能登郷(のとごう)(若狭国三方郡)
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福井県三方上中郡若狭町能登野 福井県三方郡三方町能登野 |
能登郷の概要《能登郷の概要》 能登郷は、「和名抄」若狭国三方部五郷の1つ。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。郡里制施行期(大宝年間~和銅年間)と推定される平城宮出土木簡に「三方郡乃止三家人羽志米六斗」と墨書されたものがある。さらに塩を中心とする調貢進物付札に「□□□□(若狭国三力)方□(郡力)〈能登里〉」、「若狭国三方郡乃止郷」「若狭国三方郡能登郷」「能登郷」などとあり、粟田部・粟田公・三家人・海部らの名前が見える。「延喜式」神名帳の三方部十九座の1つに「能登神社」がある。 能登郷は現在の能登野あたりにあった郷で、和銅6年(713)以前には「乃止」と書いた。 〔当地関連の平城京跡出土木簡〕 三方郡乃止三家人羽志米六斗 □□□□(若狭国三カ)方□(郡カ)能登里□□□□□□□ 若狭国三方郡乃止郷〔戸主粟田□□□□ 粟田部□守御調□〕 若狭国三方郡能登郷〔戸主粟田公麻呂戸口 三家人□麻呂調 塩参斗〕 若狭国三方郡能登郷〔戸主× 海部□麻呂調塩×〕 能登郷〔戸主粟田公麻呂戸□ 粟田荒人調塩三斗〕 能登郷の主な歴史記録『大日本地名辞書』 能登郷。和名抄、三方郡能登郷。○今十村と云ふ是也、郡の南西隅にして、遠敷郡瓜生安加里と相堺す、中世以降専ら倉見庄と称したり、近時其十村を并せてとむらの号を立つ、大字能登野存す、渓流は北流して 延喜式能登神社は能登野の八幡宮是なるべしと云ふ、蓋能登国造大入杵命を祭る、〔官社私考・神祇志料〕能登の国人の移住せる郷里にや。○守護職次第記云、応安三年十二月に、山東山西郷に一色より守護代を入、彼所を被押之間、同晦夜守護使壱岐太郎を夜討にし畢、此由を聞き同四年正月二日、守護代西津を立て山東山西に押寄せ、菅浜に於て合戦有之、両方之手負数十人、雖然守護殿方は死人無之、山東方は少々被討了、守護殿方は打勝給て帰給ふ処に、鳥羽宮河倉見の能登野に出合ひ、同六日晩景に合戦有之、両方の手負数十人あり、其時も守護殿方打勝陣を取る処に、同七日晩西津より一色信伝の御子息、其時は兵部少輔殿、(詮範)能登野へ御攻ありて、守護代共に西津へ帰給了。 補【能登神社】○神祇志料、今能登野村に在り、八幡と云ふ、(若狭国志・官社私考)蓋大毘古命の従孫大入杵命を祀る、即能登国造の祖也(古事記・旧事本紀) 按、続日本紀養老二年越前四郡を割て能登国を置くに拠らば、本国と越前と相隣り且大毘古命に由縁あるを以て此神を祭りし事明し、姑附て考に備ふ。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『三方町史』 その他たくさん |
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