田名(たな)
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福井県三方上中郡若狭町田名 福井県三方郡三方町田名 若狭国三方郡八村田名 |
田名の概要《田名の概要》 鰣川中流左岸に位置する。 近世の田名村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年八村の大字となる。 近代の田名は、明治22年~現在の大字名。はじめ八村、昭和28年から三方町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北4町余、戸数25、人口は男69・女74。 《田名の人口・世帯数》 64・23 《田名の主な社寺など》 田名古墳群 円墳9基・方墳5基の田名古墳群がある 白山神社 『三方町史』 白山神社 田名字古路谷前に鎮座。祭神白山比咩神。旧村社。明治四十一年十二月十五日、次の神社の祭神がこの社に合祀された。 日吉神社祭神大山咋神(元、字前山に鎮座) 山王神社祭神山王大神(元、区内に鎮座) 若宮神社祭神若宮大神(同) この社は。通称、白山宮と呼んでいる。加賀にある白山神社から勧じょうしたもので、明治二年(一八六九)五月に、旧小浜藩から村社の公称が許可されている。この社の本殿に、今から千二百年余り前に安置したという瓊瓊杵尊・鵜葺草葺不合尊・伊邪那岐命・高星彦尊の本地仏と伝えられる不動明王・聖観音・阿弥陀如来・十一面観音の四体の一木づくり仏像と、だけだけしい顔付きのコマイヌ一対(高さ約四〇センチ、総ヒノキよせ木作り)がある。いずれも仏像とともに平安初期の作と鑑定のあることから、この社は、その当時に建立されたものと推測できる。 昔は、毎年四月十日には、この社の神事が当屋で、青年会や戸主が集って行われていたが、最近は、二月二十一日に区の公会常で氏子が集って行うように変更された。また、九月十二日には、神主を迎えて大祭が行われている。 『三方郡誌』 白山神社。村社。田名に鎮座す。明治二年五月、村社に列せらる。 浄土真宗本願寺派鸞公山安養寺 安養寺の正面にちょっとした広場がある(写真の境内の広場ではい)。そこは戦争中は敵機監視所であったという。白山神社は写真背後の山にありそうだが、よくわからなかった。 『三方町史』 安養寺 所在田名二一-一四。山号鸞公山。浄七真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。天正五年(一五七七)三月に初めて開かれ、元は天台宗であった。慶安二年(一六四九)六月、西本願寺第十三世良如の代に浄土真宗に改宗し、山号を鸞公山と名付け、釈格応が開基となった。明暦二年(一六五七)には、田名全集落の火災で、本尊はかろうじて難をまぬかれたものの、本堂は全焼した。元禄二年(一六九〇)には、二度目の火災によって仮本堂までも焼けてしまった。その後、文久三年(一八六三)二月、第六世智海の代になって、ようやく本堂が新築された。 本尊の阿弥陀如来立像は、嘉永七年(一八五四)に、西本願寺より下付されたものである。この寺には、この阿弥陀如来のほか、多くの画像や、本願寺第八世蓮如の真筆である六字尊号などが所蔵されている。 釣り鐘は太平洋戦争中、昭和十七年に供出され、昭和二十二年二月に再鋳造したのが、現在のものである。 『三方郡誌』 安養寺。真宗本願寺派。田名に在り。天正五年三月の創立なるか、元祿年間、火災に罹りて、由緒等詳ならす。元、天台宗なりしと云ひ、又は曹洞宗なりしと云ふ。蓋し曹洞宗の説實に庶かるべし。慶安三年六月十九日、改宗して安養寺と改む、山號を鷽公山と稱す。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 田名の主な歴史記録『三方町史』 田名 鳥浜貝塚周辺で人々が生活していた縄文前期(約六千年前)のころは、現在この集落の前面に広がる水田は湖であったと見なされている。第二編で述べたように、昭和六十一年十月から翌年六月にかけて田名遺跡の発掘調査が行われたが、遺跡からは縄文時代後期(約三千五百年前)の土器、弥生時代後期から平安時代に至るまでの遺物、さらに古墳時代の土器などが多く出土していることから、この地域には縄文時代から人が住みついていたことは明らかである。また、「若狭国 三方郡能登里……」と墨で書いた荷札状の古代木簡も出土(福井県で始めて)していることから、この集落には、奈良時代のころに、郡あるいは里単位の役所があって、政治交通上の要所であったと推察されている(第二編第一章参照)。 その後、寛文二年(一六六二)の大地震のとき、この辺全域に水が押しよせて湖となり、田名の住民は白山宮まで登り、小屋掛けをして避難したとのことである。また、明暦三年(一六五七)・元禄元年(一六八八)・安政元年(一八五四)・明治二十二年に大火に遭っているが、安養寺本堂は火災から免れた。しかしこれらの火災のため重要な書類は焼けて無くなり、ほとんど残っていない。モチノキは風雪に強いと共に、木の葉に水分が多いので火災になると、もらい火を防ぐのに役立つというので、建物の周りにモチノキが植えられているのが目立つ。 この集落は、昔から稲作が中心であるが、副業としてござ織りがさかんであった。昭和八年陸軍特別大演習のため、天皇の福井県行幸があったとき、田名ござ組合から二間ござを三枚出品し、ご覧いただいた。そのときの出品製作者は、堤いき・江南あい・江南サヨの三人であった。その後、石川県小松市から桶田式機械六台を買い入れ、さらに藺の本場岡山からアサゴエ式機械十七台を購入して生産能率をあげたが、時代の進むにつれて外の職業に転向し、今日ではござ織りをしている者はほとんどいなくなった。 飲料水は、昭和の初めまで、安養寺から北の家は堤平太夫の池の水を、南の家は堤徳左衛門の池の水をもらって、荷なえ棒で手桶を一個ずつつるし担いで各家の水ために運んだ。その後、小畑甚太夫の裏に井戸を掘って、そこからも水をもらった。ところが、北前川地係りの鉄道線路下の水田の中に良い湧水があったため、それを千数百メートルも離れた安養寺裏の貯水池までポンプでくみ上げ、各家庭に給水した。現在は東部簡易水道からも各家庭へ給水している。 白山神社参道への登り口から約五十メートルのところに白山公園があるが、太平洋戦争中、所長外十人の青年が昼夜交替で敵の飛行機の飛来を監視して、本部に報告するための飛行機監視所があった。終戦後、この監視所は田名に払い下げられ、安養寺前に田名公会堂兼共同集出荷場として改築された。 田名の伝説田名の小字一覧『三方町史』 田名 梅寺(うめてら) 千代ヶ崎(ちよがざき) 中島(なかじま) 上榜示元(かみほうじもと) 与多呂(よたろう) 千代ヵ崎(ちよがさきじり) 吉畑尻(きちばたけじり) 西平田(にしひらた) 上伊登(かみいのぼり) 下小舞子(しもこぶし) 榜示元尻(ほうじもとじり) 野々間辻(ののまつじ) 砂田(すなだ) 川窪(かわくぼ) 上崩田(かみくずれだ) 崩田尻(くずれたじり) 下伊登(しもいのぼり) 古毛池(こもいけ) 加須田(かすだ) 古路谷前(こじやまえ) 上屋敷(かみやしき) 宇野(うの) 場正面(ばしょめん) 上村山(かみむらやま) 村山尻(むらやまじり) 前田(まえだ) 下屋敷(しもやしき) 市の中(いちのなか) 池の尻(いけのしり) 能面(のうめん) 世々田(せせでん) 榎本(えのきもと) 若宮(わかみや) 横枕(よこまくら) 口鎌田(くちかまだ) 大橋(おおはし) 奥鎌田(おくかまだ) 東六反田(ひがしろくたんだ) 六反田(ろくたんだ) 七反田(しちたんだ) 多毛の町(たものちょう) 猪田(ししだ) 川田(かわた) 庄田(しょうだ) 亀田(かめだ) 石田(いしだ) 樋口(ひぐち) 黒崎(くろさき) 笠取(かさとり) 東大町(ひがしおおまち) 中加屋(なかかや) 大坪(おおつぼ) 友直(ともなおし) 加屋(かや) 弁天(ベんてん) 高瀬(たかせ) 七野(ななの) 上口(じょうこう) 高柳(たかやなぎ) 窪田(くぼた) 江尻(えじり) 天田(あまだ) 雲井(くもい) 上の山(うえのやま) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『三方町史』 その他たくさん |
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