丹後の地名 若狭版

若狭

神子(みこ)
福井県三方上中郡若狭町神子


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福井県三方上中郡若狭町神子

福井県三方郡三方町神子

若狭国三方郡西田村神子

神子の概要




《神子の概要》
常神半島に位置し、北は常神、南は小川。神子漁港があり、漁業が盛んである。神子海水浴場や県名勝の神子山桜で知られる。

古くは御賀尾(みかお)浦といい御面・参河(川)などとも記した。近世初期から神子と称する。常神半島の西側に位置する。地名の由来は、中世の倉見荘に属し御賀尾浦と称していたことによる。
平安末期より鎌倉初期にかけて近江伊香(いか)大社(滋賀県伊香郡木之本町の伊香具神社)の神主の出である伊香氏が当地に移住して開発したのに始まるといい、嘉応2年(1170)12月28日付後白河院院庁御賀尾浦四至差定状に御賀尾浦の四至が「限東山峯 限西海 限南俣浜限北鯨浜石」と記され、「右、去十二月院庁御宛文任、差定所状、如件」とあり、常神浦とともに領有権が伊香氏に認められたらしい。承久(1219-12)頃両浦が対立して常神は伊香氏の支配を離れ、伊香氏は御賀尾浦を本拠として当浦の刀禰職を伝領した。伊香氏は鎌倉前期には賀茂氏を名乗っていたようで、建武3年(1336)6月13日付若狭国御家人大音左衛門三郎助俊軍忠状以降は大音氏として所見する。
御賀尾浦は倉見庄に属し、倉見庄は鎌倉期延暦寺領であったが、鎌倉末期の元応2年(1320)8月13日付の御賀尾浦山宛行状に「若狭国守護領内御賀尾浦」、文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写に「賀尾浦九町二百十歩」(志万郷に六町五反余、西郷に二町五反余)とあり、鎌倉末期の注として「国領」、「地主同前」(地頭職税所分)とみえるので、鎌倉後期までに当地は北条氏得宗領となり、地頭職が国衙税所のものとなっていたことが知られる。室町時代には等持院領となり、永享9年(1437)3月16日付等持院納所堅永下知状に「若狭国等持院御領倉見庄内三賀尾浦」などとみえる。大音家には多くの中世文書が伝わる。
中世のミコうら。戦国期に見える浦名。若狭国三方郡のうち。弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「弐百文 ミコうら」と見える。年代はさかのぼるが常神浦の都津宮大明神社造営にあたって200文を奉加した「神子殿中」が文明2年(1470)の棟札銘に記されている。
近世の神子浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。文化4年(1807)の家数35・人数194。神社は諏訪社と山王宮があり、明治41年合祀し、神子神社と称した。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年西浦村の大字となる。
近代の神子は、明治22年~現在の大字名。はじめ西浦村、明治40年西田村、昭和28年から三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北2町、戸数37、人口は男131 ・ 女96、学校1、小船37。


《神子の人口・世帯数》 136・37


《神子の主な社寺など》

神子遺跡
海岸に沿う通称マチアダに広がる奈良・平安時代の土器製塩遺跡。昭和52年試掘調査され、波浪により相当削られていることが判明した。出土遺物は、奈良時代の船岡式製塩土器、平安時代の傾・塩浜式製塩土器、甕などの須恵器である。また南方約100メートルのタジリからは縄文中期の土器片が出土した。

神子神社

民家の裏のほうにある。古木鬱蒼として古い来歴をとどめる。案内板がある。
神子神社 御祭神と由来
大山咋命
 比叡山の地主神として崇敬され日吉大社の祭神で、伊香具神社の山王社に大音明神として祭られていたのを大音家の祖で伊香具大社(滋賀県木之本町)神主 安助の四男 安崇が嘉応二年(一一七〇)神子 常神の領主に任ぜられ、この縁で 弘安六年(一二八三)伊香具神社から山王社を勧請し当社殿を建立し、以後左記の御祭神が奉祀された。
浜 大神
 この地の古老の、口伝によれば大昔(年代不祥)から神子(御賀尾)の、浜神社に鎮座され海上の守護神として御神徳を受けた者、少なからずいた。
建御名方富命
 大国主命の御子で武勇に勝れた農耕の神で、諏訪大社の祭神であり延慶三年(一三一〇)倉見荘代官 左衛門尉藤原盛世が諏訪大明神(長野県諏訪市)を勧請し、この地の産土神とした。
天照皇大神
 皇室の祖神で日の神と抑がれ伊勢神宮の祭神であり、浜神社の境内に祭られていた。
誉田別尊
 神功皇后の御子 応神天皇で、字佐八幡宮の祭神であり全国に八幡信仰として崇敬されており、明治四十一年(一九〇八)諏訪社境内の八幡社を勧請し産土神の諏訪社 浜神社 天照皇大神 山王社とを合祀して神子神社と改められた。
平成八年一月吉日   謹呈奉納


神子の産土神諏訪社(旧村社)と、当地の開発領主大音家の氏神山王宮(日吉十禅師宮、大音明神ともいう)を明治41年に合し、改称。社殿はもとの山王宮。
諏訪社は延慶3年(1310)4月に藤原盛世(倉見庄の荘官か)が勧請して神田2段が寄進され(同月8日付「諏訪明神神田寄進状」大音家文書)、正和4年(1315)9月9日付中務丞源某下知状(同文書)に「諏訪本社下宮毎年御贄事、当浦月菜内干鯛拾・員魚六十、毎年預刀禰丸、以便宜、可被運送社家也」とみえる。諏訪下社に毎年御贄を貢進していたが、同年9月18日付中務丞源某下知状(同文書)には「諏訪本社御贄運送人夫役事」として「右、毎年運送之条、海人可歎申之間、向後者毎年御贄狩 七月廿五・六日但可随日寄 垂釣、仮令干魚折四合定、御贅屋致潔済、可干置之、其後代替、彼干魚三・四年 仁一度可送進本社也」とある。
山王宮は「若州管内社寺由緒記」に「日吉十禅寺宮本尊地蔵菩薩 弘安六年五月吉日比丘尼阿蓮為二両親安穏後生善所一建立と申伝候」とある。応仁2年(1468)・天正3年(1575)・慶長10年(1605)・元禄4年(1691)の棟札が残る。

『三方町史』
神子神社
神子字尻無に鎮座。祭神建御名方富命。旧村社。この地の産上神であった諏訪社祭神建御名方富命に、次の神社の祭神が明治四十一年に合祀され社号を神子神社と改めた。
八幡社祭神誉田別尊    (元、諏訪社の境内社)
山王社(大音明神)祭神大山咋神(元、大音家の氏呻)
浜神社祭神浜大神       (元、区内に鎮座)
天照皇大神宮祭神天照皇大神  (元、浜神社の境内社)
 社殿はもとの山王社である。諏訪社は、明治九年六月八日に村社に指定された。
 この諏訪社は、延慶三年(一三一〇)四月八日に、左衛門尉藤原盛世(倉見荘の地頭か代官と思われる)が、諏訪大明神(現、長野県諏訪郡下諏訪町)を勧じょうし、神田弐反を寄附したもので(大音文書)、正和四年(一三一五)以降は、諏訪神社下宮に干鯛拾・貫魚六十を毎年刀袮が預って社家(諏訪神社下官)に運送したのである(大音文書)。
 山王社(大音明神)は、大音氏一族の氏神としてその祖神をまつった伊香具神社(滋賀県伊香郡大音村)から勧じょうしたもので、弘安六年(一二八三)五月吉目に建立されたものと伝える(ツ若州管内社由緒記』)。
また、応仁二年(一四六八)・天正三年(一五七五)・慶長十年(一六〇五)・元禄四年(一六九一)の棟札が今も残っている。
 この社の例祭は五月二十七日である。


『三方郡誌』
諏訪神社 村社。神子に鎮座す。土産神たり延慶三年藤原盛世の勧請したりし所な、盛世は何人なるか詳ならす。倉見庄の地頭か、或は代官なるべし其時神田貳段を寄進す明治九年六月八日、村社に列せらる
〔合祀〕大音明神 同区に鎮座したりき大音氏か、その祖神を祭れる伊香具神社より勧請したるなり伊香具神社は近江伊香郡大音邑に鎮座す。因て大音大社大明神と稱す今は濱神社と共に諏訪神社に合祀す



曹洞宗釈宝山慶運寺

『三方町史』
慶運寺
在所神子五-三。山号釈宝山。曹洞宗。本尊薬師如来。延宝年間(一六七三-八八)に開かれたが、開山は、臥竜院第十一世鉄岩であり、開基は、大音家泰運院機山全忠居士である。臥竜院の末寺で、もと釈宝山海源寺といい、平僧地であった。その後、法灯の絶えることはなかった。しかし、明治維新後廃寺となって、本山(臥竜院)から鑑寺(かんす)が派遣されて、勤行が行われていた。明治二十二年、集落民たちは、此の寺を法地として再興しようとした。ところが、海源寺は既に廃寺となっていたため、遠敷神通寺の末寺であった慶運寺を臥竜院の末寺に変更して、堂はこれまでの海源寺の建物を、寺号は慶運寺の名を使用し、臥竜院第三十一世泰舜を伝法(師が弟子に仏法を授け伝えること)第一世として再興した。 境内は二百三十坪(七五アール)余で、約九町歩(九ヘクタール)の山林・畑地がある。境内には、明治維新の参議本戸孝允(桂小五郎)の正妻で、孝允の死後は尼僧となって墓を守り、明治十九年四月十日、四十四歳でこの世を去りた神子出身、江戸幕来の祇園の名妓幾松(本名計(はかる))の大理石像(背丈約七〇センチ)が「幾松観音像」として昭和五十七年に建立され、幾松の命日四月十日に除幕式が行われた。


『三方郡誌』
慶雲寺。曹洞宗。神子に在り。もと釈寶山海源寺と云ひ、臥龍院の末寺にて、平増地なりき。海源寺開山は臥龍院第十一世鐡岩にて、爾後法燈絶ゆることなかりしも、明治維新の後、廃寺となす。されと猶本寺より看守を遣はし、勤行を絶たさりき明治三十二年、區民、法地として再興すへく、海源寺の既に廢寺となりしか爲に、神通寺〔遠敷郡〕末寺慶雲寺を臥龍院末寺に轉換し、堂宇は従来のものを襲用して、再興し、慶雲寺の號を用ゐて、臥龍院第三十一世泰舜を傳法第一世とす境内二百三十餘坪、山林畑地約九町歩を有す、檀家三十六戸あり、


大音文書
大音家には250点に及ぶ中世文書が伝わる。平安時代1、鎌倉時代約40、南北朝時代20、残りは室町時代のもので、刀禰職・山守職・神主職等の補任状、検注帳、年貢公事関係の訴訟文書、年貢・公事・棟別銭等の請取状(永享年間より戦国全期にわたる。約120点)やそれに関する書状、家財譲状等が主である。近世文書も多いが、漁業関係としては浦惣有の大網、個人所有の家督網、沖合漁業として隠岐方面への釣魚の事実を示すものなどが注目される。桐実関係文書も多数ある。県文化財に指定されている。
『若狭町の文化財』 (写真も)
【大音家所蔵古文書】【県指定】
 神子の大音家には刀禰職安堵状など古代の文書二点をはじめ、神職赴任状・年貢・公事関係などの中世の文書二〇〇点余、さらに近世の漁業関係・年貢・宗門改・油桐(ころび)栽培その他。一般の地方文書が大切に保管されている。
 これらの文書は、地方史の研究はもとより、日本の近世漁村史を語る上で大変貴重な資料となっている。
 大音家はその昔、近江の国(現滋賀県)伊香郡大音村の伊香具神社の神主家であったが、平安時代来期に若狭国倉見庄御賀尾浦(現若狭町神子)に移住し、神子・常神の開発領主となった。以来刀禰職を継承し、姓も伊香から大音に改称し現在に至っている。
 平安時代から明治時代に至る多数の文書は歴代の当主によってしっかと引き継がれ、現在文書三三四点と、冊子一一〇点が県有形文化財に指定されている。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
幾松

『新わかさ探訪』
幾松のふるさと
時代の荒波の中を強く生き抜いた女性
 長州藩出身の木戸孝允(旧名・桂小五郎、1833~77)は、大久保利通、西郷隆盛とともに明治維新の三傑と称される人物。その妻松子は若狭の出身で、幕末期に芸者「幾松」として桂小五郎を助けるなど重要な役割を演じました。
 松子は天保14年(1843)、現在の小浜市木崎で、小浜藩士の木崎市兵衛と、常神半島神子浦の医師細川益庵の娘すみとの間に生まれ、計(かず)と名付けられました。しかし、計が幼いころ、藩内での事件から父市兵衛が妻子を残して小浜を離れ、母すみは、娘らを連れて実家の細川家に戻り、計は約5年間を神子浦で過ごしています。
 その後、京都で父親と母子は再会を果たしたものの、都での暮らしは苦しく、計は口減らしのため、芸者置屋を営む難波恒次郎方に預けられました。美しく、笛や舞などの芸事にも秀でた計は、14歳で2代目幾松を襲名しています。
 幼少時から荒波にもてあそばれるようにして育った幾松は、19歳のとき、桂小五郎と出会います。宴席に加わるうちに意気が合い、伊藤俊輔(後の博文)の支援を受けて、桂は幾松を身請けしています。桂は幾松より10歳年上でした。
 のちに尊王攘夷派の中心として徳川幕府崩壊を謀る長州藩の指導者であり、後年の小説などでは、新撰組から付け狙われる桂を、幾松が機転を利かせて襲撃から守ったり、自らも追われる身となりながら、危険を冒して潜伏中の桂に食料を届け、連絡役を務めるなど献身的に尽くすといった、フィクションを織り交ぜたドラマなども作られています。
 明治維新後、桂は木戸孝允と改名し、参議など要職を歴任、維新政府の中枢として版籍奉還・廃藩置県に尽力しました。
 幾松は、山口藩士岡部富大郎の養女となり松子と改名、正式に孝允の妻として東京で生活。明治10年(1877)に孝允が亡くなった後は京都に戻り、同19年4月10日に43歳の短くも波乱に富んだ生涯を閉じています。その墓は、京都市東山区の霊山護国神社に、孝允の墓と並んで建てられています。
 かつての遠敷郡木崎村(現在の小浜市木崎)には木崎家が16家あり、幾松の生家もその一つとされています。小浜市塩釜の木崎旅館は、幾松の父方ゆかりの家。玄関前に小浜市が設けた説明板があり、ホールには幾松に関する年表や、幕末・維新の舞台となった場所の写真などが掲げられています。
 また、幼い幾松が5年間を過ごした母方の里、若狭町神子には細川姓の家が1軒あり、今は民宿をされています。分家を認めない土地柄で、神子の細川家は代々1軒のみ。細川家では、「幾松のことは語り伝えに聞いている。ただ、戦前に火災ですべてを焼失したため、古いものは何も残っていない」とのことでした。集落の高台にある慶雲寺には、昭和57年4月10日(幾松の命日)、細川家の親戚に当たる人によって、幾松観音像が建立されました。
 地元のおばあさんは、「私たちの世代は、ほとんどここで育って、ここに嫁いでいます。細川家の血筋を引く人も多くいます。幾松という人は、テレビドラマなどで見るように、気丈でしっかり者だったのだろうと思います」と話していました。


神子の主な歴史記録


『三方町史』
神子
神子の集落は、昔からの住民と、近江国から移住してきた大音一族とが入り混じったものであり、山林は大音家所有以外のものは全部共有林となっている。
 大音家所蔵の「伊香系図」によると、大音家の祖は近江の伊香郡伊香具村大字大音の伊香大社神主安助の四男安宗で、若狭三方郡に移住し、御賀尾(神子)浦と常神浦の領主となって開発した。嘉応二年(一一七〇)十二月三日、国使、郡司が見え、両浦の領主として認められた。姓を伊香から加茂、そして現在の大音に改称した。このように大音家は開発領主でありながら分家は三戸しかない。これらのことは口碑伝承でなく、大音文書の史料によるとして神子「郷土誌」にも紹介されている。
 この大音家には、大音氏が神子に転住して以来、八百年余のことに関する文書が非常に多く残され所蔵されており、福井県有形文化財として四百四十四点が、昭和四十二年に指定された(第五編第四章参照)。大音家一族の氏神であった山王社と、神子神社のことについては神社の項(神子神社)で述べてある(第五編第三章参照)。
 庄屋株は、大音甚四郎・大音伝左衛門・松岡市太夫であって、その下に相談役の八軒衆が決まっていた。この八軒衆は村の旧家であり、村を保護維持してきた。なお、江戸時代の五人組の編成については、神子浦では、藩命によってただ形式的に作ったものか、あるいは、軒なみにすると、勢力分野が大音家にかたまったりして不均衡を来たすおそれがあったためか、普通どおりの軒並順でなくばらばらであった。
 ここでは、古くから漁業を中心として生活を営んできた。元亨三年(一三二三)の文書に「たて網」が、また、天文五年(一五三六)の文書には「大網」が記されている。応長七年にこの集落が持っていた船や網は表52に示したとおりである。なお、隠岐方面への釣り魚の沖合漁業が行われていたことも文書に残されている。このように古くから定置網が行われていたが、昔はわら縄の網であった。明治の末ごろから綿糸になり、さらに太平洋戦争後は化繊になって長持ちずるようになった。網の構造も三角式から越中式落ち網に、次いで大謀網に改良されてきている。
 昭和二年ごろから、定置網は個人資本で、神子以外の者が経営していたが、昭和二十四年からは組合の経営になった。
 第四編で述べたように、油キリの栽培もかなり古くから行われており、このことについての最も古い文書としては、天正十七年(一五八九)のものが残っている。神子は、この半島での油キリ実生産の中心地であった(第二編第四章参照)が、太平洋戦争後不振となり、現在は全く顧みられなくなった。
 昔からこの地域の集落(小川・神子・常神等)では分家が認められず、次男、二男は、自分の集落の外へ出なければならないことになっており「兄貴は田地田畑は皆もらい、おじは便所の踏み板さえあたらない」とはこの地域の語り草になっていると言うが、表275を見ると、神子でも人口の増減は目立たないが、戸数は多少の増減を示しており、小川や常神も同じである。しかし、現在でもこのおきては尊重されており、弟は家を出て生計をたてなけれぱならないので、高校を終えて大学へ進学する傾向が見られる。
 最近、沿岸漁業の落ち目にともない、今後は観光漁業に転換する対策を練っている。観光客の増加とともに、民宿経営者も増え活気づいている。


神子の伝説

『越前若狭の伝説』
天狗の投げ筆  (神子)
三百年ほど前この村に久右衛門という者があった。字か上手であった。ある日山の中で老人にあったところ、「お前の手を二三日貸してくれ。」といわれた。承知したら、二三日ぼけていた。また山へ行ったら、先日の老人か出て来て、「お礼にこれをやるがら、火伏せの神にせよ。」といって一枚の託宣をくれた。
その後久右衛門は貧乏をして、その託宣は借金のかたとして大音家にとられてしまった。大音家では別に一間を造って、それを祭った。しかし神子の火事のとき、その託宣は抜け出て、家の上の坂道にあるしいの木の枝に止まっていた。久右衛門の家ならば火伏せになったが、他の家であるから抜け出たのである。  (西田村誌)




神子の小字一覧


『三方町史』
神子
尻無(しんなし) 常越路(つねこじ) 北平(きたじゃら) 浜町(はまちょう) 堂の奥(どのく) 中町(なかちょう) 蛭子町(えびすしょ) 出口(でぐち) 象頭(ずこべ) 首谷口(くいたぐち) 和田(わた) 奥山(おくやま) 黒山口(くろやま) 小川路(おごじ) 田尻(たじり) 小俣(おまと) 白磯(しらくり) 神子崎(みこざき) 小嶽(こだけ) 野瀬(のおせ) 梅舟付(ふなつけ) 常神越(つねこじ) 宮奥(みやのく) 村上(むらかみ) 象頭谷(ずこべだに) 柳ヶ谷(やながたん) 間谷(またん) 黒山(くろやま) 小川坂(おがわざか) 田尻山(たじりやま) 小浜(こばま) 露谷(ついたん) 破風(はぶ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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