丹後の地名 若狭版

若狭

三方(みかた)
福井県三方上中郡若狭町三方


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福井県三方上中郡若狭町三方

福井県三方郡三方町三方

若狭国三方郡八村三方

三方の概要




《三方の概要》
JR「三方駅」のあるあたりの三方町の中心地。三潟とも書いた(千田家文書)。三方湖の東に位置する。
古代の三方郷。奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」若狭国三方郡五郷の1つ。高山寺本・東急本ともに訓を欠くが、東急本郡部に「美加太」とある。平城宮出土木簡に「若狭国三方郡三方郷〔  〕□□□□」と墨書したものがある。「延喜式」神名帳の三方郡十九座の1つに「御方神社」が見える。
中世の三方郷。 鎌倉期~南北朝期に見える郷名。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案(京府東寺百合文書ユ)の国衙領のうちに見える。田井保や向笠荘に含まれた田地を除いた郷田数は50町9反140歩で、このうちからさらに佐古出作・能登浦(世久見)などの田数43町8反余を除くと定田は7町1反120歩。したがって平安期から鎌倉期の三方郷は世久見・田井・向笠を含んだ地域であったが、それらが浦や保・荘として自立したのちの鰣川下流域がこの時期の三方郷を指すものと考えられている。元亨年間頃の朱注によれば、郷の地頭は若狭忠季であり、のち忠清に伝えられていた。この惣田数帳案には別に三方新御供田5町7反余を国衙領としてあげ、同帳案の朱注でこの地の地頭給と公文職をめぐって国衙と前河荘地頭が争ったことを記している。建武4年(1337)8月21日の足利尊氏袖判下文写によれば、三方郷と並んで別に三方保も見え、この郷・保の両地頭職は若狭忠季・忠清子孫の若狭又太郎が保有していたが、南朝方となったため闕所化され、大飯郡の本郷貞泰に宛行うと見える(東史本郷文書)。しかし3年後の暦応3年7月12日には若狭又太郎の子息弥太郎光忠が北朝方として軍功があったので郷・保の半分を光忠に返すべきことを足利直義が本郷貞泰に命じている。さらに観応2年(1351)7月22日、本郷貞泰から家泰へ同保をはじめとする所領が譲与され、同日付で家泰はさらにその子虎丸(のちの詮泰)へそれを譲渡している。その後の若狭はしばしば内乱状態となり、結局本郷氏は貞和2年(1346)から観応2年の間三方保の地頭職を得て知行している。嘉吉元年(1441)11月3日守護武田信賢は近江国の朽木貞高に対し三方で軍事援助に預かったことを謝しているが、これは前守護一色氏の余党に対する合戦と考えられ、一色氏の守護代として若狭氏の子孫とみられる三方範忠・忠治が就任していたことを考え併せると、当地は一色氏の拠点の1つであったと判断される。戦国期の天文21年(1552)に熊谷弾正は粟屋氏残党に味方したため、三方の宝福寺に蟄居させられ、やがて武田氏に殺されたが、のち熊谷大膳亮直之はこの宝福寺(のちの臥竜院)に保護を加えた。建暦3年(1213)2月の延暦寺慈鎮所領目録写に延暦寺末寺無動寺管領下の「三方寺」が見え、青蓮院門跡慈円からその弟子の朝仁親王(道覚法親王)に譲進されている。文永2年(1265)の惣田数帳案に山門沙汰のうちに「三方寺 二(三ヵ)町三反」とあり、その内訳は永富保2町5反174歩・倉見荘7反186歩であった。山門の支配下にある三方寺の寺領は永富保・倉見荘に散在していた。鎌倉期と推定される年未詳の三方寺内志積浦廻船人等申状案(安倍武雄文書・小浜市史諸家文書編)に、「三方寺内志槓浦廻船人」と見え、遠敷郡内の志積浦が三方郡内にあったと思われる三方寺の寺領となっている。
近世の三方村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以後敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年頃鳥浜村を分村とある(県史)。同22年八村の大字となる。
近代は三方は、明治22年~現在の大字名。はじめ八村、昭和28年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西50間・南北12町余、戸数109、人口は男255 ・ 女236、学校1、小船2。


《三方の人口・世帯数》 594・228


《三方の主な社寺など》

三方湖

三反田遺跡・市港遺跡

御方(みかた)神社(式内社)

石観音参道↑の脇に鎮座。三方断層の断層面でなかろうか、急斜面を登らねばならない。
『三方町史』
御方神社
三方字朝日山に鎮座。祭神櫛御方神。境内社に神明社祭神天照皇大神・奥津彦命、大神社祭神豊受大神、山神社祭神大山祗命がある。式内社・指定社・旧村社。大正九年、次の神社の祭神がこの社に合祀された。
山脇社祭神山脇大神 (元、区内字北ノ庄境に鎮座)
蛭子社祭神事代主命 (元、区内字市ノ上に鎮座)
日吉社祭神大山咋命 (元、区内字間ノ山に鎮座)
 延喜式巻九・巻十の神名帳にその名を記された官弊社(祭りに朝廷から幣はくをささげられる神社のこと)である。当時三方町域内にあった神社の数は、大が一座(宇波西神社)、小が五座であったが、この社はその小の中の一つで、国帳に「正五位三方明神」とあり、「郡神の明神」と呼ばれていた。明治四年には小浜藩によって名を郷社の列に加えられたが、その後敦賀県時代になって村社に改められた。
 昔、伊勢式年遷宮にならい、二十年ごとに社殿の改造をし、壮厳な遷座奉祝を行って来た慣例があった(『福井県神社誌』)。
 三方区内には次に述べるようにこの社の外に神社が四社あるが、明治四十年前後に各地で行われた神社合祀のとき、各神社をまつってきた地区民の意見が対立して一社に合祀することができず今日に至っている。その後、昭和二十二年七月、三方区振興会(会長-区長・役員-区役員)が結成され、この節の最後に述べるように、これ等の神社の行事はすべて振興会のもとで行われている。


『三方郡誌』
御方神社。村社。式内。三方に鎮座す。もと明神社と云ふ。古帳に郡神明神とも書けり。國帳に正五位三方明社とあり。祭神詳ならす。櫛御方命を祀ると云ふは、拠る所を知らす。〔神祇志曰、蓋祀天日槍命〕明治四年、小濱藩に於て郷社に列し、五年、敦賀縣に於て村社に列す。

祭神とされる櫛御方(くしみかた)神は、意富多多泥古(おほたたねこ)命の曽祖父にあたる。『古事記』に、「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘賣を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕意富多多泥古ぞ。」と名乗っている。
同じ祭神と見られている式内社に丹波国桑田郡の三県(みあがた)神社がある(八木町屋賀の宗神社かとされる)。三方はあるいは御縣(or耳縣)の転訛か、或いは神の形代の銅鏡も知れないが、綾部市にも味方町があってちょっとふれたが、ミカタという所はだいたい縄文期からのふるい土地で、そこの古来勢力と新来のミミ系とヒボコ系の三者がいる重要土地柄なところである、その三者を三方といったのかも、若狭の古い時代の中心地であったと思われる。
『大日本地名辞書』
○御方神社は神祇志料に、今郡明神と云ふ、〔官社私考・若狭国志〕蓋天日槍命を祭る〔播磨風土記〕と論定す、是は
 播磨風土記、宍禾郡御方里、所以号御方者、葦原志許乎命、与天日槍命、各以黒葛三条ミカタ著足投之、故曰三条、一云、大神為形見、植御杖於此村、故曰御形、
とあるを、日槍が若狭に至りしと云ふ垂仁紀の説に参考せしならんが、頗疑ふべし、大神とあるは即葦原醜男にあらずや。今按に、此地三方湖あれば、神名は其地名に出て、而て三方とは御潟の義、必しも三湖を数へず、今謂ふ所の三方湖水月湖日向湖久々子湖等の総名と見做すべし。

補【御方神社】○神祇志料、今三方郷三方村に在り、郡明神と云ふ(官社私考・若狭国志)蓋天日槍命を祀る(古事記・播磨風土記・延喜式大意)

『地名・苗字の起源99の謎』
アメノヒボコを祭る神社には、11で紹介した大和の比売久波神社のほかに、つぎのようなものがある。―
*須可麻神社(若狭・三方郡の美浜町、『延喜式』〈神名帳〉記載)。
*御方神社(若狭・三方郡三方町、『延喜式』〈神名帳〉記載)。
*静志神社(若狭・大飯郡大飯町、『延喜式』〈神名帳〉記載)。
また気比神宮(越前・敦賀)の祭神・伊奢沙別も旧『社伝』によれば、アメノヒボコだという。



熊野八幡神社
八幡神社
『三方町史』
八幡神社
三方字宮の腰に鎮座。祭神誉田別尊。境内社に金毘羅社祭神大物主命がある。戦国時代に大倉見城主熊谷直之が、守護神として山城国男山の石清水八幡宮を勧じょうしたと伝えられている。その後現在まで、この地の鎮守としてまつられてきた。
 昔はこの社の例祭は九月十五日に行われたが、この日は大変華やかで、藩政時代には能狂言が奉納され、広場では奉納相撲が催された。また、この日は、参道や若王子社に通じる道の両側に露店がぎっしりと並んだ。この日の祭礼には藩から代官が出張し、祭りの様子を藩主に報告することになっていた。明治四年に廃藩置県が実施されると、能狂言もすたれ、いつの間にか行われなくなった。
 昭和八年二月、豪雪のため拝殿が壊れたが直ちに改築し、四月十二日に完成した。また、昭和十一年八月二十日にはこもり堂が壊れたので取り払われ、昭和十三年には能楽堂の修繕と、屋根のふき替えが行われた。また、石造唐獅子一対(昭和十八年宇野儀左衛門)・大石灯籠一対(昭和十八年門前元大講々中及び鳥居重次郎一族)・石造大鳥居(中村泰基)が寄進された。


熊野神社
『三方町史』
熊野神社
三方字宮の腰に鎮座。祭神伊邪那美命。昔は、毎年四月八・九日に神事が行われたが、今は当番が出て行っている。また、十月八日の晩は、宮ごもり・盆踊りが盛大に行われたといわれているが、最近中年会によって復活するため準備をすすめている。
 昭和三十一年、社殿は豪雪のため壊れたので改築された。



曹洞宗無位山臥竜院

国道27号脇というより、古い参道や境内を国道が横断している。臥竜院は文応年中(1260-61)北条時頼が創建した宝福寺の後身と伝え、戦国時代には井崎の城主熊谷大膳亮直之の外護を受けたという。小浜藩主京極氏は田100畝を寄進、酒井氏入部に際して当院に寄宿したことから、以後藩主が江戸参勤の時には当院で中食するのを例としたという。また巡見使の旅宿にも使われたと伝えている。
『三方町史』
臥竜院
所在三方三二-二一。山号無位山。曹洞宗。本尊薬師如来。文応元年(一二六〇)に、北条時頼によって初めて設けられたと伝える寺で、山号を無位山、寺号を宝福といい、初めは臨済宗の道場であらだ。当時既に全伽藍を完備し、三方村をその寺領として、村の南北両境界には下馬札を立てたといわれている。ところがその後、戦争による火災のため、当時の建物や、古くから仏わる品々は、大部分燃えてしまった。そこで村人たちは、その跡地に草ぶきの粗末な本堂を建て、焼け残った医王院の本尊薬師像を仮の本尊としてまつった。その後、南条郡の春日山盛景寺の第三世住職であった亀舜が、三方湖畔にある椎の木山の山すそ(現在、寺の前という)に草ぶきの粗末な家を造って修業中、この和尚を高僧と知った村人たちは、応永二十九年(一四二二)に宝福寺を修復して和尚を住職に招き入れ、開山第一世とし、寺号を臥竜院と改めた。これは、「徳・量あって潜伏竜の如し」(徳=身について人間としての正しい心・量=物事を受け入れて動ぜず乱れない心や人柄)の意味であるといわれている。
 天正・文禄年間(一五七三-九五)、第八世天巌のとき、井崎の大倉見城主熊谷直之は、山林や寺地など五町七反(五・七ヘクタール)余りを臥竜院に寄進し、寺を旧地北の岡平山から現在地に移すとともに、税を免除して菩提寺とした。このため、熊谷直之を臥屯院中興の開基として、開山堂には「教雲院殿前光禄以心良伝大禅定門」という直之の戒名が記された位はいが安置され、また山中には大きな五輪塔が建立されている。
 慶長五年(一六〇〇)、京極高次が国主のとき、高次は、天巌を敬慕し、時々城中に招いて教えを請うた。しかし、三方と小浜では何分にも距離があり過ぎて不都合なことも多いため、武田家の滅亡後、荒れ果てていた伏原の発心寺を元通りに修繕して、天巌をここに移し、発心寺中興の開祖とした。なお、高次は臥竜院に田百畝(一ヘクタール)を寄進し、税を免除するとともに、巡回の際にはここを宿舎として利用した。
 寛永十一年(一六三四)、藩主酒井忠勝が初めて入国の際、佐柿にはまだ屋敷がなかったため、この寺に別に一亭を造って泊った。これ以来歴代の藩主は参勤交代の際など、ここを休憩所として利用した。また、巡見使がこの土地で宿泊する場合の宿舎でもあった。
 第十一世鉄巌は、空印寺第五世日山の高弟で、寛文二年(一六六二)に発心寺からこの寺に移り、古いしきたりの弊害を改めて禅規(禅宗の規範)を作った。この寺にはいつも二百人を越える僧がいて大変にぎわい、門人たちは、鉄巌を中興の祖として尊敬した。
 第十二世東水もまた日山の弟子で、貞享元年(一六八四)にこの寺に移ったが、堂が大変荒れ果てていたので、藩主に実状を訴え、元禄七年(一六九四)に本堂を修繕した。このとき、藩主の命令によって、白銀三十枚と、街道の並本松三十株を授かり、さらにまた、自他の区別なく、どの山林からでも、自由に必要な用材をきり取ってもよいという許可状を授けられた。このことは、大正十年の本堂解休再建のときに見付かった棟札によって知ることができる。なお、このとき解体された四百年来の本堂は、福井市矢張寺の本堂として移築された。東水以来、この寺の住職が進院(住職新任のときのこと)のときは必ず登城し、君主に特礼(十帖一本献立=当時の日本紙十帖を一本として献上すること)することが、その後長く慣例となった。
 昭和の初期に、本堂が改築され、また、庫裏の屋根がかわらぶきに改造されたが、その後、当時の住職であった第三十二世舜額は、本山永平寺の重職である監院(貫首に代り総覧する役職)に就任し、本山の大増築の主任として努力した。また、朝鮮博文寺の住職に就任するなど、まれに見る名僧で、多くの立派な業績があり、臥竜院中興の祖としてその像が開山堂に安置されている。
 現在の住職良典は第三十四世であるが、昭和二十五年から現在までに、福井県曹洞宗宗務所長・福井県各宗連合会長・北陸管区長・永平寺貫首室侍長の要職を歴任。昭和二十八年九月に、この土地を台風十三号が襲い、開山堂がひどく壊れたがすぐ再建した。
 釣り鐘は太平洋戦争中昭和十七年に供出されたが、昭和二十二年に再鋳造された。


『三方郡誌』
臥龍院。曹洞宗。三方に在り。文應年中北條時頼の創建なり。當時無位山寶福寺と號す。三方村を寺領とす。故に村の南北境に下馬札を建てたりと云。歳月を經て堂宇丘墟となる。その後、盛景寺〔越前南條郡王子保〕三世亀舜、來りて湖東椎木山麓に居る。村人高僧たるを知り、寶福の舊址を修めて、亀舜を請して開山第一世となし、寺號を臥龍院と改む第八世天巌の時、天正文祿の際、井崎の城主熊谷大膳亮直之、地を卜して寺を移し、更に修補し、山林寺境を寄す今の寺境これなり。舊地は山の北岡にあり即ち直之を中興開基となす。今にその位牌を安置す。木像を安すと云は誤なり。京極高次、國主たる時、田百畝を寄附す。國上酒井忠勝、入國の初、當院に寄宿す。之より國主代々、江戸参勤の際、此に中食するを例とし、亦巡見使の族宿たりき。盛景寺末なり。
(位山記)享保十五年、十六世光山謙叟撰、



曹洞宗大悲山三方石観世音

三方石観音は若越八十八か所49番の札所で、弘法大師一夜の作といわれる右手のない観音が祀ってある。(秘仏。開帳は33年に一度で、次回の開帳は2026年10月)昔から手足の不自由な人の信仰が篤い。堂宇は文化年間(1804~18)の建立である。本堂右横にある御手足堂には、木製の手足や松葉杖・ギプスなどが奉納されている。


境内の案内板
石観世音菩薩 妙法石 由来記
御本尊は一大花崗岩に刻まれたる所謂石観世音菩薩にして南面せらる。然も弘法大師一夜の御作にして桓武天皇延暦年間の草創なりと云へば大師入唐以前の作なるべし。大師若狭地に遍歴せらるゝや此の地むの風光明媚なるを愛でられ、此山に宿らる或夜霊像御彫刻中鶏鳴聞えたれば僅かに右手首より先を残して飄然山を下りらる、故に片手観音なり、されば手足のさわりは元より諸病に霊験あらたかにして不可思議なる事実亦多し
左の石は正徳年間の元旦に観世音大師に参詣せる村人が鶏鳴を発するを聞きたり故に鶏鳴石又は妙法石と称す


『三方郡誌』
観音堂。三方に在り。桓武天皇延暦年間り草創なり。三方石観音とてその名高く、若狭の各地、近江等より参詣するもの多し。靈像は弘法一夜の作なりと。傳へ云ふ、弘法この地に遊ひしとき、山林の幽邃渓水の清浄を愛して、此の山に宿す、そのとき大花崗岩に観音大士の霊像を刻み、僅に一隻手を除すにいたり、天将に明けんとしたりしかは、その儘にして山を出づ、さるか故に霊像は片手なりと、堂宇は文化年間、臥龍院二十四世春山隣道の建てし所なり、明治二十八年回禄し、その後再建す。



参道の真ん中に岩(鶏鳴岩・妙法岩)があって、その上に鶏がいる。
鶏は霊鳥。夜明けを告げる鳥だからであろう。悪霊蠢く闇の時の終わりを告げ、光り輝く時の始まりを告げる。この鳥が鳴いてくれないことには何事も始めようがない。

三方断層の断層崖なのであろう。上から崩れて落ちてきたような花崗岩の大岩がゴロゴロしている。足の弱い方にはこの参道はキツイ。

観音堂よりまだだいぶに奥に「奥の院」がある。



熊谷大膳屋敷址
『三方郡誌』
熊谷大膳屋敷址。三方字館に在り、傳云ふ、熊谷直之の宅地なり、始此處に居り、のち井崎に移れりと。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


三方の主な歴史記録


『三方町史』
三方
三方湖畔にあった鳥浜貝塚(縄文時代草創期-前期)や田井野貝塚(縄文時代早期・前期)、水月湖畔にある海山遣跡(縄文時代中期・後期)などと、地形的に大へん似た状況にあった三方の集落は、それらと同様に約一万年も前から始まっていたと考えられる。昭和三十四年に実施された土地改良工事の際には、現在のように入念な発掘調査は行われていないが、今のニュータウン付近の生倉遣跡から、縄文時代中期の土器が、市港遺跡から、弥生時代後期-古墳時代の土器が多数出土している。昭和三年、八村尋常高等小学校の校庭拡張工事の際には、亘三長宅裏手付近にあった小林古墳から、大きな石斧(二五・八センチ、九センチ、二・八センチ)や多くの土器が出土し、約千八百年前の弥生時代のものと確認された。若王子参道の途中にあった「千年松」(昭和三十七年枯木となり伐採)付近の塚穴(俗称)や大上郷地籍(曲玉一個出土)に古墳らしいものがあったが、明治の中ごろから大正五-六年にかけて、採石や鉄道建設工事などのために破壊された。以上のような調査結果や地形の状況からみて、鳥浜と同様に縄文時代から人が住みつき、ほぼ現在の街並みに似た形で、湖畔や山ろくに沿って集落が造られてきたものと考えられる。
 古代の三方は、若狭国三方郡三方郷に属し、郡の役所が置かれ、三方郡の中心として発達していたものと考えられる。丹後街道に沿って、敦賀と小浜や佐柿峠と倉見峠のほぼ中間点にあるので、都合のよい所であり、隣り村の気山津が早くから日本海の重要な港として栄え、また西浦・三方湖の産物が集められて京都との交易が盛んに行われるなど、行政的にも経済的にも、三方郡や近郷の中心となって栄えてきた。
 昔は、旅をするには歩くか馬やかごを利用し、物を運ぶにも人や馬の背に頼っていたので、藩政のころからは宿駅としても相当な賑いをみせ、明治になってからは人馬継立所が置かれていた。明治の初め人力車が登場したころには、帳場で乗換所であった鳥居市左衛門の前には、いつも数台の人力車が用意されていた。明治の中ごろになって荷車・荷馬車・乗合馬車が生まれ、明治二十九年、北陸線の敦賀-福井間が開通したことによって、敦賀回りの人や物の動きが盛んになり、貨物取扱店も山中吉左衛門ら数軒ができて、三方は物資交流の中心として次第に活気を見せていった。さらに大正六年には、小浜線の敦賀-十村間が開通し三方駅が開設されたことによって、西田方面の湖上・陸上の交通が急速に発達し、三方駅を拠点とする人や物の交流が盛んになり、幾つもの金融機関や商店などが開業して、政治経済の中心として栄えた三方には、次のような官公署も置かれていた。
 三方郡役所-明治十七年九月、各村に設けられていた戸長並びに戸長役場を廃止して、各村連合の戸長役場が置かれたが、三方には、三方・向笠・鳥浜・生倉・気山の五力村の連合戸長役場が置かれた。同十九年四月、三方村の熱心な誘致努力によって、佐柿にあった三方郡役所は三方に移され、庁舎は現在のふる里会館付近に建てられた。明治二十二年四月「町村制」の実施によって、今までの八村組十一力村が併合されて「八村」となり、三方、南前川二つの連合戸長役場を廃し、八村役場を旧徳成小学校の建物に置いた。大正十年四月、「郡制廃止に関する法律」が公布され、大正十二年四月から自治体としての郡はなくなった。しかし、この後も行政区画の郡として、郡長と郡役所はしばらく存続していたが、大正十五年七月一日に郡長はなくなり、三方郡役所は閉鎖された(第三編第一章参照)。
 敦賀区裁判所八村出張所-明治二十一年十一月、敦賀治安裁判所三方出張所が、三方郡役所内に置かれた。明治二十三年、敦賀区裁判所三方出張所と名前が改められ、翌年三月、三方若王子下四二号八番地に、新庁舎が建設され移転した。大正八年には、敦賀区裁判所八村出張所と名前が変更された。昭和二十二年五月には、登記事務だけを取り扱う福井司法事務局八村出張所となり、同二十八年四月、福井地方法務局三方出張所に改められた。同三十七年十一月、三方若王子下四二号一二番地の新庁舎に移転し、平成元年十月二日には福井地方法務局敦賀支局に統合された。
 食糧事務所三方出張所-記録が乏しく確かなことは分からないが、昭和十七年当時は、旧役場横の公民館にその事務所があり、食糧検査や食糧管理の行政業務を行っていた。昭和二十二年五月、県機関である食糧検査の部門と、国の機関である食糧管理の部門が統合され、国営の食糧事務所三方出張所となった。その後、臥竜院下(現消防署の位置)の本造二階建て庁舎や、三方駅前にあった農業センターに移転し、農業改良普及員の詰め所にも充てられ、米麦や木炭など農林産物の検査・経営指導・食糧事務などを行った。昭和四十九年三月には、三方出張所は敦賀支所に統合された。
 農林省福井作物報告事務所三方出張所-昭和二十二年十二月に、三方三〇号二二番地に開設され、三方郡内七ヵ村を統轄して、農作物の作況予想と収穫量の調査報告を行っていたが、昭和四十二年四月、小浜出張所に統合された。
 三方税務署-明治二十九年四月、三方の榎本小七宅に三方収税署が置かれて、敦賀収税署から分割された三方郡を管轄し、同年十一月三方税務署となった。明治四十二年十月、官制改正(税務署官制の制定)により三方税務署が廃止され、所轄の三方郡は、敦賀税務署に移管された。
 また、三方郵便取扱所(現三方郵便局)が、明治七年六月に、山中定右衛門宅に置かれ、医師窪田文了によって郵便集配事務が執り行われた(第四編第六章参照)。


三方の伝説

『越前若狭の伝説』
石観音  (三方)
むかし弘法大師が修業のため諸国を回り、方々で石に観音像を刻んだ。若狭へ来られたときは、三方に宿をとられた。ここは山の中腹に清水か流れ、木々が青々と茂って美しい所であった。大師はここに観音像を刻もうと思い、その夜山の中腹に来て、明朝一番鳥が鳴くまでに刻み上げますと仏に誓った。大師は一心に刻んだが、そのうち夜かだんだん明けて、もう片手だけというところで一番鳥が鳴いた。それで大師はそのまま姿を消した。
あるとき観音様は、「わたしには手が一本しかない。それで手の病ならば、どんなものでもなおしてやる。」といわれた。そこで村の人は堂を建てて祭った。 (中塩清之助)

弘法大師が三方で石観音を刻まれたおり、もう右の片手だけというときに、下の村の人が川ばたに出てかまを洗う音が聞こえたので、大師は「もう夜か明けたか。」と思い、そのままにして山を出た。それでこの観音は片手がない。
手足の不自由な人はこの石観音にお参りして、堂前の小屋から木片を持ち帰って、それで不自由な所をなでるとなおる。全快したときは、それと同形のものを作ってお礼参りをして、さきの小屋に納める。故にこの小屋には手足乳房の形をした木片か山のように満ちている。    (福井県の伝説)

右の手首だけ彫り残したという。  (永江秀雄)

臥竜院  (三方)
むかしこの地に無位山宝福寺という寺があった。その末院に医王院、地蔵院などがあった。文応年中(一二六〇)北条時頼が当国今富庄を領し、宝福寺を建て、三方村をもって寺領に当てた。時頼は僧の姿で諸国を微行し、民情を巡察して、帰館後諸国に令して数十か所の寺院を復興させた。宝福寺はその一つである。しばしば兵火を受け、廃虚となった。その後村の人は、小屋を建てて、旧寺の仏像等を納めておいた。
越前南条郡春日山盛景寺の三世亀舜卜公和尚(おしょう)は、世間を避け、若狭の三方湖の東、椎(しい)木山のふもとに草庵をつくって修業していた。村の人は師を尊敬して食べ物を給した。和尚の様子は、臥竜(がりょう)が潜伏しているに似ているので、人は臥竜と呼んだ。むかしの宝福寺の跡を修復して、臥竜院と号し、和尚を開山第一祖とした。本尊は薬師如来である。
五世の日昇好公のとき。湖水の中に毎夜光るものがある。遠近の者はこれを怪しんだ。好公は漁帥をして水にはいらせ、さがさせたところ木仏一体を得た。見れば一尺五寸(四十五センチ)の薬師如来坐像である。その相好(そうごう)は端厳でなんともいえない。当時本尊としていたのは、むかしの医王院の本尊で、火災のときのがれたものである。よってこれまでの本尊は、寺門の外に別に一堂を置き、そこへ移し、潮中から示現した像を新しい本尊とした。故に土地の人は、前の小像を背戸(せど)の薬師という。
毎年七月(新暦八月)うら盆会(え)を行なう。当院の会は特別にぎやがで、旗や祭器かことのほか多い。道俗が群集し、商人が店を並べ、まるで節会(せちえ)のようである。この会に出ない者は長く不幸であるという。むかしある村の者数人か、この日の帰り道に鳥浜の雲井橋を通っていると、男女数十人か向こうから来て、「三方の会はまだ間にあうか。」と問うた。帰る人か「もう会はすんだ。われわれは帰るところだ。」と答えると、数十人の者は互に顔を見合せ、同時に一声叫ぶと、姿か消えてしまった。幽鬼が会に行くところであったのであろう。こういう怪異かしばしばあるので、上地の人は歌っていう。「三方寺の大施餓鬼(せがき)にわたしの情人を見よう。」    (位山記)

熊谷彦四郎   (三方)
三方の城縄手(なわて)という所に館(たち)という家がある。熊谷直実(なおざね)の末孫であるといわれ、家名を熊谷彦四郎ともいっている。あまり剣術の腕がたつので殿様からたち(舘)という姓をもらったものであるといい、熊谷家の定紋(じょうもん)か入ったよろいも伝わっていた。
むかしこの近くの佐古の荒山に熊谷直実の城があったが、周囲を敵にかこまれて兵糧(ひょうろう)攻めにあったとき、火で焼いた米を山の上から流して攻め登ってくる敵を防いだ。ずっと後にも、その山すそがら米が出て来たということである。三方湖のそばの生倉(いくら)の山にも別の城跡かあるが、後世の人がそこの石を動かしたら血が流れ出たということである。また、熊谷の城が落ちたとき。この近くのどこかに黄金の鳥を埋めたと言い伝えられている。  (永江秀雄)

    註
「三方郡誌」には、三方のあざ館(たち)に熊谷大膳の屋敷跡がある。これは熊谷直之の宅の跡であると伝えるとあるから、この伝説で熊谷直実というのは、熊谷直之のことを誤り伝えたのであろう。(永江秀雄)


『舞鶴の民話4』
貧乏神 (福井県三方)
 むかし、福井の三方というところに、藤兵衛どんという貧乏な百姓が住んでいた。
 この藤兵衛どんは、働いても働いても、暮しは楽にならなかった。ふえるのは子どもばかり、とうとう彼は病の床にふした。
 ある年の冬の、藤兵衛どんの家では、子どもに食べさす食物がなくなった。子どもをあつめて次のようにいった。
「苦労して働いて働いても、暮らしはよくならない、この冬が越せるかどうかも分からん、ここを去らんといかん」
「おとう夜にげするのか」
「そういうことじゃ、夜中ににげるんじゃ」
 藤兵衛がおしっこに便所にいくと、見知らぬ男が、何かごそごそしている。
「お前はだれじゃ、みたことないな」
「わしは、貧乏神というじゃ」
「貧乏神か、こんなところで何しとるんじゃ」
「わしもここから出ようとしているんじゃ」
「わしについてくるか」
「お前がすきじゃ、いつまでも付いていくて」
「おかあ、大変じゃ、きたない貧乏神がおるぞ」
おかみさんは、ねむたい目をこすり
「え、貧乏神がいるのか、暮らし向きがよくならんのはそのせいか」
「まあいいではないか、居りたいものは居らしたらいい、わしに付いてくるんやったら、夜にげせんでもいいな」
つぎの日貧乏神は用意して、藤兵衛がでるのを待ったが、なかなかでてこない。
「おそいおそいにげだすのは明日の朝かな」
そこで貧乏神はわらじを次から次に作った。あくる日も次の日もわらじを作った。作るのがおもしろくなった。
藤兵衛は、貧乏神のつくったわらじを町に売りにいった。
「さあ安いよ安い、買った買った」
わらじは毎日毎日よく売れた。
売ったお金で酒をどんどん買って貧乏神をもてなした。
「貧乏神さま毎日わらじありがとう、ようやく暮らしもよくなった。さあいっしょに祝ってくだされ」
「おゝよかったよかった、すっかりごちそうになった、もうこの家に用事はない」
貧乏神はさっさと出ていった。
「は、はあはあ……」
藤兵衛とおっかあは安心してねむった。
貧乏神は藤兵衛どんの酒にすっかり弱ってしまってその場にへたへたとすわった。
それからも貧乏神は、せっせとわらじを作った。それを藤兵衛は町に売りにいった。
藤兵衛は、それからは子ども、おっかあと幸福にくらしたということだ。.




三方の小字一覧


『三方町史』
三方
北萱田(きたかやだ) 山ヶ崎(やまがさき) 江の端(えのばた) 道谷(どうだに) 松木谷口(まつきだにぐち) 北庄境(きたしょうざかえ) 山脇(やまわき) 芋川(いもがわ) 多井田(たいだ) 沢田(さわだ) 三味の元(しやみのもと) 大将軍の森(だいしょうぐんのもり) 塚はざか(つかはざか) 縄引田(のうびきでん) 新田屋敷(しんでんやしき) 菅野(すがの) 深川(ふかがわ) 菅原(すがわら) 山道(やまみち) 間の山(あいのやま) 朝日山(あさひやま) 大谷(おおたに) 山腰(やまのこし) 市の上(いちのがみ) たもの木の元(たものきのもと) 大上郷(だいじょうごう) 片原田(かたはらだ) 市港(いちみなと) 三反田(さんだんだ) 清水尻(しみずじり) 美の越(みのこし) 大門(だいもん) 石橋(いしばし) 城縄手(しろなわて) 舘の下(たちのした) 向浜(むこうはま) 山川の北(やまかわのきた) 舘薮(たちやぶ) 堀の越(ほりのこし) 馬場(ばんば) 若王子の下(じゃくおうじのした) 宮の腰(みやのこし) 冷田(ひえだ) 山川の南(やまかわのみなみ) 中道(なかみち) 山神の下(やまのかみのした) 早落(はやおとし) 清水の坪(しょうずのつぼ) 山神の南(やまのかみのみなみ) 多毛谷(たもだん) 北の境(きたのさかい) 庄境(しょうざかい) 麦無(むきなし) 清水(しみず) 森川(もりかわ) 小川(おがわ) 森上(もりがみ) 郡神(こおりがみ) 向浜南(むこうはまのみなみ) 村下(むらした) 亀田(かめだ) 船引(ふなびき) 鰣川(はすがわ) 開田(かいでん) 拾割(じゅうわり) 川跡(かわあと) 野谷(のだに) 椎端(しいばた) 住吉(すみよし) 渡川(わたりがわ) 蓮海(はすみ) 江尻(えじり) 天田(あまだ) 掛樋(かけひ) 村上(むらかみ) 大畑(おおはた) 呉田(くれだ) 市姫(いちひめ) 今川尻(いまがわじり) 雲井(くもい) 高柳(たかやなぎ) 樋口(ひぐち) 上口(じようこう) 窪田(くぼた) 高瀬(たかせ) 七野(ななの) 弁天(べんてん) 温里(ゆり) 加屋(かや) 友直(ともなおし) 大坪(おおつぼ) 黒崎(くろざき) 中加屋(なかがや) 大町(おおまち) 笠取(かさとり) 川田(かわだ) 石田(いしだ) 庄田(しょうだ) 猪田(ししだ) 多毛の町(たものまち) 七反田(しちたんだ) 六反田(ろくたんだ) 東六反田(ひがしろくたんだ) 奥鎌田(おくかまだ) 大橋(おおはし) 口鎌田(くちかまだ) 村山尻(むらやまじり) 市の中(いちのなか) 能面(のうめん) 池の尻(いけのしり) 上屋敷(かみやしき) 上村山(かみむらやま) 場正面(ばしょうめん) 加須田(かすだ) 西平田(にしひらた) 上川田(かみかわだ) 古畑尻(よしはたじり) 上伊登(かみいと) 下小舞子(しもこぶし) 川分(かわわけ) 千代崎尻(ちよざきじり) 上吉畑(かみよしはた) 上樋口(かみひぐち) 梅寺(うめでら) 松木の谷(まつきのたに) 小谷(おだに) 植の山(うえのやま) 尾の尻(おのしり) 平山(ひらやま) 堤ヤ谷(てやたに) 猫川口(ねこがわぐち) 猫川(ねこがわ) 清水落し(しょうずおとし) 亀ヤ谷(かめやたに) 丸山(まるやま) 道ヶ谷(みちがだに) 黒釜(くろかま) 女滝(めたき) ほう月谷(ほうづきだに) 滝ヤ尻(たきやじり) 神楽岩(やくしいわ) 新道頭(しんどうがしら) 池ヤ谷(いけやだに) 水呑南(みずのみみなみ) 釜谷(かまだん) がんど(がんど) 猿は馬場(さるはばば) 椎山(しいやま)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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