丹後の地名 若狭版

若狭

世久見(せくみ)
福井県三方上中郡若狭町世久見・食見


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福井県三方上中郡若狭町世久見

福井県三方郡三方町世久見

若狭国三方郡西田村世久見

世久見の概要




《世久見の概要》
三方湖の西、高い山を挟んで若狭湾に面した集落。田井から世久見トンネルを出たところ。海上に烏(うべ)島がある。国道162号が海岸沿いに走る。世久美漁港があり漁業が盛んである。天長4年(827)向笠から6人が移住してきたのが始まりという。

おむすび山の島が烏辺島。奥に突き出ている岬が常神半島、その先の島は御神島。

世久見漁港と世久見集落

中世の世久見浦。鎌倉期から見える浦名。当浦は鎌倉期には能登浦と称した、それは能登国の石動大明神の祠が当浦に流れ着いたからであるという伝承が江戸期にあった(西田村誌)。能登浦は奈良初期に見える三方郡能登郷の浦という意味であるが文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案によれば能登浦に抽須留木宮田2反があることから、当浦と能登国との関連は鎌倉期にすでに確認され、当浦が古く能登浦と袮されたことも確かであるという。抽須留木宮というのは能登二宮の伊須留岐比古(石動彦)神社のこと。
当浦に伝えられた寛治元年(1087)2月9日の地頭宗貞能登浦四至定状に、東は佐古子峠から経塚、南はヨコ峰、西は長峰を下に水引谷、北はカレイ引を境とするとあり(渡辺市左衛門家文書)、この文書は偽文書ではあるが、浦の範囲を考えるときの参考となるという。惣田数帳案には国衙領のうちに能登浦3町4反が見え、このうち浦には1町3反、三方郷には2町1反があり、極楽寺田・抽須留木宮田・井料田・公文給田・散仕給田が除田とされている。元亨年間頃の朱注に、当浦の地頭は国衙の税所で、この時期には得宗領となっていたことが知られる。浦内の食見(しきみ)は文永6年(1269)正月の西津荘内汲部・多烏両浦の山注進状案のうちに「青蓮院志気味(食見)」は汲部・多烏との境であるとあり、山門(延暦寺)の青蓮院門跡の所領であったと推定される。これに関連して、南北朝期の康永4年(1345)正月に汲部と多烏が中分した「またの浜」は能登浦との境であると記されている。永仁5年(1297)12月2日、正安4年(1302)9月、文保2年(1318)9月10日、倉見荘の地頭は能登浦での狩厨の雑事を御賀尾浦住民に宛て課すことを禁じている。これによれば、当浦の地頭は御賀尾浦と同じ二階堂氏であったと推定され、暦応3年(1340)12月に能登浦の弥次郎大夫などの年貢未進注文が御賀尾浦の大音家に伝わっているのも同じ事情に基づくものと思われる。永徳元年(1381)11月18日に倉見荘能登浦を「公領」(幕府料所か)として伊勢入道が拝領し、太郎左衛門近房が沙汰人として支配したとあり南北朝末期までに当浦は倉見荘内に組み入れられたとみられる。世久見の呼称は鎌倉末期の正和4年(1315)に「世久見路」の新次郎大夫が山を売却した文書にあるのが初見で、貞和4年(1348)4月の田烏天満宮造営助成注文案に「世久見浦松石女」が見えて以降次第に能登浦にかわって用いられるようになる。ただし文和3年(1354)9月この地に給人を付した守護細川清氏が能登浦田と称し、さらに戦国期の永正12年(1515)に若狭国衙の税所も能登浦と称しているように、幕府や守護側は依然能登浦を用いている。応仁2年(1468)6月の御賀尾浦十禅師宮棟札に「世久見田辺」(諏訪神社棟札・若狭漁村史料)、天文20年(1551)5月の常神神社棟札に「世久見田辺彦六郎」(常神神社棟札・同前)と見える田辺氏は当浦の刀禰であり、田辺新左衛門は大永6年(1526)に世久見・御賀尾両浦の鯛などの美物を納入している。長享3年(1489)4月に当浦の枕網中が得分を偽らず諸役を納入すること、特にえびす魚・えびす銭として10分1を納入することを約束しており、漁民の負担や胡講の存在が推定される。明応元年(1492)当浦は炎上したと見え、永禄12年(1569)6月には熊谷治部大夫より課された金子が支払えなかったため浜頭をはじめとする浦惣中は鰒の網場を田辺新左衛門尉に売却しており浦の苦しい生活がうかがえるという。
近世の世久見浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。枝浦に食見浦がある。文化4年(1807)の家数46・人数182。寺院は良心寺・立徳寺がある。中世以来漁業が盛んで慶長7年(1612)には船19艘を有していた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年田井村の大字となる。
近代の世久見は、明治22年~現在の大字名。はじめ田井村、明治40年西田村、昭和28年から三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北28町、戸数68、人口は男227 ・ 女211、学校1、小船54。


《世久見の人口・世帯数》 203・46 (食見を含む)

《世久見の主な社寺など》

世久見遺跡・食見遺跡
古墳後期~奈良時代の土器製塩遺跡

天利剣(あめのとつるぎ)神社

集落の真ん中に鎮座。
『三方町史
天利剱神社(あめのとつるぎ)
世久見字里道に鎮座。祭神天利剱神。旧村社。明治四十一年十月一日、次の神社の祭神が、この社に合祀された。
石動(いするぎ)社祭神石動神 (元、この社の境内社)
覧波祭神覧波神    (同)
火防神社祭神火防大神 (同)
山王社祭神山王大神  (元、この区内に鎮座)
天満天神社祭神菅原道真(同)
世長社祭神世長神   (同)
乙姫社祭神乙姫神   (同)
諏訪社祭神健御名方大神(同)
 国帳に「正五位天利剣明神」とあり、伴信友「神社私考」には「志に、利剱神社世久見に在りと云えるこれなり、神名の旧訓アメトツルギと注せり、今里人尋常には利剱大明神と称へリ、帳に、越前国敦賀郡天利剱神社、続日本記に、承和七年(八四〇)八月乙酉、越前国従二位勲一等気比大神ノ御子無位天利剱命、天比女若御子神、天伊佐奈彦神、並に従五位下を授がり奉ると見えたり、(中略)その敦賀郡より移し祭れるなるべし(後略)」とあり、『福井県神社誌』には、「口碑に此村天長四年(八二七)の創立なりと伝えらるゝを以て、或は此の時、越前敦賀郡なる天利剣神社を遷し奉るならんかと云い、其の天利剱神社には、気比大神の御子、天利剱神を祀るを以て、同じ神にはあらざるか」と記されており、この社の由来を知ることができる。
 大正三年に社殿を再建した。例祭はもと四月二十六日であったが、養蚕の最中でいそがしいため四月三日に改められて今日に至っている。


『三方郡誌』
天利剣神社 村社。世久見に鎮座すもと利劔大明神と稱す、國帳に正五位天利劔明神とあり。気比ノ大神の御子天利剣神を祀れるなるべし明治五年村社に列せらる

漁村らしくない神様が祀られている、鉱山の神でなかろうか、天日槍のつながりなのであろうか。

曹洞宗勢嶽山良心寺

天利劔神社の隣。今は無住だそう…
『三方町史』
良心寺
所在世久見六-二。山号勢嶽山。曹洞宗。本尊延命地蔵菩薩。この寺は、昔天台宗であったと伝えられているが、向笠月輪寺より祈祷に来るところから真言宗であった(世久見「郷土誌」)との説もある。慶長、元和年間(一五九六-一六二三)に開山したもので、開基は田上の常在院第九世玄撮である。元禄十六年(一七〇三)に法地として認められ、明治五年に正式に登録した。現在の本堂は、嘉永元年(一八四八)十月に建立されたもので、昭和四十四年には、屋根がかわらにふき替えられた。
 この寺の慶長年間からの過去帳を見ると、元文二年(一七三七)二十二人・明和五年(一七六八)三十三人・天明四年(一七八四)四十二人・天保八年(一八三七)三十二人が死亡しているが、当時の饑饉の惨状がしのばれる(第二編第五章参照)。
 学校のないころは、寺子屋として読み・書き・そろばんを教えていた。
 この寺の釣り鐘は、太平洋戦争のとき、昭和十七年に供出されたが、昭和二十三年五月に再鋳造された。釣り鐘堂は昭和六十一年十一月十八日に改築落成した。住職良一は第二十九世である。


『三方郡誌』
良心寺 曹洞宗世久見に在り。十村常在院末なり


浄土真宗大谷派竜華山立徳寺

食見のお寺、この奥に集落がある。
『三方町史』
立徳寺
所在世久見二五-一九(食見)。山号竜華山。真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。永禄年間(一五五八-七〇)、三河の一向一揆の際、その国の本証寺(現存)の門徒が、難を避けるため、阿弥陀如来の絵像を背負って逃れ、この地の食見に住みついて堂を建立し、この絵像を本尊としてまつったのがこの寺の始まりであるといわれている。
 ところで、この寺の事務は、昭和十六年まで真溪家によって受け継がれていたが、次第に仏法もないがしろになり、朝夕の勤めもおろそかになった。そのため、その後は鳥浜の浄蓮寺住職が兼務で、勤行している。
 昭和二十九年に、かやぶきであった堂をかわらにふき替えた。この寺の釣り鐘は、太平洋戦争のとき、昭和十七年十一月に供出したが、昭和二十三年武生で再鋳造した。


『三方郡誌』
立徳寺 眞宗大谷派世久見に在り


相生の松
この松は地上1.9mのところで二又に分かれ、根回り4.4m、黒松は高さ10.5m、赤松は16.6mで、昭和41年県天然記念物に指定されたという。
トンネルができる以前の峠道にあるようだが、この道は車で行けるのか不明なので、行かないこととした。



《交通》


《産業》

食味の福井県海浜自然センター。海岸一帯はマリンパークになっている。
世久美・食見海岸での海水浴や釣りなどの観光に力を入れ、民宿経営も増えている。食見地区は国のリゾート開発地域に指定され、食見海水浴場を含めて今後の開発が期待されているという。
どんな事業でもそうだろうが、観光開発もまずは人作り、人間開発ではなかろうか。現地の人が悪いと観光客など来るわけがない。考えるほどに甘いものではない、宣伝にだまされて一度は来ても二度と来るかと、何だ、ダマシかと気づかれ、客を失うばかりであろう。
世久見の入口に地図があって、それを見ながら進むと、ガタンと左前輪がミゾへ脱輪した。降りて見れば、その部分1メートルばかりには溝蓋がない。草が生えているし、これは見落としたな、何とかならんものかと思案していると、そこへ通りかかった若者が、何人か呼びます、持ち上がるでしょうと、スマホで何人かと連絡をとってくれた。
そのうちにフォークリフトがやってきて、おかげで無事脱出できたようなことであった。
えらい世話かけました、お茶代のタシにでもと、サイフから何ほどがを取り出したが、受け取らない。いやこれは僕らもワルイんです、これではまたダレかが落ちるでしよう、よく見回ってこんなことがないようにします、という。
何と、こうした若者が何人もいるこの世久見という集落はまあどうした集落なのであろう。こうした若者は恥ずかしながら一人もいないというマチやムラがほとんどでなかろうか。人が困っていても知らぬふりでなかろうか。
観光を言うなら、その前に、その前でミゾコへ車を落としてみるべし、それでどうした反応があるか見極めた上で、今後の計画は考えるべきかも知れない


食見の製塩

海浜自然センターや、その東側に続くマリンパークのあたりは塩田だったという。

『新わかさ探訪』
食見の塩つくり
明治後半まで存在した塩田 良質の塩として高い評価
 古代、朝廷に税として塩を納めて以降、若狭の海辺の村では、明治の後半まで塩をつくり続けてきました。干満の差が小さい若狭では、中世以降、海岸近くに塩田を設け、人が桶で海水を汲む揚浜式の製塩が行われました。底と周囲を粘土で固めた塩田に薄く砂を敷き、そこへ海水をまいて乾くのを待ち、塩の結晶が付着した砂をかき集め、それに塩水をかけて濃い海水を取り出し、さらに釜で長時間煮詰めて塩をつくる、という方法です。
 それは大変な重労働でした。夜明け前の暗いうちから、桶を天秤棒の前後につり下げて海水を運び、日の出前に塩田へまき終えると、午前中は山へ燃料の薪を取りにいき、午後からは釜炊きをする-こうした製塩作業ができるのは、6月から9月ころまでの晴天の日で、年間わずか80日ほど。子供にも手伝わせ、夏の日照時間が長い時期には、1日に2回繰り返しました。
 若狭町食見に伝わる民謡に「嫁にやるまい海辺の村へ、夏は塩垂れ、冬は苧(麻の古名)の根を叩く。どこへ行こうと塩師はいやよ。朝の星から晩の星いただき、昼の真中の日輪さまの焼きつく炎天の下に働く」と、塩つくりの苦労がうたわれています。
 食見は、良質の塩を生産したことで知られています。その歴史は古く、古墳時代の製塩土器(海水を煮詰めるための器)が大口川の河口近くから層になって発見されていることから、五、六世紀にまでさかのぼるものとみられます。室町期ころには、無人の村となりますが、戦国末期に三河(今の愛知県東部)の一向一揆で難を逃れた真宗門徒が、食見に移り往んだと伝えられており、以来再び製塩が行われるようになったのではないかと推測されます。
 そもそも食見は、海岸部にありながら、漁業を営むことのできない村でした。北西に開いた世久見湾の最も奥にあるため、北風が吹くと、もろに高波が打ち寄せます。そのため港を造ることが困難で、戦後の昭和26年までは入漁権もない状態でした。
 こうした事情もあって、食見の人々は、生活の糧を塩つくりに求めました。江戸時代には小浜藩が製塩を保護、奨励し、波浪で塩田が被害を受けたときには蔵米が下げ渡されています。
 明治期には10軒が製塩を営み、いずれも所有する塩田は1反前後。規模は小さいものの、食見塩は品質が良く高値で取引されました。純白で細かくサラサラしていて、塩を入れた俵が一、二年たっても乾いていたといいます。それは、釜を毎日磨き上げ、煮上げている間も丹念に泡(不純物)を取り除くといった、食見の人たちの勤勉で丁寧な仕事ぶりによるものでした。
 しかし、明治38年(1905)、日露戦争の戦費調達のため、塩の製造販売に専売制度が導人されたことによって、民間による製塩が禁止され、食見をはじめ若狭における製塩の歴史に終止。符が打たれました。その後、食見では養蚕や薬草の栽培に取り組み、塩田の多くは桑園に。さらに戦時中は食料増産ですべて畑となり、戦後は公園化されて、今では松林になっています。製塩廃止からすでに100年の歳月。良質で知られた食見の塩つくりも、遠い昔の話になろうとしています。


《姓氏・人物》


世久見の主な歴史記録


『三方町史』
世久見
天長四年(八二七)に、向笠から仁左衛門(浜頭)・市左衛門(渡辺)・小南(青本)・次郎兵衛(栗駒)・孫右衛門(河村)・下太夫(絶家)の六人が移住してきたのが始まりであるという。今でも、向笠の月輪寺から毎年祈とうに来ることや、向笠の祭礼には、祭礼役付きの者は必ず世久見の海まで水垢離を取りに来ており、向笠の項でも述べたように、世久見の先祖は向笠から移住してきたことは明らかである。中世以来漁業を行う外、食見にある耕地を耕して農業も営んだ。
 寛文年間(一六六一-七二)の世久見浦庄屋市郎左衛門の「指し上げ申す一札」の写し(世久見渡辺家文書)に「当浦の前の烏辺島のわかめくりと言う岩にほこらが一社流れて来たが、それは能登国石動大明神の御神体であり、それより能登浦と申していたが、その後いつのころからか世久見浦と言うようになった」と記してあり、昔、この集落は能登浦といったが、戦国期以降の史料には世久見と出てくる(『福井県の地名』)。
 漁業については明応元年(一四九二)十二月に世久見総中(村申の者)が「当浦の一人分」を銭二十貫文で田辺新左衛門に売却(世久見渡辺家文書)、永禄十二年(一五六九)には総中で持っていた鰒網地を銭二貫文で同人に売却(同文書)、天正八年(一五八〇)には田辺八郎衛門が鰒網地を田辺市左衛門に米五石三斗余で売り渡しており(世久見松宮家文書)、このように、はじめ村中で持っていた漁業権が次第に有力者に移って行った。慶長七年(一六〇二)にこの集落が持っていた船や網は、表52に示したとおりである。また、江戸後期には、世久見浦四十四軒のうち、二十四軒は塩商売の長百姓、十三軒は積木商売の脇百姓、七軒はかじけ(水呑み百姓)であった(世久見松宮家文書)。長百姓は神役や網場の権利、製塩に使う薪山などを持っていた。
 塩が専売制になる前は、製塩業が重要な職業であった。その後、養蚕に転職したが、時代の移り変わりとともに、職業にも何度かの移り変わりがあった。油キリの栽培もその一つである。水田も、約三十戸が平均二〇アールを耕作している。明治のころは大敷網が無く、小網や打も網などを使っていた。大正初めごろから漁場は衰えていった。巾着網の経営もしたこともあるが、結局中止した。現在は、大敷網を組合で経営している。一方では念願の世久見トンネルが、昭和六十一年に開通し、漁港も整備され、民宿も増えてきている。
 烏辺島には弁天がまつってあり、忌みのかかった人や不浄の人が上陸すると必ず異変が起こると言われ、この島に上陸することを嫌っている。七月十四日には例祭が行われている。
 明治十三年に再建された観音堂(棟札)には、平安時代後期の作と思われる十一面観音立像(像高一七九・〇センチ、一本造り)、薬師如来坐像(像高九二・五センチ、一本造り)、不動明王立像(像高八二・〇センチ、一木造り)。地蔵菩薩立像(像高一〇一・〇センチ、寄木造り)、同(像高六五・〇センチ、一木造り)の貴重な仏像をはじめ、多くの仏像が安置されている。


『三方町史』
製塩遺跡
三方町の海岸線は、最西端の小浜市境の獅子崎より、最北端の美浜町境の常神半島先端まで約二四・五キロメートルを有している。この海岸線に沿って西から食見、世久見、遊子、小川、神子、常神に合計七か所の製塩遺跡が分布している。海岸線がリアス式で、入江の多いことから推察して今後遺跡の増加も考えられるが、この反面、波浪による自然侵食や護岸工事、また、民宿、駐車場等の建設により、海岸部の製塩遺跡が危機に瀕している。
〔食見遺跡〕
食見遺跡は、食見海岸西端の字西紙屋付近に所在し、断崖およびその周辺に製塩土器の包含層を確認できるが、主要部を護岸工事等により失っている。しかし、この遺跡は、大正九年当時から「食見に赭色の極めて薄き土器破片を堆積せる処あり、地は海岸の波打際に臨み……」として注目されていた遺跡であった(『若狭及び越前に於ける古代遺跡』福井県史蹟勝地調査報告第一冊 大正十年)。遺跡の調査は、昭和三十六年に同志社大学により(「若狭大飯」大飯町 一九六六)、及び昭和五十二年に県若狭教育事務所により試掘調査が行なわれ、重要な遺跡であることが判明している(『重要遺跡緊急確認調査(1)』福井県埋蔵文化財調査報告第二集 一九七七)。
若狭地方の土器製塩は、五世紀前半の浜禰I式製塩上器をもって初現とし、大飯町大島の浜禰遺跡、小浜市阿納の阿納塩浜遺跡で確認されている。以後時期の下降とともに図16のように浜禰ⅡA式、浜禰ⅡB式製塩土器と型式変化が認められ、土器の形も変化してくる。その中にあって食見遺跡では、五世紀後半の浜禰ⅡA式製塩土器を最古とし、六世紀後半の浜禰ⅡB式製塩土器もみられる。食見遺跡出土製塩土器の主体を占めている浜禰ⅡA式製塩土器は、細片のみでしかえられないが、器厚が二ミリメートルと薄い。図16に図示した浜禰ⅡA式製塩土器は、浜禰遺跡から出土したものであるが、高さが一二から一三センチメートル、口径が五センチメートル前後、胴部で六・五センチメートルとややふくらみをもち容量が三五〇ミリリットルと丸底の薄いコッブ状の大きさを呈している。なお、食見遺跡背後の山麓には西側に片袖の羨道部をもつ横穴式石室を有する紙屋の古墳があり、当古墳とのかかおりが注目される。
〔小川遺跡〕
小川遺跡は、小川集落西よりの字アンノ下口付近に所在する。この遺跡は、昭和二十九年に元小川漁業協同組合事務所近くの井戸工事の際、古墳時代の土師器壷、高杯などが出土したことにより発見され、昭和五十二年に県若狭教育事務所が試掘調査を行っている(『重要遺跡緊急確認調査(1)』一九七七)。この調査では、六世紀後半の浜禰ⅡB式の製塩土器とともに、土師器、須恵器片、石製の有孔円板、大型石錘などが出土している。このことから、製塩地と居住地が復合する特徴をもった遺跡といえる。また、製塩土器の分類上では、多数出土している浜禰ⅡB式の製塩土器を細かく観察することより、さらに浜禰ⅡB古式と浜禰ⅡB新式に細分できた遺跡でもある。すなわち、浜禰ⅡB古式は、浜禰ⅡB式製塩土器を大形化し、須恵質を呈する土器片が多くみられ、器厚が薄い。また、浜禰ⅡB新式はさらに器形が大形化し、焼成は、土師質を呈するのが多い。
他の遺跡から出土している浜禰ⅡB古式と浜禰ⅡB新式の製塩土器を総体的に比較をすると、浜禰ⅡB古式は口径一八センチメートル前後、高さが九センチメートル前後で平底に近い丸底を呈している。また、浜禰ⅡB新式は口径二〇センチノートル、高さ一八センチメートルとさらに大形化し、底部は同じ平底に近い丸底を呈している。
食見、小川遺跡の他に海岸線には世久見、遊子、神子、常神のミヤマダニ、ニシンジャラの五遺跡が分布するが、これらの遺跡は八世紀の船岡式製塩土器を主体とした製塩遺跡である。
なお、今まで記した町内の製塩遺跡では、敷石炉の上に海水を入れた製塩土器を載せ煮沸し海水を濃縮するという工程を繰り返し、塩を生産しているが、まだ、敷石炉の確認がなされていない。このためにも、今後の海岸部の開発には十分注意を払う必要がある。
内陸部の製塩土器
近年、平城宮や近畿地方の内陸部に所在する遺跡から製塩土器が発見されている。中には土壙などの遺構を伴うものさえある。これらの製塩土器と、若狭地方内陸部の遺跡で出土する意味を単純に比較することは早計である。しかし、若狭・瀬戸内などの海岸部の製塩遺跡から出土する製塩土器が広い地域で論ぜられ、又土器製塩の研究者が増加しつつあることは喜ばしい。
本町では、田名遺跡から浜禰ⅡA式・ⅡB式、また、生倉の市港遺跡からは、浜禰ⅡB式の製塩土器が出土している。特に、田名遺跡から出土している浜禰ⅡA式製塩土器は良好な包含層を残し、共伴している祭祀遺物も古墳時代中期のものであるから、若狭の製塩土器編年からも矛盾していない。しかし、海岸部の食見、小川遺跡出土の浜禰ⅡA・ⅡB式製塩土器と塩生産手段としての製塩を関連させるには慎重を要する。
大飯町大島の浜禰遺跡でもⅡA式には祭祀的な小型の製塩土器や、土師器、炭、玉などもかつての調査で出土していることから「製塩と祭祀」「祭祀と塩」の関連が、今後内陸部の調査が進むに連れて明らかにされてくるであろう。他に若狭でのⅡA式の内陸部の出土例は美浜町の興道寺廃寺跡がある。また、小浜市の八幡前遺跡、丸山河床遺跡からは船岡式、大飯町の岡安遺跡からは岡津式の製塩土器が出土している。これらの遺跡は海岸線から二キロメートル以内の遺跡であり、海浜辺への土器の供給、また、出塩作り、塩との交換等を推察する研究者もある。また、人によれば煎熬土器の意味と焼塩用としての内陸部での使用も論ぜられている。
船岡式は八世紀代には盛行を見る製塩土器であり、この時期は木簡の項で述べられている通り、若狭の塩は調としての律令体制に組みこまれた中で展開するので、官衙的色彩の強いものが各集落におよんでいると理解する必要もあろう。
いずれにしても奈良、平安時代の遺跡が疎んぜられ土地改良等で破壊されていることは残念なことであり、海辺に近接する本町であるがゆえに内陸部の遺跡出土の遺物に注意をはらう必要がある。



世久見の伝説

『越前若狭の伝説』
弁才天     (世久見)
当浦の前に烏辺(うぺ)島という島かあり。弁財天の小社がある。そのそばにわかめぐりというくり(岩礁)かある。五百年ほど前ここに社が一宇流れて来た。それを漁夫か見つけて、五百メートルほど沖へ出し、「どこへでもお行きください。またもしここに来たいと思われるなら、あすまたこのくりへおいでください。」と申して帰った。あくる朝このくりへかかっておられたので、当所へおまつりした。    (西旧村誌)



世久見の小字一覧


『三方町史』
世久見
田野奥(たのおく) 北谷(きただに) 天神前(てんじんまえ) 北口(きたぐち) 夜長浜(よながはま) 里道(さとみち) 松尾口(まつおぐち) 出山口(でやまぐち) 相堂森(あいどのもり) 太尾(ふとう) 寺道(てらみち) 下坂(しもさか) 南浦(みなみうら) 豆川(まめのかわ) 下地浦(しもちうら) 上地浦(かみちうら) 湊(みなと) 下り田(くだりだ) 釜田(がまだ) 柳谷(やなぎだに) 池田浜(いけだはま) 池田(いけだ) 石亀(いしかめ) 五反田(ごたんだ) 桑原(くわばら) 山鼻(やまのはな) 堂上(どうのうえ) 山野原(やまのはら) 二又(ふたまた) 萩ケ谷(はぎがだに) 大口(おおぐち) 引回し(ひきまわし) 釣瓶尾(つるべお) 上大坂(かみおうさか) 大坂(おうさか) 茶の木原(ちゃのきはら) 白壁(しらかべ) 古湯沸(こゆわき) 淵ヶ尻(ふちがじり) 紙屋(かみや) 桑木原(くわきはら) 西紙屋(にしかみや) 舞坂(まいざか) 岡鶴(おかづる) 下丸山(しもまるやま) 上丸山(かみまるやま) 長坂(ながさか) 青井(あおい) 青井谷(あおいだに) 大平(おおひら) 三谷(みたに) 食見道(しきみち) 田井坂(たいざか) かも坂(かもざか) のさみ(のさみ) 青山口(あおやまぐち) 小坂(こさか) びわくり(びわくり) 水しり(みずしり) 平坂(ひらさか) 椎(しい) 烏辺島(うべしま) 又の山(またのやま)

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京都府福知山市
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京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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