丹後の地名 若狭版

若狭

三宅(みやけ)
福井県三方上中郡若狭町三宅


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福井県三方上中郡若狭町三宅

福井県遠敷郡上中町三宅

福井県遠敷郡三宅村三宅

三宅の概要





《三宅の概要》
国道27号と国道303号の分岐点より少し南側付近の集落。
三宅は古代の屯倉のことで、屯倉・御宅・屯家・三宅・三家とも書いて、大和王権直轄の農業その他の経営拠点と見られている。当地の少し北に三田(みた)という所があるが、これも同じように御田で、屯倉と同じ意味かも知れない。先進的な古墳石室副葬品、条里制の遺構もあり、古くから大和権力が開発に当たった先進地だったかも知れない。いわばプレ国府、先行国府が置かれた地であるのかも知れない。
藤原宮出土の貢進物付札木簡に「己亥年若佐国小丹□評」「三家里三家首田末□(呂力)」と墨書したものが見える。己亥年は文武天皇3年(699)にあたり、三家首は三家人を従えて屯倉経営を担当した氏族か。「和名抄」に郷名は見えないが、中世の長講堂領三宅荘と同地に推定され、現在の当地に付近に比定されている。里は郷の古い表記、評は郡の古い表記である。古くは三宅郷であったのであろう。三宅神社は下野木にある。
中世は三宅荘で、鎌倉期~戦国期に見える荘園。三宅荘の北の吉田荘も同じ長講堂領であったことから、吉田・三宅荘とまとめて呼ばれることが多い。建久2年(1191)10月の長講堂領目録に「吉田・三宅庄」とあり、後白河法皇建立の長講堂に寄せられた荘園の1つである。ついで建治3年12月の太良荘雑掌申状に、三宅荘で公文職をめぐる領家と地頭の争いがあり、領家の管轄とされたという例を引いている。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案には新荘のうちに「三宅庄」21町7反余とあり、元亨年間頃の朱註に「本家長講堂」と記されている。建武3年(1336)7月25日に足利尊氏方の斯波時兼が小浜入部のとき三宅などを焼き払ったとあり、観応2年(1351)12月26日には三宅から三宅入道が太良荘に乱入して年貢などを責め立てたとある。応永14年(1406)3月の長講堂領目録にも「若狭国吉田 三宅庄」とある。永享6年(1434)2月22日に庭田重有から「若狭国吉田 三宅荘」などについて注進してほしいと依頼された伏見宮貞成親王は、長講堂領で後小松院の御所侍が当知行している地を注進するのは不審なことだとしている、これは同年3月6日に将軍足利義教のとりはからいによって、この地を後花園天皇(貞成の子)の乳人である春日局に与えるための注進であった。吉田・三宅は後小松院の時も乳人に与えられていたが、そののちも天皇の乳母が領家職を持っており、文明10年(1478)11月19日には「内裏御乳人御局雑掌」が「内裏御料所若州吉田・三宅」の代官籾井の被官大木源左衛門が年貢を余分に納入しすぎたとして、年貢を無沙汰していると幕府に訴えている。かつての地頭職を継承する権限は、足利義詮夫人良子が暦応年間に建立したとされる京都尼寺五山の1つ通玄寺曇花院の支配するところとなっており嘉吉2年(1442)9月にはその年貢運送を関で違乱することが禁じられている。荘内には長久寺という禅寺があり、その寺領に対し領主の通玄寺が幕府の奉書を得て半済を行おうとしたため、長久寺は文明19年(1487)6月13日に幕府に訴えている。領家職はその後も禁裏御料所として続き、明応4年(1495)8月8日には「わかさみあけのしやう」の代官のことが見え、文亀2年(1502)5月14日には「禁裏御料所上吉田并三宅領家職」の反銭を免除するよう武田氏に働きかけている。通玄寺支配分については年貢のうち20貫文が武田氏に与えられていた。永正14年(1517)12月20日に仏国寺は三宅八幡田禰宜職の得分や山林を武田氏から安堵されており、また弘治2年(1556)11月に大針新左衛門尉は三宅口の合戦に高名があったとして武田信豊から賞されている。弘治2年6月の明通寺鐘鋳勧進の時に「三宅村」が353文を寄付しており、この頃は村と称されるようになっていた。
近世の三宅村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「若狭郡県志」によれば三宅村は「合市場、小谷、沢田、仮屋、殿村、宮崎、山村等而為三宅村称三宅庄」とある。
明治初年、大火があり全村焦土と化した。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。この間、明治初年仮屋村、同7年市場村をそれぞれ分離。明治22年三宅村の大字となる。

近代の三宅村は、明治22年~昭和28年の遠敷郡の自治体名。井ノ口・仮屋・三宅・市場・天徳寺・神谷・日笠の7か村が合併して成立した。旧村名を継承した7大字を編成。井ノ口に役場を新築設置。村名の由来は「記載ノ各村ハ三宅組ト総称シ其名近郷ニ通スルニ由リ之ヲ採ル」とある。農業を主な生業とする。北川は明治18年と大正6・7年の大洪水は多大の被害をもたらした。。昭和9年経済更生指定村になる。同11年県特別衛生村に指定される。大正7年小浜線が開通、三宅駅は当地方の中心的存在となる。昭和27年の世帯数367 ・ 人口2,330 (男1,118、女1,212)。同29年1月1日上中町の一部となり、当村の7大字は同町の大字に継承。

近代の三宅は、明治22年~現在の大字名。はじめ三宅村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西10町余・南北15町、戸数95、人口は男227 ・ 女221、学校1。


《三宅の人口・世帯数》 371・106


《三宅の主な社寺など》

大塚古墳・森上古墳・千社古墳


信主(ことぬし)神社
「若狭郡県志」によれば、信主明神社は延喜4年(904)の建立で「毎年六月二十四日有神事能又九月四日有祭」とある。祭神は一言主尊で、境内社に春日社・天神社・八幡社の3社がある。

本殿の後は鎮守の杜で、タモの巨木(町指定天然記念物)などの古木がある。→
神々しいというよりも、何か畏ろしい感じがして身がすくむ。カメラぶら下げてウロウロしているとわざわざ車を止めて、大きな木があるぞ、教えてくれる人もある、村人のホコリのよう…
『遠敷郡誌』
信主社 指定村社にして元信主明神とも稱し、祭神一言主尊延喜四年六月降臨九年八月創建と傳ふ、境内に春日社天神社八幡社の三社あり、同村三宅字大森にあり。

『上中町郷土誌』
信主神社 三宅
三宅字大森にあり 祭神一言主尊
由緒 郡県志信主明神社の条に曰く
「在上中郡三宅村大森中未レ知レ祭二何神一也伝言延喜四年六月二十四日降臨同年九月八日建社而祭之翌日有異人拝畢後書信主明神之字於社頭柱去矣毎年六月二十四日有神事能又九月八日有祭矣矣あり。
天満神社
三宅字天神にあり
祭神 菅原道真公
由緒 不詳 只参道に砂持ちの行持が残っている。
社寺由緒記 三宅庄三ヶ村神社
往古延喜年中村里の奥に山有り仏の尾と云毎夜彼山鳴勳せり里民奇異の思ひをなし相集で評定す、就中十二人爾合せ彼山へ登り是を見るに青衣の童子忽然として立てり人々敬之里に遷し奉りて大明神と号し当村の鎮守と貴敬し奉候則彼十二人末孫毎年九月八日神事相勤懈る事なし神主は中比炎焼して従二古来一の縁起等焼失仕由申伝候。
地蔵菩薩但信主大明神の本地也云云 一社末社 一、八幡宮 一、天神 一、若王子 一、市姫 一、赤松 一、三十八社
 延宝三卯九月廿八口
     禰宜 治郎太夫
     庄屋 善右衛門
     同  孫右衛門
     仮屋庄屋 孫太夫
     市場庄屋 五郎太夫


鳥居は旧・熊川街道(写真の左右に通る道)に面してある。この四辻は、古くからあって、道しるべの石碑がある。


「すくちくふ志満為右村道左吉田」と刻まれている。
「すく」はまっすぐに行けば(右ヘ行けば)竹生島たり、「右」は、手前側で村道になり久永寺の方へ続き、「左」は、写真の鳥居左横の道を行けば、吉田の方向、その先は丹後街道になり、越前へ続く。
『上中町郷土誌』
三宅大森の道しるべ碑
若狭大森信主神社前の路傍にある高さ約三尺三寸位の形の整った自然石に「すくちくふ志満為右村中左吉田」と刻す、すくは直ぐの意ちくふ志満は竹生嶋で西国巡礼の道しるべであり文久戍八とある書体は中々見事である。横井筆丸の筆ともいわれる。

「文久二壬戌八月」と書かれているよう、そうなら1862年で150年ほどの昔の幕末で、陰刻がまだ風化していない。
この縦方向の街道が旧熊川街道(九里半街道)で、道端の松にも歴史がある。案内板に、
街道松
小浜藩主酒井忠勝の言行録『仰景録』(1765)によると、「街道筋に並木松を植えしめたり」とあります。当時は若狭街道沿い1kmにつき50本位の割合で植えられていたようですが、現在ではほとんどが切り倒されて、信主神社近くのこの場所に1本のみが往昔の面影を残しています。

『上中町郷土誌』
僅に残る若狭街道の並木松
拾椎雑話に「空印様(酒井忠勝)寛永十一年七月大献院様御上洛之時節京都にて若狭国拝領被レ蒙レ仰同八月遠州浜松より御暇被レ下初入組屋六郎左衛門方へ御着御入国間もなく街道に残らず並松植えさせられ京極様より佐々加賀使考に参られ松並ことごとく植えたるを見て御発明を感心いたされけると也」と記されている。忠勝が若狭街道丹後道など領内全部の街道筋に植えさせたこの並木松は当時農民の手によって次々に引き抜かれたが終に厳命を下しもしこの並木の松苗をひくものあらば見付け次第その首をはね松の肥料にするとのお布令が出た。それ以後この松を首切り松ととなえて領民は恐れをなし、松はすくすくと成長したといわれる。
 この由緒ある並木松は爾来三百有余年の星霜を経てその間よく風雪によく耐えて老木の偉容を誇示した若狭街道の並木松と祢して行旅の人々に喜ばれ且つ親まれお国自慢のひとつであった今度の大戦中無残にも伐り倒され今は僅かに三宅、仮屋の地係に数本を残すだけとなったが老木ゆえすでに命数もつきていずれ遠からず枯死することであろうことは、時代の移り変りでやむを得ないことであるが誠に惜しむべきである。



曹洞宗万年山久永寺

『遠敷郡誌』
久永寺 右同院末同本尊にして同村三宅字寺ノ内に在り、常在院第十世藝察創立す、元久栄寺と稱せしが元祿年申火災に罹り再建して久永寺と改むと傳ふ。

『上中町郷土誌』
久永寺 曹洞宗 三宅
当山は元久栄と号し曹洞宗の一禅刹なり人皇百九代明正天皇の御宇寛永九壬中年三月常在院代十世観秀芸察大和尚爰に転住し大いに曹洞の宗風を布きて土民の欽仰するところとなり創めて堂宇を建立せらる。爾来八十有余年の星霜を経て元禄八、九乍の頃火災に罹り当山に関する一切の重要書類を焼失せり。依之檀徒相議り敷地を移転して現今の地を択び堂宇を再建し寺号を久永寺と改めたり。後中興開山瑞庵光木大和尚とて博学の名僧住せられ大いに布教伝道に力むると共に一方当院の設備経営に力をつくすところあり。檀徒またその名僧智徳に敬仰するところ少からず。
社寺由緒記 万年山久栄禅寺は本尊薬師如来 開山は洞家芳庵派の観秀和尚なりそれおもんみれば往古寺あり其の名を長久寺と云う。東方の教主薬師如来の霊場にして感応窮りなし。遠近の僧侶皆もって尊崇せざるなし。このころ大いに仏閣備わり、境内の僧坊十九院ありきこの時実に永享年中の創建也(今考うるに延宝三年に到るまで二百六十三年か)薬師仏の起りこれも誌しぬ。その後漸く一百余霜を経て物変るが為に殿閣房舎もまた哀変せり。申ごろ当国の大主武田元光公件の栄盛の因由を上聞せるによって大臣に命じ僅に一宇を草建せらる永く民家恭慕の菩提たらしめんと欲するをもっての故に名を改めて久栄寺と号す。是また大永三年なり今考うるに延宝三年に到るまで凡一百五十三年ならんか。
 延宝三乙卯九月廿八日
   禅宗万年山久栄寺現住   淳 釆


三宅地蔵堂
字堂前にあって地蔵菩薩の立像を安置する古来中の堂ともいい信主大明神の本地仏と云い伝えられる。創立は氏神よりも古く数百年を経た老樹茂る一廓であったが近年大方枯れ又切り払われて今二、三本而影を残すのみとなっている。

三宅下の堂
字沢村に在り。真言宗に属した草庵であったが明治時代廃止され一切は久永寺と合併した。今は三界万霊等、仏性平等賢愚一致と書いた碑と傍らにカゴの老木と清列な井戸を残すのみである。



タモの木
上村家のタブの木は県天然記念物。


「若狭町の文化財」
【上村家のタブノキ】[県指定]
三宅の旧家上村作左衛門氏宅に祖先神を祀った「ダイジョウゴ」と呼ばれる小祠がある。その小高い丘の上に一株のタブの古木が生えている。
 根回りは一一メートル、高さは一七メートルを超え、樹齢は数百年にも及ぶ。このタブの木の特徴は、地上一メートルくらいのところで一〇本に分かれ、それぞれ同じくらいの太さで育っていることである。古来タブの木は、神々の依りつく神木とされている。



赤松城跡
赤松某が拠ったという赤松城跡がある。

火の見櫓

明治初年、大火があり全村焦土と化したそうで、防火意識が高いよう。
案内板に、
三宅区火の見やぐら 火の見やぐら倉庫
江戸時代の建造物。愛宕神社は京都の愛宕山上にあり、火除けの神として全国各地に勧進されました。内部には愛宕地蔵をまつる地蔵堂が置かれ、街道沿いの農村の火伏信仰と日常生活を感じさせます、国登録有形文化財。


「若狭町の文化財」
【三宅区火の見やぐら】[国登録]
この火の見やぐらは旧若狭街道から緩い坂道を一五〇メートルほど上った三宅集落ほぼ中央の田の中に位置し、農家の点在する地域にあって、その素朴な姿は区のシンボルとして親しまれている。建築年代は江戸時代末期、天保七年(1836)に三宅で大火があり、その後はどなく造られたものと考えられている。やぐらは三間四方の切妻造地蔵堂の屋根上に増築した形であり、堂の柬側妻壁に沿わせて立てた二本の丸太で梯を造り、頂部に小さな鐘楼風のものが造られている。地蔵堂を傷めぬ造り方は独特であり、他の類例を見ない貴重な建築となっている。また、火の見やぐらを載せる地蔵堂の左側には棟を直交する形で接続する簡素な木造平屋建ての火の見やぐら倉庫がある。建築年代は昭和初期。
 平成八年(1996)の文化財保護法の改正にともない、国の文化財登録制度が創設されたが、これらの建物は、若狭町内においては初めての登録物件である。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


三宅の主な歴史記録



『上中町郷土誌』
三宅区及三宅の庄
 若狭国志に伴信友翁自筆の書入れして、「三宅村小名市場。小谷、ばんど、山丁、上丁、沢村、殿村、下丁、宮前あり仮屋今一村とすこれ等を三宅の庄ともいい屯倉の地なる可し」と記す、察するに三宅の庄は昔上中地方の中心で屯倉が設けられ繁栄した時代があったと思われる。
 藩政時代草石高九百十四石三升五介貢米四百二十九石七斗八升六合、山林は百十七町歩あり松杉よく繁茂生育し住民は農耕の他森林資源を以て生活し、専業農家も次第に滅少しつつあり。三宅山は標高六百八十米で清水川は源をここに発して北流し、その濯域は肥沃なる耕地である。
 城峯山には小朶峯あって巨巌嵯峨たるところ赤松氏の城趾あり、百余年前金比羅明神を勧請して祀り、旧暦三月十日と十月十日の両度祭礼を行なう。大森には言主神社を祀り古木鬱然として宮域を護る。旧藩時社倉制度の施行せらるるや境内に梁間三間桁五間の倉廩一廩を建設し、三宅七ヵ区の囲籾を蔵置したが維新後は廃止された。この間七ヵ村より毎年銀七匁の灯明料を献じたりという。この区よりは囲籾二百四十七俵納倉した。またこの森中に旧上中組合立高等小学校が明治二十六年に設置され、幾多の人材を出したが今はその跡に学校創立者水江金哉、初代校長三井啓治の彰徳碑を残して居るのみ。
 また区の中央字堂前に木像愛宕地蔵堂あり一千年以前の創建で氏神の本地仏として崇められ、一大古森であったが近頃次第に枯槁また切り払らわれ共有農倉が設けられている。
 若狭国守護武田氏滅亡した時その後裔がこの区に帰農し数世を経て久永寺を開基、子孫益々繁昌したのであった。   
   ○
三宅宝山焼。嘉永年間から明治の初年頃に至る間三宅の小西藤兵衛、亀吉父子二代に渉り同地に産する粘土を指頭で捏造せる素焼きの陶器で茶具、日用の小雑器および人形等を製作して三宅焼と称した。雅致精巧なれども焼きしめ充分ならず、かつ土臭きを欠点とす。製品多くは散逸して現存するものも稀である。



三宅の伝説、民俗


三宅六斎念仏
8月13日から15日にかけて六斎念仏の行事がある。楽器は六斎太鼓六個と鉦鼓若干。曲目は、獅子・牡丹・千鳥・柏分・今ばいの5種。
三宅の六斎念仏は、瓜生のものとともに国選択重要無形民俗文化財。信主神社境内に案内板がある。

由緒
三宅六斎念仏は、福井県三方上中郡若狭町の三宅集落に伝わる踊り念仏の一つです。来歴は定かでありませんが七百十余年前に京都方面から一遍上人により伝えられたと言われています。現在三宅六斎念仏保存会では「獅子」「千鳥「今ばい」の三曲と「和讃」があり、終りに門付念仏を唱えます。
毎年八月十三日、十四日の二日間集落の約八十戸を夕方より廻り始めます。一般の家庭では小学四年生から中学生が「今ばい」を、区長と農家組合長宅では中学生か゜「千鳥」を、新仏の家では保存会の青年達が「獅子」を、保存会の音頭で鉦に合わせて踊ります。八月十五日は集落内にある久永寺で、施餓鬼法要のあとに全曲を、二十四日には二か所の地蔵堂前で、「千鳥」を打ち踊り、本年の総てが終りとなります。
三宅六斎念仏は、昭和三七年五月に福井県指定無形民俗文化財に指定され、昭和四六年五月に六斎念仏保存継承のため区民の有志で保存会が組織されました。その翌年の昭和四七年八月に国選択無形民俗文化財に選定されました。
三宅六斎念仏保存会

三宅六斎念仏

三宅・仮屋・市場の全戸を回って祀られる「三宅の庄廻り地蔵」は町民俗文化財。


『越前若狭の伝説』
信主明神     (三宅)
村里の奧に仏の尾という山がある。延喜のころ(九〇一)毎夜この山が鳴動した。村の人が奇異に思い、集って相談した。十二人の者がその山へ登ってみるに、春衣(不詳)の童子が立っていた。人々はこれを敬って里に移し、大明神と号して村の鎮守とした。この十二人の子孫は毎年九月八日神事を勤めて怠ることがない。  (社寺由緒記)

天満神社     (三宅)
菅原道真公が当国巡視のとき、瓜生村で休息した。村の人は村の東方の高い丘に集って公を拝した。後にその拝所に社を建て、公を祭った。       (福井県神社誌)



三宅の小字一覧


『上中町郷土誌』
三宅小字名
上中野 森下 上中井根 下花ノ木 下椎谷 板坂 草川 東大窪 東出口 下大窪 河原崎 向大窪 大井根口 船川 西向河原 川端 出口 出口河原 宮東 清水 上河原 大窪 若王子 高木 東一ノ坪 一ノ坪 搗取 千戸谷 南千戸谷 西山田 城谷口 城ケ谷 中ノ谷 中ノ谷口 永畑 南山町 北山町 下谷口 西畑 東畑 尼ヶ谷 南巻野 赤松 北巻野 中町 若王子西 天神東 天神 天神前 灯籠木 東乱塔 西乱塔 小屋谷 小屋谷西 寺ノ前 寺ノ内 瀬戸谷 村中 南下袋 堂ノ上 北下袋 森上 大森 宮北 松葉 森前 堂ノ前 東野々下 西野々下 沢村 上野 随音 千社 百苅 南六反田 北六反田 東中河原  横枕 宮西 東大畑 下河原 西牛岩 東牛岩 西大畑 広田 西中河原 柳ケ坪 東荒堀 東号 鳥ノ觜 六地蔵 岸ケ下 小屋ヶ籔 窪田

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京都府南丹市




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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