丹後の地名 若狭版

若狭

仮屋(かりや)
福井県三方上中郡若狭町仮屋


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福井県三方上中郡若狭町仮屋

福井県遠敷郡上中町仮屋

仮屋の概要




《仮屋の概要》
北川と並行する国道303号が走り、集落は北川支流仮屋川に沿う。三宅の一つ上流側に位置する。地名の由来は、往昔源頼光が大蛇を退治しようとして、この地に仮陣屋を設けて3年滞留したことによると伝える。
近代の仮屋村は、明治初年~明治22年の村。刈屋とも書いた。明治初年に三宅村から独立した。「若狭郡県志」によれば「合市場、小谷、沢田、仮屋、殿村、宮崎、山村等而為三宅村称三宅庄」とあり、江戸期には藩政上三宅村に含まれていた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年三宅村の大字となる。
近代の仮屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ三宅村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西10町余・南北2町余、戸数45、人口は男99・女109。

《仮屋の人口・世帯数》 111・36


《仮屋の主な社寺など》

八幡神社

集落の一番奥の高い所に鎮座。
『遠敷郡誌』
八幡社 祭神不詳にして三宅村假谷字椎谷にあり、大正七年に合併されたる三十八神社は祭神不詳にして元字東新田にあり、若王子神社は祭神不詳にして字若王子にありたり。
『上中町郷土誌』
八幡神社 仮屋
仮屋字椎谷にあり 祭神由緒共不詳
仮屋区には字東新田に三十八社同字若王子に若王子神社ありしが大正七年許可を得て当八幡神社に合祀せり。之を機として石造鳥居を建設し又社殿を改修して従前に比し其の壮厳と輪奐を整備し面目を一新した。


円通堂

八幡神社のすぐ下にある、何とも書かれていないので違う建物かも…
『上中町郷土誌』
仮屋観音堂の由来
三宅村誌に「仮屋区椎谷にありて一名円通堂と称す。堂宇創立の年月詳ならざるも、久永寺第十世大安和尚時代の建築に係ることが明かにして本尊観音仏を安置す」とあるがこれは誤りである。久永寺十世は大継玄旨和尚と云い晩年久永寺を隠退して当観音堂に移り寛政三年辛亥八月九日に示寂した。本尊観世音のそばにある小厨子心中に「久永十世当庵開山大継玄旨老和尚大禅師]と刻する位牌が安置されているので村誌に大安和尚とあるのは明らかに誤まりであることが知られる。なお堂山の峯に高さ約二尺五寸の自然石に「久永十世当庵開山塔、筆子中」と刻する石塔がある村人たちがこの和尚さんに字を習いその歿後にこの石塔を建てたものと思われる。また観音堂の墓地内に二基の一石一字の供養塔がありその年代は宝氷二年と正徳三年とである。開山大継玄旨和尚の歿年は寛政三年であり、その間には約八十五年の隔りがあることから見れば観音堂は玄旨和尚よりかなり以前から存在したものと考えられる。「観音堂縁起と称する今から二百三十年ほど以前に書かれたと思われる記録がありその冒頭に「古来合□雲寺と有之由申伝候得共何の印も無之候。今の長介屋敷と申す斗り也」と記されてあることから考えれば当観音堂創建以前に仮屋部落には寺院が存在したことは事実のようである。長介屋敷がどこであったかは判明し難い。伝説によれば本尊観世音像は久永寺十世であった当庵開山大継玄旨和尚が越後の国から背負って来られたともいわれているがはっきりしない。玄旨和尚は久永寺を隠退して当庵へ移られたのでこの説は何かの誤りかとも考えられる。当庵は玄旨和尚が新たに開いたものではなく古来からあったものでそのことは前にも記した二基の供養塔が現存することで証明される。また縁起の内に「後の堂は日向国よりじやくしやうと申する道心こし被成則ち今の観音堂おせわになりお立て被成候」と記されてあるのは注意を要することがらである。ぢやくしやうとは一石一字供養塔に次の如く刻してある。高さ約三尺の自然石にI「奉血書大乗妙典一字一礼全部正徳三癸己年十月吉日肥之後州沙門寂拝照写」縁起にある日向国ぢやくしやうとは肥後国寂照を意味したものでこの寂照和尚が当庵を建立されたものと考えられる。他に高さ約二尺五寸の自然石の供養塔に左の如く彫刻されてある。「大乗妙典全部茲時宝永二乙丙年八月初九日一石一字黙翁書写之施主宗参無庵」以上のことを考察すれば当庵は久永十世玄旨和尚がこちらへこられた以前より存在したものと思われる。爾後明治初年に至り久永寺十九世法重如山和尚が久永寺を引退して当庵に余生を送られ従来の茅屋であったのを瓦葺きの現在の堂宇に改築されたのである。如山和尚は明治四十年八月十四日当庵にて示寂された。なお当庵の無縁墓の所に一石一字の供養塔があるが、これは近年墓石統一のとき上之山(椎谷)の墓地より移転したもので高さ約二尺五寸の自然石に次の如く彫刻されてある。「奉書写大乗独妙経全部享保三戊戍夏施主庵主良梅恭書」以下略 因みに「円通」は「観音」の意味であり古来仮屋観音堂と称していたが如山和尚の時代に至って一名を円通堂と称えることになったのである。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


仮屋の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
仮屋
 仮屋は若狭路に沿う部落で熊川に隣る、地勢は南より東北に向って緩傾斜かなし、耕地を湿らすために河内谷より延々一里余の水路を守りてそそぐ。実に一大土工事を成就したのであった。委細は別項に記戴す。
 藩政時代草石高三万九十三石三斗一升九合、貢米は百九十三石三斗一升四合である。
 区の後山腹に八幡社を祀り、その境内は老杉老松鬱蒼として森をなし神厳更に深し。また区の東辺深谷はその名の如く春は渓谷美を、秋は千樹錦繍を色どる。伝説によれば往昔源頼光この地を通過仮の陣屋を設けて三ヵ年滯留せりと、区の名称仮屋もこれから出で八幡宮の御神体観世音の銅像も頼光の念持仏であったという。
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仮屋の用水(熊川井根の起原)
 仮屋部落の水田は三百年ほど以前には現在の県道より下の、北川流城までの区間は大部分が畑であったとのいい伝えがあり、いまの熊川井根灌漑用水は行方さん(若狭藩の郡奉行 行方久兵衛正成)が藩主の命によりて開鑿したものであるとの説があるが「仮屋観音堂縁起」のうちに簡単にではあるが、能川井根用水の記事が附記されてあるので、その概要を知ることができるのは、仮屋にとって極めて重要なことである。
 この記録によれば仮屋、三宅内村の人々が畑地を田に開墾したいと考えて、時の奉行所に願い出で、その許しを得て大鳥羽の大工与兵衛(後裔は大鳥羽に現存す、家名森下角太夫)に頼み水盛り溝筋つもりをしてもらい、御公義奉行衆見分の上、工事に着手し、元保十七年末の歳三年二十五日までに熊川用水を取り、同年七十石余りの畑が大かた
田作となり、稲の作柄も意外の上作であったとの部落民の喜びが記されていることは極めて注目すべきことがらである。
 因みに行方久兵衛は酒井家二代忠直の時代に三方郡の郡孝行となり、寛文二年の地震に三方湖辺の河流塞がり、湖水漲溢し惨状を極めたとき主命を奉じて、浦見坂の開鑿を計画した人で、仮屋の熊川井根の出来た元禄十七年よりさかのぼること約四十年前のことで、仮屋井根の開設説とは何等の関係のないものと思われる。
 さてこの熊川井根の開鑿がどこを起点として計画実施されたかは明らかではない。由来熊川は昔山間の一か部落であったが、浅野長政が熊川陣屋を創設し、木下勝俊、京極高次、同忠高らの時代に諸役を免除して町造りを進めた結果、次第に繁盛を見るに至ったのであるが、熊川の町中を流れる見ごとな用水路は多分町奉行等の力によって造られ、熊川の下の町を経て新道口辺までは早くから出来ていたものと思われる。
 熊川につづく一之瀬も沿道の部落として早くから開らけ、すでに浅野長政、木下勝俊の時代に、「一之瀬郡役免除」の文書があり、往来の馬の沓の用命を承ったために、郡役免許の指令が出されてあり、明治三十年頃まではおよそ二十戸あまりの民家が建ち並び、百姓のかたわら商工業も盛んであったことから見れば熊川用水は市之瀬の与四郎谷辺までは出来ていたものと一応考えられる。
 次に瓜生出口も明治の中ごろまでは民家が十数戸もあり、商工業を営んでいたので、あるいはこの辺(出口の谷)までも熊川用水が設けられていたかも知れない。かようにも考えられる節がある。ほんとうの仮屋の潅漑用水路の新設は、この瓜生出口以西であったかもしれない。確かな記録がないので実際を知ることは困難であるが、元禄十七年以降に出来たことだけは記録によって明らかである。
 熊川井根は河内川の下流、熊川小学校裏附近を取入れ口として水路を開鑿し、熊川の町中を通過している立派な用水路であるが、古来井根口は道木井根で洪水の度毎に流失し、仮屋熊川共同にて経費を切半負担して復旧する慣習であり、これが保持に容易ならぬ苦心が仏われたものであるが、昭和八、九年農村の被弊その極に達し時局匡救事業として、県費の助成を得て従来の道木式井堰をコンクリート堰堤の近代様式に改造し、半永久的施設となったのは関係民にとり大きな幸福であった。その後昭和二十八年の十三号台風による洪水の災害により大破したが、災害復旧の名のもとに、国費の助成により補強され、現在の如く完備されたことは仮屋熊川両区民にとり非常なる恩恵である。

仮屋の伝説





仮屋の小字一覧


『上中町郷土誌』
仮屋小字名
深谷 東三十橋 水田 向野 大杉 深谷河原 下大杉 下水田 中野 上中野 三十橋 森ノ下 花ノ木 関 下花木 堤 上中井根 新田 東新田 低山 小谷口 丸山 東山田 中井根 宮ノ前 村上 矢頭 天竺 板取 草川 盆勝 稗田 村中 椎谷 下椎谷 高木 一ノ坪 若王子 荒堀  東大窪 大窪 上河原 清水 下大窪 東出口 河端 河原崎 大窪前 大井根口 船川 西向河原

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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