小川(おがわ)
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福井県三方上中郡若狭町小川 福井県三方郡三方町小川 若狭国三方郡西田村小川 |
小川の概要《小川の概要》 常神半島の西側中央部に位置する。西浦では最も広い平地面積がある。 中世の小河浦。鎌倉期から見える浦名。於河浦・小面浦とも書かれる。正応5年(1292)10月に日吉十禅師宮領の辺津浜山の山守職(於河浦職)を於河浦の友永に宛行うという文書があるが、それは疑わしいので(大音文書)、初見は正安2年(1300)5月9日天台座主が「山門東塔北谷虚空蔵尾領若狭国於河浦内辺津浜山」を御家人倉見平六が押領したと六波羅探題に訴えた文書である。これを受けて同年7月22日六波羅探題は守護代に宛てて倉見に弁じ申すよう触れよと命じている(同前)。これによって当浦は山門領であったことがわかるが、年未詳11月20日の綸旨に「大炊寮若狭国田井保内小面浦刀禰友吉」とあって田井保に属すと見え(同前)、田井保領主中原師守は貞治6年(1367)5月13日に和布を「小西浦刀禰」に命じて納入させておりこの小西浦は小面浦のこととみられることから(師守記)。少なくとも南北朝期には田井保に属したことがわかる。南北朝期の文和4年(1355)から貞治元年には当浦の刀禰安曇(松本)友連と御賀尾浦刀禰大音正資との間で辺津浜山をめぐる争いが起こっている(大音文書)。すなわち文和4年7月5日に守護細川清氏の命によって辺津浜山は小河浦刀禰に与えられ、7月24日に御賀尾浦の給人である菊池・小林がこの山を引渡し、8月10日には守護奉行人が安堵している。ところが御賀尾浦刀禰は嘉応2年(1170)12月28日の後白河院庁下文(四至差定状)なる文書を持ち出して幕府に訴え、これが功を奏して9月26日には一転して辺津浜山とそれに付随する俣山は御賀尾浦刀禰のものとされた。これに対して小河浦刀禰は正安2年7月22日の六波羅御教書を証拠として反論を加えたが取り上げられず、結局貞治元年11月2日安曇友連は契状を認め、辺津浜山と俣崎網場の境を改めることで妥協し、俣山と丸山を御賀尾浦に去渡している。その後小河浦刀禰は俣山の権利を得たが、それも文明6年(1474)11月15日鰒網場一所とともに売却している(同前)。刀禰松本氏は応仁2年(1468)の御賀尾浦諏訪神社棟札に「小河松本」と見え、また弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「おかハうら」の350文と並び50文を奉加した「松本惣兵へ」が見える。 慶長7年(1602)6月の若狭国浦々漁師船等取調帳(桑村家文書)によれば船48艘があり、惣中で鯖・鰯網三かわ(張)を有した。しかしこの頃には舟は草分百姓の12家に独占されていたらしく、慶応2年(1866)の記録覚帖(安原家文書)は「百六拾年以前迄は脇には船持は無御座候、依之小物成御運上銀長方として致し来り候、追て家数ハ多く相成候故、脇方より私共に船を持たせ呉れ、共に沖漁業も為致呉れる様に被相願候処、村持合之中一統之弄に致遣し候、夫より小物成御上納等も割合に相成候事」と記す。漁業権(網場)は幕末まで12家の独占が続いたという。魚は早瀬の問屋へ納めたが、交通不便のため鰯が大漁の時は砂干しして肥料にした。しかし文化14年(1817)当浦の松本久三郎が初めて煮干鰯を工夫して食品化に成功、以後京坂・名古屋方面へ移出されて小川鰯として知られた。 近代の小川浦は、明治初年~明治22年の浦名。北小川浦が改称して成立。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年西浦村の大字。 近代の小川は、明治22年~現在の大字名。はじめ西浦村、明治40年西田村、昭和28年から三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北3町、戸数62、人口は男154 ・ 女162、学校1、大船3・小船36。 《小川の人口・世帯数》 188・52 《小川の主な社寺など》 小川遺跡 海岸部に広がる古墳後期の土器製塩遺跡。南北約50メートル、東西約100メートルの範囲にあり、大部分は現在の集落と重なる。昭和52年試掘。遺構は明らかではないが浜禰ⅡB式製塩土器の単純遺跡で、過去の民家改築のさい高坏・坩などの土師器完形品が出土したという。 小川神社 境内のカゴノキやタブノキの古木が見もの。 『三方町史』 小川神社 小川字天王に鎮座。祭神素盞嗚命。明治四十二年三月、次の神社の祭神を広嶺神社に合祀して社号を小川神社と改めた。 吉野神社祭神伊弉諾尊 (元、旧岬小校庭の近くに鎮座) 浜宮神社(夷宮)祭神浜宮大神(元、現漁協事務所の地に鎮座) 大宮神社祭神大神宮大神(元、廣嶺神社の境内社) 春日神社祭神元児屋根命(同) 八幡神社祭神誉田別尊 (同) 秋葉神社祭神迦具土神 (元・区内に鎮座) 金毘羅神社祭神大物主大神(同) ところが、慶応四年(明治元年)には、合祀された右の社以外に、神明宮・手力雄命社・金幣社・山神社・大満宮・ひるが社・上瀬社・稲荷社があったようである(小川「郷土誌」)。 小川神社は、昔は祇園大王と言い、後で廣嶺神社と改めた。広嶺神社は、時代は不明であるが、安原弥太文書によると、小川浦に十二人の長百姓がいて、大戸で大網漁業をしていたが、或時大網にお面がかかり、それを牛頭天皇(素盞嗚尊)とあがめまつったのがこの社であるといわれている。この広峰神社は、明治九年八月に村社に列せられた、また、合祀された吉野神社は、熊野本宮の能野権現(伊弉諾尊)を勧じょうしたと伝えられている。この本殿跡には「吉野神社旧跡」と刻んだ石碑が、旧岬小学校教員宿昔付近に立てられていた(小川「郷土誌」)。小川の集落の氏神は、この廣嶺神社と吉野神社であった。 小川神社の例祭は七月十四日で、近年引き出車が復活し、にぎやかに祭り行事が行われている。 『三方郡誌』 小川神社 村社。小川に鎮座す。もと祇園天王と称す、即ち素盞嗚尊を祀れるなり明治九年六月八日村社に列せらる四十二年三月二十二日社号を今の名に改む 境内のカゴノキは県天然記念物。案内板に、 県指定天然記念物 小川神社のカゴノキ 管理者 三方町小川 高さ 約一三・二メートル 幹周り 五・三メートル カゴノキは暖地性常緑広葉樹で、若狭湾を北限とする樹木のひとつです。 樹皮が成長すると、古い皮が丸い薄片となってまだらに落ちその跡が白い鹿子(かのこ)模様となることから力ゴノキと呼ばれています。 指定年月日 昭和三十二年七月三十日 三方町教育委員会 『若狭町の文化財』 【小川神社のカゴノキ】[県指定] 小川神社は集落の山手に位置する。その社殿に上がる石段の右側にカゴノキがある。 カゴノキは暖地性植物で関東以南から台湾にかけて自生し、日本海側では若狭湾が北限とされている。樹皮は平滑で淡い紫黒色をしている。 その樹皮の一部が円い薄片となってはがれ落ち、その跡が白い鹿子模様になることからこの名がつけられた。 主幹下部にはこぶ状の隆起が見られ、奇形を示している。 曹洞宗祇園山海蔵院 『三方町史』 海蔵院 所在小川六-四-二。山号祇園山。曹洞宗。本尊延命地蔵菩薩。今からおよそ六百年ほど前、この土地の安原市郎兵衛(通称糀屋)の孫娘が、藤井の向陽寺開祖、一祐の弟子となって出家し、貞雲尼と言ったが、やがて修行を終えて小川へ帰り、草庵を建てて、郷土の子女の教化に尽くした。これが、この寺の始まりであるといわれている。現在本堂の脇仏としてまつってある厨子入の釈尊・文珠・普賢・十六羅漢像は、貞雲尼の念持仏であり、この草庵の本尊であったと推察される。 小川の裏の梅丈山を越した向う側血の浦海岸に、久留美と言う集落があらたが、ある晩大津波がおしよせて、神社と民家一軒だけ残して全滅した。この時、一軒家は早瀬に移住、日向は海を、早瀬は山をとり、小川は寺の延命地蔵菩薩をもらった。この延命地蔵菩薩は海蔵院の木尊であり、行基の作といい伝えられている(小川「郷土誌」)。 寄戸竜源院の記録によると、佐柿国吉城主粟屋越中守勝久の息子、源勢(幼名勝秋。永禄二年〔一五五九〕生)は、幼時に臥竜院第五世日昇に弟子として仕え、成人してからは、雲水として諸国を巡り歩いて修行を積んだ後、臥竜院に帰ってきた。元亀(一五七〇-七二)のころ、師匠日昇の命令で小川へやってきて、既に無住となっていた先の草庵に駐在し、本堂の建立に当たった。この寺は山号を祇園山、寺号を海蔵禅院と名付けて臥竜院の末寺となった。ところがその後、堂宇は大変荒れ果てたので、寛政年間(一七八九-一八〇〇)にこの寺にきたことのある臥竜院二十六世玄中の指示と、鑑住梅樹の協力によって、文化十年(一八一三)に、裏山の樹木を材料として本堂を改築し、四月に落成、入仏式が行われた。嘉永二年(一八四九)には法地に認められ、この寺を初めてつくった源勢を開山に、法地に認められた時の住職であった臥竜院第二十九世呑如を一世住職に、弘化(一八四四-四七)のころ、この寺の鑑寺(かんす)(住職代理)として派遣されていた永平寺の義堅を二世住職として世代を定め、最初の本堂再建の恩師玄中を前住中興としてまつることに定められた。このころ、寺号が海蔵院と改められたものと思われる。 本堂棟札によると、明治二十六年(第九世立褝の時)と、昭和十二年の二回、本堂の大改修が行われている。昭和四十一年夏、庫裏の屋根を瓦ぶきに改修し、風呂場、台所も改修した。 釣り鐘は、太平洋戦争のとき、昭和十七年に供出されたが、昭和二十四年に再鋳造し、十月二十日につき始め法要が行われた。 大般若経五百巻が所蔵されているが、これは応安から嘉慶年間(一三八七-一三八八)にかけて数人の僧で写されたものであると伝えられている。 『三方郡誌』 海藏院 曹洞宗。小川に在り。祇園山と號す。向陽寺開祖大等一仙の弟子貞雲〔小川糀屋の人〕此地に草庵を結ひたるを本寺の草創となす故に向陽寺の末寺たりしか、土地遠隔の爲め、臥龍院の預け末寺となる。嘉永の初年法地とし、臥龍院第廿九世居山呑如を傳法第一世とす。本尊は延命地蔵菩隣なり。傳云ふ、行基の作なりと。寺に大般若經五百巻を蔵す。應安永和嘉慶年間数人の僧侶の手にて寫されたるものなりその百巻は丹後成相山にありと傳ふ。本堂庫裡開山堂山門鐘樓あり。境内挟からす。檀家六十戸。西田村に於ける第一の巨刹たり。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 小川の主な歴史記録『三方町史』 小川 小川海蔵院薬師堂所蔵の大般若経の箱書には、「箱再造営慶安五年(一六五二)卯月吉祥日北小川惣百姓中敬白」とあり、昔は北小川と呼ぼれていた。十二戸が草分けであるといわれているが、四百年ぐらいより以前のことは不明である。 昭和三十二年十月二十三日、水道工事中、漁業組合の横から土器が掘り出されて、鑑定の結果約千三百年以前のものであることが分かった。これによって小川には古くから住民のいたことが分かる。 西浦地区では最大の集落で、田井村と合併するまでは役場もここに置かれていた。駐在所も明治二十七年から昭和三十三年まであった。また、医者も明治二十三、四年ごろから昭和二十七年九月まで滞在し、ときには数年間も不在の期間があったが、西浦地区の医療に貢献していた。 慶長七年にこの集落で持っていた船や網は、表52で示したとおりで、本来漁業を中心として生活してきたが、網場は三十三戸組の大神事組と、三十戸組の小神事組とに分かれており、必ずしも利害は一致しなかった。そこで大正十三年の秋、当時の村長武長竹二郎と、海山の吉田吉兵衛の二人が、村の円満を図るため協同案を提出し、双方がこれを了解した結果、今後は小川区の共有とし、協力一致して経営に当たることになった。 大敷網は、昭和十九年末までは賃貸契約によって、他所の者が経営していたが、昭和二十年から小川大敷網組合を設立し、漁師も一戸に一人出すことにして、完全自営となった。 昭和初期までは魚の行商は女の仕事「小川の里売り」として有名であった。小魚や海産物の加工品をかごに入れ、天びん棒を担いで、遠くは江州方面までも出掛けて行った。多いときには、三十人もの行商でにぎわったが、現在はその姿は見られない。明治の中ごろから大正の初めにかけて、男子は稲こき機(早瀬で作られた通称せんば)の行商に全国各地へ出かけた。 また、出稼ぎも多く、漁閑期の十一月ごろから二月ごろにかけて酒造りに西江州方面へ数十人が出ていたが、これも大正の末までで、その後はほとんど無くなった。また、冬大敷の漁夫として、十数人が丹後へ出向いたが、これも昭和十年ごろで終った。さらに、明治四十年ごろから、渡米の気運が高まり、一時は二十人にも達した。当時フィリピン・ウラジオストックヘも移民したが、昭和の初めにはほとんど帰国した。太平洋戦争が終わってからは、漁閑期の約三ヵ月間、工場労務者として、関西・中京方面へ多いときは若者が約四十人も出向いていたことがある。 昭和三十五年、小川観光組合を開設し、十数戸が夏季旅館を開業した。年々その数が増え、年間営業し、昭和六十三年には、五十四戸中三十五戸が営業している。また、他の集落に先駆けて昭和五十四年に水洗便所の施設を完成した。漁港やそれに付属する施設も年々整備されてきた。 小川には昔からすべての家にそれぞれ?・?・?のような家印があって、家の道具に記したり、商売取引の記帳に使われている。また、屋敷神として大神宮の小さい社を持っている家もかなりある。 今から約二百年前、臥竜院二十六世、玄中によって建てられたという薬師堂がある。当時は常福寺と呼んでいた。本尊は阿弥陀如来坐像で、集落の東南エミヤにあったが、薬師如来坐像も一緒にまつり、この堂を薬師堂と呼ぶようになったという。昭和七年、海蔵院境内に薬師堂を建て、観世音菩薩三十三体と、大般若経をまつった。 小川の伝説『越前若狭の伝説』クルビ村 (小川) 小川の裏の山を越した海岸を血の浦といい、そこに昔クルビ村という村があった。ある晩村の人が出漁中に大津波があり、民家一軒と社寺を残して全滅した。その一軒家も後に早瀬へ移住した。クルビ村かなくなったとき、日向は海をもらい、早瀬は山をもらい、小川は本尊の延命地蔵をもらって海蔵院に祭った。 (西田村誌) 小川の小字一覧『三方町史』 小川 稲村磯(いなむらいそ) 別当(べっとう) 狭間口(はざまぐち) 中の道(なかのみち) 天王(てんのう) 天王下(てんのうした) 菴の下(あんのした) 菴の下口(あんのしたくち) 三つ谷口(みつやぐち) 三谷(みつや) 稲越(いなごし) 宮狭間(みやはざま) 柳槻(やなぎつき) 深坂(ふかさか) 南坂(みなみさか) みつあん(みつあん) 駒の坂(こまのさか) 太平桜(おおひらざくら) 俣(また) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『三方町史』 その他たくさん |
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