丹後の地名 若狭版

若狭

倉見(くらみ)
福井県三方上中郡若狭町倉見


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福井県三方上中郡若狭町倉見

福井県三方郡三方町倉見

福井県三方郡十村倉見

倉見の概要




《倉見の概要》
旧三方町の一番南、国道27号倉見峠のある集落。鰣川上流域、三十三間山西麓、三十三間山登山道の入口に位置する。
中世の倉見庄。
鰣川の流域、倉見付近を中心に、北方常神半島西浦の一部をも含む荘園。
建久7年(1196)6月の若狭国御家人交名案に「倉見平太範清」が見え当荘の武士と考えられるが庄名の初見は嘉禎元年(1235)12月15日付若狭国日吉神人拒捍使所宛の延暦寺政所下文写(大音家文書)は「可早停止当国倉見庄乱入狼籍事」として倉見庄雑掌の解を引くが、それによれば、当庄は新日吉(いまひえ)社の所領としてすでに数十年来、油役を勤仕してきたという。この下文は、当庄に対する日吉社拒捍使代大和房の濫妨を停止せしめたもので、また文中にみえる「三川浦」は御賀尾(みかお)浦(のちの神子浦)のことで、荘内にありながら半ば独立した単位をなしていたことが推測されるという。
文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写には「倉見庄十四町七反八十八歩」とあり、田積および「領家新日吉講[ ]二郎」とある鎌倉末期の朱書により、領家職を新日吉社がもっていたことがわかる。
倉見庄は新日吉社領で当庄内の三川浦住人(海人)は新日吉社の神人であるのに日吉社の大和房が強引に当荘に乱入して日吉社神人化を図っているのは不当であるとする当荘雑掌の訴えを受けて延暦寺は大和房の乱入狼藉を禁止している。若狭国では平安期から鎌倉期にかけて日吉社や新日吉社による住民の神人化が盛んであったが当庄もこうした新日吉社神人化が先行して形成された荘園と考えられ、庄の中心部は鰣川上流域の谷から平野部にかけての耕地を占めているにもかかわらず、飛び離れた地である三川浦(御賀尾浦・御面浦)をも神人化して包含したものと思われる。
元応2年(1320)8月13日付の御賀尾浦山宛行状(大音家文書)では「若狭国守護領内御賀尾浦長崎山事」と記され、守護領となったことがわかる。守護はこの時期得宗北条高時であったから、倉見庄は得宗領となったわけだが、ただ荘の領主権すべてが得宗領となったのではなく、その地頭職に限定して考えるべきであろう。
応永18年(1411)3月日付の宝幢寺并鹿王院所領末寺目録(鹿王院文書)には、鹿王院の所領として「若狭国倉見庄内黒田・小野・加屋三名」とみえ、同様の目録が永享7年(1435)3月にも作成されている。応永20年12月19日には「寄附 等持院若狭国倉見庄 除安禅寺領太郎丸・五郎丸両名、脇山名等 事、右為洪恩院殿御追善料所、々奉寄附当院之状如件」という足利義持の寄進状(等持院常住記録)が、等持院に宛てて出されている。鹿王院・等持院ともに室町将軍家と深いつながりを有する寺院であり、いったん御料所化したものが寄進されていったと推測される。安禅寺は現京都市上京区にあった安禅寺(廃寺)かという。
室町期、若狭国守護武田氏の支配下では武田氏が要銭を課すなど守護不入を破ろうとしたらしく、康正3年(1457)10月には将軍から当荘への使者入部停止(守護不入)の下知が加えられ、寛正2年(1461)8月6日にも守護が違乱したため幕府奉行人に対策が命じられている。室町・戦国期に当庄域には熊谷氏の勢力が及んでいたが、やがて武田氏庶家の武田元度・元実父子が庄内の岩屋村の城を拠点に荘域内にも力を伸ばしたという。元亀元年(1570)には熊谷治部大夫(治部丞)が倉見荘の支配権を主張して武田信方と争っており、朝倉義景の調停も失敗したので将軍義昭の裁決となった。義昭は熊谷氏の主張を退けており、この裁決を織田信長も支持している。文明元年(1469)11月に「くらみいちは」道蓮の寄進状があり、庄内に市場があった。

近世の倉見村は、江戸期~明治22年の村。三方部のうち。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年十村の大字となる。
近世には宿駅的機能を果し、明治初年伝馬所が廃されたのちは人馬継立所が設けられた。
近代の倉見は、明治22年~現在の大字名。はじめ十村、昭和29年からは三方町の、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北6町余、戸数72、人口は男176 ・ 女186。


《倉見の人口・世帯数》 152・49


《倉見の主な社寺など》

三十三間山(さんじゅうさんけんやま)

倉見岳・天神山・後山(うしろやま)とも呼ぶ。倉見の東がわ背後の高い山、というか連山状の滋賀県境にある山。標高は842.3m,。山名の由来は諸説があり、京都の三十三間堂の棟木を切り出したとか、33間の僧坊があったとか、33番の競馬が行われたとか、競馬のため近江国から33頭の馬を引いて越えたとかいう。天神山は闇見神社が江戸期以降に天神社と呼ばれたことと関連し、その後ろの山ゆえに後山ともいった。山体は古生層に属する砂岩および粘板岩から構成されているという。小浜のほうからもよく見える。
この道が左にまがったところに白い看板があるが、そこが登山口になる。

倉見集落の奥になるが、登山道入口の看板があり、車が何台か留められるスペースとトイレがある。土道の左の道を(はす)川に沿って、山頂までは約4km、およそ2時間でたどり着くそう。上中町境の尾根に登り、県境尾根の独立標高点635mを経て北へ山頂に至る、県境尾根は切り分けがあって通りやすい、山頂直下には熊笹とススキが群生する大草原が広がり、若狭湾や滋賀の山々、遠くに白山も眺められるという。

そこにあった案内板↑

鰣川(はすかわ)源流
写真のバンガロー風の建物(トイレ)の左下を鰣川が流れている、このあたりは川というほどもない谷川であるが、三方町では最大の河川になる。。
三十三間山の西面に発し、鳥浜の北西で三方湖に入る。全長約7km。倉見で山地を出て、井崎付近まで扇状地性堆積地をつくる、それより下流は陥没性の低湿地を流れ、三方断層崖を流れ下る八幡川・串小(くしこ)川などを合わせる。下流は人工の直線的流路となり河口付近は近世の干拓地で水郷的景観をみせる。高瀬川の合流点に鳥浜貝塚がある。川名の由来は不明とされる、縄文語かも知れない。。

住吉神社

集落の一番奥に鎮座、社殿が見えるが、どこから行けばいいのやら…
『三方郡誌』
住吉神社。〔明治二年村社に列し、後無格社に編入〕 日吉神社 共に倉見鎮座。
『三方町史』
延宗年間(一六七三-八〇)に、京極家の家臣斉藤庄左衛門が、堺から勧じょうして建立したと伝えられる住吉神社は、倉見の氏神であったが、明治四十二年に闇見神社に合祀された。ところが御神体の本地仏である薬師如来像は旧社殿に安置されており、社殿、鳥居などは、約二十アールの境内とともに、住吉神社跡としで大切に保存され、八月三十日には例祭が、三月十日には住吉講が行われている。


浄土真宗大谷派永福山仏行寺

仏行寺は寛永19年(1642)に延焼し、酒井忠勝によって再建されたという。
『三方町史』
仏行寺
所在倉見四一-一。山号永福山、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寛永十九年(一六四二)、倉見村は一村全焼の大火に遭ったが、藩主忠勝は、家老の寺山伊左衛門、都筑平右衛門の二人の切実な願いを聞き入れ、正保三年(一六四六)に一寺を設け、釈慶威を開基とした。これがこの寺の始まりであると言われている。その後、東本願寺十三世宣如から木仏と、永福山仏行寺の山号と寺号を贈られた。釣り鐘は、太平洋戦争中昭和十七年供出したが、昭和二十七年に再鋳造した。


『三方郡誌』
佛行寺。眞宗大谷派。倉見に在り、寛永十九年一村延燒す。時に國主酒井忠勝、家老青山伊左衛門・都筑平右衛門二人の懇請によりて一宇を建立す、東本願寺十三世宣如、即ち木佛及寺號をおくる。是本寺なり。

こんな案内板がある。→


浄土真宗本願寺派清水山信行寺

はじめ真言宗であったが、のち真宗本願寺派に改宗したという。
『三方町史』
信行寺
所在倉見三二-四二。山号清水山。浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。保安三年(一一二二)二月十四日に、京都の真言宗清水寺の来院として初めて設けられ、清水道場と呼ばれた。その後、貞治二年(一三六三)に、時の住職惠光は、本願寺第四世善如に帰依して浄土真宗に改宗し、後に第八世蓮如が北陸布教のため各地を巡回したとき、如来の真影を頂いて清水山信行寺と改めたと伝える。
正徳三年(一七一三)「御代官郡月番帳」(酒井家編年史料稿本)によると「是春忠音敦賀ニ出遊ス」として「是春〔正徳三年〕殿様敦賀へ御出被遊候節(中略)三方郡倉見村ニ而昼休被致候由(後略)」とある。慶応元年(一八六五)の「日記」(酒井家編年史料稿本)には「三月二十八日忠義参府ス是日小浜ヲ発シ遠敷駅ニ宿ス」として「(前略)三月廿八日遠敷御泊リ同廿九日倉見御昼同日佐柿御泊り(後略)」とある。この倉見とあるのは信行寺であると思われる。また、寺所蔵の古文書によると、天明二年(一七八二)正月、当寺へ大殿様御本陣を仰せ付かったこと、嘉永六年(一八五三)二月十七日に大殿様が泊られたこと、また大殿様はじめ役人などが江戸への往来には毎度当寺へ入り、宿泊・昼食・小休所を仰せ付かったことが分かる。このようにこの寺は藩主との縁が深く、住職は登城を許され、参勤交代のときなど、宿泊または昼食、休憩などの大事な寺であった。
釣り鐘は、正徳元年(一七一一)に寄進されたが、昭和十七年、太平洋戦争のため供出し、昭和二十六年四月再鋳造した。
寺宝として阿弥陀如来画像(永正八年〔一五一一〕作)、親らん聖人画像(慶長六年〔一六〇一〕作)、蓮如上人画像(慶長十年作。その他多くの軸物が所蔵されている。
 現在の住職信昭は第二十四世である。


『三方郡誌』
信行寺。真宗本願寺派。倉見に在り。もと真言宗、京都清水寺末派にて、清水道場と稱す。保安三年二月十四日の創建なり。本願寺四世善如に時の住持惠光歸依して改宗し、清水山信行寺と改む。


曹洞宗大慈山永正院


『三方町史』
永正院
所在倉見三四-二。山号大慈山。曹洞宗。本尊釈迦如来。康平五年(一〇六二)に、僧雄賢によって開かれたが、それ以後、元禄年間(一六八八-一七〇三)、第一世学海が住職のとき曹洞宗に改宗し、法地(曹洞宗では寺の格式に格地・法地・平僧地の三段階がある)になるまでの約数百年間のことについては記録は残っていない。この寺が法地になったとき、黒田の井関吉助によって本堂が建てられたが、吉助はこのほか土地も寄進しており、この寺の中興の開基(寺の創立者)と呼ばれている。
第十世恵隆のとき、文政十一年(一八二八)に鐘つき堂を、翌文政十二年に山門と、金比羅堂が建てられた(鐘つき堂・山門の棟札)。このときの釣り鐘は、太平洋戦争中昭和十七年十一月十日供出されそのままになっている。昭和五十五年、鐘つき堂は老朽のため解体された。/ 開山堂は、明治二十六年に建築、昭和六年四月六日に、本堂改築の上棟式と、第二十五世哲誠の晋山式(僧が新しく一寺の住職になる式)が行われた。昭和二十一年から、住職は京都市左京区の地蔵院との兼務となっていたが、哲誠の死後は、岩屋の円成寺の住職が兼務している。


『三方郡誌』
永正院。曹洞宗。倉見に在り、康平七年頃の草創なり。明和五年、明庵學海の時、法地となる。時に本村黒田の人井關吉助、獨力にて本堂鐘樓を建立し、土地を寄附す。以て今日に至る。故に吉助を當山中興の開基とす常在院末なり。



《交通》
倉見峠

遠敷郡と三方郡の郡の境にある峠で、三方上中郡若狭町倉見と同町安賀里・下タ中の境にある。かつては丹後街道が通り、現在は国道27号線が引き継いている。↑峠名は峠下集落の名によるもので、安賀里峠ともいう。
今の峠はかなり切り下げられているようだが、標高約130m。倉見側、安賀里側とも比高50m。そう急勾配とは見えないが、国道には登坂車線が設けられている。


《産業》


《姓氏・人物》


倉見の主な歴史記録


『三方町史』
倉見
伴信友「神社私考」には「(前略)また神功紀に、犬上の君ノ祖倉見別という人ノ見ゆ、当国の闇見には由なきか、」とあり、また、仲哀天皇の時代に、この土地に豪族食(倉の誤植か)見別が住んでいたと伝えられている(倉見「郷土誌」)ことから「倉見」という地名がついたものといわれている。
 正保二年(一六四五)五月には、倉見庄と、近江岡高島郡川上庄とが境界を争い。「この月、幕府絵図製作のことあり、双方の庄官相議してその境界を定」めている(酒井家編年史料稿本)。
 延宗年間(一六七三-八〇)に、京極家の家臣斉藤庄左衛門が、堺から勧じょうして建立したと伝えられる住吉神社は、倉見の氏神であったが、明治四十二年に闇見神社に合祀された。ところが御神体の本地仏である薬師如来像は旧社殿に安置されており、社殿、鳥居などは、約二十アールの境内とともに、住吉神社跡としで大切に保存され、八月三十日には例祭が、三月十日には住吉講が行われている。
 明治二十六年に、倉見の丹後道路に建てられた水準点標柱には、八八・一二メートルの高さであることを標示しており、集落の標高は町内では最高である。昭和四十二年六月に国道27号が改築されたが、旧国道はもと丹後道路であり、三方郡内への出入りには必ず倉見を通過した。このように倉見は昔から交通の要所で、明治初年に伝馬所が廃止された後は、人馬継ぎ立て所が設けられたこともあり、当時は旅館五、六軒、商店七、八軒、人力車三、四台あった(倉見「郷土誌」)。
 また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の一行は朝倉勢を攻めるため、熊川・倉見を通った(元亀元年〔一五七〇〕)こと、高山彦九郎は西江州から倉見を通って三方で泊った(安永二年〔一七七三〕)こと、歴代の小浜藩主は丹後街道往来の途中には、信行寺を本陣とし、小休憩所にあてていた(第五編第三章)ことがなどが古い記録類に残されている。
 この地域は昔から三十三間山の豊かな資源に恵まれているが、たつみの風(南東風)が強く、住民は悩まされてきた。このため、文政年間(一八一八-二九)に、永正院第十世恵隆が金毘羅堂を建てて風神大明神を勧じょうし、奥の院を三十三間山頂に建ててまつった。この奥の院は、石垣に囲まれた台石の上に建てられた石塔であり、石塔の祈願文には「悪風退散」の四文字が刻まれている。それ以来、集落には多少の災害があったが、大難がないといわれている。毎年八月十八日を祭日として、各戸一人ずつ奧の院へ参拝している。
 また、集落の中央から東へ約千五百メートル奥の足谷口に山の神社があり、創立年代は不明であるが、倉見の山を守護する神として崇拝し、昔は十二月九日を祭日として午前中参拝し、午後は山の口講を行っている。現在は祭日を十二月の適当な日にきめている。



倉見の伝説

『越前若狭の伝説』
闇見神社   (倉見)
むかし三十三間山の東中腹に大きな池があって、大じゃが住み、万民を苦しめていた。垂仁天皇のころ、あるとき山鳴りかはげしく、七つの川から流れる水が血の色となった。いつもたちこめている黒雲が白い雲となり、雲の中から老人夫婦が現われ、「わたしたちは、すさのおのみことと稲田姫である。出雲で退治された八岐(やまた)のおろちの霊が雷となってここに住んでいたので、ふたたびわたしたちが退治したのである。」と告げた。殺された大蛇は二段となり、一段は美濃の国へ落ち、一段は若狭
に落ちた。そのとき暗くなったので、闇見(くらみ)と名づけた。   (若狭の伝説)

三十三間山   (倉見)
むかし倉見から京都三十三間堂のむな木の材木をだしたので、以来その山を三十三開山と称することになったという。
三方郡にそびえる三十三開山は、むかし江州高島郡川上村の岩剣神社(酒波寺)の所領であったのを倉見庵(十村)に譲られたので、その礼として同村の宝としてあった大般若経九百巻を永代寄進したのは、観応二年(一三五一)のことであった。
なおそれより二十年後の応安二年に江州にて疫病流行してたくさんの死人がでたので、このとき大般若経を頼みお祈りしたところ疫病はやんだといわれる。  (若狭の伝説)

ぶと封じ    (倉見)
倉見のうしろの山すそに足谷口(あしだにぐち)という所がある。むかし倉見のやまど(山仕事をする人)たちが、夕方仕事を終わって帰る途中ここの涼しい木がげで休んでいた。そこへ旅の坊さんが来てみんなに、「せっかく休むのだから、もっと涼しいように裸になってはどうか。」といわれた。しかしみんなは「涼しいのはよいが、ぶと(ぶよ)が多くて血を吸われるから、とても裸にはなれない。」と答えた。
すると坊さんは「ぶとも生き物だがら、あまり広い場所にはできないが、みんなの休んでいるここだけはぶと封じをしてやろう。」といって、まじないをして下さった。坊さんはその上にあるお寺へはいって行かれた。それ以来足谷口のその場所には今でもぷとが非常に少ない。      (永江秀雄)



倉見の小字一覧


『三方町史』
倉見
山王前(さんのうまえ) 辻の鼻(つじのはな) 堀田(ほりた) 寄戸(よりと) 河原畑(かわらばた) 下豆田(しもまめだ) 下六反(しもろくだん) 上六反(かみろくだん) 剣上田(けんじょうでん) 上豆田(かみまめだ) 西中森(にしなかのもり) 中森(なかのもり) 下羽根内(しもはねち) 上中森(かみなかもり) 井根口(いねぐち) 椿原(つばきはら) 八反坪(はたのつぼ) 大将後(だいじょうご) 下久保(しもくぼ) 柳原(やなぎはら) 下大水口(しもおおみなくち) 上羽根内(かみはねち) 古谷口(ふるやぐち) 井の口山(いのくちやま) 古谷(ふりや) 墓の下(はかのした) 下川(したがわ) 大水ロ(おおみなくち) 上久保(かみくぼ) 洞見ヶ池(ほろがち) 久田(きゅうでん) 石橋(いしばし) 下川筋(しもかわすじ) 墓の上(はかのうえ) 松谷口(まつだんぐち) 深谷町(ふかたにぐち) 平の下(ひらのした) 上川(かみがわ) 奥上(おくじょう) 沢(さわ) 堂の上(どうのうえ) 庄法庵(しょうぼうあん) 村上(むらかみ) 桂(かつら) 上山(かみやま) 下岡鼻(しもおかばな) 上岡鼻(かみおかばな) 野田(のだ) 中保谷口(なかほうだんぐち) 大保谷(おおほうだん) 長筬(ながしの) 堂々楼気(どどろぎ) 下板土ヶ地(しもばんどがち) 板土ヶ地(ばんどがち) 上板土ヶ地(かみばんどがち) 護養谷(ごようだん) 一の谷(いちのたに) 安閑谷(あんのたん) 豆谷(まめんたん) 名国(なこく) 護養谷口(ごようだんぐち) 角畑(すまばた) 坂尻(さかじり) 上川上(かみがわうえ) 奥向(おくのむえ) 細越(ほそごえ) 北清水(きたしょうず) 南清水(みなみしょうず) 滝の方(たきのかた) 泥谷(どろたに) 保谷(ほだん) 大へら(おおへら)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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