丹後の地名 若狭版

若狭

旧・三方町(みかたちょう)
福井県三方上中郡若狭町


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福井県三方上中郡若狭町

福井県三方郡三方町

福井県三方郡八村・西田村・十村

旧・三方町の概要




《旧・三方町の概要》
三方五湖のうち三方湖、水月湖、菅湖が町域にある。鳥浜貝塚や水月湖の7万年の年縞で知られる町。常神半島は若狭湾国定公園に含まれる景勝地。主な交通機関は町のほぼ中央部を南北に走るJR小浜線と国道27号、舞鶴若狭自動車道。町域は山林が多く、鰣川流域に平野が開けるほかは田井の別所川流域にわずかに平地がある、中世以来、漁業への依存度が高い。常神半島西岸の浦々(西浦と総称する)は若狭はもとより日本海側での漁業の先進地であった。
明治22年の町村制施行により、八村・十村・西浦村・田井村が成立、この時気山村の一部(字牧口(まきぐら))は現美浜町に含まれる西郷(さいごう)村に編入された。明治40年西浦村・田井村が合併して西田村となる。昭和28年西田村・八村が合併して三方町が成立、翌29年十村を編入した。町名の由来は古来以来の郷名による。平成17年に上中町と合併し若狭町となる。梅林があり、福井ウメを産する。

〔沿革〕
原始・古代
鰣川低地周辺部は、町内遺跡の半数以上を占めている。縄文時代の遺跡として鰣川と高瀬川との合流点付近に所在する鳥浜貝塚がある。この貝塚は、早期(草創期)から前期にかけてのもので、淡水産の貝類によって形成された貝層と植物性遺物による有機物層とがそれぞれ互層になった低湿地遺跡としての性格が明らかにされた。特に珍しいのは植物性遺物の出土である。木器として石斧柄、弓、盆、赤漆塗りの櫛などがあり、草の茎などを利用した編み物や糸・縄・ひょうたんなどで縄文人の日常生活をつかむことができる。
弥生時代の遺跡としては、向笠・藤井・三方に6遺跡がある。向笠の仏浦遺跡から弥生後期に属する袈裟襷文の銅鐸が発見されている。古墳時代の遺跡としては、後期に属すると思われる古墳(円墳)が南前川・藤井・相田の旧丹後街道の東山すそおよび丘陵に点在し、古墳群を形成している。
田井地区では縄文時代の遺跡として、前期の土器が出土する田井野遺跡がある。古墳が世久津に1基、河内・田井野には河内を源とする別所川によって作られた小規模な低地に所在する土師器・須恵器を出土する3遺跡がある。
海岸部では神子のタジリ遺跡があり、縄文中期の土器が出土する。古墳時代の遺跡としては、食見に古墳が1基ある。製塩遺跡は町内では5遺跡が確認されている。出土土器から古墳時代後期から奈良期のものと推定されてる。
古代の郷と常神社
能登郷は現在の能登野あたりにあった郷で、和銅6年(713)以前には「乃止」と書いたことが平城宮跡出土木簡によって確かめられている。三方郷は鰣川下流にあった郷と推定され、これまた平城宮跡出土木簡に「三方郷」と記されている。
常神半島先端部には「延喜式」神名帳に「常神社」として載る常神神社がある。「若狭郡県志」などや伴信友の説くところによれば、神功皇后が敦賀から長門国豊浦へ船で赴く途中でこの地に寄ったので神功皇后を祭神とする神社がつくられ、また、皇后が渡った渟田門とは常神浦と丹生浦の間の海だとされる。

中世の荘園と武士
町域内の荘園のうち延暦寺・日吉社関係の荘園が少なくない。倉見荘(新日吉社領)、前河荘(日吉社領)、三方寺(延暦寺無動寺領)、現在の世久見と食見の地に比定される能登浦(延暦寺門跡寺青蓮院領)、小河浦(山門東塔北谷虚空蔵尾領)がそれである。鎌倉初期の土着武士としては倉見平太範清が知られるくらいであるが、関東御家人で若狭の守護となった若狭忠季は倉見荘・前河荘・三方郷の地頭職を得ている。この若狭氏は三方郷を拠点に南北朝期の中頃まで存続した。室町期から戦国期にかけては近江より入部した熊谷氏が武田家臣となって勢力を振るうようになる。
浦の廻船と漁業
気山には平安期より気山津と称される津があって、越中の官物が陸揚げされており、津の刀禰たちが勘過料を徴したことが知られている。この気山津は、その後海岸地形の変化によって港の機能を果たせなくなる南北朝期頃までは、日本海交通の要津であった。若狭の他の津々も日本海廻船に従事しており、現在の神子の住人時定は平安末期の承安4年(1174)8月に伯耆国久永御厨より訴えられているが、この訴訟は年貢米運送に関するものと判断される。正和5年(1316)に常神浦刀禰の娘乙王女はフクマサリという船と銭70貫、米150石を親から譲与されており、廻船による富の大きさに驚かされる。神子は中世では御賀尾浦と称されることが多いが、鎌倉末期には加茂氏に代わって近江国伊香郡を本貫とする大音氏が刀禰となり、豊富な中世文書を伝えている。それによると、浦は廻船のほか製塩と漁業を行っており、特に鎌倉末期から製塩に用いる燃料確保のための山と、その山に付属する漁場の権利をめぐって、北の常神浦や南の小河浦と争っている。南北朝期に本網の「むらきみ」の権利を有していた刀禰大音氏であるが、戦国期天文10年(1541)には大網を創業する大網中が形成されるようになっている。また、戦国期には浦は武田氏の要求により魚を美物として随時納入している。
宇波西神社の田楽神事
気山の宇波西神社は、「延喜式」神名帳に、北陸道352座の神社のなかでも唯一の月次・新嘗にあずかる神社として見えているが、戦国期の文明17年(1485)以降の田楽頭文を伝えている。この頭文は毎年3月8日(現在は4月8日)の祭礼の日に行われる田楽の費用を負担する3名の頭を指定した文書であり、この頭人は耳西郷の有力者が交替で勤めている。近世になると、田楽・王舞・獅子舞の神事とその費用負担は各村ごとに定まるが、中世においては耳西郷全体で宮座を構成していたものと考えられ、中世宮座やその芸能を知りうる例として注目されている。
熊谷大膳と大倉見城
熊谷氏は粟屋・山県・内藤などと並ぶ守護武田氏の重臣である。大倉城(井崎)の城主であった熊谷大膳直之は越前朝倉勢と戦った。永禄11年(1568)8月中頃、国吉城(美浜町佐柿)を攻めあぐんだ朝倉勢が、三方に兵を進め、大倉見城を攻撃してきたのである。熊谷大膳は三方郡西部の諸将、相田の山中武辺、藤井の山県下野守秀政、横波の長井左近、上野の熊谷蓮西、田井の入江実次、気山の熊谷平左衛門らとともに篭城し、ついに朝倉勢は小浜へ向かったと伝える。朝倉氏滅亡後、織田信長に投じ各地を転戦、天正年間(1573~92)豊臣秀吉に仕え、のちに従五位下大膳亮に任ぜられる。ところが文禄4年(1595)7月14日、秀次事件に連座し嵯峨二尊院で自害したと伝える。
三方の仏像群
国道27号の街道沿いに中世の仏像が多く見られる。地蔵院の地蔵菩薩座像は、寄木造りの鎌倉期の作である。向陽寺は明徳2年(1391)創立の若狭曹洞宗第一道場といわれ、十一面観音立像がある。伝芳院は応永17年(1410)創建といわれ、銅製釈迦如来座像があり、中国の元の頃の作である。弘誓寺には33年に1度しか開帳しない秘仏の室町期の如意輪観音半踟像がある。ほかに鎌倉期の木造多門天像がある。成願寺大坊は成願寺という大寺のあった所である。月輪寺の聖観音菩薩立像は寄木造りの南北朝期の作で、33年に1度しか開帳しない秘仏である。ほかに薬師如来座像がある。大乗寺には木造釈迦如来座像がある。室泉院は宇波西神社の別当寺で、鎌倉期の薬師如来座像がある。

近世、江戸期の村々
江戸期の当町域は小浜藩領であった。「元禄郷帳」に見える当町域の村々は、海山・田井・成出(田井村枝郷)・気山・生倉(三方村枝郷)・三方・北前川・南前川・藤井・相田・田名・向笠・佐古・黒田・田上・岩屋・井崎・横波・能登野・上野・成願寺・西路(古くは白屋)・倉見の23か村、常神・神子・北小川・遊子・塩坂越・世久見の6か浦を数える。「旧高旧領」では、このうち西路村は白屋村、北小川は小川浦、世久見浦は世久美浦と見える。
大音文書には浦惣有の大網、個人所有の家督網、沖合い漁業としては隠岐方面への釣魚などが見える。海岸部は田畑や山林も少なく、漁業の占める比率が大きかった。江戸期に入ると、油桐、ころび栽培が、かなり重要な地位を占めてきた。小浜は屈指の桐油産地として知られたが、常神半島地方は油実の供給地となったのである。大音家文書の油桐に関する記録としては、天正17年のものが古いと思われるが、灯油の需要が伸びたこともあって江戸期に大いに発展した。
三方石観音は若越八十八か所49番の札所で、弘法大師一夜の作といわれる右手のない観音が祀ってある。昔から手足の不自由な人の信仰が篤い。堂宇は文化年間(1804~18)の建立である。本堂横の御手足堂には、木製の手足や松葉杖・ギプスなどが奉納されている。
行方久兵衛と浦見川開削
水月湖は丘陵に囲まれ、わずかに菅湖から東へ出て気山川に流れていたため、大雨で増水すると、三方・水月湖沿岸の民家・田畑はしばしば被害を受けた。京都の町人後藤治兵衛は浦見坂の開削を計画し、小浜藩主酒井忠直に申請し、寛文元年(1661)手代谷口甚右衛門らの手で着手した。しかし天候不順で工事は進まず、ついに中止してしまった。同2年5月、大地震があり気山川がふさがって湖水があふれ、沿岸の各村は水に浸り、田畑は収穫がなく、はなはだしい惨状となった。そこで藩では、梶原太郎左衛門・行方久兵衛を惣奉行として浦見坂開削に着工した。工事は半ばで大きな岩石が現れ、遅々としてはかどらなかったので、越前および京都白川から石工を呼び寄せるなどして同4年5月に完成したが、要した人夫は22万5,300余人、費用は1,659両であった。浦見坂の切通しの長さは144m、川幅7.2m、川の長さは324m、これにより、新たに90余町の田地が開け、生倉村と成出村ができたのである。この工事がはかどらないのをあざけった落首に、「堀りかけて通らぬ水の恨みこそ底行方のしわざなりけり」「浦見坂横田狐にだまされてほるにほられぬ底の行方」があり、難工事であったことがうかがわれる。行方久兵衛はいかにも初志を貫きたいと、毎夜宇波西神社に祈願を込めたところ、ある日「少し北に寄せて開削せば必ず成功すべし」という夢のお告があったと人夫たちを励ました。人夫たちは半信半疑ながら、少し北に寄せて掘ったところ、工事は着々と進んだとも伝えられる。

近現代の行政区画の変遷
当町域は明治4年小浜県、敦賀県、同9年滋賀県を経て、同14年福井県に所属した。この間明治7年田井村から成出村、同年三方村から鳥浜村が分村したともいわれる。同22年市町村制施行により、常神・神子・小川・遊子・塩坂越の5浦が合併して西浦村、海山・田井・成出の3か村および世久美浦が合併して田井村、生倉・三方・鳥浜・北前川・南前川・藤井・相田・田名・向笠・佐古の10か村および気山村の一部が合併して八村、黒田・田上・岩屋・井崎・横渡・能登野・上野・成願寺・白屋・倉見の10か村が合併して十村が成立した。同40年西浦村と田井村が合併して西田村となった。昭和28年西田村と八村が合併し、町制施行して三方町が成立し、同29年十村を合併した。平成17年に上中町と合併して若狭町となった。


豊かな自然と観光
当町には三方五湖、変化に富んだ若狭湾国定公園の海岸、三十三間山の緑の山並みといった美しい観光資源がある。昭和43年、三方富士と呼ばれる梅丈山に有料道路レインボーラインが開通し、三方五湖と日本海を一望できるようになった。また三方五湖めぐりの遊覧船も出て毎年多くの観光客が訪れる。産業も観光とタイアップして、果樹栽培による観光客を対象としたブドウ・カキのもぎりとり園や、タタキ網漁・エリ漁などを遊覧船コースに組み込む観光漁業も行っている。
常神半島は、かつて交通機関が漁船だけで、陸の孤島といわれてきたが、ようやく昭和43年断崖を切り落として道路が完成した。


旧・三方町の主な歴史記録






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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