると述べている。この後天正8年9月7日までの上吉田は内裏料所として、少なくとも年間30貫の年貢銭、年始・歳暮の美物、鳥子紙を納めている。弘治2年(1556)6月22日付の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百卅文 上吉田村」と見える。
近世の上吉田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。安賀庄に属す。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年瓜生村の大字となる。
近代の上吉田は、明治22年~現在の大字名。はじめ瓜生村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北2町、戸数45、人口は男131・女116。


《上吉田の人口・世帯数》 158・47


《上吉田の主な社寺など》

春日神社

案内板がある。
由緒
所在 上吉田字瀨戸の下十七号
名称 春日神社
祭神 武甕槌命 斉主命 天児屋根命 比賣神
境内社 山神社 不動山(堂)
当神社は社記によれば天文二年(一五三三)八月大和の国(奈良)春日大社わり奉祀すると伝えられる。一説には山城の国吉田より勧請ともいわれている。往昔より街道沿いの神社として氏子をはじめ近隣の人達の信仰も篤く春日明神として崇敬の真をささげている。
昭和二年 本殿改築
昭和十七年 社務所建築
昭和五十一年 改築五十年祭執行


『遠敷郡誌』
春日神社 村社にして同村上吉田字瀬戸ノ下にあり、祭神は武甕槌命、齊主命天兒屋根命。比賣神にして境内に山神社あり、祭神不詳なり。

『上中町郷土誌』
春日神社 上吉田
同村吉田字瀬戸の下にあり、祭神は武甕槌命斉主命天児屋根命比売神にして境内に山神社あり祭神不詳なり。
社寺由紺記  上吉田村氏神春日大明神社萱葺五尺四面也 為レ差由緒不レ知略レ之   延宝三年    庄屋   太郎左衛門



浄土真宗本願寺派宮鹿山正覚寺


『遠敷郡誌』
正覺寺 曹洞宗諦応寺末にして本尊は阿彌陀如来なり、瓜生村上吉田字窪田に在り。

『上中町郷土誌』
正覚寺 浄土真宗 上吉田
本派本願寺はじめ現在の春日神社後方で創建され特にこの神社との関係が深かった為その山号も宮鹿山(きゅうろくざん)と名づけられたといわれている。宝暦年中に焼火したため創建並に系図などは不明であるが以前は真言宗の寺院であったがその後永正年間当時の住職祐言によって現在の真宗に改宗された現在の本堂は約一二〇年前たてられたものである。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


上吉田の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
上吉田
山岳岡陵の起伏なく四方皆田地である。昔吉田庄あり、上下の吉田の事であろう、文永二年田数帳には、領家新日吉講某二郎吉田庄十八町九十八歩地頭得宗御領所御家人伝領なりとあり。文亀三年権大納言三条西実隆をして武田元信を諭し御邑吉田の残銭を除かしむと、実隆公記にあるを以って見れば、当時は皇宗の御領たりしものであった。
字瀨戸の下に春日神社あり、祭神は武甕槌命斉王命、大児屋根尊比売神を祭る末社に山の神あり、寺院には西本願寺派の正覚寺あり。北川河原に踊場あり。八月十八日には近郷の老若男女来り集まる。昔此地を開墾せんとしたが、村間に悪疫流行したるを以て中止したという。


上吉田の伝説






上吉田の小字一覧


『上中町郷土誌』
上吉田区の小字名
奥田 下黒切 大橋 小田 白川作 山道 堂田 溝ノ上 荒シ皆 窪田 河河原 下砂田 中川原 上河原 丸町 向河原 瀬戸ノ下 樋ノ口 宮ノ下 外河原

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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