丹後の地名 若狭版

若狭

中野木(なかのぎ)
福井県三方上中郡若狭町中野木


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福井県三方上中郡若狭町中野木

福井県遠敷郡上中町中野木

中野木の概要





《中野木の概要》
泉岡一言神社のあるあたり。
近世の中野木村は、江戸期~明治22年の村名。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年野木村の大字となる。
中野木は、明治22年~現在の大字名。はじめ野木村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西7町余・南北1町余、戸数15、人口は男34・女38、学校1、小船2。


《中野木の人口・世帯数》 52・13


《中野木の主な社寺など》

渋谷古墳群と深谷古墳群がある

泉岡一言神社


本殿がない、拝殿もない。舞堂と社務所はある。祭祀の対象は背後の野木山と思われる。

←円錐形の山が神体山と思われる。

案内板がある。
泉岡一言神社
御祭神 一言主大神
御神徳 人の願い事の中で一番大切な事を自分の業を神に打ち明け直心誠意を以て一事だけ祈るとき必ず霊験を授かると古来よりあがめられている遠近からの年参 月参りが古来より絶えない
由緒 大和の国葛城山より影向の霊神で賞罰厳烈なり一事を以て理を尽くす 多言をすべからず 神の使者は青毛の神馬也故に里人青毛の馬を養わずまた神告げて曰く吾敢えて宮祠を好まず野嶽を趾と為せと故に千有余年社殿を創建せず古事記七一二年 日本書記七二〇年にこの大神の考証あり
祭日  四月  (第一日曜日)
祈祷日 毎月一日(五月を除く)
年始祈願祭 正月二日
境内社  河原神社・三宅神社・宇美八幡宮


『遠敷郡誌』
泉岡一言神社 村社にして同村中野木字中宮前にあり、近世泉岡一言明神又は泉岡一言大明神社と稱す、祭神は一言主神なり、本國神階記に正五位とあり、境内神社に上下神社祭神、若狹比古神、若狭比賣神あり。

『上中町郷土誌』
泉岡一言大明神 中野木字宮前鎮座
社寺由緒記 一二五頁に
一、泉岡一言大明神 由緒相知不レ申候
      中野木村庄屋  平内
      下野木村庄屋  治郎右衛門  以上
一、泉岡一言明神社
上中郡中野木村一言主神者手二月初午日為祭日又八月朔日有神事能若狭国神階記曰遠敷郡正五位泉岡一言明神矣  以上
若狭国志に
一、泉岡一言神 在二中野木村一蓋一言主神本国 神階記正五位とある  以上
○遠敷郡誌 一二五頁に
一、泉岡一言神社 村社にして同村中野木字中宮前に有り 泉岡一言明神または泉岡一言大明神社と称す 祭神は一言主神なり、本国神階記に正五位とあり 境内神社に 上下神社祭神は若狭比古神若狭比売神あり 以上
稚狭考 三六〇頁に
 散楽祭礼八月朔日泉岡一言大明神 中野木
野木村誌 一七一頁に
中野木、下野木両区の産神である。玉垣があって社殿はない。正月初午八月朔日は祭日で特に八朔には能楽が催される。
伴信友神社私考第五卷に
正五位泉岡一言明神の条に 当社は葛木より移して来たものであろうと述べて居られる。当社緑起二通にもこの由が記載してある、大和の一言神社は奈良県南葛郡吐山田御村に在る県社で馬場神域も広大で立派な社殿があり、此の神社の宮司は五壱百年来連綿と世襲されている名高い家柄で忠臣の誉れは大平記にも称えられている。
大和では一言を「ひとこと」とは言わず一言(イチゴン)神社と称えている。
一、伝 説 一言明神は大和から勧請したと
三方郡誌 三二五頁に
一言主神とは祭神は味金+且親高日子根神の事にして大国主神の子である。
三体古事記 四一五頁に
一、雄略天皇と一言主大神
天皇又或時葛城山にお登りになった時壱百官皆な 紅紐の付いた青摺の衣を頂載して着用した。其時向うの山の麓より山の上に登る人がある。丁度天皇の行列の様で装束から供奉の人々までよく似てどちらがほんとか判らない。天皇はそれを御らんになって「朕の外に日本に天子は無い筈其様にして行くのは誰か」と問わしめられた。すると其の答が天皇の命せの通りを向うからも申した。天皇ひどくお怒りになり御伴の諸官と共にことごとく矢を番わせられた。するとやっぱり向うの人々も同様に矢を番える。で、天皇は斯う問はしめられた『然らば名を名乗れ双方名乗った上で矢を放とう』之に向うの人が答えて申すには「それでは名乗ろう吾は雖悪事而一言雖善事而一言言離の神葛城の一言主の大神である」この名乗を聞かせられて天皇は謹んで「恐多い大神の御神体を現わし給うと思い掛のない事であった」と仰せられ大刀、弓矢を始め、百官の青摺の衣を脱がせ伏拝んで献上させられた。一言主の大神は手を打ち喜んで此の献上物を受けさせられた。天皇還御の時其の大神は山を下って遠く長谷の山口までお見送りなさった。一言主大神の神体を現われさせられたのは此れが最初である。       以上
一、鐘楼と釣鐘 元禄四年京都にて鋳造した「洛陽分銅屋長衛北京冶工和田信濃大掾藤原両次」と刻してあったが此の鐘も亦大東亜戦時中応召され今は鐘楼のみ。
野木村誌 一七一頁
一、境内神社 上下神社の一小祠がある
山神社は祠殿なく神石である
一、境内 境外編入地併せて。千二百十二坪に及ぶ 一言大明神の神威如嶽神恩如海して一日、十五日には毎月遠く小浜西津名田庄及び江州方面からも参拝者多し。   以上


柳田国男も触れている。「一言主考」に、
若狭遠敷郡野木村大字中野木の泉岡一言明神、祭日は正月初午日、八月朔日に神事能ありと郡縣志にある。東寺文書正安二年の平庄打開輩次第と題するものに、「ひとことの明神の御前をさかひ候云々」とあるのは此社らしい。此國には右の外に同村大字上野木に一言大明神、同郡國富村大字次吉に泉一言明紳、三方郡山東村大字坂尻にも一言明神があったと同書に見えて居る(若狭國紳名帳私考)。之を大和より移したかと言ふのは例の癖であらう。何れも古い割には此が微々として舊傳を尋ねる手段も無いが、前の上下賀茂春日の如く、末社として大社に附祀せられたものゝ多いは、或は神降託宜に関係があった爲ではあるまいか。

大和と関係があるのかないのか、何も伝わらない。三宅があり、駅家があった地で、同じ野木山を祀る本殿のない式内社弥和神社(小浜市加茂)もあり、繋がりがない関係ないとは断定はできそうにもない。

曹洞宗常泉寺

『上中町郷土誌』
中野木村 薬師堂
社寺由緒記に
一、常泉寺坊。本尊薬師如来由緒無之住持も無御座候。
    中野木村庄屋  平内
    下野木村庄屋  治郎右衛門
福井県教育委員会文化財調査報告第二集
 遠敷郡野木村中野木 薬師堂。
(法量)全高は甚だ小躯なり。
(形式、手法)姿勢は立像 衣皺衣紋線は極めて浅い彫法によっている。素材構造は木造寄木。塗り彩色は香烟にて黒褐色をなる。表現の概要は極めて形式的推定造顕年代は鎌倉時代右手は後代において修理補足したもの。故に両脇立は室町前期の作ではなはだ優秀なれ共薬師如来は京都へ持出し修理の際取替えられたと伝えられている。
野木村誌に
(縁起大意)中野木村浄泉寺はもと移瑠山巌上寺と称し殿堂備わり寺領も多かりしが浅野弾正良政若狭領主たる時寺領を没収され殿堂が頽廃したので本尊を明神の森に遷した。万治三年明神の森が鳴動したので巫女に卜せしところ巫女が俄に狂乱して「吾は当院開闢の薬師である邑民は之を知らないから当邑は哀えるであろう」と告げたので邑民相図って浄泉坊の旧跡に建立して本尊を安置し浄泉寺と称えたのである。野瀬氏の乞によってこれを記す。
元禄十四年八月八日加茂荘長泉寺天柱万端識
(由緒)古文書の拠るべきものなく由緒は明らかでない。山号は昌屋と号す。
(伝説)本尊は行基の作といい伝えている。往時修理のため、白木の長持に収め西京へ行ったが仏師は「この像は無位の我身が手に触れることの出来ないものだ」と言って他の仏師の名を教えたが、そのまま修理せずして持ち帰った。薬師如来は名高い仏師の作に相違なく、明庵和尚眼疾のため多田寺に参籠中一夜薬師のお告げによって中野木薬師堂に遷られたが満願の暁には全く癒えた。今もなお明庵和尚直筆の南無薬師如来の一軸がつたわっている。当時の薬師堂は大字上野木、中野木の中間字堂ヶ窪にあった。足利氏の末兵火に罹り尊像のみ漸く難を免れた。のち大字中野木能世平内の祖先珍珠院白宝宗圭居士が現在地よりやや東に偏している自家所有地に一宇を営んで安置したという。この人は元禄十四年に死した堂ヶ窪の田にはホホヅキの絶える年がなかった。これは薬師様が「堂ヶ窪にホホヅキの絶るときはすなわち薬師様が堂ヶ窪に名残惜しき念のなくなるときだ」というお告げであった。現在地の薬師堂に盜人が忍入り記録を奪ったが幾度行きつ戻りつしても猿辺と鯨鼻とを通り越すことが出来なかったから元に収め捕われてのちこの物語をした。
現在地の薬師堂に西津の斎藤某という婦人が下婢一名を随え棲んでいた。ある時下婢は俄に腹を痛め苦しむためその原因を糺した処尊像の前にある鏡を用いて合せ鏡としたことが分り薬師の鏡で腹を撫でたる所直ちに癒えた。
(鰐口)二個あり 一は貞享元年甲子十二月吉日と刻み径七寸。一は無名にして径八寸ある
(六十六部供養塔)境内にある奉納大乗妙典六十六部供養塔は廻国の六十六部が当地に居をボク 薬師堂近くに棲んでいたが秘蔵の経巻を埋め右塔を建てたものであろう。六部田というのが区の東方に約八畝歩あった。大方六部の所有田が死後供養のため石塔に付属していたものであろう。石塔の側面に寛保二壬戍十月吉祥日とある。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


中野木の主な歴史記録

『上中町郷土誌』
中野木
野木村誌に、中野木には小屋場(稲場)という所に山の一部に平らかな地がある。陣屋の跡ではなかろうか。と記されている。ところがこれこそ若狭国志にも出ている野木山の陣屋はここであろう。
 在二野木村後一応安四年夏五月国人作レ乱二于安賀鳥羽、三宅等荘一守護職一色信博之子詮範及守護代率二佐分、本郷、青、神崎、三方、佐野、多太、和田等郷村兵士一陣二千野木山一廿六日昧爽(マイソウ)下二野木山一戦二玉置河原一事見二本国守護職記一。とある。なお若狭郡県誌にも同様この野木山に陣した記事が載せてある。
 中野木は一言神社を中心として通称上中野木と下上野木に分れている。北川は昔上中野木と下中野木との間に在る鯨鼻という山鼻に突当って流れていたという。
 この区と下野木との中間を字渋谷という。この山麓地帯には未発掘の古墳もあるが、すでに発掘されたのも二ヵ所ある。



中野木の伝説





中野木の小字一覧


『上中町郷土誌』
中野木の小字名
下田 大田 大坪 淤ケ 赤池 五木木 新田 敷所田(シキショデン) 岸之上下 下前田 野田 小焼 岡ノ下 上菖蒲谷 深谷 中宮前 鯨鼻 村ノ上 庵ノ下 上猿辺 中猿辺 猿辺 高屋 岸上 松窪 川田 畦田 中斧 猫ノ目 青田刈  上五本木 松下 松無 辺淵(ナベブチ) 御茶河原 中川

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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