丹後の地名 若狭版

若狭

無悪(さかなし)
福井県三方上中郡若狭町無悪


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福井県三方上中郡若狭町無悪

福井県遠敷郡上中町無悪

無悪の概要




《無悪の概要》
鳥羽川上流に位置し、県道22(上中田烏)線と若狭梅街道(農道)が通る。一の坪・二の坪など条里制の名残と思われる地名が存在し、町文化財の条里起点石と伝えるものが残る。
中世の「さかなし」は、弘治2年(1556)6月22日付の明通寺鐘鋳勧進算用状に「卅九文 さかなし門前」と見える。
近世の無悪村は、江戸期~明治22年の村。小村に岡条がある。小浜藩領。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年鳥羽村の大字となる。
近代の無悪は、明治22年~現在の大字名。はじめ鳥羽村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北3町余、戸数53、人口は男137 ・ 女128、学校1。
サカナシの意味は、不明。坂梨、坂足と書く所もある。


《無悪の人口・世帯数》 139・41


《無悪の主な社寺など》

天満神社

7年に一度能を奉納したという。近代に入り天満宮は村社となり、明治42年字甲ノ浦の二十八社を合併した。
『遠敷郡誌』
天満宮 村社にして同村無惡字深水にあり、祭神は菅公にして境内に廣峰神社夷子大明神の二社あり、何れも祭神不詳なり、明治四十二年字甲ノ浦より合併されたる二十八社は元二十八社神社二十八宿社等と稱し、無惡と麻生野との間にありたるものなり。

『上中町郷土誌』
天満神社  無悪
祭神 菅原道真
由緒 不詳
境内神社 広峰神社
祭神 不詳
由緒 不詳
     夷子大明神
祭神 不詳
由緒 不詳
     二十八社
祭神 不詳
由緒 (元字甲ノ浦にありしを明治四十二年四月天満宮へ合併)
   若狭郡県誌上巻に依れば二十八所神社在下上中郡無悪村与二麻生野一之間上とあり。
社寺由緒記 無悪村氏神天神、二十八社右二社共由緒不二相知一略之
       無悪二十八社明神の棟札と神像他
      無悪天満神社内摂社二十八所明神の棟札は古い時代のものが三枚現存するがその内尤も年代の古いものは天禄三年壬申のもので円融天皇の御代で今から約一千年前のものである。
     奉造立二十八所御宝前成就所 大工………
         天禄三壬申三月三日
     大願主 鳥羽加賀入道生年七十五
                   以下 文字磨滅不明
昭和四年五月廿六日上田三平氏の鑑定に「表記ノ年号ヲ「天禄」と鑑定ス」と記載す。
     次に同棟札一 応安年代
     寸法 長さ 三尺五分 巾 二寸五分  厚さ 五分板
        奉造立二十八所御宝殿一宇
                 禰宜 ?子時吉
        応安二二(四)歳次三月廿二二日大願主中原範宗
                       以下文字不明
応安四年辛亥約五百八十二年前後亀山天皇の御代南北朝時代で南朝の建徳三年であり、応安は北朝の年号である、六百年に近い楝札が残っているのは珍らしい外に延宝年代の棟札が一板現存する。板絵神像は年号など記録されていないが。二十八所明神創建当時のものと思われ千年以上を経過せるもの元二枚あったものの内一枚であると考えられる。五分板で長さ二尺七寸五分内四寸五分のもの一枚が残っており、冠様のものをかむった神人らしきものが十四体横板にならべ描かれているが、年月を経過したために墨色も消え去りわづかに人物らしいものが漸く認められる程度で図様は極めて稚拙である。十四人づつ二枚に画かれていたもののうち一枚と思われる。二十八所明神の開発の功労ある方を祀ったものであろう。珍らしいものである。
同二十八所明神の御神体として次の三菩薩が祀られてある。
十一面観世音菩薩  木造立像  高 八寸五分
勢 至 菩 薩   木造立像  高 八寸五分
地 蔵 普 薩   木造立像  高 八寸
以上優秀の作創建当時のものと思われ約千年も経過したるものらしい。
外に銅板懸仏一体経一尺素朴の作ぶりであるが稚拙のうちに面白味があり同時のものと思われる。 (昭和三十九年六月十日改めて調査の上再確認する。)



曹洞宗無悪山安楽寺

小野篁の創建と伝える、本尊の木造聖観音菩薩立像は大正10年国宝に、昭和26年国重文に指定。境内には町文化財の小野篁の墓と伝える墓がある。
『遠敷郡誌』
安樂寺 右同寺末同本尊同村無惡字蓮池に在り、無惡を山號とし小野篁創立と傳ふ、元眞言宗なり、境内佛堂に観音堂あり、十一面観世音菩薩を本尊とす、大正十年四月國實に指定さる。

『上中町郷土誌』
安楽寺 曹洞宗 無悪
創建 慶長十六年八月十七日総持寺輪番地常在院第七世獅心勇建和尚開山
由緒
当寺は元法相宗に属し中頃天台宗に化せり。創建以来常在院の末寺にして平僧地なり。当寺は小野篁の古跡を以て名高し。安楽寺縁記は後記の通りにてその節の謫行吟七十句中、世に悪無んば無事ならんの意味を含める句あり嵯峨帝はサガなくんばよからんと解せられしとか無悪の字名はこれより起りしといい寺を無悪山と号す。明治十三年七月十九日罹災の為僧空海の真筆等種々烏有に帰したりしも尚行基菩薩像兆殿司筆不動明王、鎌倉時代の彫刻三尊仏等を宝蔵す。
(社寺由緒記)
無惡山安楽寺 正観音堂は古へは大伽藍にて御座候由百五六十年以前煙焼仕其跡に三間四方斗板葺の堂建立仕候。而二十五年以前迄御座候へ共是又及二大破一只今は寺と一所に本尊観音脇立二躰御座候余略レ之観音鎮守若王子此社及二大破一候を近年建仕候、観音仁王門 此鬥六十年以前に小浜妙興寺へ仁王共に売申候処在所へ殊の外たたり候故又其跡に一間に二間の門を立て仁王の像も御座候。なお観音の由来は嵯峨天皇の時無惡谷の落書に付而小野篁隠岐の国へ配流有レ之其子道風禁庭に召され額を被レ為レ書候。御褒美に父篁配流を御免被レ遊北国のたんだいを被下篁配所にも昼夜この観音を信じ一度この難を遁れて堂建立可レ仕旨誓願有レ之の由仍而この境に御堂建立有之由申伝候長々敷由緒書も有之候一度の火災に焼失候由云伝斗候間拙僧代に至遂二吟味一有増縁起も認置候。宗旨は往古は真言宗にて寺領も多く坊も六坊御座候由に候へ共大閣の御代に落申候故坊も絶勤行化僧も無レ之弥大破におよび候。六十年斗より禅宗に罷成候。
安楽寺聖観音縁起
 抑々木山に安置し奉る聖観世音菩薩は小野篁卿の御念仏にして行基普薩の御作にて世に稀なる尊像也。この篁卿は小野岑守卿の長子にて恐多くも人皇五十三代嵯峨天皇より五十五代仁明天皇に至るまで三朝に仕えさせ玉い生質誠忠にして父母に至孝也。世に能書乃聞へ有て文章にまた妙を得させ玉へは当時右に出るものなしといえり。然るに今に明音の承和五年故有て隠岐の国へ流され玉えば甚是を愁い日夜この観世音菩薩に祈誓し、路中にて謫行吟と云詩七十句を賦し賜う。時の人皆口誦とす帝聞し召してその秀才を叡感ましまして帰朝を赦させ給うにより乗船したもう折節急に西風烈しくすでに東北に押流されんとしたもう処、辛じて当国田烏浦に着賜い直ちに海士坂を越え当村に来臨在せたまひて、暫時爰に御保養のため御在留なしたもうによりこの観世音菩薩を本尊に安置し自ら開基と成りたもう。則ち当国三十三所の霊場にして三十二番の札所也。然る処朝廷よりの召に応じ帰洛の後本官に復し追々昇進したもうも全くこの観世音菩薩の霊験あらたなればこの後末世に至るまで一切衆生の難苦を救わんとの御誓願なり。各々謹んで拝礼を遂ぐるべし。穴賢。
 明治二十一年六月書改
    常在院 泉満舟
 江州 朽渓山中属 白鴎居土
 小野篁の石塔安楽寺
安楽寺境内にあり同寺縁起に依れば篁隠岐より帰還の途乗船烈風に遭い田烏海岸に着、直ちに海士坂を越え当地に來り塋観世音菩薩を安置して自ら開基となり在留せし古跡なり。現在の石塔は花崗岩にて造られ高さ四尺四寸余台石の幅一尺八寸余あり。同型のもの一葉相並びて立つ。篁を祭りしものなりと今尚毎年九月五日(以前は旧暦八月五日)墓前祭を行うを行事とせり。小野篁は妹子の玄孫岑守の子なり。弘仁岑守陸奥の守となる。篁任に従い馳馬を習う。後京都に還りても学業を亊とせず。嵯峨天皇を嘆じて宣く。「斯の人にして猶弓馬の士となるか」是より慚悔して学に志し天長九年従五位太宰少弐となる。正和元年遣唐副使となり備前守を兼ね刑部大輔となる。三年発船して颶風に遭い船破れて還る。四年再び唐に赴くに際し大使藤原常嗣と船を争い病と称して乗船せず。謡を作りて遣唐の亊を諷刺す。嵯峨天皇大いに怒り給い罪を論じ五年十二月隠岐に流す。七年四月召還八年本位に復す。九年陸奥守東宮学士兼式部少輔となり十二年七月蔵人頭に補し、十四年参議兼弾正大弼となる。文徳天皇即位せらるるや正四位下近江守に任ぜられ明年左大弁となる。幾千も無く病む。天皇屡々人を遣わして物を賜い従三位を授けらる。仁寿二年十二月二十二日歳五十一を以て薨ず。


国重文の木造聖観音菩薩立像を安置する

案内板に、
木造聖観世音菩薩立像の由来
平安時代前期の作 像高一五八・八㎝
大正十年四月   旧国宝に指定
昭和二十六年四月 国の重要文化財に指定

若狭国霊場第三十二番札所無悪山安楽寺の観音堂のご本尊は、お顔も円満で、量感豊かなお姿であり、手には蓮華の水瓶をもち、参拝する人々に心の平安を与える優れた観音菩薩像です。
その構造は、桧材の一木造りで内刳りはなく、彫眼とし頭上太く結い上げた髪や山型の宝冠・耳を覆う巻髪は古様を示し、浅く流麗な衣文や、両腕に彫られた華やかな釧の表現など、本像が平安時代前期、王朝文化盛んな頃の本格的な仏師の手になることを示しています。
本像は、かって厚い金泥彩色に覆われていましたが昭和四年の修理で洗われ、その下から当初に衣に描かれた文様や部分的に残る美しい彩色が現れました。岩を表す台座に立ち、背にはその威光を示す光背が附属しますが、これらは後の製作となっています。
「安楽寺縁起」によれば、この観音像は行基の作で、平安時代の公卿小野篁の念持仏であったといわれています。有名な書家であった小野道風の祖父である篁が、承和五年(八三八)に隠岐国へ流罪となり、その後許されて都へ帰る途中、海上で強い西風に遭って若狭の田烏の海岸に漂着しました。上陸後、篁は海士坂峠を越えてこの無悪の地に入り、保養のため三年間とどまったと伝えられています。その時、篁が信心していた観音菩薩像を安楽寺に安置したのが始まりとされます。
ご本尊のご開帳は三十三年ごとに営まれます。観音菩薩像は、およそ千年にわたり慈悲深くこの無悪集落を見守り続けてこられました。なお、毎年七月十七日に法要供養が行われています。  管理者 無悪山安楽寺


『若狭町の文化財』より
【木造 聖観世音菩薩立像】[国指定]
檜材の一木造り、彫眼、彩色の手法がとられ、左手に未敷蓮華瓶を持ち右手を垂下する、かたちの整った美しい立像である。豊かな体躯に内刳りは施されず、裳裾左右の鰭状や、足首を見せる表現、衣文に大波と鎬を交互に繰り返す彫法など古様を踏襲しながら、表情は柔和で像容全体に穏やかで優雅な様の表出が強いところから一一世紀半ばの造像と推定されている。



小野篁の墓がある。山門を入ったところ。



堂山城跡
安楽寺裏山山頂に堂山城があったとされる。
標高107mの山頂に堂山城跡がある。全長40m、最大幅18mの小規模な山城である。「若狭郡県志」は「上中郡悪無村堂山有二城跡一、未レ詳何レ時何人之所レ構之」と記し、「若狭国志」には「堂山堡土人言鳥羽左内者居焉事実不詳」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


無悪の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
無悪
無悪は鳥羽地区東部山脈に沿い、部落は南北に長く二つに分かれ水田を隔てて西側に甲ノ浦の一小部落をも含む。
戸数四十五戸あり。区の北端に曹洞宗の安楽寺あり、地区内における古刹にして不不動明王の軸を蔵し、境内に小野篁の墓石あり、境内観音堂に安置する聖観音木像は小野篁卿の御念持仏にして、稀有の尊像なりと伝う。三生野境に両区の共同墓地あり、ここに安部睛明の折り塚なるものがある。安楽寺仁王門の前を一路山を越えて、三方町田上に至る。氏神天満宮は部落の南端にあり、同境内に二十八社あり内には古い棟札を存する。
 伝兵衛文書によると嘉永年代御領分高は無惡村六百四十三石九斗七升四合とあり。
    ○
条里制の基点石
部落の中央(高橋儀兵衛宅の西)町道附近に大化改新に施行した条里制施行当時の基点石(石の大きさ長さ一・五米、厚さ八五糎、重量一トン余)がある。千三百年前無悪部落を中心とする三十六町歩の田が条里された。

無悪の伝説


『越前若狭の伝説』
小野の篁(一)   (無 悪)
無悪山安楽寺の本尊である聖観音の由来は、嵯峨天皇のとき無悪谷の落書(らくしよ)に関し、小野の篁(たかむら)は隠岐(おき)の国(島根県)へ配流になった。その子小野の道風(とうふう)は宮廷に召されて額に字を書き、そのほうびとして父の篁の配流を許され、北国のたんだい(探題)を命ぜられた。
篁は配所でもこの観音を信じ、この難をのがれることができれば、堂を建てる旨誓願していた。よって罪を許されて、ここに堂を建てた。 (社寺由緒記)

安楽寺の本尊聖観世音菩薩は、小野の篁の念持仏で、行基の作という。篁は故あって承和五年(八三八)隠岐(おき)国に流された。公はこれを憂い、日夜観世音に祈誓し、路中「諦行吟」という詩七十句を作った。当時人はみなこれを口に誦(じゅ)した。
天皇はこれを聞き、その秀才に感じ、帰朝を許した。帰船のおり西風が急にはげしくなり、東北に押し流されて、当国の田烏浦に着き、海士坂を越えて、当村に在留した。このとき観世音を本尊とし、みずから当寺の開基となった。後に召されて京都に帰り、本官に復した。 (安楽寺縁起)
  「諦行吟」七十句の中に「悪無くば無事ならん。」という意味の句があった。嵯峨天皇は、「サガなくばよからん。」と解した。無悪(さかなし)のあざ名はこれより起った。安楽寺の境内に篁の石塔が二基ある。毎年九月五日墓前祭を行なう。  (鳥羽村誌)

安楽寺の国宝(重要文化財)聖観世音菩薩は、行基の作で、身長一六〇センチの木像である。小野の篁(たかむら)の念持仏であった。仁明天皇のとき、藤原常嗣(つねつぐ)を大使とし、篁を副使として唐へつかわされた。篁は、自分の才学が常嗣よりまさっていると思っていたがら心平らがでなく、病と袮して中途から帰り、西道のうたを作って常嗣をそしった。その中に上を軽んずる文字かあったので、隠岐へ流された。
しかし天皇は、その文才を愛して直ちに許された。帰国の途中海上で大風波にあい、難船してがろうじて若狭の田烏(たからす)に漂着した。それから陸路海士(あま)坂を越え、当村に足を止め、この観世音に参拝して、わたしを救ってくだされたのはこの観世音であるとて、みずから寺を建て、無悪山安楽寺と称した。やがて萌廷に召されて本官に復した。当村をお立ちのとき、当地に雷が落ちないこととらい病にならないことのお札を下された。この村にはそれ以来落雷とらい病患者はない。安楽寺の奥の院に篁の塔があり、毎年九月五日に霊を祭る。  (福井県の伝説)

さかなし(無悪)という珍らしい地名は、小野の篁の詩の中に「無悪善」(さがなくば、よからん。)という句があったことによる。鳥羽谷一帯には霧か多い。これは篁が田烏に上陸して無悪に来るとき、敵の襲撃がら守るため、観音さまが霧を立ちこめさせたなごりである。   (若狭の伝説)

篁は雷がきらいであったので、木尊の観音さまに雷よけのお祈りをした。そのためこの村には一度も落雷がない。安楽寺では以前に雷よけのお守りを発行していた。  (永江秀雄)


「さかなし」は「坂の足」のつづまったもので「無悪」は当て字にすぎない。(永江秀雄)
承和四年(八三七)四月藤原常嗣遣唐使となる。承和五年十二月小野篁隠岐に配流となる。承和六年九月遣唐使藤原常嗣が帰国する。承和七年二月小野篁を召還する。(日本史年表)

小野の篁(二)  (無悪)
嵯峨(さが)天皇のおん時、無悪善という落書が、世間に多くあった。篁(たかむら)はこれを「さが(悪)なくば善(よ)かりなまし。」と読んだ。天皇はこれを聞いて、これは篁が書いたのであろうといわれ、罪を授けようとした。篁が申していうに、「そういうことをしてはいけない事である。もし罪すれば、今後才学の道か絶えるであろう。」
天皇は、「もっともの道理である。それではこの文を読め。」と仰せられ、次のように書かしめた。
  十廿卅九五十海岸香  (下略)  (江談抄)

 嵯峨天皇のとき、無慈善と書いた落書があった。小野の篁に読ませたところ、「さがなくばよし。」と読んだ。悪をさがと読んだので、天皇のきげんが悪く、「落書はお前のしたことか。」といわれた。篁が、「そのように疑うときは、知恵のある人は朝廷にすすみがたくなります。」と申すと、天皇は「これを読め。」と、次のように書かれた。
   一伏三仰木来待 昼暗降雨恋筒寝
篁が
  月夜には来ぬ人待たるかきくらし
   雨も降らなんわびつつも寝ん
と読んだので。天皇のきげんは直った。落し文は読むところにとがありとは、これから始まる。  (十訓抄)

(上略) 天皇は篁に、「なんでも書いたものは読むか。」といわれたので、「なんでも読みましょう。」と答えると、天皇は「子」の字を十二書いて。「これを読め。」といわれた。篁が「ねこのこのこねこ。ししのこのこじし」と読んだので、天皇はほほえみ、事なくてすんだ。    (宇治拾遺物語)



無悪の小字一覧


『上中町郷土誌』
無悪小字名
宮ノ上 土谷 甲ノ浦 宮ノ下 四反田 才ケ坪 小物町 与長 塚本 樋ケ鼻 小屋敷 稲口 田扱 そば尻 畑尻 土井ノ内 上深田 上佐久田 橋本 甚田坪 六反田 蓮池 寺海道 坂尻 段山 小屋ノ下 七反田 貝ノ町 伏上 下佐久田 中深田 下深田 五反田 平田 長坂 野代場 籔ノ下 八千才町 八反田 三角 野代田 中田 池田 岡ノ下 岡ノ奥 岡鼻 深水 追ノ奥

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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