南(みなみ)
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福井県三方上中郡若狭町南 福井県遠敷郡上中町南 福井県遠敷郡鳥羽村山内 |
南の概要《南の概要》 鳥羽川の東岸。小原の南で、南はこの意味という。 昭和29年~現在の若狭町の大字名。もとは若狭町山内の一部。明治後期、当地は南区有文書に山内第2区長役場と記されているように、村行政上は分けられていた。 《南の人口・世帯数》 108・28 《南の主な社寺など》 神武天皇社 明治8年創立の無格社、同29年字和谷上に移転、昭和21年小原の石按比古比売神社に合祀された。 浄土真宗本願寺派南谷山妙覚寺 『遠敷郡誌』 妙覺寺 右同寺派同本尊にして同村同字硫黄谷に在り。 『上中町郷土誌』 妙覚寺 浄土真宗 南 創建 建武年間 開基妙覚 由緒 伝教大師山門施化の時随従の大衆二輩南谷に草庵を建て天台宗の奥義を学ぶこと数年妙光坊妙覚坊と名乗る。建武の頃諸国大乱新田義貞足利尊氏比叡山に於て合戦止むことなし。是に於て妙光妙覚修学の坊を歎じ北陸若狭に来る。妙光は小浜に止り後本願寺法主綽如上人に帰依し天台宗を離れ念仏門に入る。妙覚は鳥羽の谷に入り小原の里幽谷に閑居し台家の教を守り草庵の相統久し偶々蓮如上人越前国吉崎より小浜へ着船の時妙光の精舎に詣で弘願利他の要門を聰き台宗を離ると云う。 (社寺由緒記) 妙覚寺往昔天台宗也 然処本願寺蓮如上人当国へ御来錫の砌より皈依して改派也外に由緒無レ之略レ之 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 南の主な歴史記録『上中町郷土誌』 南 この大字は伴信友全集にこの村昔は南小原ともいいて、小原の部内なるべしとあり、元は小原と同一であったが、後分離したものと思われる。石按神社の南方に接続する一部落にして戸数二十九戸、真宗妙覚寺は区の東方高台にあり。明治八年創立の神武天皇社もあったが、昭和二十一年四月小原の石按神社に合祀した。 この部落前面田圃耕地は土地肥沃なるも、地盤低く霖雨連日の際は湖沼の状を呈し、米の収量に大影響を受けていたが、昭和三十一年鳥羽川改修に伴う土地改良事業を完成し、古来よりの耕作の不安を無くすることが出来た。 伝兵衛文書による嘉永年代御領分高は、山内村に合算してあり、六百五十石五斗七升三合とある。 附記 昭和二十九年上中町誕生まではこの部藩を山内第二または南と袮していた、町制と共に南区と名付けられた。 南の伝説南の小字一覧『上中町郷土誌』 山内および南区小字名 硫黄谷 石谷 中河原 和谷上 奥ノ上 一ノ谷 滝ケ前 向山 滝ヶ下 神子畑 仮屋 六反田 上宮前 河原崎 七反田 浬田 下宮前 井根口 小田 新小畑 田之道 遠処望 金剛 又江 中沖 筑後 芋作 尉ノ腰 中ノ町 横烝 荒田 堺ノ鼻 大門 窪田 上窪田 谷田 明応寺谷 岩畑 坂尻 坂ノ脇 堂山下 町畑 治郎谷 森ノ奥 森ノ脇 高橋 村 五反田 四反田 宇野添 老懐 岸ノ下 上菰中 小苗田 下古田 下菰中 松ケ下 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『上中町郷土誌』 その他たくさん |
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