塩坂越(しゃくし)
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福井県三方上中郡若狭町塩坂越 福井県三方郡三方町塩坂越 若狭国三方郡西田村塩坂越 |
塩坂越の概要《塩坂越の概要》 県道216(常神三方線)の塩坂越トンネルを抜けたところ。常神半島の付け根西岸(西浦)部分にある。西浦には少ないという砂浜があるが、県道より何十メートルもの崖下で、そこに漁港もある。 水月湖岸の海山と西浦を結ぶ地峡部に位置して、三方五湖沿岸の物資や西浦の魚や塩がこの地を経由して運ばれた。塩坂越の地名もそこからきているという。各浦の魚や塩が当地を経由して運ばれたことによるといわれる。中世には、水月湖に面する東の海山を 世久見および小川浦からの移住で開かれたと伝え、集落も南北に分れ、小川からの移住者は八幡、世久見からの家は山の神を祀った。漁業も二つの組に分れて行なった。慶長7年(1602)6月の若狭国浦々漁師船等取調帳(桑村家文書)によれば船数17。惣中で三かわ(張)の鯖・鰯網を有した。なお舟のうち4艘は渡舟(3人乗3・5人乗1)、2艘(6人乗)はあきない舟とあり、当地は西浦と海山を結ぶ窓口、また諸浦間を結ぶ要地で、海山からの物資や各浦の魚・塩が当地を経由した。 中世の塩坂越は、戦国期に見える地名。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に200文奉加した「しほさこし」が見える。江戸初期の慶長11年(1606)6月16日の文書には「しやくし」と見える(松宮文書・渡辺文書)。 近世の塩坂越浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。高は「正保郷帳」では畑方のみの3石余、「元禄郷帳」「稚狭考」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに同高。文化4年(1807)の家数19 ・ 人数102。同8年火災があり全戸が焼失した。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年西浦村の大字となる。 近代の塩坂越は、明治22年~現在の大字名。はじめ西浦村、明治40年西田村、昭和28年から三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北50間、戸数20、人口は男62・女62、小船20。 《塩坂越の人口・世帯数》 66・19 《塩坂越の主な社寺など》 八幡神社 『三方町史』 八幡神社 塩坂越字古家谷(ふるいえだに)に鎮座。祭神誉田別尊。昭和二十二年、次の神社の祭神がこの社に合祀された。 山神社祭神大山祗神 (元、区内に鎮座) 愛宕神社祭神迦具土神(同) 夷神社祭神恵比須神 (元、区内古屋谷に鎮座) 塩坂越は、昔、小川や世久見から移住してきたため、氏神も出身別に八幡神社・山の神礼・愛容神社に分れ、祭りも別々に行われていたが、明治四十一年にこの三社は宇波丙神社の境内社八幡神社に合祀された。 ところが、この社は遠く離れていて不便なため、昭和二十二年、宇波西神社境内社八幡神社から神霊を再び塩坂越に迎え、古家谷にあった夷神社と共に、山神社・愛宕神社を八幡神社に合祀し、新殿も新築し、これから後は区全休でまつり、祭礼を行っている。一月五日は例祭で、若者衆によってしめ縄が作られ、奉納されている。 曹洞宗白竜山瑞泉院 塩坂越トンネルを出たすぐのところ。 『三方町史』 瑞泉院 所在塩坂越大谷八三-一。山号白竜山。曹洞宗。木尊延命地蔵尊。臥竜院第五世日昇が開いたものである。明暦四年(一六五八)吉日の日付けのある箱書き(書画・器物などが真作である事を署名し、保証したもの)付きのねはん像(絵像)がある。これは元、臥竜院の所蔵であったと伝えられている。 この寺は、トンネル入口にあったが、現在地に移転新築し、昭和六十二年四月二十四日に落成し、集落の集会場も兼ね明るい寺院となり、釣り鐘も新しく鋳造された。裏の二階はユースホステルとして利用されている。 ところで、この寺には、天和二年(一六八二)の切支丹禁制札と、浪人取り締まりの高札を所蔵していたが、現在その所在は分らない。また、縦九十八センチ、横三十六センチの厚板に白い下塗りをし、セピアで輪郭線を引いて画かれた木板油彩の「聖母子」の絵(一六世紀末-一七世紀初)がこの寺の天井裏から発見され、現在、大阪市南蛮文化館に所蔵されている。これは切支丹の踏絵に利用されたものか、鑑賞用であったか不明であるが、画法などから貴重な作品であると評価されている(『原色日本の美術』第20巻南蛮美術と洋風画参照)。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 塩坂越の主な歴史記録『三方町史』 塩坂越(しゃくし) 塩坂越は、世久見から下下(下霜)(したじも)弥惣兵衛が、小川から北弥左衛門が最初に移り住んできた。それから次々と世久見や小川のほか、他集落からの移住も行われ、塩坂越という集落ができたといわれている。ちなみに、下霜・北両家とも今なお屋敷内に地神をまつり、年一回それぞれに祭礼を行っている。 小川から来た家は八幡神社を、世久見から来だ家は山の神社をまつって、集落が北と南に分かれて祭礼を行っていた。森下三郎太夫の一戸だけは愛宕神社をまつっていた。このように北と南とでは、祭礼の仕方も飾りつけなども違い、正月の行事、若水くみ、祭礼などに至るまで別々の講をつくって、一日ずつずらして行っていた。 この集落では、涅槃像寄進の箱書きに、明暦四年(一六五八)六月吉日の日付けが記されているのが一番古いものであるが、前述の人々がこの地に移り住んだのは、それ以前であることは明らかである。 戸数は昭和六十三年は二十一戸であるが、最も多かったときは四十戸余りもあったという。それは文化年間以前のことであろう(表275参照)。しかし、屋敷跡らしい所が見当たらないことから、当時の家は現在の半分以下の小さな構えであったか、古家谷まで広がっていたのではないかとの説もある。 古家谷は、北に開いた世久見湾内唯一の良湾で、冬期間でも比較的波も静かな所である。現在は立派な舟揚げ場を新設し、作業場としても使用しており、最初にこの海岸に住みついた人々の根拠地としては、最も適当な場所であったに違いない。 慶長七年にこの集落で持っていた船や網は、表52に示したとおりである。北弥左衛門・大谷伝兵術・元田四郎助・岡三太夫・浜上仁左衛門・前田喜平・上霜弥五郎・林長兵衛の組を五人組または八人衆と呼び、その他の家を三郎太夫組といって、各種漁法で常に利害関係を異にしていた。ところが明治三十六年の漁業法改正によって合併し、一つの組合を作って経営してきた。 藩政当時には、網場も二十ヵ所あり、サバはえ縄などもさかんに行われ、販売にも地の利を得て比較的便利であった。したがって割合に裕福であった。しかし、昭和二年ごろから改良式定置網漁法が採り入れられ、当時は漁獲も多かったが、沿岸の各定置網とも規模が大きくなってきたため、一番磯の塩坂越漁場は年々漁獲高も減少してきた。ところが、近年観光客の出入りが多く、ほとんどの家では民宿を経営し、にぎわっている。耕地には注目すべきものはないが、現在、油キリに代わって梅の栽培が行われている。 ところで、塩坂越区では、文化八年(一八一一)五月一日、男たちが、わかめ採りに出漁中火災が起こり、土蔵一棟と寺を残して全焼した。それ以来火の用心には敏感で、不審なときは他人の家でも勝手に開けて調べることにしている。 塩坂越の伝説塩坂越の小字一覧『三方町史』 塩坂越 北坂下(きたさかした) 南坂下(みなみさかした) 南側(みなみがわ) 北側(きたがわ) 青井(あおい) 岩尾(いわお) 西谷(にしたに) 大谷(おおたん) 古家(ふれ) 水田(みつだ) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『三方町史』 その他たくさん |
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