丹後の地名 若狭版

若狭

北前川(きたまえがわ)
福井県三方上中郡若狭町北前川


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


福井県三方上中郡若狭町北前川

福井県三方郡三方町北前川

若狭国三方郡八村北前川

北前川の概要




《北前川の概要》
鰣川下流域で、三方中学校のあるあたり三方町のだいたい中央に位置する。
中世の北前河荘。
室町期に見える荘園で、滋賀県甲賀郡石部町の吉御子神社銅造齶口に「若狭国三方郡北前河庄□(極)楽寺鰐口也、応永二十三年丙申歳八月日、願主藤原允真敬白」とある。前河荘(南前河荘)に対応する地名である。応永二十三年は1416年。
前河庄は、北前川・南前川に比定される近江坂本日吉社領。のち盧山寺領となった。蓬左文庫所蔵の金沢文庫本斉民要術巻九・八の裏文書にみえる若狭前河庄事書によれば、当庄は日吉禰宜成仲石見介が、仁平2年(1152)8月、国司藤原親忠の免判を受けて開発したもので、同3年3月、不輸神領となった。立券荘号の時期は明瞭でないが、事書に載る応保2年(1162)5月の経盛朝臣請文に「於庄号者、可為勅定」とあるので、これをさほど下らない時期に勅定を受けたと思われる。なお確実な史料に前河庄が現れるのは、建保3年(1215)11月9日付後鳥羽上皇院宣(盧山寺文書)で「日吉社領若狭国前川庄、任相伝由緒、可令領掌之由、可被伝仰内侍局者、依院宣、執達如件」とあり、追伸として「任注文、可被成庁御下文候了、且為存知、如此被仰下候也、可令存其旨給者」とみえる。さらに事書によれば、建久7年(1196)若狭最大の在庁官人稲庭時定が所領を没収された時、跡は若狭忠季に給付されたが、その「随一」が前河庄下司職であり、「地頭之所務」をすることとなった。建仁2年(1202)この「忠季地頭職」は二階堂行光に移される。しかし元久元年(1204)再度忠季に返され、忠季の子津々見忠時に相伝された。忠季に関しては、寛元元年(1243)11月日付の六波羅裁許状(東寺百合文書)にも「定西申云、藍茜代銭事、次郎兵衛入道跡前河庄者、代々地頭之時、悉所勤仕也」とみえ、当庄地頭職が次郎兵衛入道若狭忠季跡とされている。文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写には新荘の一として「前河庄四十八丁五反三百五十歩」とある。建武3年(1336)11月25日付光厳上皇院宣(盧山寺文書)に「若狭国前河庄、知行不可有相違之由、院御気色所候也」とみえ、遅くともこの時点までに当庄は盧山寺領となっていた。この頃、当庄は南・北に並立したようで、文和2年(1353)10月4日付重久書下(同文書)に「若狭国前河南庄事」とあり、盧山寺領が前河南庄と記される。北庄がどうなっていたのかは不明。その後、応永17年(1410)10月2日付足利義持奥上署判御教書(同文書)などによっても、盧山寺領前河南庄が安堵されている。
弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「百五十文前川在所ヨリ山かた殿百姓」とあり、同年の明通寺鐘鋳勧進時入目下行日記(早稲田大学図書館蔵)に「百廿文 耳庄又前川・田井・さこ(佐古)・鳥羽方々四とまり使銭三十文其後又五郎使ニ路銭」とみえる。
近世の北前川村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年八村の大字となる。
近代の北前川は、明治22年~現在の大字名。はじめ八村、昭和28年から三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西5町・南北4町、戸数65、人口は男143 ・ 女142。昭和57年一部が中央となる。


《北前川の人口・世帯数》 282・104


《北前川の主な社寺など》

江跨(えご)遺跡

曹洞宗金光山宗伝寺

『三方町史』
宗伝寺
所在北前川五五-四。山号金光山。曹洞宗。本尊薬師如来。和銅、養老(七〇八-七二三)のころ。現在地の北東にあたる栄山に、天台宗として三十六坊を持っていた。しかし、その後非常に美しいるりの色がただようというので、山すその今古川のほとり迎寺(むかえでら)に移ったといわれている。やがて天台宗が衰えると、天文九年(一五四〇)九月に、北前川を領していた中村紀伊守が、越前の朝倉家の菩提寺である武生の盛景寺から、僧正模を招き、七間四面の伽藍を修繕して宗伝寺を開いたという。この寺の開山堂にまつられている位はいに、開基・心恕宗伝大禅定門、日峰妙珠大禅定尼、宗伝祖栄大禅定門・松岳妙林大禅定尼と記され、位はいの裏面には中村兵庫守と記されているが、永禄年間の北前川城主と思われる。
 開山正模は、佐柿の国吉城の粟屋越中守の子で四人兄弟であったが、越前朝倉家を頼り、朝倉家の菩提寺である盛景寺で四人とも出家したという。
 寺は、その後一時衰えたときがあったが、延享元年(一七四四)盛景寺十五世徹門によって再興された。また、延享五年(一七四八)五月十三日の夜半火災にあったが、寛延二年(一七五○)に、このかの七世粗鼎によって現在地に再建された。現在地の桂谷は、浦見川完成後成出へ出た中村七兵衛が寄進した土地で、中村七兵衛は準開基となっている。
 正模が開山して寺に入るとき、本尊の釈迦如来像を持って来だので、それまでの本尊薬師如来は、稲荷地籍に薬師堂を建ててまつっていた。ところが火災にあったとき釈迦如来像も焼けてなくなったので、本寺である盛景寺から観音菩薩一体と、大般若六百巻をもらってまつった。しかし、観音菩薩は本尊としては少し小さいので、観音堂に移し、改めて薬帥堂の薬師如来を本尊としてまつっている。
 この寺は開山してから四百五十年近くにもなるが、中村紀伊守が当寺開山の最大の貢献者であるのは、粟屋越中守の息女を妻に迎えた囚縁とされており、寄進した山は、百七十町歩(一七〇ヘクタール)と言われている。
 現住職正光(第二十四世)は、交通遭難精需供養および交通安全祈願を目的とした「交通安全祈願平成観世音菩薩」の建立を計画し、協力者を募り、たくはつに努め、像高二・一メートル、完成像高三・二メートルの平成観世音菩薩像(仏師長田晴山作写真187)を境内に建立し、平成元年四月七日に開限法要を行った。
 この寺の釣り鐘(光格天皇、文化十三年〔一八一六〕鋳造)は、太平洋戦争中、昭和十七年に供出されたが、昭和五十六年に再鋳造された。


『三方郡誌』
宗傳寺。曹洞宗北前川に在り。金光山と號す。開山を越前盛景寺六世規伯正模と云ふ、天文九年九月三日の創建なり、延享五年五月十三日火災に罹り、寛延三年九月再建す、今に盛景寺末なり


北前川城
『三方郡誌』
北前川堡址。北前川に在り。永禄の頃、中村秀成か拠りし處なり。又民家の傍にその宅地あり。今は田甫となれり。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


北前川の主な歴史記録


『三方町史』
北前川
この集落内の旧江跨(えご)川の東側で見つかった江跨遺跡は、昭和六十二年の発掘調布のとき、縄文時代中期の深鉢形土器(船本式)や、弥生時代後期から古墳時代初期にかけての、主に木製遺物が多く出土した(第二編第一章参照)。これによって約六千年前から人々が住みついていたことは明らかであり、また、約千八百年前には竪穴式住居や高床式倉庫をたて、小集落を形成して稲作農耕を行っていたことを物語っている。
 大田文に記されている前河庄は、北前川、南前川の地域にあったのであり(第二編第三章参照)、前河庄に関する古文書から、前河庄内野間村、前河南庄、南前河庄の字句が見られる反面、前河北庄、北前河庄などが見つかっていないが、前川庄は、野々間、谷内、北前川の三力村からなる荘園であったものと推察することができる。
 『三方郡誌』によると、永禄年間(一五五八-一五七〇)に、従五位下将監・兵庫介・兵庫頭・中村秀成が北前川城を領したとあるが、北前川宗伝寺の開山堂の開基の位はいの裏面に書かれている中村兵車守と同一人物であろうと思われる。城は愛宕山にあったといわれ、その跡地には愛宕神社の小さなほこらがあり、毎年七月二十三日には太鼓ばやしが奉納されている。宮の下地籍に経塚があったが、大正六年開通の国鉄小浜線敷設のため、その土は取られて畑になっている。
 北前川は、丹後街道に沿い、今古川をはさんで、小さな扇状地の上に点在している集落で、明治七年に、租税として敦賀県令に千百三十一円十三銭四厘を上納しており。明治初期の協議費(区費)や、支出の状況は表268・269に示すとおりである。また、明治十五年一月八日付けで、北前川村戸長が三方郡長心得須磨廣之あてに、北の鳥浜村境から南の南前川村境までの道路の長さの報告や、藩主酒井忠勝が植えた丹後街道の松並木の数(北前川地域七十五本)を報告している(北前川文書)。
 今古川(通称今川)流域の山地は、花コウ岩の崩れ落ちる地帯で、台風のある度に大きな災害があり、特に、享保十四年(一七二九)秋・文化四年(一八〇七)九月十七日・嘉永元年(一八四八)八月十二日・明治九年九月二十八日・昭和二十八年九月二十五日・昭和四十年九月十七日には、増水が甚だしく家屋に土砂が流れ込んだり、堤防が壊れて田畑がうずまるなど大きな被害が生じた。これらの水害予防対策として、神石(かみし)の上流三ヵ所に砂防えん堤を造った外、昭和五十年三月に神石から下流をコンクリート三面張りにし、また、小浜線から下流を鰣川まで直線に改修した。
 三方町役場庁舎を中心とする中央地籍は、北前川地籍の土地を、町が公共用地として買収したものである。昭和五十三年三月には迎寺(むかえでら)地籍に、多くの難問を乗りこえて町営斎場(火葬場)が完成した。以後、北前川老人クラブが毎月二十日の早朝清掃奉仕にいそしんでいる。


『三方町史』
江跨(えご)遺跡
遺跡は、鰣川流域平野のほぼ中央部に位置し、鰣川より東側の北前川八号江ノ際、九号南江跨、一八号畷ノ北、一九号畷ノ南などの水田に広く分布する。遺跡の中心は、旧江跨川より東側で海抜四メートルから六メートル前後の低湿地の水田である。
 発掘調査は、町教育委員会により昭和六十二年九月から十二月にかけ県営圃場整備事業にともなう範囲確認調査及び本調査として実施され、弥生時代後期末から古墳時代初頭の時期を主とする建築材、農具、運搬具などの木製品が多量に出土している。
 木製品を多量に包含する泥炭層は、永い年月の間にヨシ、木の葉等植物性遣物の有機物が厚く堆積し、湿原状を呈しながら現在の沖積地(水田)を形成している。この泥炭層の堆積状況を顕著に残しているのが旧江跨川より東側の低湿地の水田で、泥炭層は、上層と下層に分層することができる。上層は、奈良・平安時代頃と思われ、下層は、弥生時代後期末から古墳時代初頭に属する弥生土器が木製品とともに出土していることからほぼ同時期と考えられる。このことから、三世紀末の弥生時代後期末から、古墳時代初頭の頃に遺跡周辺が湖沼化し、当時付近にあった住居跡等の木製品が浮遊し、これが低地部分に沈み堆積し、さらに泥炭層が形成されていったと考えられている。
 また、当時の人々が竪穴式住居や高床式倉庫をたて小集落を形成し、稲作農耕を行っていた場所は、遺跡東側の海抜十メートル前後の徴高地付近と想定されるが、生活面の遺構検出まで至らなかった。
 出土した木製品は、表39のように八〇〇点あり、形態土から推定した建築材、土木材、農具、運搬具などに分類されるが、何に使用されたかはっきりしない用途不明の木製品も多数あり、全休の七五パーセントを占めている。これは、木製品の場合他の部材と組み合わせ一つの製品になることが多く、この断片及び未製品等も含まれているためである。用途が推定できる木製品では、高床倉庫の部材とも考えられる扉板状木製品(長さ一〇七センチ)、梯子(長さ六八センチ)、有孔板状木製品、運搬具の櫂、祭祀具の剣形木製品、陽物状木製品などがあり、これらは県内でもあまり出土例がない。これにより、出土遺物から当時の遺跡周辺の環境及び生活状況をある程度知ることができる。また、鰣川流域の沖積地の形成状況を知るうえに貴重な資料を提供し、古環境復元が可能な遺跡でもある。
 なお、遺跡の時期上限は、縄文時代中期まで求められ、下層泥炭層より下の砂層から船元式に属する深鉢形の土器が出土している。


北前川の伝説





北前川の小字一覧


『三方町史』
北前川
子待田(こまちだ) 孫迎(まごむかえ) 新川(しんかわ) 西江跨(にしえまたげ) 樋の口(ひのくち) 竹の腰(たけのこし) 五反田(ごたんだ) 江川頭(えがわがしら) 江の際(えのきわ) 深田(ふかだ) 東江跨(ひがしえまたげ) 四反田(よんたんだ) 呉田(くれだ) 今川尻(いまがわじり) 実登り(みのぼり) 三反田(さんだんだ) 井原(いわら) 中田(なかだ) 丑田(うしだ) 畷南(なわてみなみ) 久保(くぼ) 南境(みなみざかい) 古川(ふるかわ) 長坪(ながつぼ) 清水尻(しよずのしり) 畷北(なわてきた) 古立(ふるたち) 南広見(みなみひろみ) 北広見(きたひろみ) 長沢(ながさわ) 古沢(ふるさわ) 榎本(えのきもと) 横敷(よこじき) 今川(いまがわ) 茶屋川(ちゃやがわ) 清水本(しみずもと) 長筬(ながおさ) 鳥居の本(とりいのもと) 宮の下(みやのした) 村中(むらなか) 市の本(いちのもと) 橋本(はしもと) 河原崎(かわらざき) 沢(さわ) 稗田(ひえだ) 北野境(きたのざかい) 三方境(みかたざかい) 水谷(みずたに) 前上り(まえあがり) 雉子原(きじわら) 大森(おおもり) 石蔵(いしくら) 井根口(いねぐち) 森の上(もりのかみ) 桂谷(かつらだに) 門前(もんぜん) 笠屋花(かさやはな) 稲荷前(いなりまえ) 立畑(たちはた) 馬場の脇(ばんばのわき) 宮の本(みやのもと) 宮の谷(みやのたに) 愛宕山(あたごさん) 迎寺(むかえでら) 栄山尾(えいざんおう) 足谷(あしだん) 中彦(なかひこ) 布滝(ぬのだき) 高尾(たかお) 栗林(くりばやし) 児屋谷(こやんたん) 境界尾(けいかいお) 突抜(つきぬけ)

関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順


若狭・越前
    市町別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市

丹後・丹波
 市町別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2021 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved