丹後の地名 若狭版

若狭

旧・野木村(のぎむら)
福井県三方上中郡若狭町上野木・中野木・下野木
旧・野木村
福井県遠敷郡上中町玉置・杉山・堤・兼田・武生
・上野木・中野木・下野木

濃飯駅・野里郷


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江戸期~明治7年
福井県三方上中郡若狭町上野木・中野木・下野木

福井県遠敷郡上中町上野木・中野木・下野木



明治22年~昭和28年
福井県三方上中郡若狭町玉置・杉山・堤・加福六・兼田・武生・上野木・中野木・下野木

福井県遠敷郡上中町玉置・杉山・堤・兼田・武生・上野木・中野木・下野木

旧・野木村の概要




《旧・野木村の概要》

北川中流右岸の広い所。
古代の野里郷、濃飯駅の所在を当地に求める説がある。中世は松永庄に属し、明応9年(1500)5月19日付円蔵坊頼賢下地寄進状に「奉寄進 松永庄十禅師供僧名之事」として「合壱段者 分米壱石弐斗、在所野木前ひかしおき」とみえる。
野木は、鎌倉期から見える地名で、永仁2年(1294)6月の明通寺院主頼禅置文写に国衙からの寄進分として「織手五反内 能義御堂前地頭留田三反」と初見し、当地に国衙領の織手名の耕地があったことがわかる。正安2年(1300)5月7日に太良荘農民の国友はその由緒書上のなかで、太良荘の東限を「ノヘノテイケノ横ナウテヲサカヒ候テ、石ハシヘムケ候テ、ヒトコトノ明神ノ御前ヲサカヒ候」とする(東寺百合文書な)、伴信友はこれを「野木の手池の横畷」を境と解し、「ヒトコトノ明神」とは中野本の泉岡一言明神だとしている。応安4年(1371)の若狭国国人一揆の際には、守護一色氏方が「のき山」に陣を取り、ふもとの玉置河原の合戦で国人勢を一掃している。明応3年(1494)6月25日には明通寺の僧が早朝から「能木たけ」に登って雨請祈念を行ったところ、その日の夕方に大雨が降ったとある。応永29年(1422)4月28日付の明通寺寄進札に「願主 能義与一大夫」「野木大願主道承」とある。戦国期に入って村名となり、文明13年(1481)6月吉日付の明通寺米寄進札に「願主能木村能世太郎左衛門尉政次」と見える。小字として「野木前ひかしおき」「野木辻堂前」が明応9年(明応1500)の寄進状や永正14年(1517)の安堵状から知られる。大永7年(1527)の寄進札を最後に「野木(野木村)」の記載がみられなくなり、代わって天文3年(1534)からは「下能木」「下能木村」と記されるようになることから享禄~天文年間のはじめにかけて、上野木村と下野木村に分かれたものと見られる。
近世の野木村は、江戸期~明治7年の村名。小浜藩領。明治4年小浜県、ついで敦賀県に所属。「若狭郡県志」に「属松永東郷、合上野木、中野木、下野木等者也」。「若狭国志」には「村居三ツ以上ミ中力下モヲ以テ之ヲ呼フ之」とあり、上野木,中野木、下野木の総称である。明治6年の「敦賀県管轄区分表」には、第7大区2小区に「野木村ノ内上野木分、中野木分、下野木分」とあり、翌7年の「改正敦賀県管轄区分表」には第3大区8小区の1組に「上野木村、中野木村、下野木村」とあり、行政区分上正式に3村に分かれた。

近代の野木村は、明治22年~昭和28年の遠敷郡の自治体名。玉置・杉山・堤・加福六・兼田・武生・上野木・中野木・下野木の9か村が合併して成立した。旧村名を継承した9大字を編成した。役場を玉置に設置し、明治32年武生に新築した。村名の由来は「新村撰定事由調」によれば、「記載ノ各村ハ野木組ト総称シ、其名近郷ニ通スルニ因リ即チ之レヲ採ル」とある。同39年加福六が兼田に合併し、8大字となる。昭和27年の世帯数350 ・ 人口1,714 (男825 ・ 女889)。同年の産業別世帯数は農業318 ・ 林業4・建設業5・製造業25・サービス業10 ・ 卸小売業5・公務員5など。同29年1月1日上中町の一部となり、当村の8大字は同町の大字に継承。平成17年3月31日若狭町の一部となり、当村の8大字は同町の大字に継承。

野木小学校(武生)↑

野木のキき村の意味だろうから、古くから野と呼ばれた地と思われる。野は古くはヌ。
柿本人麻呂の
東(ひむがし)の野(ぬ)に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
ノではなくヌ、カタムクではなく、カタブクが正しいとガッコで習った覚えがある。
ヌがノに変わるのだから、ノもいろいろと呼ばれたのではなかろうか。
柳田国男は、元は野といふのは山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。としている。耕地は平らな広い所だが、集落がある所はそうしたところにあるよう。

濃飯駅(若狭国)
ノイ、ノイヒ駅と読んでいるが、吉田東伍は「飯は飫字の誤にして、濃飫よみて野に同じ」としている、濃飫はノオだから、母音を引き延ばしただけで「ノ」と同じなのかも知れない。「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬条に見える若狭国二駅の1つ。高山寺本「和名抄」にも駅名がある。平城宮出土木簡に「若狭国遠敷郡野駅家〈大湯坐連□□ 御□□□〉」「十月十五日」と見える野駅家は当駅と推定される(平城宮出土木簡概報15)。北陸道の駅家で馬5匹を常備。近江国鞆結駅から分岐して若狭国府に至る支線上に位置する。伴信友は、駅名の濃飯を野伊(野井)と考え、「和名抄」に見える「野里」郷とともに現在の上中町上野木・中野木・下野木付近に比定する。天平4年9月の年紀を有する平城宮出土木簡に「玉置駅家」が見え(平城宮木簡1)、当初遠敷郡の駅は玉置郷に置かれていたが、天平勝宝4年に玉置郷の50戸が東大寺封戸に編入されたため、それに伴って駅も野里郷に移されたと考えられるという。

野里郷(若狭国遠敷郡)
野里は、飛鳥期に見える里名。若狭国小丹生評のうち。藤原宮出土の調塩付札木簡に「野里中臣部石人塩二斗」との墨書があり(藤原宮出土木簡5)、塩の輸貢単位が大宝令では3斗を基本とすることから、大宝令以前のものと推定されるという。当里は、「和名抄」や平城宮木簡に見える遠敷郡野(里)郷の前身と考えられている。

野里郷は、奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」若狭国遠敷郡八郷の1つ。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。古くは野郷にもつくる。平城京出土の調塩付札木簡に「若□国〈小丹生郡野里 中臣部乎万呂御調塩〉三斗」「和銅五年十月」と墨書したものがある(平城京左京三条二坊六坊発掘調査報告)。また,大阪府柏原市安堂遺跡木簡には「若狭国遠敷郡〈野里相臣山守 調塩三斗〉」「天平十八年九月」と墨書したものがある(木簡研究9・柏原市教委安堂遺跡)。但し天平18年当時は郡郷制下へ移行しており野里は正確には野里郷または野郷と表記しなければならないという。平城宮出土木簡としてはほかに「若狭国遠敷郡〈野郷野里 秦人文屋調三斗〉」「九月」(平城宮木簡1)、「遠敷郡〈野郷矢田部諸人 御調塩三斗〉」(平城宮出土木簡概報19)などがあり、当郷のもとに野里が存在したことが知られるという。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


旧野木村の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
野木の郷
〔野伊の郷〕 濃飯または野飯とも書く。
若狭旧事考の野伊郷の条に
「今野木という広き里ありて上、中、下に分ち呼べり。この里旧野伊と呼べり。と其里人云伝へたり。」乃伊比を乃比と約めた。
松永村明通寺の寄進札によると応永二十九年四月廿八日の札に野木大願主道承の署名があるのは、当時すでに野伊と呼ばず野木と称えたようである。同年又能義与一太夫と記したものもあり、野木は能木とも能義とも書いた。文明十三年六月吉日願主能木村能世太郎左エ鬥尉政次。永正五年能木六郎太夫。大永七年十月十九日野木倉谷弥左エ門。天文二年九月廿四日下野木弥左衛門等が見ゆ。
若狭国志遠敷郡郷名の条に
〔野里〕 今廃按野木村旧称二野井一古駅名巳ニ有二濃飯一即今野木則野里亦野井ノ再転而称レ之乎。
〔野木〕 村居三以二上中下一呼レ之今入二上中郡-及属二下中郡松永荘一とある。
 同書置駅条に若狭国駅馬弥美濃飯各五匹按式木国有二駅馬一無二伝馬一弥美即三方郡耳荘濃飯即遠敷郡野木村也。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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