丹後の地名 若狭版

若狭

熊川(くまがわ)
福井県三方上中郡若狭町熊川


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福井県三方上中郡若狭町熊川

福井県遠敷郡上中町熊川

熊川の概要




《熊川の概要》

九里半街道(若狭街道・鯖街道)の「熊川宿」がある。近世、近江国から若狭国への宿場町・町奉行所所在地として発展し、現在も集落はかつての街道沿いに細長く形成されている。松並木が消えたが・建造物・用水路(前川)がかつての面影を残している。北西流する北川に国道303号と旧若狭街道が並走する。旧熊川村の中心地域。近隣地域が農業地域であるのに比べ当地は商人気質の風が強く、農業世帯比率も低い。特産物は熊川葛。浅野長政の諸役免除書状など熊川宿の機能などを示す熊川文書3巻と熊川御用日記34冊などの熊川区有文書は県文化財。集落は古くから開けたという国境近くの大杉と、開発は室町中期以降と考えられる熊川とに分れる。

中世の熊川村は、戦国期に見える村。若狭国遠敷郡のうち。弘治2年(1556)6月22日付明通寺鐘鋳勧進算用状に「三百文 熊かハ松宮殿百姓」と初見し、瓜生村を本拠とし膳部山城主であった武田氏家臣松宮玄蕃允清長がこの地を支配していた。永禄元年(1558)5月25日に武田義統と対立した武田信豊は兵を率いて熊川に至り、翌日近江に赴いたという。永禄末年にこの地を支配したのは、室町期から瓜生荘下司を勤め熊谷氏の被官ともなっている沼田氏であったと思われ、沼田主計によって熊川城が構築され、その子勘解由が熊川城主であったと伝える。沼田氏の在城は永禄12年まで続いたようで、同10年足利義昭の若狭入国の際には熊川城に一宿したといい、また同12年5月には連歌師里村紹巴が「三里行て朽木殿より御馬いたされて熊川に付ぬ、沼田弥七郎殿御宿を被仰付」と沼田氏の計らいで熊川に宿している。これと前後して松宮玄蕃允清長との戦いがあり、敗れて近江に落ちた沼田氏に代わって、清長の子左馬亮が城主となったと伝える。元亀元年(1570)4月22日織田信長が越前侵攻の途中熊川に着いた時、若狭国内の諸将とともに「熊川松宮嫡子左馬亮」が出迎えたといい、信長は「若州熊河松宮玄蕃所」に宿したともいう。天正17(1589)年正月24日に浅野長吉(長政)は熊川年寄中に諸役免除と家を作るべきことを命じており、熊川年寄中は熊川が交通路上「大切之要害」であったとしている。戦国期の熊川は軍事的にも重視されていたが、やがて戦国期に関の置かれた大杉に代わり、宿場町として重要な位置を占めていくようになった。
近世の熊川村は、江戸期~明治22年の村名。小浜藩領。天正7年浅野長政は交通要衝の地熊川を諸役免除の地とし、熊川陣屋をもうけ町奉行をおき、宿場町としての発展の基礎を築いた。元和5年(1619)には土免所に定められており、免は七ツ五分。これ以降小浜湊に陸揚げされる北国からの輸送物を京・大坂へ送る街道筋の重要宿場町として栄え、最盛期には年間2万駄の通行をみたという。また酒井氏の時には、藩の貢租米を納める藏が12棟あり、近在の村々から3万俵の貢米が納められたという。寛永8年(1631)に河舟九右衛門の普請により、小浜~熊川間の北川に河船が運航された。「若狭郡県志」に「属瓜生庄、去小浜四里余也、有上新町、上町、中町、下町、下新町等之号其間農商之人家連于東西往還之駅也、又東有小村、号大杉村半熊川村之内而半属近江国高島郡是両国境界之処也」とある。
明治6年覚成寺隠居所に邏卒屯所設置。同17年熊川分署となり、熊川村・瓜生村・三宅村・鳥羽村の4か村を警備範囲とした。明治9年の職業別戸数は、農業36・商業41 ・旅籠屋16・諸職工24・山稼等18・日雇及方荷負稼67。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年熊川村の大字となる。

近代の熊川村は、明治22年~昭和28年の遠敷郡の自治体名。熊川・河内・新道の3か村が合併して成立。旧村名を継承した3大字を設置。熊川に役場を設置。村名の由来は、「新村撰定事由調」によれば、「熊川ハ合併村中ノ大村ニシテ、且其名遠近ニ通ス、故ニ之レヲ採ル」とある。農林業のほか商工業も盛んであった。大正4年の職業別戸口(本業)は、農業142・養蚕業56・林業5・工業27 ・ 商業66。明治27年若狭地方と京都を結ぶ小浜鉄道(小浜~大津間、小浜~舞鶴間)と若狭鉄道(熊川~敦賀間)の鉄道敷設計画が起こった。翌28年には両計画を合わせた小浜鉄道株式会社として運動が活発になり、当村では村を挙げての運動となったが、資金面から同33年仮免許の返納のやむなきに至った。大正7年小浜線が鳥羽・瓜生・三宅村を通って小浜まで開通して以降、過疎化が進行した。昭和29年1月1日上中町の一部となり、当村の3大字は同町の大字に継承。

旧村役場。今は「宿場館」として、宿場関係の資料など展示している。

近代の熊川は、明治22年~現在の大字名。はじめ熊川村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西17町余・南北1町余、戸数220、人口は男536・女548、学校1。熊川村役場・熊川郵便局・小浜警察署熊川巡査部長派出所などの所在地。近世宿場町の当地は、商工業を主とし農林業・養蚕業を従としたが、若狭街道の衰退とともに商工業は衰え過疎化した。現在は観光地として新たな発展の歴史を歩む。


《熊川の人口・世帯数》 488・99


《熊川の主な社寺など》

白石神社

鯖街道に面して鳥居がたつ。背後の山の上に熊川城。当社参道が大手道。右に得法寺、左に覚成寺がある。要塞のような構えになっている。



舞殿と後に本殿。ここは元は城の郭があったのであろう。城跡を社地としたものであろう。
『遠敷郡誌』
白石神社 指定村社にして元は白石大明神或は白石明神社と稱し、三社相並べりつね祭神不詳にして同村熊川字宮ノ下にあり、境内の白髪神社は近江より勧請せりと傳ふ、稲荷神社は祭神倉稻魂神讃岐神社は祭神酒井忠勝にして若狭の領主たるに及び治績大に挙がるを以て村民其徳澤を感じ、没後其靈を祀ると云ふ、合併されたる神社三あり、白石神社は元高島境にあり、祭神不詳にして明治四十二年合併、山祗神社は祭神大山祗神にして字鳥居前にあり、稻荷神社は酒井家臣勧請して字上ノ山にありしを共に明治四十三年合併さる。
『上中町郷土誌』
白石神社 熊川
若狭郡県志
在二上中郡熊川村一二社相比並各号二白明神一未レ詳レ為レ何二神一也伝言一社者自二伊勢国山田郷一勧請之也一説祭二白鬚明神一云限二熊川村中町半東一至上新町為二産神一社自二大和国一勧請二之云則限二中町半西一至二上新町一為二産神一社自二大和国一勧勧二請之一云則限二中町半西至二一下新町一村民之産神也六月十五日為二祭日二古十一月七日有二神事一此日領司方東西分取二大綱之両端一互引レ之而決二勝負一知二一年之吉凶一是謂二綱引一相伝其引勝方其歳万事吉也今此儀絶又或一説云本郡上根来村鎮座白石大明神而所祭也
即祭神若狭彦神也矣、
諸説あれども明治四十五年三月の調査に白石神社は若狭彦神を勧請したるものにて、祭神は彦火々出見尊白鬚神は近江滋賀郡鵜川の白鬚明神を勧請せしものなり、白鬚神社は垂仁天皇二十五年の創立にて皇大神宮伊勢遷座ありし歳にして祭神は猿田彦命なり、讃岐神社は若州小浜藩祖酒井忠勝公を祀りさきに村社の傍に小祀を建て在りしが明治四十五年三社併合山の神を併せて四神を祭祀す、古昔は熊川中条の巌の上に鎮座なりしを年月不詳今の神地に遷せしものなり。なおここに記すべきは末社として山の社、祭神大山祇命稲荷明神の二社ありしが、外に御陣屋地に御陣屋稲荷と袮へ奉祀しありしを、明治四年陣屋廃止に際し白石神社の社地にて大杉部落民の産土神なりしが、明治四十二年一月熊川白石神社へ合祀し其跡に標柱を建てり。
社寺由緒記 五尺四方の社に而御座候 往古従二伊勢山田一勧請仕候と申伝へとも縁起由緒不二相知一候 社領も三反余有之候え共大閤様以来社領無レ之禰宜は時の庄屋仕候
 延宝三年九月晦日
   庄屋 勘兵衛



松木神社



元は小浜藩の御蔵屋敷であった所。高い所でここなら水の心配もない。御蔵屋敷とは近郷の年貢米を収納するための倉で、ここには12棟の米蔵があり、3万俵を収納することができた。付近に蔵奉行屋敷があり、収納を司った。年貢米はここから人馬により木津を経て船便で大津へ出荷したという。
御蔵屋敷跡 町指定史跡
旧小浜藩の上中郡四十三ヶ村、三方郡十八ヶ村の年貢米三万俵を収納するための土蔵で十二棟を建設し、二人の蔵奉行が常駐した。この蔵米は背負人夫により木津(こうず高島市)より船で大津へ送られた。現在は松木神社の境内地となっている。


その跡地に、義民・松木庄(荘)左衛門(長操)を祀る当社が昭和8年創建された。近世初頭、京極氏の支配を受けることになった遠敷郡の人々は、年貢の増徴に苦しんでいた。特に大豆の租率の上昇は、人々の暮しに深刻な打撃を与えた。京極氏の転封後、酒井忠勝が小浜藩主となったが、年貢率は京極氏の時代のものを引き継ぎ、人々の生活は楽にならなかった。これに対し農民たちは、寛永17年(1640)領内252か村が協議のうえ、新道村の庄屋であった松木荘左衛門(長操)ら20人余が代表となって領主に強訴を行った。荘右衛門らは、数10回、9年間にわたる投獄にもめげず嘆願を繰り返し、その結果、ついに租率は下がり、農民たちは少しの安楽を得ることができた。しかし荘左衛門は強訴の罪により、承応元年(1669)磔刑に処せられた。領主の酒井忠勝は江戸でこの報を聞き、特赦にしようとしたが処刑が終ったあとであった。農民は荘左衛門の徳をしのび、その年取れた新大豆を霊前に供えたと伝えられている。当社に松木神社に霊が祀られ、処刑場の日笠には記念碑がたっている。


浄土真宗本願寺派庵谷山得法寺

白石神社の下手にある。案内板がある。
浄土真宗本願寺派  庵谷山 得法寺
縁起
傳えるところによれば開基は北条義時の子、比叡山西塔慈円房須知(すち)。嘉禄二年(一二二六)阿弥陀仏を本尊として庵を結んだという。天台宗であったが、文明七年(一四七五)改宗。本堂は宝暦六年(一七六五)改築。
宝物
一、後水尾天皇御宸筆 紙太墨書(町指定文化財)
一、宝鏡寺宮御親筆 庵谷山山号額紙本墨書
一、蓮如宇上人御染筆船路の名号(町指定文化財)
一、日野大納言藤原資愛卿鑑定状
蓮如宇上人旧跡
文明七年蓮如上人越前より帰洛の途中、当寺に逗留されその節「舶路の御名号」をたまわった。また「八房の梅」の小枝を庭前にさし大樹となったが、その古木は枯れ今の梅の木は、その種子より生じたものという。
家康腰かけの松
元亀元年(一五七〇)四月徳川家康は織田信長に従い朝倉氏との戦いの節、当寺に宿泊したという。境内にある松の巨木は「家康腰かけの松」といい伝えられている。
沼田氏供養塔
当寺の墓地に室町時代末に建てられたと思われる層塔があり、熊川城主沼田氏の墓といわれている。 以上


『遠敷郡誌』
得法寺 眞宗本願寺派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村熊川字倉下に在り、往古天台宗にして開基慈圓坊順智一條時の三男也と傳ふなり、初順智叡山に在り、嘉祿二年遠敷神宮寺の薬師に詣でんとして當地に於て彌陀佛像を感得し草庵を結び住せしが、嘉禎三年源空に歸依したり、文明七年蓮如の當地に来るや時の住持順照其教化を受けて眞宗に改むと傳ふ。

『上中町郷土誌』
庵谷山得法寺 真宗 熊川
真宗本派本願寺末なり開基は北条義時の子にして比叡山西塔慈円房順智なり。元天台宗にして嘉禄二丙戊戌年六月当国遠敷郡神宮寺の薬師如来へ心願ありて参詣し熊川に來て日没す神木谷の小家に宿す其夜霊夢に白髪の老翁來りて 我は彦神白石なり。吾本地西方浄土の立像この谷の社内に在りて汝を待つこと年久し。明けなば尋ね来りて仏果の導師となるべしと告げて消え失せ給ふ。須智感嘆肝に銘じて谷を溯り尋ねければ金色の光明赫耀たり。走りよりて小社の扉を開けば丈け二尺の阿弥陀仏の尊像魏々として在します。須智感涙袖をしぼり麓に庵を結び本尊を信仰し偏に念仏して西方の往生を願ふ。年積り病に臥し元西塔の了信という親族の僧あり招いて本尊を譲り終に念仏相続して六月十五罷七十八才にして往生せり。依りて了信本尊を守り念仏の行者となり弟子須玄須了、須昭と次第して相続す而して須智親鸞上人の高得なることを聞知す。且つ源空上人の高徳を慕い嘉禎三丁酉年須智上京洛東の禅室に詣りて浄土の法門を聴聞して入信歓喜し即ち師弟の契りを結び、阿弥陀仏の小像を拝受して帰りしも改宗の素志を果す能わずして没す。その弟子須昭血脈相承し文明七年八月蓮如上人越前より帰洛の節、当国小浜へ御着船当山に暫く御逗留あり。往時須照懇に御教化を受け直ちに改宗し易行の法に因みて徳法坊の徳の字を今の得に改む。また阿弥陀仏画像を頂戴す開基須智已に改宗の意志ありしを二百三十八年の後に至りて須照之を果す因って須照を以って中興の祖とす。爾来得法房を称し来りしを准如上人の御代に寺号を許さる。なお同寺は旧大杉の西方谷に在りしが現在の地へ移ったものといわれ現今の寺の境域は、沼田勘解由の屋敷跡といい伝えられ古い印塔は同氏の墓ともいわれている。
〔礼寺由緒記〕
熊川村 得法寺古へは真言宗に而候処教准と申沙門退転にて坊主斗居中処を取立其後長禄元年に本願寺存如上人へ令二皈依一又文明之比蓮如上人実如上人より得法寺准照と法仏之裏□被レ下干レ今安置仕候。則敷地は古より年貢無レ之侯。山林竹木諸役御免許之制札は浅井弾正様己来頂戴仕侯
  延宝三 卯九月晦日
       庄屋  勘兵衛



浄土真宗本願寺派清城山覚成寺

白石神社の上手側にある。
『遠敷郡誌』
覺成寺 右同寺派同本尊にして同村熊川字宮下に在り。

『上中町郷土誌』
清城山覚成寺 真宗 熊川
 往古は真言宗にて久敷荒廃し寺中は住僧のみなりしが文明七年八月輦鐃上人得法寺へ来偏あり。時の住僧権蔵坊慶西なる者蓮如上人に帰依し改宗して寺坊を修理し真宗覚成寺と改めしが享保十九甲寅年九月二十二日火災に罹り宝物諸記録等焼失し後再建し今日に至るも其由緒歴の記録を存せず。
〔社寺由緒記〕
熊川村覚成寺(西本願寺宗)当寺古へは真言宗にて大同元年之閧基也久く及二大破一寺中之坊主斗居候由、然る所蓮如上人仏法勧化に諸国巡廻被成候由 当寺権蔵坊と申坊主本願寺を令二皈依一宗門に入号二覚成寺一其後寛永之頃二大火事ニ而町中不レ残炎焼仕候処覚成寺計残候然るにこの寺地は往古□□□□□備之後胤安部晴明祈願之地に而従□□□終火難無之と申伝候 依之此義先年京極様被レ為聞□□□屋敷也 其寺地を御茶屋々敷と可被レ成と有仰段々御断申候へ共御茶所とふり替地と成候 其節米三十俵被レ下寺建立仕候 山林竹木請役免許ハ従二浅野殿一以来不二相替一御赦免と御座候
  延宝三 卯九月晦日
     庄屋  勘兵術



熊川城
熊川宿の南西側の山頂にある。
この図はいたる所に掲げてある。→

白石神社本殿から登れる。頂上の主郭まて゜15分くらいと書かれている。

 熊川宿の南西に、標高420.8メートルの山嶽があり、そこからから東に延びる枝峰(180メートル)に主郭がある。中世後期の山城。城はくの字形に延長170メートル、最大幅20メートルを測る連郭式で、中段には白石神社が鎮座する。東は河内川によって阻まれ、東西両側面は急斜面である。近江方面への備えとして築城されたと推測され、九里半街道の近江側しか望見できない。そのためか小浜方面が望める熊川の西端(新道地籍)標高215メートルの山頂に出城が造られている。
城主は観応の擾乱以後足利尊氏に属した沼田氏が瓜生下司職を得て土着したと伝えるが明らかでない。城は戦国期に通常みられるもので永禄年中に築城された可能性が強い。永禄12年(1569)3月膳部山城主松宮玄蕃との戦いに敗れて落城、沼田氏は近江に落ちたと伝えるが、それ以降も在城したらしく、永禄12年5月連歌師里村紹巴「天橋立紀行」には「沼田弥七郎殿御宿を被仰付」とある。また「継芥記」元亀元年(1570)5月1日条に織田信長が越前より退散のとき、一族であろうか沼田弥太郎が案内したことを伝えている。沼田氏は細川幽斎の縁者でのち細川家臣となった。城は天正12年破却された。

『上中町郷土誌』
熊川城址
 熊川を以って食邑とした沼田勘解由の居城で大正十二年破毀す。熊川の西方新道区に城山と袮する所がある、西嶽山脈より突出し熊川街道から百三十米の山上に千坪許の平坦地で小浜地方まで展望出来る景色、絶佳る所である。



熊川宿

天正15年(1587)若狭を与えられた浅野長吉(長政)は、当地を重視して熊川を宿駅と定め、同17年正月24日付の判物を出して諸役免除した。簡単に言えば無税特区。これによって同年中に熊川の戸数は200戸に達したという。さらに熊川陣屋を設けて町奉行を置き、宿場町の基盤を築いた。その後も諸役免除の地とされ、小浜藩主京極氏は慶長6年(1601)9月、「従高島在々熊川へ入馬之事」という事書をもち3ヵ条からなる控書を、熊川ならびに高島郡馬方惣中に発している。以降熊川は宿場町として栄え、小浜湊に荷揚げされた北国米や海産物その他は当宿を経て近江今津から京坂へと運ばれた。最盛期には1ヵ年20万駄の貨物の通過をみたという。熊川宿は近江との国境近く、小浜を去る四里、東四里にして江州今津に至る、酒井氏領国の時まで関柵有りき、という。小浜と今津のほぼ中間点に位置し、若狭街道随一の宿場町として繁栄した。
また小浜藩酒井氏時代には土蔵12棟を建て、領内のうち70ヵ村から3万俵の貢米を収納した。なお寛永8年(1631)以降、北川の川普請が行われて、小浜-熊川間の川舟往来が可能となり、諸物資を運んだが、正徳年中(1711-16)には下流の神谷までとなった。番所跡↓

しかし江戸中期以降は、北前船の西廻航路の開発で北国物資の小浜湊回漕が減少し、宿場町としては衰退。関所は昭和40年頃まで建物が残っており、街道筋は現在もかつての宿場町の面影をとどめる。
その後も鉄道の開通やモータリゼーションの影響で街道は衰退し、近年の戸数はピークである江戸時代中期の約半分である。
地区内には瓦葺き、真壁造または塗籠造の伝統的建築物が多数残る。また、街道に沿って前川という水量豊かな水路が流れ、石橋や「かわと」という、洗い場と呼ぶものか、などとともに歴史的景観を残している。 この用水は下側では農業用水に利用される。

平成8年、若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されてた。また、平成27年、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 - 」の構成文化財として日本遺産に認定された。
電柱がない、街道も土道風に舗装され広い、建物は改築されたのかワラ葺がなく、崩れかけた古い建物もない。街道松がないが、元々なかったものだろうか。


動画


一番上手に道の駅「若狭熊川宿」がある。

「若狭町の文化財」
【若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区】【国選定】
昭和五〇年(1975)の文化財保護法の改正により、新しい文化財種別として、「伝統的建造物群保存地区」が誕生した。これは、戦後、さらに高度経済成長期において、わが国のその地域風土の中で培われてきた生活文化を背景とする伝統的な建造物がどんどん失われるなか、地域地方からの保存運動が生み出した文化財である。
これには、住民の町並み保存に対する同意が前提となっており、住民の主体的意思を尊重した、世界的にみてもユニークな町並み保存の取り組みといえる。
現在、全国では七九の保存地区があるが、福井県内で唯一「若狭町熊川宿」が選定されている。
熊川宿は、国道の南側約一・四キロメートルにわたる旧街道沿いに、約1・1キロメートルにわたって軒をつらねた町並みを形成している。西端から街道を意識的に曲げた「まがり」までを下ノ町、さらに河内川までを中ノ町、そして近江側を上ノ町とよんでいる。町並みの特徴は、街道に面して多様な形式の建物が建ち並ぶことであり、町家の間に土蔵がまじり、「平入」と「妻入」、「真壁造」と「塗込造」の建物が混在していることである。この熊川宿の美しさを約言すれば、程よく迫った緑なす山々を背景にして、幅の広い街道に沿って清々しい水音を奏でる前川の流れと、屈曲し勾配のある街道に重層して存在する多様な建造物の甍、これらの美しい調和にあるといえよう。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
松木荘(庄)左衛門(長操)
福井県遠敷郡上中町松木神社の祭神。義人。若狭小浜の領主京極氏により、築城のため大豆増税となったが、新道村庄屋であった荘左衛門は、寛永十六年(一六三九)以来、若狭国内二百五十余村の大豆減免闘争の先頭に立った。後、新領主酒井侯に減税の願ひは許されたが、強訴の罪状により承応元年礫刑に処せられた。以後、荘左衛門への敬慕の情が高まり、昭和八年に至り神社が創建される。(『日本神名辞典』(神社新報社・平7))

沼田氏
熊川城主の沼田光兼の娘・麝香(のちの光寿院)は藤孝(幽斎)の妻で、その子が忠興。
沼田光建、光兼、光長と熊川に在城するが、丹後の関係でいえば、光長は将軍義輝の生害の御供討死、熊川城は余党に攻められ落城し、一族は丹後宮津、日置城にのがれた。後に一色配下となり、やがて中山城主となったのが光長の弟の清延(幸兵衛)である。
幸兵衛の妹が麝香。建部山城、中山城の戦いでは幸兵衛が一色を裏切ったという、しかしこうした関係ならどうしようもなかろう。裏切らなくとも織田軍に攻められては、あれくらいの山城では勝ち目はまったくない。


熊川の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
熊川区の沿革
往昔熊川区は瓜生庄の中で四五十戸ばかりの僻村で耕地僅かに田畑合わせて三十三町余、山畑(ころび畑)十八町を以って生業としていた。大杉は熊川より早く開発せられた地で、元弘年間に関所を設けて往来を監視したとの説もある。鎌倉時代から元関東沼田家の一族たる沼田氏が熊川を領有し数世の後武田氏の麾下に属した。
永禄十年八月十八日に足利義昭、細川藤孝が今津から小浜城に行く途すがら沼田勘解由の熊川城に泊したことがあり、元亀元年四月廿日織田信長秀吉家康をしたがえて、朝倉征伐の時に熊川に宿泊したという。其時家康公は得法寺に一泊せられた。
天正三年三月この沼出勘解由は瓜生松宮玄蕃と戦を生じ庄司谷の用水を断れて敗北し丹後田辺に走り去る。後細川忠興に仕官し世々細川家の老臣となるという。
浅野長政若狭の国司たるにおよんで、軍事上交通上の必要と認め、宿場駅の設置の為め公課免除の地と為し、戸数の蕃殖を奨励せられたので俄然二百有余の民戸とはなった。熊川宿場は小浜港に上げられた諸国の米其他の貨物中継宿として必要地で、一ヶ年に二十万駄も通過する殷賑さであった。
浅野侯は熊川陣所を創設して郡奉行を置き木下勝俊、京極氏から酒井侯も亦熊川大杉を合わせて諸役免除の地となし、ひたすら宿駅の発達を援助し倉庫十二戸前を建設して七十ヶ村から貢米を収納することその数三万俵以上にも達した。
 尚熊川に付いての委細は膨大な熊川文書の記録があるので、次に藩政時代の変遷概況と交通の移り変わりを掲出する。
藩政時代の熊川の変遷をたどる年表
○ 延暦年間平安遷都の際河内から馬の鞍骨を献納しおほめをいただいたとの伝説がある。
○ 元弘年間大杉に関所がつくられたという伝説もあるが記録なし。
○ 永禄(室町時代)十年八月十八日将軍足利義昭及細川藤孝が小浜へ行く途中沼田氏の熊川城に宿泊した。
○ 元亀元年四月二十日織田信長が越前朝倉氏を討っために、後の豊臣秀吉徳川家康をひきつれて熊川を通過し、この地方の豪族が山中まで出迎えた、信長は熊川城に二泊し徳川家康は得法寺に泊った。
○ 天正三年三月熊川城主の沼田氏は瓜生膳部山の松宮玄蕃と争い敗れて丹後方面に遁げた。
○ 天正十一年熊川城をこわす。(秀吉の命に依り山城を壊す)
○ 天正十七年一月領主浅野長政から熊川諸役(いろいろの税など)が免除された。そのため俄かに戸数がふえ、すぐ二百戸を越えたという。
○ 文禄二年木下勝俊若狭の国司となり、浅野氏と同じく熊川町の諸役免除をなしその発展をはかる。
○ 慶長五年(家康のはじめ)京極高次若狭の藩主となる、浅野氏と同じく熊川の保護発展をはかった。
○ 寛永十一年譜代の重臣酒井忠勝小浜藩主となり、以後代々熊川の保護発展に努力した。
○ 承応元年五月十六日松木長操子年賁の軽減を藩主に訴え、そのために日笠河原で処刑された。
○ 天保年間河内から鷹司家へ馬の鞍骨を献上した。
○ 明治二年藩籍奉還された。
○ 明治四年廃藩置県小浜県となった。
○ 同四年十一月当地方は敦賀県となった。
○ 藩主酒井家が東京へ移住出発の際熊川より銭別したが受取らず、かえって町民各戸へ錢一貫文ずつ賜った。
○ 明治九年滋賀県に合併された。
○ 明治十四年滋賀県よりはなれて福井県となる。(遠敷郡誌による)

熊川より各方面へ交通の変遷概況
京都を中心に裏日木山陰北陸の地、日本海々岸よりの近距離で一日に到達するには熊川駅を経て、西近江路の一筋あるのみ、熊川駅は小浜港を距ること四里半、滋賀県高嶋郡三谷村保坂の分水嶺を越え、其所から又四里半にして琵琶湖岸今津駅に至る。それより大溝、木戸、和邇、堅田、大津を経て京都に達し路程二十里、又保坂より間道、朽木、細川、坊村、坂の下、途中、山城峠(近江山城国境)大原八瀬を経て京都に入る、路程は熊川より十五里となる。
北は新道越(芝峠)を経て丹後街道に通じ三方へ三里半早瀬日向へ五里、西田村は三方湖を経て五里、西北田烏へ四里、西は小浜港へ四里半、和田漁場七里、高浜へ八里にして右各漁村より京都へ通ずる最近距離に当るを以つて各漁場の朝漁、鮮漁類は熊川ヘ十時乃至十二時迄に着いたものは、翌日京都の朝市に掛かる便あるが故に、此荷物十二貫目乃至十五六貫目のものを正午に熊川を出発し、山城峠の南大原村小出にて小揚(助荷物)の助力を得て京都の朝市に掛かった。塩魚は今津港より大津へ住昔は和船なりしが明治六年頃より汽船で輸送することとなった。又小浜より京都市内べ直送する魚類は荷を担ぐ「がっつり」と称する人夫あり、依って往古は奥丹波、舞鶴、宮津、峯山地方の荷物は大阪発の物も熊川を経由し北海道産物、越後、加賀の米、大豆、因州、三丹各藩の蔵米等京都への輸送も又熊川駅を通過した。
 明洽二十二年滋賀県水坂峠開穿工事に当りその工事費五万八千円の内滋賀県二万三百円福井県三万七千七百円を投じ竣工したり。尚大津より小浜に至る江若鉄道の創建せられるに当り其の速成に種々尽力奔走したのであるが資金其他の事情により今津駅にて止まり、小浜湾に達する此最近距離が達成せられなかつたのは誠に遺憾至極であった。

熊川の伝説

『越前若狭の伝説』
権現さま  (熊川)
むかし熊川の上の丁の道に白い石が現われた。その石はわら打ちにちょうどよいので、方々の人が来てはわらを打った。ところがこの石が現われると、熊川に火事が起る。小さい石のときは、小火事、大きい石のときは大火事である。あるとき岩のような大石が現われて、熊川区はほとんど全焼した。
そこで数十年前村の人が相談して社を建て、白い石を火の神・水の神として祭った。それからは火事が少しも起らないようになった。村の人はこの神を権現さまと呼んでいる。  (福井県の伝説)

得法寺     (熊川)
織田信長の越前朝倉攻めには、秀吉も家康も参加した。信長の軍勢は西江州がらこの熊川を通って敦賀に向かったが、「信長記」などによると元亀元年(一五七〇)四月二十二日に信長は熊川の松宮玄蕃(げんば)の所に一泊したとある。このとき徳川家康は熊川の得法寺に泊まったという。また家康が得法寺で根元の曲がった松に腰を掛けたといい、今もその境内の一隅にある老松を家康の腰掛け松と呼んでいる。
現在、この得法寺の宝物の中に、後水尾天皇のご宸翰(しんかん)といわれる「東照大権現」の掛軸がある。これは家康をまつる日光東照宮の陽明門に掲げられている額の文字と同じものである。家康が朝倉攻めの際に得法寺に泊まった縁故によって、後水尾天皇の下書きされたものを九条家から得法寺へ賜ったものであるという。得法寺という名も徳川家康にちなんで付けられたもので、初めは徳法寺と書いていた。        (永江秀雄)



熊川の小字一覧


『上中町郷土誌』
熊川小字名
境谷 高嶋堺 大杉 近江境 林ノ谷 乗鞍下 伊良谷口 道ノ下 風呂屋谷口 辻堂ケ谷口 犂頭 朽木田 大清水 馬飼戸 御田 岡之下 松木谷口 狐塚 橘町 岩下 上ノ段 長谷 小黒見 蔭ケ岨 鍛冶屋畑 鋸川 西川端 大滝川原 曽祖父谷口 宮ノ下 上ノ山 西谷 倉之下 西新町 金ケ崎 北庄 北新町 蔵之前 中条 上丸岩 三段畑 ?ノ木 下丸岩 河原田 横道

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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