丹後の地名 若狭版

若狭

黒田(くろた)
福井県三方上中郡若狭町東黒田


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福井県三方上中郡若狭町東黒田

福井県三方郡三方町黒田

若狭国三方郡十村黒田

黒田の概要




《黒田の概要》
鰣川中流左岸の西、井崎の西側山麓に位置する。
中世の黒田。倉見荘のうちで、黒田村・黒田名とも見える。永仁3年12月2日の倉見荘実検田目録案に「黒田永宗」とあり、翌4年2月の倉見荘実検田目録には「黒田山神田」1反、人給別名のうちに「黒田」9反132歩が見える(大音文書)。鎌倉末期には倉見荘内の村として支配の単位となり、元弘元年(1331)10月3日には荘内の「見加尾浦并黒田南村之代官職」が左近丞に与えられている(同前)。応永18年(1411)3月の宝幢寺・鹿王院領目録并外題安堵に倉見荘内の黒田・小野・加屋の3名は京都の鹿王院領として見え、永享7年・文明7年・同10年にそれぞれ将軍・幕府から安堵されているが(鹿王院文書)、長禄2年(1458)5月13日には他人所領となっていたこの3名を鹿王院に還補する旨の将軍義政の命令が出され、守護武田信賢に施行を命じている。天文11年(1542)4月に吉田光慶が知行地の黒田村道隆分3反180歩を諸公事なしの抜地として小浜の西福寺に寄進し、年代は未詳ながら武田元光によって黒田村内の地が西福寺に寄進されたことも知られる。弘治2年(1556)の明通寺鐘鋳勧進に「くろ田」は50文を奉加した。
近世の黒田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年十村の大字となる。
近代の黒田は、明治22年~現在の大字名。はじめ十村、昭和29年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。旧上中町内にも同名の集落があり、当地は東黒田とするようになった。明治24年の幅員は東西6町余・南北1町余、戸数52、人口は男139 ・ 女126。


《黒田の人口・世帯数》 138・43


《黒田の主な社寺など》

八幡神社

曹洞宗弘誓寺の隣。写真右手の石段を登ると弘誓寺。
『三方町史』
八幡神社
黒田字宮の前に鎮座。祭神誉田別尊。この社は通称「八幡さん」と呼んでいる。社殿入口には「八幡宮」、正面鳥居には「八幡神社」の額が掲げられている。明治四十一年に次の神社の祭神がこの社に令祀された。
廣嶺社祭神素盞鳴尊(元、字額田に鎮座)
山神社祭神大山祗命(元、字額田・山の神跡に鎮座、二座)
 この社は、目通り三・八メートルのタブの巨木のある清水権太夫にまつられている鎮守社のあるところが、もとの境内であったと伝えられている。
 昔、黒田は田上の八幡神社の氏子で、例祭も二村合同で行われたという。ところが、本殿内陣の右の間に安置されている木造神牌(御神体、厚板の剣先型)の墨書によって、この社の祭神が黒田村に勧じょうされたのは寛文十年(一六七〇)八月であることが分かる。このときの神社は清水家にある鎮守社であり、これが山王社に合祀されたものと思われる。ここでも、後で祭ったものをその社の主祭神とするならいにより八幡神社となり、社殿を大きく新築して現在に至ったものと思われる。社の前方両側にある一対の石灯籠の銘文により、この灯籠は貞享三年(一六八六)に清水権太夫が「八幡神社御宝前」(銘文)に寄進したことが明らかであり、清水権太夫と八幡神社とは深い関係のあったことを物語っている。また、本殿内陣の中央の間に、大きな曲物が置かれ、黒塗りの小厨子内に木造の本体座高十二センチ余の小坐像の神像が安置されている。頭部は坊子頭で、袈裟をつけ、胸前で合掌する僧形像である(奥村忠治調査)。
 八幡神社に納められている最も古い棟札に、寛政二年(一七九〇)の「奉再建八幡御社一宇」があり、明治再建以前の神社は、この棟札の示す年代に建立されたと思われる。この旧社殿の主要材はすべてケヤキが用いられ、桁行四尺四寸六分(一尺は約三〇センチ)、はり間三尺七寸五分、柱丈五尺四寸二分であったと伝えられている。
 明治維新政府により、神仏習合が廃止されるまでは、八幡神社の別当は成願寺大坊(真言宗)で、祭りごとはすべて取り行った(幾多の棟札)。
 境内の広さは二百九十五坪(約九・七アール)であり、社殿は明治期に再建したもので、三間社流造り向拝付で、こけらぶきであったが、昭和三十三年、銅板にふきかえた。旧社殿は、愛宕権現の社として、寺山の尾根に移し建てられている(藤本勘太夫談)。馬場の中央に、明治年間に建られたこの地方特有の舞堂がある。
 例祭は、九月十五日であったが、昭和三年二月九日の区の初集会で、秋は秋蚕飼育で多忙のため、四月十五日に変更決議を行い、今日に至っている。


『三方郡誌』
八幡神社 黒田に鎮座す。

山神社、〔寛文二年十二月十八日創立〕、聖神社、〔もと聖御前と稱す、祭神不詳、歓喜元年五月二十三日創立〕、共に黒田鎮座。明治四十一年十二月五日。八幡神社〔黒田〕に合祀す。


聖神社
『三方町史』
聖神社
黒田坂東浦字西側三四号一二番地に鎮座。祭神聖権現。寛喜元年(一二二九)五月二十三日に創建されたと伝えられており、里人からは「ひじごんさん」と古くから呼ばれ、信仰されている。この社は、『三方郡誌』・『福井県神社誌』には、明治四十一年に八幡神社に合祀したと記されているが、毎年十一月一日には例祭を行い、太皷ばやしの奉納がある。
 慶応四年(一八六八)四月、黒田村庄屋庄右衛門が「指上申黒田村聖御神之事」として、次のように、この社の由緒を書いて郷方御役所へ届け出ている。
  「右聖御神は、寛喜元丑年五月二十三日に、何国の者とも分らない、一見、高野聖とみられる一老人が、当所の稲置小屋へ入り、いろいろ養生したが病死した。この老人が守本尊としていた仏像を、近くの家にあづけたところ、たたりがあったので、その神を聖御神としてまつった」(聖神社文書)。
 聖神社の御神体としての本地仏は、仏像と蓮華座を一つに刻んだ木像で、高さ約七センチ、銅板を透かし彫りにした光背を備えている。この木像の前面は薄い銅板で被われており、薬師如来であろうと考えられる(奥村忠治)。さらに、本地仏を納めた曲物の外側には梵字が多く墨書され、内面には「天照皇大神宮、春日大明神、八幡大神宮」の墨書があり、(高野聖の所有と推察)、今も神社に秘蔵されており、神仏習合の思想がよく分かる遺品である。
 ところで、明治維新の神仏習合廃止に伴い、御神体改めが行われ、各神社の御神体を報告している(千田文書)が、当社では、聖大明神と墨書した木牌を急造してこれを「御神休に相違ございません」として報告している(聖神礼文書)。
 また、「明治十九年十一月改、聖神社に関する書類器物記録帳」が残されているが、終りに、聖神社講員(十四人)の名が見え、当時の坂東浦の戸数を知ることができる。
 現在の覆堂は、明治三十八年十一月、南向きに再建された。堂内の上段には、文政八年(一八二五)造営の祠があり、組物から蟇股まで完備した入念な造りである。



曹洞宗慈眼山弘誓(ぐぜい)


圓通閣(観音堂)↑大同2年(807)重安なる者が船津山で如意輪観音を得、同4年当所に一宇を建立したのに始まるといい、本尊の霊験は近在に聞えるという。
『三方町史』
弘誓寺
所在黒田七号宮ノ前一四-一。山号慈眼山。曹洞宗。本尊如意輪観音。
この寺が弘誓寺としてはじめてつくられた年代は、史料がないので明らかでないが、室町時代末期から桃山時代初期と言われている。「若狭郡縣志」には「弘誓寺黒田村ニ在リ、山ヲ慈眼卜号ス正保二年(一六四五)酒井忠勝公祈願有ルニ依リ堂宇ヲ修補シ玉フ」(原文漢文)とある。山号や寺号は如意輪観音を本尊としていることから、観音経の一部「一切の功徳を具して、慈眼をもって衆生を視、(中略)汝観音の行を聞け、善く應に諸々の方所に應ず、弘誓の深きこと海の如し」から名づけられたものと思われる。
ところで、寛保四年(一七四四)三月、臥竜院住職を隠居した光山良謙が書いた如意輪観音緑起文を、当時この寺の住職であった青峰光春が清書した巻物が寺宝として伝えられている。この縁起文に、「大同二年(八〇七)に、黒田の住人吉田重安が、黒田の東北にある山で如意輪観音の霊像を発見し、大同四年の春、堂を建て本尊としてまつったのがこの寺のはじまりであると伝えられている」とあるが、本尊が現在の寺地に移るまでは、清水権太夫家の地蔵堂に仮安置されていたと伝えられている。この地蔵堂には「康正二年(一四五六)清水氏造立 地蔵堂」の棟札が現存しており、堂内には「観音菩薩」と墨書した古い木札が残っている。また、この地蔵堂周辺は「元観音の地」といい伝えられてきた(故清水勝治〔昭、五二、七、三〇没、七八歳▽談〕)。『若州管内社寺由緒記』には「如意輪観音、太子の御作、緑起棟札共指上申候、寺号は慈眼山弘誓寺と申禅宗にて御座候」とあり、本尊如意輪観音は、後で述べる観音堂内の空殿(仏を安置する宮殿)内に安置されており、平常は秘仏で三十三年に一回の御開帳がある。ところが、昭和四十一年九月、文部省によって若狭地方の文化財(仏像)調査が行われたとき、同年九月八日、文部省西川新次主任調査官一行によって調査が行われ、翌四十二年三月一日、三方町の文化財として指定された(本編第四章参照。本尊は、大倉見城主熊谷直之の陣中仏であったといわれている)。
境内にある観音堂が落成したとき、常在院八世白陰宣竜(慶長七年〔一六一二〕死亡)を、落成仏事の導師として迎え、さらに、観音堂の堂守り僧祖慶が黒田の住人と協議の上、常在院八世白陰に依頼してこの寺の中興の祖としたという(「弘誓寺並観音堂略歴」〔黒田「郷土誌」〕)。これによって、観音堂はこれまでこの地方で勢力のあった密教系(天台宗、真言宗)に属していた仏堂であったと思われる(奥村忠治による)が、曹洞宗常在院の末寺となった。ところが、弘誓寺大過去帳(明和八年〔一七七一〕恵温和尚発願、旧大過去帳写の旧本〔現存〕)には、常在院九世大麟玄察(慶安二年〔一六四九〕死)が弘誓寺開山と明記されている。
 明治十二年三月七日、寺格が法地に昇格して常在院から独立した。当時の住職で法地昇格に功労のあった二世月照(俗姓友石)は過去帳の師の筆蹟からみて在住期間は十年余になると思われるが、寺の大過去帳には収録されていない。
 三世冝秀は出雲国(島根県)の出身で四十余年間在住(寛政九年〔一七九七〕八月新調の什物机に、現住冝秀の自筆記名あり)の業績は大きく、寺子屋を開き子供たちを教育したことは有名である。観音堂の南前及び東側の大石垣を造ったのも冝秀である(文化三年〔一八〇六〕)。
寛文九年(一六六九)の棟札「若州黒田村弘誓寺観音再興并華堂造営之銘」のはじめに「建精舎修伽藍」とある。建精舎とは庫裏を建てたことであり、修伽藍とは観音堂の修理を指しており、観音再興とは如意輪観音彩色補修のことである。華堂造営とは、本尊を安置する宮殿(別名空殿)を新調したことであるといわれている。このように、寛文九年に庫裏が建立されたが、その後、天保十三年(一八四二)に再建されている。それは「宝院一宇、若州三方郡倉見荘黒田邑慈眼山弘誓寺再建(中略)維時天保十三年三月二十三日、上棟慶讃、常在二十七世路雪玄誌」の庫裏再建の楝札が現存していることから知ることができる。このことは田上の前田幸介家の古家をもらい受け、新材を補充して庫裏を再建したことをいう(黒田増田吉次郎文書)。
現在の瓦ぶき二階建ての庫裏は、昭和六十三年七月三十一日に新築落成したものである。
明治十五年に境内の北方にある竹やぶを開いて開山堂を建て、同年七月九日に上棟の行事が行われた。昭和五十六年十月八日には、この古い開山堂を解休、十二月二十七日に新しい開山堂の竣工式を行った。また、昭和六十年八月四日には、庫裏の北方にあった竹やぶ(吉田片右衛門家寄進)をきり開いて、共同墓地「観音霊苑」をつくった。
 弘誓寺本堂の本尊には、木像釈迦如来坐像(江戸初期か)、脇侍仏に木造文珠菩薩坐像と木造普賢菩薩坐像が安置されているが、この脇侍仏二体は、大正五年に六世清定の江湖結制(一寺の住職になって行う盛儀)記念に清定が寄進したものである。現在の住職碩順は七世である。
もとの鐘つき堂は安永九年(一七八〇)十二月十五日に建てられた(棟札現存)が、昭和三十六年に移転改築された。釣り鐘は太平洋戦争中(昭和十七年)供出して、その代金二百七十一円四十五銭を受取っている(住職名、区長宛、昭和十八年五月一日付け領収書現存)。現在の釣り鐘は、昭和三十六年に再鋳造しているが、同年一月二十九日の区初集会で釣り鐘の再鋳造を決議。二月六日に京都市高橋鋳工場に発注、四月十二日火入式、釣り鐘堂は五月二十八日に上棟、七月十八日に本尊の御開帳と釣り鐘堂の落成法要が行われ、新しい釣り鐘のつき初め式が行われた(一番つきは吉田かね〔七八歳〕)。
 この寺には画面の大きさでは町内第一の紙本着色の大涅槃図が、寺宝として秘蔵されている。これは宝暦七年(一七五七)二月五日、吉田安衛門家(当時家号甚三郎)から寄進されたもので、当時の住職は良山恵温であった。
観音堂は、この寺の境内にあって、「如意輸観世音緑起」(弘誓寺蔵)によると、文禄四年(一五九五)九月の完成と記されているが、その棟札が残っていないのは、小浜二代藩主酒井忠直のとき、境内地が無税になるため、寺の由緒などを調べられる資料として藩に出したためではないかと思われる。堂内の大空殿は、寛保三年(一七四三)、当時の弘誓寺住職青峰光春の願いによって修理されたものである(棟札現存)。この空殿の中に、弘誓寺本尊如意輪観音坐像と、その脇侍仏として空殿のかたわらに多聞天立像が安置されている。この多聞天立像は、昭和二年、観音堂の屋根がかわらぶきに改修されたとき、住職清定の特別な願いによって、黒田井関吉助家が寄進したものである(本編第四章参照)。
現在の堂は、けたの長さ三間、はりの長さ四間、向拝(はり出したひさし)一間、一重入母屋造、元こけらぶき(昭和二年かわらぶきに改修)の構造で、主な用材はすべてケヤキが用いられている。また、この堂の各所に取り付けられた装飾彫刻は桃山時代盛期の流れをくむものであり、町内にある古い建築中、最も古い優れたものである。
観音堂正面に、大きな杉の一枚板に「圓通閣」の大文字を記した遍額が掲げられている。この文字は曹洞宗の名僧月舟の書いたものである。月舟は佐賀の武雄の出身で、加賀大乗寺の住職であったが、元禄九年(一六九六)七十九歳で死亡した。また、この堂内の上部壁面には、「奉納、京雲鈴丈操、延享五(一七四八)、四月吉日、曾林栄歌堂」と記した発句板額が奉納されている。この額は奉納発句額十一面の申では一番古く、発句五十一句が記されている。さらに、渓川水呑の虎図(寛政十一年〔一七九九〕寄進)、恵美須、大黒の図(文化十二年〔一八一五〕寄進)の絵馬二面が奉納されている。観音堂参道の途中、大きなわらじをつるした仁王門がある。
棟札は見当らないが、文化初年(一八〇四)ごろに建てられたものと思われる。仁王門の右側には口を大きく開けた阿形像、左側には口を固く閉じた吽形像の二金剛力士像が安置されている。この両像は、昭和五十八年十一月一日-三十日に開催された三方町制三十周年記念特別展「若狭の仏教美術」(町立郷上資料館)に出展した(本編第四章参照)。
 仁王門を通りぬけると右側にある覆堂の中に、木造五重小塔が安置されている。これは、弘誓寺住職一山冝秀の願いによって、文化十二年(一八一五)ごろから計画され、文政五年(一八二二)三月に完成した。このとき、この塔を「無碍圓満舎利塔」と命名した(棟札現存)。この塔は、観音堂のうしろの山裾(現在の六地蔵堂附近)にあって覆堂は東に向って建っていたが、昭和二十八年九月二十八日の台風のとき、うしろの山がくずれ、覆堂の近くの禅堂が倒壊したので、現在地に移転した。五重塔の屋根は板ぶきで、塔の四層以外の層内には、本造五智如来が安置されている。
 左側には、亀の形を表わすため大小の岩石を組み合わせ、さらにその台石上に、銅造聖観音菩薩立像(高さ一三七・三センチ)を安置する歴住塔がある。これは歴代住職の納骨と、境内の眺めをよくするために造られたもので、弘誓寺六世小林清定が計画し、寄進したものである。昭和四年夏に完成し、同年十月六日、曹洞宗の名僧原田祖岳(小浜市発心寺)を大道師として開眼供養が行われた。


『三方郡誌』
弘誓寺。曹洞宗。黒田にあり。慈眼山と號す。如意輪観世音を安置す。傳云、大同二年重安と云者、船津山に此靈像を得、四年今の處に堂宇を建立すと。文禄年中、豐太閤の側室佐々木氏、數十金を報賽す。郡人亦戮力堂宇を修補し、正保二年、國主酒井忠勝、亦茸補す。本尊は靈驗の聞へ高く、奉賽の客常に絶えず、田上常在院の末寺なり【黒田弘誓寺観音縁起】〔寛保四年光山謙叟撰〕
北陸道若狭州三方郡黒田村弘誓寺者如意輪観世音之霊場也、傳言、人皇五十一
代平城天皇御宇、大同年中、村之東北山上夜々有レ光、土人望見、且…



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


黒田の主な歴史記録


『三方町史』
黒田
弘誓寺所蔵の如意輪観音縁起文に「大同二年(八〇七)に、黒田の住人吉田重安が、如意輪観音の霊像を発見し、大同四年に堂を建ててまつった」とあり(第五編第三章参照)、これが事実とすれば、約千二百年前に黒田の集落があったことになる。永仁三年(一二九五)の倉見庄実検田目緑案(大音文書)に、黒田の地名が出現し、元弘元年(一三三一)十月三日付けの御賀尾(神子)浦黒田村両村代官職宛行状(大音文書)が残っていることや、「五十文くろ田」と書かれた弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎所蔵)があることなどから、黒田の集落の由来の古いことが知られる。
 ところで、黒田・田上・岩屋一帯の平地の内、黒田・岩屋両区の山すそから平地にかけて数十ヘクタールにわたって古くからある杉の埋没林は、古墳時代以降のもので、埋没している杉の根株は、テーブル状に浅く広がるように根を張り、太い木は幹回り五メートル、広さ畳六枚分もあるものが驚くほど多くあり、昭和六十三年大阪市立大助手辻誠一郎を中心に、大阪市立大・金沢大の植物分類学、森林生態など若手研究者十人のグループによって調査研究が進められ、この埋没林は国内最大級のものであることが分かった(福井新聞〔昭六三・九・一八〕)。一帯は昭和五十二年度から県の圃場整備事業が行われ、埋没林のある百三十九ヘクタールのうち、六十二年度までに岩尾地区の八十一ヘクタールが終了した。これらの地域では、埋没林はすべて引き抜かれ、放置あるいは焼却されている。ところが、昭和六十三年度から、圃場整備の方法が、根株を掘り出さず客土する工法に変更されたので、残った埋没林は保存されることになった。埋没林のでき方にはいろいろあるが、最も多いのは、谷又は低地で地下水位が変動する場合で、ここの埋没林もこうして出来たものである(福井新聞〔同前〕)。また、この地域には、坂東浦、船津山の地名があり、この辺一帯が沼地であったことを物語っている。このように水田は強湿田のため、農業の項でも述べたように、灌漑排水にいろいろな施策が講ぜられてきており、黒田川の改修工事が行われた(第四編第一章参照)。
 昭和六十三年七月に、三方町教育委員会が埋没林のあるところを発捌調査したところ、埋没林の床土層より下の層から、弥生時代のものとみられる加工した板材や、縄文・弥生時代の遺物が発掘され、縄文・弥生の古い昔にも、この周辺に人々が住みついていたことを物語っている。


黒田の伝説

『越前若狭の伝説』
弘誓寺   (黒田)
弘誓寺は如意輪観膏の霊場である。大同年中(八〇六ごろ)村の東北の山で毎夜光を放つものがある。村の人はこれを望み見て、怪しみ恐れて、あえてたずね行く者がなかった。ここに重安という名の者がいた。仏教に帰依し、特に観音を信じて、日夜称讃供養を怠らなかった。ある役の夢に、高い山へ登ると、白衣の老翁か現われ、「わたしは南海の補陀落(ふだらく)山に住んでいる。この地に前から因縁があるので、今特に来て、この地にとどまろうと思う。お前は手はずをととのえよ。」と言い終ると大光明を放った。
重安は目がさめても、なおうっとりとして光の中にあるようであった。勇気を奮って山をよじ登り。怪しい光の出る所をさがし求めると、はたして如意輪観音の像が厳然として岩の上にいるのを見た。
像の長さは一尺(三〇センチ)ばかりで、威霊に満ちていた。重安は五体を地に倒して感喜し、かやの屋根をふいて像をおおった。大同二年(八〇七)のことである。しばらくの間に草木がはえ、泉がわき出て、形勝の地となった。このことを聞いて遠近から参けいする者が多かった。
大同四年重安はまた霊夢を感じた。山はけわしくて、老弱が登るに苦労が多く、菩薩の教化か普及しにくい。村の経塚は清浄の地であるから、あそこに堂を建て、長く諸人との縁を結びたい。よって重安は金財を寄付し、寺院を建て、霊像を迎えた。これか弘誓寺である。     (弘誓寺観音縁起)



黒田の小字一覧


『三方町史』
黒田
長岩(ながいわ) 何所松(どこのまつ) 俄谷(にわかだに) 東側(ひがしがわ) 大道(おおみち) 毛谷(もたね) 宮の前(みやのまえ) 黒の内(くろのうち) 額田(がくでん) 籠畑(かごばたけ) 和田(わだ) 番上毛(ばんじょうけ) 和田山(わだやま) 山崎(やまさき) 三反田(さんだんだ) 挾(はさみ) 下の坪(げのつぼ) 荒田(あらた) 脇の田(わきのた) 松ヶ崎(まつがさき) 下象面(しもぞうめん) 奥田(おくだ) 森り江(もうりえ) 広田(ひろた) 杭サ原(くいだわら) 舎人(とねり) 円仏明(えんぶつめい) 枇杷田(びわだ) 国森(くにもり) 遠芹(おぜり) 下長宗(しほながむね) 松原田(まつわらだ) 細田(ほそだ) 西側(にしがわ) 坂東東側(ばんとうひがしがわ) 阿内坂東(あちばんどう) 広畑(ひろはた) 桜谷(さくらたん) 赤崎(あかさき) 東三反田(ひがしさんだんだ) 八反田(はったんだ) 糀ヶ谷(こうじがだに) カヤ(かや) 茶屋カ谷(ちやがたん) 河内ケ谷(こうちがだに) 山端(やまはた)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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