丹後の地名 若狭版

若狭

下吉田(しもよしだ)
福井県三方上中郡若狭町下吉田


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福井県三方上中郡若狭町下吉田

福井県遠敷郡上中町下吉田

福井県遠敷郡瓜生村下吉田

下吉田の概要




《下吉田の概要》
北川中流の右岸、鳥羽川との合流点付近に位置する。中世の吉田荘上・下に分かれて成立したもの。
中世の下吉田は、戦国期に見える地名。弘治2年(1556)の明通寺鐘鋳勧進算用状に「六十八文 下吉田」と見える。
近世の下吉田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。安賀庄に属す。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年瓜生村の大字となる。
近代の下吉田は、明治22年~現在の大字名。はじめ瓜生村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北2町余、戸数47、人口は男133 ・ 女125、小船2。


《下吉田の人口・世帯数》 143・56


《下吉田の主な社寺など》

向山古墳群

向山という山稜の頂上あたりにある、地籍は、若狭町堤・下吉田の堺目になる。写真の中央の山がそれで、山の右手(東側)は下吉田、左手(西側)は堤の谷になる。手前を流れる川は北川と鳥羽川で、ここで合流する。向山の手前側(先端部)西斜面には銅鐸を出土した向山遺跡がある。向山古墳群は、前方後円墳1、方墳1、円墳7よりなる。
向山1号墳
本州では最古級の横穴式石室を有する前方後円墳として知られる。標高85m、付近平地との比高45mを測る山頂にある。昭和62年・63年度に上中町教育委員会が発掘調査を実施した。北東に面する墳丘は地山削出しを主とする2段築成墳、前方部を北東方に向ける。全長48.6m、後円部径30.6m、前方部幅27.4m、くびれ部幅19.4m。くびれ部裾には方形台状施設を有する。上下段斜面に葺石、墳頂と段間テラスに窖窯焼成の円筒埴輪列がめぐる、埴輪には円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか形象埴輪(蓋形埴輪・家形埴輪)が検出されている。くびれ部そばの台状施設で須恵器(TK208型式)や家形埴輪が、前方部裾で蓋形埴輪が出土している。後円部の埋葬施設は前方部に向かって開口する横穴式石室であった。墓壙の平面形は羽子板状をなす。玄室法量は長さ3.6m、奥壁幅2.3m、前壁部幅1.8m、復原高1. 7m。壁体下3分の1は削り出した岩盤を利用し、その上に割石を積み上げる特異な壁体構築法をとる。玄門は側壁構築後、両袖石を立て、楣石を置き、割石を積んで前壁を造る。基部は玄室側に板石を立て段で玄室を区分する。玄門内法は52×70cm。玄門に接して一枚石で閉塞する。羨道は長さ3.3m、幅1.2m。玄門にむかって緩やかに下降する。側壁は石積みせず、天井石も架けない。副葬品は鏡2(仿製内行花文鏡,仿製鋸歯文鏡)、三角板革綴短甲2、刀剣類15、鉄鏃約40、刀子4以上、盾隅金具3、金銅製三輪玉1、金製垂飾付耳飾1、勾玉4、管玉18、ガラス玉多数、琥珀玉多数、竪櫛30点以上。奥壁沿いに密集した副葬品配置から追葬が行われた可能性が濃い。前方部では墳頂中央で武器・武具を納めた長方形の土壙を検出した。長さ3.9m、幅1.1m、深さ0.35m。遺物は長方板革綴短甲1、刀剣類12、鉄鏃約50。その配置からみて人体埋葬は行われていない。向山1号墳の築造時期は埴輪と須恵器とから5世紀中葉。近畿地方で最も古い横穴式石室のひとつであり、すでに追葬観念を伴っている。朝鮮半島製の金製垂飾付耳飾、多量の武器、いち早い北部九州からの横穴式石室の受容など被葬者の生前の武人的性格や朝鮮半島との関わりが認められる。という。

金製の耳飾りはきわめて精巧。片耳分しかないのはどうしたことだろう。
短甲は大男が付けられるような物ではない。今の小学生高学年くらいの子のサイズに見える。

ワタシの知識くらいではよくわからないが、横穴式石室を採用する古墳としては本州で最古級に位置づけられている。
若狭湾は有明海と並び加耶産・百済産の装身具・金銅製品が集中する地域として知られ、本古墳の出土品も当時の朝鮮半島との交流を示す例として注目される。
被葬者は明らかでないが、副葬品の様相からは武人の性格が認められ、当地域で中規模の古墳であるが畿外では珍しい武器埋納施設を有する点でも特筆される古墳になる。付近には土壙墓群の検出のあった向山A遺跡・向山B遺跡もある。
(図や写真は「若狭町歴史文化館常設展示図録」による。)
ついでながら、隣の丹後では野田川町石川の霧ヶ鼻古墳群や加悦町明石の入谷西古墳群が古い石室を持つ、北部九州の影響を受けているという。


春日神社

遠敷郡誌』
春日神社 村社にして同村下吉田字角田にあり、祭神前項に同じく境内に天満神社あり、又若宮八満宮を字宮ノ下より明治四十四年合併す。

『上中町郷土誌』
春日神社  下吉田
村社にして下吉田字角田にあり、祭神は武甕命斉主命天児屋根命比売神にして境内に天満神社あり、又若宮八幡宮を字宮ノ下より明治四十四年合併す。
社寺由緒記  下吉田村氏神山王 是は安賀里村に社御座候 由緒安賀里村より書上申候。
天神是は菅丞相当国御通の節御冠被レ為レ置候故奉レ崇勧請仕候由申伝候。
春日小社  奈良春日より勧請申伝候由来不レ知略之。
       下吉田村庄屋  作右衛門
下吉田村氏神天神 天神是は管丞相当国御通之節御冠被為置候故奉祟勧仕候由申伝候とあり。一は大島が菅公知行所であったことを伝え、その関係から菅公の通過を理由つけている。もちろんこれだけを以てこの伝説体説を実在化しようというのではないが当時菅公の霊験が強く一般民衆に信仰されていてこの伝説も深く信じられていたことが分る。(山王余滴より)



真宗大谷派永願寺

『遠敷郡誌』
永願寺 眞宗大谷派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村下吉田字石戸に在り、往古眞言宗にして長泉寺と號す、天正元年宗蓮本願寺顯如に歸依し眞宗に轉ず。

『上中町郷土誌』
永願寺 真宗 下吉田
真宗大谷派にして本尊は阿弥陀如来なり同村下吉田石戸にあり往古は真言宗にして長泉寺と号す天正元年宗連本願寺顕如に帰依し真宗に転ず。



下吉田山城跡
堤との境の山稜に吉田堡があり、「若狭郡県志」には「在上中郡下吉田村伝称堤村城主内藤佐渡守出城之基址也」とある。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


下吉田の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
下吉田
北城山を起点とする山脈は南走して井根山となり、この山脈に沿いて南流する鳥羽川は井根山に於て北川と相会す、土壌よく肥え文化年間石高四百七十四石余なり。
神社には菅原道具公を祭る天満宮あり、境内に若宮八幡社あり、春日神社は字角田に鎮座する。寺院は大谷派本願寺末岡本山永願寺あり、岡本氏代々住職す。字井很山に内藤城趾及真言宗不動院の跡あり、又字的場にも真言宗の寺跡がある。
 東寺百合文書に
 吉田の庄、瓜生村に上下吉田あり、文永二年田数帳に吉田庄十八町九十八歩地頭若狭兵衛入道跡海杖名手御家人伝領也と見えたり。



下吉田の伝説

『越前若狭の伝説』
天満神社   (下吉田)
菅原道真公が当国を通ったとき、冠を置いて行かれたので、あがめてお祭りした。     (寺社由緒記)

現在は村社春日神社に合されている。(福井県神社誌)



下吉田の小字一覧


『上中町郷土誌』
下吉田の小字名
五反田 堂木本 水イ 西ノ畑 梨ノ木谷 丸町 尾細 桜町 横折 七頭 角田 淵ノ上 中道 石戸 小田 堂田 樋ノ口 宮ノ下 外川原 下外川原 前川原 上河原 折戸 蛭田 高畑 的場 中長谷場 太郎四郎 古川原 中河原 浜渡 土手 向川原 下向川原 上向イ 芝原新田 大川原 堀古 薬師丸 治郎五郎 大坪 宮ノ後 宮ノ奥 坂ノ尻

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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