丹後の地名 若狭版

若狭

兼田(かねだ)
福井県三方上中郡若狭町兼田


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福井県三方上中郡若狭町兼田

福井県遠敷郡上中町兼田

福井県遠敷郡野木村兼田

兼田の概要





《兼田の概要》
北川右岸中流域の集落。東の加福六(上兼田)、西の兼田(下兼田)からなる。
建久7年(1196)6月若狭国源平両家祗候輩交名案のうちに包枝能太郎頼時の名が見える。伝説によれば兼田は武生から分かれたもので、もとは兼枝とも書いたという。
近世の兼田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年野木村の大字となる。
近代の兼田は、明治22年~昭和30年頃の大字名。はじめ野木村、昭和29年からは上中町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北1町余、戸数16、人口は男47・女53。同39年加福六(かぶろく)を編入。昭和30年頃上兼田・下兼田となる。
広い意味(含加福六)の兼田は昭和37年~現在の上中町の大字名。もとは上中町上兼田・下兼田。平成17年からは若狭町の大字。

加福六。
蕪六または加福禄とも書いた。天文21年(1552)3月21日に若狭に侵入した粟屋右馬允は「蕪六」を焼き払ったと見える。
近世の加福六村は、江戸期~明治22年の村。若狭国遠敷郡のうち。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年野木村の大字となる。
近代の加福六は、明治22~39年の野木村の大字名。明治24年の幅員は東西9町・南北5町、戸数10、人口は男44 ・ 女47。同39年兼田となる。

《兼田の人口・世帯数》 142・40


《兼田の主な社寺など》

日枝神社

神額がないよう、地域の案内看板には日枝神社とある。記録類には日吉と日枝がある。
『遠敷郡誌』
日吉神社 村社にして同村兼田字南街道にあり、祭神は大山咋命にして寶治年間勧請と傳ふ、元山王社と稱す。

『上中町郷土誌』
日吉神社 兼田字南海道鎮座(昔ハ街道ヲ海道トモ書イタ)
遠敷郡誌一二五頁に
一、日吉神社 村社にして同村兼田字南街道にあり祭神は大山咋命にして宝治年間勧請と伝う元山王社と称す。
大日木地誌大系 四七頁に
 若狭郡県誌に
一、山王社 在上中郡兼田村四月初中日有楽
一、社寺由緒記
一、兼田村山王権現 由緒の巻物御座候へ共文禄年中に称宜火災に逢焼失仕候由  由来相知不レ申候
    庄屋  治兵衛  以上
○野木村誌一六五頁に
一、由緒 宝治年間今から約七百年前に勧請した。もと山王大権現といひ日枝神社と書いた。四月初中日例祭を行ひ翁は武生村立合にて行った。
一、祭神 大山昨命を祀る 大年神 天知迦流美豆比売の御子で、また山末大主神とも云
一、社殿 天保年間再建した
一、古文書 当社氏神御殿及大破為再建造立仕度候依之御神事祝詞斗先格の通り於拝殿相勤可申候且又御講並村方振舞之儀は当年午年より戍年迄五ヶ年之間相止メ可申侯為右価銀七拾匁宛一講より御指出し可申候勿論御普請成就御殿御造営又ハ年限も相済み候へば御神事何事も先格之通り無相違相勤メ可申候    以上
        天保五年甲午年四月朔日
一、境内 二百三十六坪     以上



岩上神社

加福六集落の鎮守。幸耕寺の隣。
『遠敷郡誌』
岩上神社 村社にして同村兼田字宮ノ脇にあり、祭神は天稚彦命にして天福元年九月勧請と傳ふ。

『上中町郷土誌』
岩上神社 旧加福神宮ノ脇鎮座
社寺由緒記一二三頁に
一、氏神岩上大明神脇宮は山神
 由来「不」相知れ不申候
      加福六村庄屋 九左衛門 以上
遠敷郡誌一二五頁に
一、岩上神社 村社にして同村兼田字宮ノ脇にあり祭神は天稚彦命にして天福元年九月勧請と伝う。以上
野木村誌一六四四頁に
一、祭神 天津国王命の御子 天雅彦命を祭る。天若日子命とも書も神代の神なり。高御彦日神、天照大神の命を受けて八百万神を集め「豊葦原の中ッ国は皇孫の治むべき国なれども、荒振国つ神おほきゆえ、何神を遣はすべきや」と諮り給ひ天菩比神を遣し給ひしに、天菩比神、大国主神に随はし給へり、往時は岩神明神と称した。
社殿 天和三年再建
 古文書 天和三癸亥年四月朔日再建大工西津松原村増右衛門天徳寺村より米一俵寄進に来る       加福六  河原三太夫文書。
一、境内 二百七十九坪     以上
大日木地誌大系 四七頁に
 若狭郡県誌に
一、岩上神社 在二上中郡加福禄村一為彦神
        正月十一日 九月九日 祭日也    以上



曹洞宗医王山桂林寺

集落の一番奥。
『遠敷郡誌』
桂林寺 曹洞宗にして元正明寺末本尊は薬師如来なり、同村兼田字京ノ尾に在り、慶安三年正明寺住僧の創立と傳ふ。

『上中町郷土誌』
兼田村 桂林寺
社寺由緒記に
一、禅宗桂雲寺 本尊薬師御脇立十二神春日の御作と申伝候
         庄屋  治兵衛
遠敷郡誌に
曹洞宗にして元正明寺末本尊は薬師如来なり同村兼田字京ノ尾に在り慶安三年正明寺住僧の創立と伝う。
野木村誌に
(由緒)大字兼田に在り医王山という。滋賀県下当時の寺院明細帳に「慶安三年八月七日正明寺住僧創立トイフ」とあり。
(経塚)一石一礼経典塔あり。
古文書によれば
安永八乙亥年八月晦日□七ッ上刻桂林寺より出火仕而小左衛門類火にて御座候寺の分は結局少々も出し不申候
 本尊薬師如来様 脇立十二神様
 日光月光様 過去帳二つ 出申候
其外少々にても得出し不申候、住持無之鑑司円全和尚と申僧被居申候、病中にて御座候所ついにせんげにて候。来子の春より夏までに寺普請再建致申候。住持なく普請仕候、一前々には村中なかにて居地にて御座候得とも又々左様成焼失事御座候ては何分村方の情に難叶御座候間敷替仕候寺茶木畑にて御座候所切くづし殊の外、人足手間多く入、難儀什候得ども□て地居いたし建申候六月二十八日迄に成就いたし申候。夫より丑の春より造作に掛り申候。
(半鐘)為十方宝聖先亡後減菩提也
   慶応二?寅七月
      現庄看  唯雲代
若州上中郡桂林禅寺什宝
   施主  兼田村中
       武生旦那中
   発願主 東山孫太夫老父
   世話人 東山市太夫老父
    鋳物師金屋邑森吉右衛門
(開山堂)堂基礎工事の際、灰、炭、白骨等を多く掘り出した以前は埋葬地であったであろう。
(寺地)滋賀県下当時の寺院明細帳に所有地田壱反五畝弐拾歩畑弐畝拾六歩山林壱町三畝歩蔽拾四歩と記載あり其後田地は農地改革法実施により小作人の所有となった。



曹洞宗円通山耕雲寺

加福六、岩上神社の隣。
『遠敷郡誌』
耕雲寺 曹洞宗桂林寺末にして本尊は阿彌陀如来なり、同村兼田字山神の下に在り、寛文元年長泉寺僧創立と傳ふ。

『上中町郷土誌』
加福六村 耕雲寺
社寺由緒記に
一、阿弥陀堂 本尊立像丈三尺行基の御作と申伝候。自レ昔住持は無御座候外に由緒相知不レ申候
遠敷郡誌に
耕雲寺曹洞宗桂林寺末にして本尊阿弥陀如来なり、同村兼田字山神の下に在り寛文元年長泉寺僧創立と伝う。
河原三太夫古文書によれば左の記載あり。
 文亀三癸亥年二月十三日
  加福六村高書之事
 一、高  二十一石  正寿寺
又阿弥陀堂延宝四丙辰年四月十八日に再建仕候阿弥陀堂の旧位置明かならず。
野木村誌に
(本尊)阿弥陀如来
(由緒)円通山と号し旧加福六に在り、滋賀県管下当時における寺院明細帳には加福六村耕雲寺「寛文元年長泉寺住職創立トイフ」
(半鐘)銘なく鋳造の年月知れず。
なお文亀二年の文書には加福六村に昌寿寺という寺の存在を証している今も加福六に昌寿寺谷の地名もあり敷地跡という所も存している。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


兼田の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
加福六及び兼田
徳川時代の文書には加福六を蕪六または加福六と書いた。旧来は兼他と併合せられていて通称加福六を上兼田といい、旧兼田を下兼田と呼んでいる。
野木村誌にある「蕪六の焼打」 天文二十二年三月二十一日栗屋右馬亮という町人者江州大杉に来て武略を廻らし二十一日吉田村を焼き蕪六村まで火をかけ三方郡へ向ったので国主より宮川村大宇新保霞ヶ岳城主武田彦五郎を将とし山県宇野等の兵を遣わして数度の合戦に及んだことがあった。
兼田はまた武生から分れたともいい元は兼枝とも書いた。
東寺文書建久七年六月若狭国注進先々源平両家祗候輩交名事次第の内に包板太郎頼時と称するものがいた。包枝は兼田で交名とは数多の人名を書連ねたものをいうのである。
宝篋印塔のこと。河原三太夫の屋敷内に高さ約三尺の宝篋印塔が三基あり。
耕雲寺境内の無縁塚の中には相当立派な宝筐印塔の破損せるもの無数山積している、これなどは加福六の歴史を無言の裏に物語るものであるが何等実証する古文書は残っていない。また、昔の内道の傍にたもの霊木あり、根元には石地蔵が祀られている。


兼田の伝説

『越前若狭の伝説』
昌寿寺   (兼田)
昌寿寺は今は武生にあるが、むかしは兼田の加福六(かぶろく)にあった。いつのころかこの寺に怪異かあり、住職がおらなくなった。あるときふたりの武士が猟に来て、無住を幸い、この寺に泊った。ふたりか対坐して話しているとき、ひとりかいった。「もしこ
こに妖怪か現われたら、どうするか。」「武士たる者、刀の手前黙っていない。」「それではこれを見られよ。」言われて見ると、床(ゆか)板のすき間から毛のはえた手が出て、ひとりの侍の足をしっかりと握っている。相手の侍は驚いて逃げ去った。
残った侍に妖怪は話した。わたしは先妻ですが、後妻のためにしいたげられて、苦しみさまよっています。豪胆なお武家様にお願いします。やがて赤火と青火が立ち昇りますがら、青火を切り伏せてください。武士が承知すると、妖怪は手を放した。
やがて青火と赤火が長いなわのように立ち昇った。武士は一刀のもとに青火を切った。すると同時に火が消えた。しばらくして美しい女が現われ、武士の前にひざまついて礼を述べ、お礼の印にといって古い扇子箱のようなものを出し、「お帰りの後までけっしてあけてくださるな。」といった。
あけるなといわれると、かえって見たくなり、途中であけて見たら、紅ちょく(紅をいれたさかずき)のようなものが一つはいっていた。      (野木村誌)



兼田の小字一覧


『上中町郷土誌』
加福六の小字名
山崎 中溝 梨ノ木田 三田 高畠 下河原 定チン 苅畠 前河原 大塚 堂ノ前 宮ノ前 宮ノ脇 大水口 山神下 上屋敷 宮ノ上 角畠 大門 脇ノ山 井根口 荒振 向堺 上河原 脇ノ山谷

下兼田の小字名
内山越 地蔵 大坪 外山越 下藪田 道坪 上籔田 宮前 樋ノ口 下河原 芝ノ欠 上樋ノ口 下樋ノ口 嵐坪 南街道 西街道 滝ノ下 京之尾 滝ノ方 滝ノ上

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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