向笠(むかさ)
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
福井県三方上中郡若狭町向笠 福井県三方郡三方町向笠 若狭国三方郡八村向笠 |
向笠の概要《向笠の概要》 町の中央で、鰣川のひとつ西側を流れる高瀬川領域を占め、下流に向かって平地が扇型に広がる。高瀬川中流・下流には水田が多く、三方の山にはウメの栽培が多く見られる。 中世の向笠は、鎌倉期から見える地名で、御厨・荘・郷・保とも称される。南北朝期の延文5年(1360)3月の伊勢大神宮神領注文に向笠御厨は鎌倉初期の正治元年(1199)に国司が伊勢内宮領として承認した地を建仁3年(1203)7月の宣旨によって立荘された荘園で上分絹10疋と口入料10疋が納入されることになっていた(神宮文庫所蔵神鳳紗氏経本)。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案の新荘のうちに向笠荘が見え43町4反48歩の田数を記し、元亨年間頃の朱注には「大神宮御厨」とある(京府東寺百合文書ユ)。南北朝期には京都の天台宗寺院毘沙門堂が領家となっていたが応安5年(1372)4月に毘沙門堂先門主僧正実尊が毘沙門堂門跡の当門主明円禅師(三条実継の子)に門主職を譲りながら向笠御厨などを渡さなかったため、それを不満とする明円は自分が奉公している山門青蓮院門跡やその門徒である山門金輪院(英澄)の力を借りて「向笠御厨」を実力で知行しようとしたことがわかる(後愚昧記応安5年4月4日条)。室町期には当御厨でも半済が行われたが、この半済分は享徳2年(1453)9月29日幕府によって京都の禅宗寺院相国寺広徳院領として守護不入地とされ諸公事段銭以下が免除されている。したがって「康正二年造内裏段銭并国役引付」(群書28)には8貫513文を納入した毘沙門堂と並んで「若州向笠半済方」分の10貫を納入した広徳院も見える。広徳院領としての「向笠郷半済分」は文明12年(1480)6月18日に足利義政から安堵され毘沙門堂領としての「向笠御厨」は文明17年11月23日に将軍足利義尚から安堵されている。文明19年7月2日には当地は相国寺万松軒領「若州六笠」と見え、10年前から前原という者が押して代官となっているが年貢を少ししか納入しないため将軍から公家衆の冷泉氏に伝えて直務となるように下知してほしいと万松軒が要求している(蔭涼軒日録同日条)。ただし、この要求は取り上げられなかった。こののち半済分については見えず、毘沙門堂領についても天正13年(1585)5月15日の毘沙門堂雑掌申状に「若州むかさの保 京着百貫文」と記されてはいるが、この地は「近年不知行」となっていた(三千院文書)。向笠のうち寺坂にある真言宗月輪寺は文安6年(1449)の東寺修造料足奉加人数注進状の端裏書に見え(京府東寺百合文書ヌ)、また弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進には「むかさ村分」は200文を奉加している。 近世の向笠村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年八村の大字となる。 近代の向笠は、明治22年~現在の大字名。はじめ八村、昭和28年からは三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北4町余、戸数129、人口は男327 ・ 女330、学校1。 《向笠の人口・世帯数》 295・91 《向笠の主な社寺など》 仏浦遺跡・風神遺跡・角谷遺跡・牛屋遺跡 向笠集落のある谷の入口付近の山裾、両側の弥生遺跡の密集地。 向笠銅鐸( 写真は若狭町歴史文化館常設の展示図録より 昭和44年仏浦遺跡で弥生後期の銅鐸が発見された。通称仏浦地籍の山麓から銅鐸が地表面から約90センチの深さに横たわった状態で発見された。向笠鐸とよばれ国が保有する。鈕・鰭・鐸身の片面に欠損がみられるが、ほぼ全容が判明可能で、現高約60センチ、鈕の部分の高さ13・2センチ、鐸身部分の高さ46・8センチで、鈕は突線鈕であり、鐸身は六区画の袈裟襷文である。当遺跡の前面には水田が開け、周辺には 『三方町史』 銅鐸(仏浦遺跡) 昭和四十四年春、向笠一一三号仏浦通称ツイドウノハナの山裾で土取りが行われた際一個の青銅器が発見された。この青銅器を自宅に持ち帰った地区民の小学生の児童が教科書と全く同一のものであることに気付き、まぎれもなく銅鐸であり、極めて珍しい遺物であることが判明した。小学校における社会科教育の大いなる成果であるといわれた。 銅鐸出土地はその字名をとり、仏浦遺跡と命名した。銅鐸の出土状況については、土取り工事の際ということで不明な点が多いが、山裾に廃棄されたのではなくて埋納されていたことは確かなことである。仏浦遺跡周辺には、弥生時代に属する遺跡として、牛屋、角谷、風神の三遺跡がこれまでに知られており、弥生時代中期(約二千年前)頃から向笠の地に弥生人の足跡をさぐることができる。銅鐸出土地はその後も土取り工事が進み、出土当時の様相は一変している。 本銅鐸を観察すると、鈕部(つり手部)、鰭部と一方の鐸身にはそれぞれ欠損部がみられるも全容を知ることの可能な逸品である。佐原真氏の分類(佐原真「銅鐸の鋳造」『世界考古学大系2』平凡社一九六〇)にしたがえば、突線鈕式(新段階)に属し、鐸身には六区画の袈裟襷文が配されているものである。銅鐸に伴出遺物はなかったが、弥生時代後期(約千八百年前)に属するものであろう。 銅鐸の法量は、現在の高さ六〇センチ、鈕部の現在の高さ一三・二センチ、鐸身の高さ四六・八センチ、裾部分の径は二八センチである。銅鐸の厚みは三ミリ内外と薄い。重量は八・六五キロである。 銅鐸の文様構成をみるに、鈕部分はアーチ状を呈し鋸歯文、綾杉文を配し、鰭部にも同じく鋸歯文を配し一対の重孤文の飾耳を三ケ所配置している。本釧鐸をつぶさに観察された三木文雄氏の教示によれば、鈕部や鰭部の鋸歯文をうすめる斜線条は三角形の縁からはみ出している例が各所に見られること、斜線条間の間隔を細かくみると広い狭いのばらつきがみられるなどの特徴があり興味深いことである。鐸面は六区画の袈裟襷文で構成し、中央に二列の縱帯に斜格子文を配し、四本の横帯に斜格子文が展開する。鐸身の最下端に鋸歯文、その下に四本の突線をめぐらせ無文帯から裾に至っている。 本絹鐸については、若狭考古学研究会初代会長故城谷義視の精密な調査がなされており、土取りをして運ばれた畑地の土砂から大小二点の欠損部の破片が採集されている。城谷氏は当時、故中口裕氏の紹介で富山県工業試験場に小破片をおくり、成分の定量分析を依頼している。その結果、銅八六・九三%、錫三・八六%、鉛三・四一%、アンチモン〇・八一%、鉄○・○一%。ニッケル○・○四%とデーターが出された。 本銅鐸は県内出土例の中では大きさは最大であり、比較的弥生時代では新しい時期のものといえよう。これまで知られている県内の出土点数は七点あり、内若狭からは三点出土している。若狭では現存はしたいが文献の中に出てくるものとして「続日本後紀」の承和九年(八四一)に「若狭国進銅器 其体頗似鏡 是自地中所掘得也」とあり、若狭の何処か平安時代に出土している。あと一例は、明治二十三年(一九〇〇)遠敷郡上中町堤の向山から発見され、現東京国立博物館の所蔵となっているものである。 銅鐸は近畿地方に出土し、近年出雲の荒神谷の出土例などもあるが、極めて地域性のある出土を見る。日本海側では本県は最も北限の出土位置にあり、越前以北では出土例を知らない。その用途については、もともと楽器であったものが、ムラの祭祀に使われた神聖な銅器となったものと考えられる。 本銅鐸は昭和四十五年に国保有となり、現在は国立歴史民俗博物館に所蔵されている。本銅鐸については、出土直後現地にこられ、精密な実測図作成をされ、詳細に観察された日本における銅鐸研究の権威三木文雄氏の温かい教示、写真、拓影実測図等の提供をいただいた。銘記して感謝申し上げる次第である。若狭考古学研究会でも出土直後、故城谷義視氏を中心に調査に当り、新聞等への紹介、前記成分分析等をしており、いずれ正式な報告書が待たれる。 『三方町史』 遺跡は、鰣川流域平野。西側の高瀬川扇状地で、向笠集落東側の通称赤山の海抜十二から十三メートルの山沿いの水田に所在する。また、遺跡周辺は牛屋(うしや)遺跡、仏浦遺跡、風神(かざかみ)遺跡などの弥生遺跡が分布する遺跡密集地でもある。 発掘調査は、町教育委員会により昭和六十三年三月から六月にかけ実施され、三世紀末の弥生時代後期末と八世紀から十世紀の奈良・平安時代の遺構及び造物が複合し検出されている。当遺跡の調査は、県営圃場整備事業にともない山沿いに設置される排水路部分を事前に完掘する形で実施されている。 遺跡南側の調査溝の上層からは、奈良・平安時代に属する東西方向に割板、杭をほぼ二メートル間隔に打ち込んだ柵列状の遺構が検出されている。また、この下層からは、弥生時代後期末に属する甕形、台付甕形、鉢形、台付鉢形土器などの完型土器が何らかの祭祀にともなって投げこまれたように密集し、また広鍬、鋤状木製品など農具、紡織具、容器、板材等の木製品が多量に出土している。なお、この箇所は当時の溝か川跡と考えられるが、残念ながら遺構として詳細にとらえることができなかった。 遺跡西側の調査地区の上層からは、奈良・平安時代に属すると考えられる柱根及び柱穴群をともなう建物遺構が検出されている。遺跡南側の柵列状の遺構と建物遺構との関係は、今後の検討課題となっているが、奈良平安期には遺跡周辺に相当規模の建物施設があったと想定される。 出土遺物の特徴は、弥生時代後期末の土器類と木製品類がセッ卜でとらえられ、時期関係が明確になった点にある。この木製品の中で広鍬(巻頭写真)は、着柄の突起両側に穴をあけ、さらに内側の上部には、あて板を入れる「蟻じゃくり」という突起を作り出している。また、紡織した糸を紐にする時に使用した巻き取り具の一部と思われる紡織具および丹塗された楯状の板(写22) (外面のみに丹が塗られた厚みが八ミリメートル前後の板。縦方向に一・五センチメートル間隔に糸孔の配列がならび、糸孔は横一列に五ミリメートル間隔であけられている)の断片などは、令国でも出土例の少ない貴重な遺物である。 奈良・平安時代の遺物は、須恵器、土師器、鉄製刀子、木製品などが出土しているが、出土点数としては少ない。なお、この時期の出土遺物の特徴として奈良時代の「天平四年(七三二年)十月廿八日」と年月日を記載した本簡(写23)が出土しているが、これについては第二節で述べる。また、希少な遺物として木製の立体人形(治療あるいは呪いの道具として使われ、頭部、胴部、手足をつけ人間の形代としたもの)が二点出土している。内一点(巻頭写真)は、上、下ともに冠をつけた男の頭部が彫刻され。また上腕部が穿孔されていることから、あやつり人形のように腕がっけられていたと想定され、当時の生活の一端が知れる遺物である。 なお、当遺跡西側の山際に所在する風神遺跡は、昭和五十四年に町教育委貝会により試掘調査が行なわれ、角谷遺跡の下層より出土する土器とほぼ同時期の高坏形、台付壹形などの弥生土器が出土している。出土する土器の形態が、供献土器を主体とすることから弥生時代後期末の墳墓と考えられている。 国津神社 国津神社の例祭神事は県無形民俗文化財に指定されている。 『三方町史』 国津神社 向笠字下中道に鎮座。祭神天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊。境内社に神明社祭神天照大神・天満宮祭神菅原道真がある。指定社・旧村社。明治四十一年、次の神社の祭神がこの社に合祀された。 多賀社祭神伊邪那岐命 (元、この社の境内社) 金毘羅社祭神大物主大神 (同) 大髻社祭神大鬚大神 (同) 宗像社祭神市杵島姫命 (元、区内字犬山に鎮座) 広峰社祭神素戔鳴男尊 (元、区内字小倉谷口に鎮座) 国帳に「正五位国津明神」とあり、伝承によれば、祟神天皇の時代に、河内国の大神宮の神官六人が、勅命によって諸国を巡った後、この向笠の地に住みっき、氏神として天忍穂耳尊と瓊瓊杵尊をまつったのが、この社の起りであるといわれている。 鎌倉時代、幕府はとくに神仏の崇敬に意を注ぎ、神社の修理や祭に力を入れることをその政策の一つとした。建久六年(一一九五)、稲庭権頭時定が守護のとき、この神社の宮田六反(六〇アール)と宮地三反が無租地となったので、これをきっかけに、その後、この社でも祭典が行われるようになったと伝えられている。また、文永に十年(一二七三)守護北条時宗のとき正五位に叙せられ、建武元年(一三三四)には洞院内大臣公継卿が宮田三反を寄進したといわれている(向笠「郷土誌」)。その時の別当は月輪寺二十三世恵海であった。この社の神事の特徴は本編第四章で述べる。 この神社の社殿は最初平地にあったが、室町時代に再建の際、土盛りをしたため、現在見られるように高台にある。そのときの採土跡が現在の月輪寺道である。なお、先に示したこの神社の合祀については、多賀社以下五社といっしょに、境内社の二社も合祀する計画が進められ、神殿と拝殿をつくるため西北部へ突出した土盛りをして、先ず五社の祭神を合祀した。ところが、村人の中には行き過ぎだと反対する者もあったうえに、そのときの当役の不幸も重なったため、その後の合祀は見合わされ、国津神社・神明社・天満宮の三社の社殿はそのままとなっている。 『三方郡誌』 國津神社。村社。向笠に鎭座す。忍穂耳尊・瓊瓊杵尊を記る。國帳に正五位國津明神とあり。明治九年六月、村社に列せらる。 曹洞宗清雲山浄林寺 『三方町史』 浄林寺 所在向笠三〇-五。山号清雲山。曹洞宗。本尊延命地蔵尊。元、発法山月光寺と言い、約七百年余前に、僧慈覚が初めて開いたものである(『若州管内社寺由緒記』)と伝えられているが、年月がたっにつれて建物も古くなり、本堂を守るのが精一杯であった。ところが、文安年中(一四四四-四八)、臥竜院第二世光祐が臥竜院を引退後、この地に来て月光寺を再興し、清雲山浄林寺と名付けた。しかし、その後、時の流れとともに寺運は全く衰えてしまったが、貞享五年(一六八八)七月、臥竜院第十一世鉄巖が先覚の志を継いで浄林寺の住職となり、この寺の再興に努力した。そのため後世彼は浄林寺中興の開山と呼ばれている。このようにしてその後、臥竜院代々の住職は、隠居した後、ここを安住の場所として余生を送った。 この寺はまた、文政年間(一八一八-二九)に火災に遭い、一時衰えたものの、明治十七年六月二日に、檀家の人々の努力によって再建された。また、古くから臥竜院の末寺であらだが、明治二十一年三月十二日に、寺格が法地となり、初代住職に僧丹嶺がなった。現在の住職道賢は第五世である。 昭和六年に、鐘つき堂が再建され、釣り鐘が鋳造された。この釣り鐘は太平洋戦争中、昭和十七年に供出されたが、昭和二十二年に再鋳造された。 この寺に蔵されている「釈尊一代記」の掛軸(十六輻)は、慶応二年(一八六六)、教学院第十一世長谷川智海が早逝し、嗣子長梵が幼少のため、丹後から画筆を持ってかけつけ、救助の役を勤めた画家長谷川盛領が、手本もなく経文を読んで画いたというすばらしい絵巻物で、大切な寺宝である。 天台寺門宗神照山教学院教会 『三方町史』 教学院 所在向笠二九-九。山号神照山。天台寺門宗。本尊不動明王。天正二年(一五七四)に、僧浄春によって開かれたという。天台寺門宗総本山である園城寺の末寺で、大峰連山で修業し、世の人々にも教え、自らも学ぶという山伏寺院である。 また、山伏寺の庭には必ず護摩堂や庚申堂が建てられているものであるが、この寺でも、昭和初期まで庚申堂が建てられていたが、老朽のため解体され。そのままになっている。 三方郡内はもとより各地に信者を持ち、一、二月は特に家の祈祷が多いが、そのほかにも、年間を通じて祈願所として信者の出入が多い。 高野山真言宗日照山 小字寺坂の日照山月輪寺は高野山真言宗で、「若州管内社寺由緒記」は 八百年以前仁和年中光孝天皇の御宇創草也、建立の 人不レ知昔七堂伽藍也、本尊は正観音唐仏の由、僧六 坊有レ之由に□坊跡有レ之名共申伝候、八十年以前に 本堂は敦賀嶋寺へ引□立申候、惣門の二王は小浜山 □妙興寺へ遣候由及レ承候、其後寛永元年の比当郡の 内宮代村園林寺の住持実秀□□当山之隠居彼堂を本 願として五間四面の堂を建、本尊を安置有レ之、其外 昔七堂の本尊悉く草堂に有レ之を吟味有レ之候へ共(者カ)、 昔の作仏多き由申伝候、 と記す。 『三方町史』 月輪寺 所在向笠二六-二七。山号日照山。高野山真言宗。本尊聖観世音菩薩。諸国行脚の旅を続けていた僧行基は、文武天皇の慶雲元年(七〇四)に当地を訪れ、向笠にしばらく滞在した。その間に彼は霊地を開き、自分で聖観音を刻んで、同年六月十七日に大木の中に安置した、といい伝えられている。 天平神護元年(七六五)、「越の大徳」とよばれた泰澄が教化のため各地を回り、途中向笠を通ったとき、南山に五色の光が輝くのを見て不思議に思い、山に登ってみたところ、大木中に聖観音が安置されていた。そこヘー人の童が東の方から現れたので、泰澄が「お前は何者か」と尋ねると、童は「我は稲荷である、ここに堂を建立して仏を安置せよ、さらに寺を建立するならば、我は、今後末長く仏法を守ってやるであろう。我は東から来たから、山号を日照山、寺号を月輪寺とするがよい」と、答えた。泰澄は大いに喜んで堂を建て、聖観音を安置し、月輪寺の守護神として東の方に稲荷を安置してまつったという。このため泰澄を開山として今もまつっている。 その後、平城天皇の大同二年(八〇七)に、空海がこの寺に参って仏を拝み、真言密教を説いたので、村人もそれに帰依し、その年の九月八日に真言宗に改宗されたといい、このころから本堂のほか、不動坊・俊乘坊・桜本坊・海昇坊・成就坊や山門などが建立されたが、「若州管内社寺由緒記」には「八百年以前仁和年中光孝天皇の御宇(八八五-八八七)草創也、建立の人知れず、昔七堂伽藍也」とあって当時企盛を極め、信仰の中心として栄えたことを物語っている。ところで、天保三年(一八三二)十一月、火災のため諸堂伽藍が焼けてしまったが、翌天保四年には、元の場所とは別の現在地に新しく建て直された。元の場所は、現在地から三百メートルほど山奥に、元観音跡として今も昔の面影をとどめている。 昭和四十二年三月一日に、本尊の聖観世音菩薩と、薬師如来は三方町文化財として指定された。しかし、昭和五十八年二月に思いがけない盗難に遭ったため、現在は信者の浄財によって、等身大のものを仏師に作らせてまつっている。なお、この寺は三十三カ所観音三十番目の札所となっている。 『三方郡誌』 月輪寺。眞言宗古義派。向笠に在り。傳云、慶雲元年、行基、向笠に至り、聖観音の像を大木の中に安す。天平神護元年、泰澄此地を過きて、此靈像を得て、寺を創立し、日照山月輪寺と號す。建暦年間、俊乘坊長源再建すと。天保三年十一月火災に罹り、翌年亦再建す。護摩壇上に安置する不動尊は、傳云、京極氏の臣三田村某、此像を取つと遠敷郡萬徳寺に寄附す。寺僧その煙煤に汚れたるを厭ひ、粉彩を施したり。然れとも像、祟をなせしかは、亦月輪寺に還納したりと。紀伊金剛峯寺末なり。 《交通》 向笠峠〈上中町・三方町〉 遠敷郡上中町海士坂と三方郡三方町向笠との間にある峠。標高約320m。峠名は峠下の向笠に由来するか。鰣川の支流高瀬川の谷を南西に登り詰めた郡境尾根の鞍部で、南東に鏡山がそびえる。三方湖の南東岸の三方・鳥浜と鳥羽川の谷奥を結ぶ短絡路が通じるが険しい山越えの道で現在はほとんど越える人もない。 《産業》 《姓氏・人物》 当地の江村家は南北朝期から続いた能大夫家で、気山能大夫とよばれた。江村家文書によれば南北朝期すでに近郷各社の能楽頭職を有していた。 『三方郡誌』 江村伊平次。向笠に居る。気山能大夫の家なり。観応・延文・應安の際既に三方近郷各社の能樂頭職たり、その家系の由る所古きを知るへし。然とも出自は詳ならす。氣山と稱するは主と宇波西神社に奉仕したりし故なるべし。家に傳ふる所の翁面は、天正文祿の際、敦賀郡縄間浦の漁夫の網にかゝりて、常宮の海に得たる所のものを、當時その祖江村久兵術、常宮神社の能太夫職たりしかば、その家に傳たるたりと云ふ。 向笠の主な歴史記録『三方町史』 向笠 高瀬川上流の扇状地につくられた集落である。高瀬川の上流から下流にかけ扇形に広がる平野部の山沿いに、縄文時代がら奈良時代にがけての仏浦・角谷(かどや)・牛屋(うしや)・風神(かざかみ)遣跡などが分布している。 第二編で述べたように、仏浦遺跡からは、縄文時代中期から後期(約三・四千年前)の土器が出土している。また昭和四十四年には、蛇子加浦(じゃこがうら)の丘陵の先端から弥生時代後期(約千八百年前)に属する銅たくが出土している。 昭和六十三年に発掘調査の行われた角谷遺跡からは、弥生時代後期から奈良時代にかけての遺物が多く出土(例えば「天平四年(七三二)十月二十八日」と記した古代木簡など)し、この時期の遺構と思われる「さくの列」も発見された(第二編第一章参照)。 鎌倉時代には、伊勢大神宮の御厨(伊勢神宮の所領で、魚貝果物類の献納を目的とした)であったことが文永二年の「若狭国惣田数帳写」から知ることができる。このように、向笠は原始から現代までの歴史を史料により知ることのできる古くから開けた集落である。次に向笠の古い歴史について昔から伝承されている話を述べる。 神武天皇が、大和国平定後、全国に役人を差し遣わし、地方に住む者を治めさせた。そのとき向笠へは日向国吾田邑の人が来て向笠を開いた(向笠「郷土誌」)と言われている。 また向笠は、孝元天皇十一年四月に、皇子大彦命が北陸へ派遣され、若狭地方を平定したとき休息した所であると伝えられている。 崇神天皇の時代に、河内国大神宮の神官六人が勅令で諸国を回り、北陸へ入り、向笠に住み着いたという。その時の神官は平田忠太夫・西村亀太夫・奥村彦太夫・河原助太夫・清水半太夫・池田権太夫の六人で、これを六人百姓ともいっている。 この時、氏神として国津神社に忍穂耳命・瓊瓊杵尊を祭り、三月一日から三日間祭礼が行われた。なお、神官が笠に向って来たところから向笠と呼ぶようになったという。向笠の笠の字は雨よけで家または村ともいい、人が一つの屋根の元に向った姿を表現した平和の象徴の字名であるとのことである。 垂仁天皇の時代大和国橿原宮から、佐倉甚部太夫が当地に来て、開地の必要を説き、必要に応じ、三年間にわたって、五拾憲(間のことか)四方、または六拾憲四方に開田し、また、仁徳天皇九年(三二一)には美濃国の山田組という土方六十余人が向笠に渡って来て、多くの田畑を開墾したと言われている。 推古天皇十二年(六〇四)、聖徳太子が十七条の憲法を制定し、これが天下に伝わり、平田忠太夫が、これを村人に説き聞かせ、このころから法により始めて仏を祭るようになったと言い伝えられている。 文武天皇の慶雲元年(七〇四)に僧行基が勅命で諸国を巡り、向笠にとどまって霊地を開き、自ら聖観世音を刻み、大木中に安置してまつった。同年六月十七日、時の役人、西村亀太夫・清水半太夫・河原市太夫・西村形部太夫は村人に代わって、謹んで奉仕し、以後ずっと守りつづけたという(第五編第三章参照)。 天長四年(八二七)向笠から世久見浦へ、河原市太夫二男下太夫・清水半太夫二男五良太夫・西村形部太夫二男藤太夫・池田権太夫二男市左衛門・平田忠太夫二男城太夫・奥村彦太夫二男長太夫の六人が分家し、これが世久見の先祖となったと伝える。その子孫は長い年月にわたって向笠へ塩や魚を送り、向笠からは米を送った。今も世久見田という字名の田があり、国津神社の祭礼には、必ず当屋の亭主十二人が毎年四月一日に世久見浦ヘコウリカキ(みそぎ)に行き、深い関係を続けている。 俊乗房重源は有名な東大寺の住職であったが、後鳥羽天皇の時代、人を教化するため全国をめぐり歩いていたが、文治二年(一一八六)月輪寺へ登り、七日間仏法の真理を説き、村民の仏を敬う気持は一層深くなった。この時、仏浦に五色の光の輝くのを見て、俊乗房重源は不思議に思い、近づいで見れば仏であった。 早遠大護摩をたき、供養をして迎え、寺に秘蔵して後、源頼朝に願い出て許しを受け、神明宮として祭ることになったとのことである。今もこの日(新暦九月十七日)を元祭として祭り続けている。 明治二十九年四月、稚蚕共同飼育組合を、大正三年八月には養蚕組合を設立(「三方郡是」)して、養蚕業の改良発展に努め、組合員相互の利益を増進した功により、大正四年四月十五日、大日本蚕糸会総裁大勲位功二級載仁親上から表彰を受けた。 地蔵堂は、保元元年(一一五六)、戸数百五十七戸のうち八十二戸が焼けたとき、この堂で鎮火したと伝えられており、延命と火伏せの地蔵として信仰が厚い。昔は河原五郎左衛門が管理していたが、現在は浄林寺が管理している。 『三方町史』 能楽 若狭地方は古くから能楽がさかんなところで、神社の祭礼には決まって神事能が奉納され、祭りの楽しみのひとつであった。しかし現在では、祭礼では能は行われず、今井靖之介を中心とした倉座が若狭能楽を引継いで宇波西、弥美、須部神社などで舞うだけとなった。ところで若狭での能楽を考える場合、古くから三方町を拠点として活躍した気山・倉の両座を抜きにしては考えられない。そこでつぎに、三方での能楽の歩みに触れてみたい。 若狭の能楽(猿楽)が、いつごろから三方を本拠にして活躍したか、それを解き明かす史料は、今でもまだ十分に発見されていないが、若狭地方で猿楽に関係ある一番古い史料としては、気山座の太夫職であっだ向笠江村伊平次家に所蔵されている。それによると、気山太夫が観応二年(一三五一)に代官から、年間、米四斗を与えられて、猿楽を勤めるよう命じられている。以後、明治時代になるまで、猿楽座は、領主の保護の下で発展してきた。 若狭の猿楽には、気山・尾古・吉祥・倉の四座があったと伝えられている。なかでも気山座は、中世には四座の筆頭にあった。しかし、武田氏が若狭の領主となった頃から衰えはじめ、やがて、永正十六年(一五一九)になると、郷市極楽寺の楽頭職を倉座へ売り渡したり、大永八年(一五二八)には、気山や宮代の楽頭職を質にして借金するなど苦しい立場になっていく。このころから倉座が次第に頭を持ち土げ、江戸時代以降は、倉座が中心になって若狭猿楽がさかんになっていった。倉座の活動範囲は若狭地方だけではなく、他国へも進出して行き、天保十一年(一八四○)には、田上の倉加賀之承が丹後の浦島神社へ出向き、太夫で能を舞った記録が残っている。 明治時代になって、領主の保護を失うようになると能楽は急速に衰えていった。田上の倉家は廃業し、倉座は、当時座員であった森作太郎などの有志によってかろうじて支えられ、現在の倉座へと引継がれてきたのである。 戦後の混乱期に倉座は、今では幻の狂言と言われる鷺(さぎ)流狂言を伝えなくなった。江戸時代に観世流付き狂言として誕生した鷺流は、観世流の若狭への流入に伴って伝えられ、倉座の座員であった小川の江村八十治郎が、鷺仁右衛門から鷺流を伝授された文書も残っている。倉座に伝えられた鷺流狂言も、森作太郎の死後途絶えてしまったが、台本は今も小川の江村健二家に伝えられている。全国で新潟県・山口郡・佐賀県などの一部に伝えられる数少ない狂言だけに、再興が望まれている。 このほか、三方の場合、能楽は芸能としての側面以外に、能装束を着けて新造船の祈祷を行うなど、猿楽以前の古代信仰の一面も見られ、単に芸能だけに限定されない奥深い意義を持っていたことがうかがえる。 向笠の伝説『越前若狭の伝説』月輪寺 (向笠) 慶雲元年(七〇四)行基(ぎょうき)がこの地に来たり、聖観音の像を大木の中に安置した。天平神護元年(七六五)泰澄(たいちょう)かこの地を過ぎ、この霊像を得て、寺を創立し、日照山月輪寺と号した。 この寺の護摩(ごま)壇に不動尊か安置してある。むかし京極氏の臣三田村某か、この像を取って遠敷郡万徳寺に寄附した。寺僧は、不動尊がすすでよごれているので、粉彩をほどこした。するとたたりかあったので、またもとの月輪寺に返した。 (三方郡誌) 気山能太夫 (向笠) 向笠の江村伊平次家は、気山能太夫の家である。気山と称するのは、主として宇波西神社に奉仕したがらであろう。家に伝える翁面は、天正文禄のころ(一五九〇ごろ)敦賀郡縄間浦の漁夫の網にかかり、常宮の海で得たものである。その祖先江村久兵術は当時常宮神社の能太夫職であったから、その家に伝わるのである。 (三方郡誌) 向笠の小字一覧『三方町史』 向笠 登谷口(とたんぐち) 中畑(ながばたけ) 越坂(おつかさ) 大倉谷(おぐらたん) 小倉谷(こぐらたん) 小倉谷口(おぐらたんぐち) 西引谷(にしひきだん) 引谷(ひきだん) 湯(ゆう) 桜本(さくらもと) 西薄谷(にしうすだん) 薄谷(うすだん) 前原(まえばら) 小雲口(こうもぐち) 犬山(いんにやま) 上中道(かみなかみち) 薄谷口(うすだんぐち) 不思山(ふしやま) 西不思山(にしふしやま) 北不思山(きたふしやま) 栗林(くればやし) 下加市(しもがいち) 御所ヶ市(ごしょがいち) 下中道(しもなかみち) 南川(みながわ) 南寺坂(みなみてらざか) 寺坂(てらざか) 宮の下(みやのした) 牛の子(うしのこ) 岡尻(おかじり) 清水原(しよばら) 途中(とうちゅう) 上手島(かみてしま) 藤の木(ふじのき) 上八反田(かみはたんだ) 前尻(まえじり) 赤山(あかやま) 宮田辻(みやたつじ) 滝谷(たきだん) 漆谷(うるしだん) 甲津(こうず) 北甲津(きたこうず) 角屋(かどや) 下切田(しもきりた) 上切田(うえきりた) 下八反田(しもはたんだ) 桜田(さくらだ) 松の木(まつのき) 下の手島(しものてしま) 西の上(にしのうえ) 北西の上(きたにしのうえ) 堂の前(どうのまえ) 北寺(きたでら) 柿の下(かきのした) 江振(えぶり) 竪寺田(たててらだ) 横寺田(よこてらだ) 三田(みた) 美の組(みのぐみ) 六津木(むつぎ) 下山田(しもやまだ) 上山田(かみやまだ) 蛇子加浦(じゃこごら) 南蛇子ヶ浦(みなみじゃごら) 西仏浦(にしほとけら) 南仏浦(みなみほとけら) 仏浦(ほとけら) 庄境(しょざかい) 上鶴田(かみつるだ) 町田(まちだ) 下鶴田(しもつるだ) 海鳥(かいとり) 上花加屋(かみはなかや) 花加屋(はなかや) 清水尻(しょうのしり) 上横田(かみよこた) 菱津(ひしず) 小加屋(こがや) 常賀谷(じょがたん) 北常賀谷(きたじよがたん) 北松山(きたまつちやま) 折常(おりづね) 牛屋(うしや) 松山(まつちやま) 中の町(なかのちょう) 上抜(かみぬけ) 下抜(しもぬけ) 下横田(しもよこた) 三反田(さんだんだ) 西大町(にしおうまち) 甲茂(こうも) 世々田(せせだ) 世久見田(せくみだ) 東大町(ひがしおうまち) 中加屋(なかがや) 稗田(ひえだ) 白石鼻(しらいしばな) 大谷口(おおたにぐち) 内大谷(うちおおたに) 夏浦(なつら) 西夏浦(にしなつら) 東夏浦(ひがしなつら) 打尾(うちお) 竹賀鼻(たけがはな) 網干場(あみほしば) 藤ヶ崎(ふじがさき) 大谷(おおたに) 錦谷(にしきだに) 野谷(のがたん) 推鼻(しいはな) 寺山(てらやま) 山谷(さんごく) 小曇(こどん) 奥小倉谷(おくこぐらたん) 長畑(ながばたけ) 流し谷(ながしたん) 越坂(おつさか) 上引谷(かみひきだん) 上薄谷(かみうすだん) 上不思山(かみふしやま) 上岡尻(かみおかじり) 上途中(かみとうちゅう) 坂(さか) 西松山(にしまつちやま) 夏浦山(なつらやま) 出川(しつかわ) 関連情報 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『三方町史』 その他たくさん |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2021 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |