丹後の地名 若狭版

若狭

天徳寺(てんとくじ)
福井県三方上中郡若狭町天徳寺


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福井県三方上中郡若狭町天徳寺

福井県遠敷郡上中町天徳寺

福井県遠敷郡三宅村天徳寺

天徳寺の概要




《天徳寺の概要》
真言宗天徳寺や瓜割の滝があり、十善の森古墳があるところ。地名の由来は「若狭郡県志」に、「始名大渓村、斯村中有古寺、号天徳寺故村名亦従之」とある。赤松則村の後裔播州三木城主の舎弟が帰農し、さらに武田氏の一族が移住したことから成立した村と伝える。よって今も三木姓が多い。また武田氏の末流と伝える家はすべて河原姓を称しているそうである。地名の由来となった真言宗天徳寺は天徳元年本堂創建と伝える。弘治2年(1556)6月22日付の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百文 天徳寺門前」とあり、すでに戦国期には門前集落の存在がうかがえる。
近世の天徳寺村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。乾山椒は天徳寺の産を良とすると「若狭郡県志」にある。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年三宅村の大字となる。
近代の天徳寺(地名)は、明治22年~現在の大字名。はじめ三宅村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西9町余・南北3町余、戸数60、人口は男146 ・女141。住民は米作と谷川の水利による水車業などにより生計を営む者が多かったという。同28年地内のほとんどの戸数を焼失する大火があった。

水車や水力発電機もある。それよりもこの緑と清水の流れはコロナに効果あるのではなかろうか。自然に戻れ、とか誰かが言っていたが、何十億年の自然には人間は勝てない。自然破壊の末のこんにちのコロナ禍であり、もろもろの鉄の鎖に繋がれることになるのかも知れない。。

《天徳寺の人口・世帯数》 26387


《天徳寺の主な社寺など》

瓜割の滝

山からどうしてこんなに水が出てくるのかと思えるほど湧き出して、岩の間を流れ下る。滝かといえば、それぞれそう落差はないが、滝のようになっている部分が幾つも見られる。お寺の後ろの山腹に清水が湧出し、そこを「水の森」といったという。瓜をその清水に入れると割れるほど冷たいというところから「瓜割の清水」と呼ばれ、昭和60年全国名水百選の1つに指定された。瓜が割れるほど冷たいは伝説だろうが、ウマイ水は確かで、水道水などはもう飲みたくなる。

付近は公園になっている。



十善の森古墳

車が走っているのが国道27号で、それと斜めに交わって右手に行くのが、かつての九里半街道(熊川街道)。木がなく、墳丘の姿がよく見える。「十善の森」というくらいだからかつては木があったものか。十善の王を葬ったという伝えがあったものか。写真手前が前方部、後円部の石室は国道側へ開口している。
(「若狭町歴史文化館常設展示図録」より→)
こうした金冠や沓は百済系と言われる、同地のトンボ玉も出土している。

百済系というか、北方騎馬民族的な意匠でなかろうか、モンゴルかトルコの影響を強く受けたものか、東欧でも、こんな帽子を今でも、今でもなのか、伝統的なものなのか、被っている。
県史跡の前方後円墳。低い丘陵末端の緩斜面が水田沖積面に没する傾斜変換線上にある。昭和29年、斉藤優氏らが発掘調査。その後、昭和53年に墳丘測量、昭和60年に後円部の墳丘調査が実施された。墳丘は主軸を東西にとり、西面する。全長約68m、後円部径約46m、前方部幅約50m、後円部・前方部高約9m。前方部の発達した墳形を呈する。墳丘の大部分は盛土で、縄文時代後・晩期、弥生時代後期の包含層の上に築成されている。葺石・埴輪をもち、いくつかに区画された周濠が推定される。後円部、前方部ともに墳丘中位に横穴式石室をもち、ともに主軸と直交して南西に開口する。後円部の横穴式石室はやや胴の張った台形をなし、きわめて短い羨道(前庭部)を付ける。玄室長4.2m・奥壁幅2.0m・玄門部幅1.2m・高さ2・5m。玄室内に全面に赤色顔料(ベンガラ)を塗布する。玄門部の構造は西壁沿いに石を立て、これと東壁に架けてノキ石を置く。閉塞は玄門に接して1枚石で行われてきた。出土遺物は方格規矩四神鏡、帯金具、装身具(金銅製冠帽・勾玉・管玉・蛸蛤玉・棗玉・丸玉・小玉・平玉)、馬具(木心鉄板張輪鐙・鏡板・杏葉・雲珠・辻金具・鞍金具)、武器(刀剣片・鉄鏃・金銅製三輪玉)、環鈴など。前方部石室は左片袖式で全長2・1m、玄室長1.6m・奥壁幅1・45m・高さ1・4m、羨道幅0.48m・高さ1・2m。壁面に赤色顔料(ベンガラ)を塗る。出土遺物は頭蓋骨、歯牙、刀剣片。また、石室上部の封土から須恵器が出土した。後円部の横穴式石室は北部九州に類縁のある古式の横穴式石室で、5世紀中葉の向山1号墳以降、北九州の首長層との地域間交流が保持されているという。
前方後円墳という首長層の伝統的墳形を踏襲しながらも横穴式石室という大陸系の墓制を先取りし、大陸と関係深い優品を副葬品として多数使用している。築造時期は5世紀末もしくは6世紀初頭と思われるという。
案内板(ハゲていて読めないが、これは昔の写真から読み取ったもの)
十善の森古墳。県指定史跡。古墳時代後期初頭(西暦500年前後)に築造された前方後円墳である。
 主軸をほぼ東西にとり全長67㍍ある。後円部と前方部にそれぞれ横穴式石室が設けられており、両石室とも壁面に赤色顔料が塗布されている。
 墳丘から埴輪、後円部石室から流雲文縁方格規矩四神鏡、金銅製冠帽、玉類、武器、武具、馬具などが出土している。
本石室は日本海側では最も古式に属し、半島文化の移入や古墳の変遷を究明するうえで貴重な古墳である。


横穴式石室は九州では4世紀後半くらいから見られるが、九州から東の地域では、5世紀代の古墳の埋葬施設は縦穴が一般的で、横穴はごく限られている。6世紀になってから横穴式石室が全国各地にひろがったとされる。朝鮮半島で一般化されつつあった横穴石室が日本の各地にひろがるには約1世紀近くの時間がかかったとされる。


丸山塚古墳

北川左岸の水田中に位置する。十善の森古墳から北西方向、鉄道をくぐって少し行った(200m)のところにある。
昭和32年、北川堤防工事の土取りを理由に破壊され、爆破作業の合間をぬって斉藤優氏が調査した。墳丘は径50m以上、高さ10m以上の2段築成墳。幅20m前後の周濠をもつ。葺石、埴輪はなし。埋葬施設は若狭最大の片袖式横穴式石室であった。南東方向に開口する。玄室長6m・奥壁幅3m・玄門部幅2・7m・高さ4・3m、羨道長11m・幅1・5m・高さ2m。1~2mの巨石材が使用されている。
出土遺物は、画文帯神獣鏡、玉類、馬具(杏葉・辻金具・鞍金具他)、武具(衝角付冑・挂甲)、武器(三葉式環頭・双龍式環頭・水晶製三輪玉・鉄刀・鉄鏃)、須恵器、馬骨片などであった。築造年代は須恵器(TK10型式)の年代から6世紀中葉と考えられ、この時期の若狭の首長墓であるという。今のこの塚はその石室の石を積み上げたもの。


岩上神社

馬頭観音堂の横隣に鎮座。
『遠敷郡誌』
岩上神社 指定村社にして同村天徳寺字伊勢谷にあり、祭神不詳にして元岩神社と稱し、養老二年泰澄の勧請なり、天徳寺村は元大谷村にして本國神階記に正五位大谷石神明神とあるは即當社なりと傳ふ。

『上中町郷土誌』
岩上神社 天徳寺
祭神 不詳
由緒 郡県志岩神社の条に「在上中郡天徳寺村為産神伝云養老二年越智泰澄勧請之牟六月十五日有祭」とあり、また伴信友全集若狭国神名帳に曰く
正五位 大谷石神明神
天徳寺村に岩神明神社あり。志に天徳寺村旧称大谷村云々神階記大谷石神蓋此也と云えるが如し。社は大渓山(今宝筐山)の北麓の林中にあり六月十五日祭あり、当村に天徳寺と称する寺あり志に天徳元年創建山号大谷改宝筐云々。
社寺由緒記 氏神は岩上明神本地不動也 是は当寺建立以前より有レ之神にて由緒不レ知、往古より村の氏神祭礼は六月十五日に御座候。
 延宝三乙卯年九月二十八日
      天徳寺村庄屋    三太夫


『上中町郷土誌』
甕棺
 大字天徳寺字伊勢谷の岩上神社本殿のさや建を明治二十六年十月八日増築に際し境内より弥生式の須玖式甕棺らしい土器が出土した。発掘当時の目撃者同区生れの八十二才の故老の語るところによればその中に人骨が這入っていたが非常にもろくて砕けた。それをそのまま元通りにふたをなし今は大徳寺の寺僧の墓地に埋められてあると、なお合口甕棺の内面は色こそあせてはいたが赤土色に塗彩してあったとのことである。この甕棺は北九州文化圏の一特徴であり、東は山口県まで延びているが近畿地方以東には極めて例が少いとされている。



高野山真言宗宝篋山天徳寺

字吉野(よしの)にある寺。後の山を宝篋(ほうきよう)山といい、山号は宝篋山、高野山真言宗。本尊馬頭観音。「若州管内社寺由緒記」の縁起によれば、養老2年(718)泰澄が自刻の馬頭観音坐像を宝篋山の中腹に安置したことに始まるといい、天暦9年(955)堂宇の建立に着手、天徳元年(957)本堂がなった。その後金堂・鐘楼・大門など7堂を具備し、村上天皇より田20町を寄せられ、正治2年(1200)北条政子は頼朝のために法華堂を建立寄進したという。また同書に載る天徳寺住持の書上に「二十町の寺領は大閤御検地の節被召上候、文禄四年大雪宝篋ノ嶽より雪ずりして右の本堂諸伽藍並十二坊咸破壊す、雖然本尊観音寺前の石上に歴然として座し給ふといへり、而其十二坊の内福生坊一坊相残り其余荒廃して無住の躰にて中絶の間二十四年也、其以後寛永七年先住法印実乗住持仕中興として一周一坊相続」とある。当寺東側山腹に四国八十八ヵ所霊場を模した88体の石仏がある。
文安6年(1449)5月5日付若狭国天徳寺東寺修造料足奉加人数注進状には「若州遠敷郡大谷山天徳寺」とあり、福生坊など11坊が1貫100文を東寺に寄進している。
弘治2年(1556)の明通寺鐘鋳勧進時入目下行日記に「弐百文 天徳寺にて勧進能」とみえる。寛永7年(1630)実乗が中興開基である。

『上中町郷土誌』
天徳寺 真言宗 天徳寺
〔社寺由緒記〕
大渓山天徳寺本尊三尊の阿弥陀也堂の本尊は馬頭観音この仏は村上天皇の御宇天暦年中に水無と申山の岩上へ虚空より御飛来候 而年半年計鎮座ましまして夜々光を放って恐敷事にて其辺に近付者なし 然るに又がけ谷という近山に大岩有りしがこの岩上へ御飛遷と見えて彼岩鳴動する事昼夜十七日、里民人驚き時の守護所へ訴え候に武器の人数被二召連一御覧候処三尺有余の馬頭観音也。早速草庵を結び安置有之候折節村上天皇御煩被レ遊候処彼観音まくらがみに御立被成精舎を御建立於レ有レ之五間四面の堂御建立被成候。則御煩も御本復被レ遊寺領二十町の田地御付被レ遊候依レ之及二大破一候□□□有来る十二坊の寺屋敷観音の寺領に被レ下候偖水無の岩を仏岩とも申伝候 また近山の大岩をほえ岩とも申伝侯。
 良念寺 真宗 天徳寺
良念寺 本尊は阿弥陀恵心の作にて候。この寺は昔は禅宗にて御座候処、文禄年中に東本願寺に相成候。然るに寛永十二年乙亥年炎上仕正保三丙戌の年再興仕侯
 延宝三乙卯年九月廿八日
    天徳寺庄屋  三太夫
           左近
天徳寺並馬頭観音堂八十八ヵ所石仏、
天徳寺区にあり。真言宗にして本堂はその境外にありて馬頭観枇音を本堂とすまた同寺護摩堂は山腹の幽境にありて八十八ヵ所の霊場である。…



馬頭観音堂↑ 大師堂と八十八石仏↓




真宗大谷派良念寺

天徳寺へ向かう道の途中にある。古くは禅宗で、文禄年間東本願寺末となり、寛永12年炎上し、正保3年再興した。
『遠敷郡誌』
良念寺 眞宗大谷派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村天徳寺字開社に在り、元阿彌陀堂にして宗を定めず、弘長二年眞宗に歸し心念寺と號す、越前の佐々木某教如に歸依し、教如の弟子良念と共に土俗の迷信を鎮め、天正八年開社明神の社地に寺を移し良念寺と改稱すと傳ふ。

『上中町郷土誌』
良念寺 真宗(天徳寺)
良念寺縁起 夫考二当寺之因縁一往古有二真言寺一号二天徳寺一坊数総十二軒繁栄重年然只有二祈願所一無二弔死之寺一而一村之内時々有二落命之者一切馳走而遠求二送葬之僧一苦辛年々也因之建立草堂一宇之阿弥陀堂以為弔死之寺雖然無定宗徒猶住不住也至弘名が二年壬戍之八月以為阿弥陀堂定宗浄土真宗雖別心念寺檀力薄而無建立伽藍只燭尾之厭而徒然而送二年月一然後至る二天正年中一正親町之?姫誕二生男女兼休之王子一然為二異形一故於二禁裏一難二養育一因而尋三随侍之忠臣処二于前越前之国一有佐々木善仏右衛門弓馬鑓刀之誉聞二于世外一者立仁義礼智信内者誓二仏法僧之忠臣一也故詔下而頼レ之為二養育一領越前之内給二田地壱百町余一善仏右衛門紹侍王子奉師伝成孝同範蠡貿魚鮫然不幸而彼王子已逝去故善仏右衛門無力皈二領地一誓本願寺之教如上人面為二落髪之形一法名号二誓珍一修二菩提一游二行諸国一之次天正四年丙子仲春留二斯所一勤心念寺之監坊時節邑中有蛇神発種々病煩居民一村之男女何以抜此難悲愁徹岩時珍告教如上人願救居民之憂上人曰危哉為蛇神之霊退之煩郡邑殺庶怨多殺庶民我教爾吾法弟有二良念者一祷仏神奇妙許多也爾諸之祭則一村安寧而無民之煩誓珍応示告良念乞資之良念欲救之来此地祭二蛇神一号二海社大明神一勤当封建立礼檀附灯燭領桜肝丹祷之庶民之痛害忽爾而止居民歎喜而歌于野一邑之安隠日盛放為知良念之大功於後世天正八年庚辰之六月遷二心念寺於二社地一改二良念一殊良念以為二教如之法弟一為二本願寺之其末寺一兼二任海社明神之別当一故依此孝恩海社地与寺中有従村除之者也
  天正八庚三月念八日
     良念寺住持  栄 元 記之



千石山上に瓜生村膳部城主松宮玄蕃の弟松宮左近の守ったという城址。
『上中町郷土誌』
松宮右近城址
 郡県誌に「上中郡天徳寺村山上有二城址一伝言瓜生村膳部城主松宮玄蕃允使下弟右近守中斯城上而分二与此辺領内一矣」松宮右近は松宮玄蕃舎弟也家老は松宮三右衛門或は井ノ口山城の上松宮右近とも云有天徳寺井ノ口凡高九百七石九斗二升八介を領す。玄蕃領地の内也。と守席代記に載せり。天徳寺字奥禿の谷にありしものと云伝うも今その跡を存ぜず。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


天徳寺の主な歴史記録


『上中町郷土誌』
天徳寺
 天徳寺区は宝筺山の北麓に位し、北部は北麓によりて野木地区と境す。天徳寺川は奥山から発し一条の渓流は水の森の湧泉を合せてこの区を潤して北川に合す。地勢南より北に緩傾斜をなし、耕地三十六町歩で沃地多からず。
 天徳寺山上に松宮玄蕃の舎弟松宮右近の古城趾ありという。(現小学校後の千石山頭)
 この区は赤松則村の後裔播州三木の城主の舎弟三木の姓を冐して、主従大徳寺区に帰農したるものと武田氏が移住して今の農村となったといい伝え、現に三木氏の宗家と同姓を名のるもの大半あり、武田氏の末流は凡て河原姓を名のるという。
 若狭街道は区の北部を貫通して交通利便、西部の打田は小浜まで一望の中に納められ眺望絶佳である。
 水の森は瓜割清水といい、天徳寺境内渓間に湧出四時水量ほとんど変らず、全区の飲用配管もここより初まる。附近老樹鬱蒼夏避暑の閑客すこぶる多い。
 近世沿革史に「文政四辛已大に旱り郡中諸村雨祈あり三宅組七ヵ村心々の挽物、太皷、俄、優技等を催して水之森に祈願を籠めた。この時実に大雑踏を極む。また明治九年酷暑十二三日前より旱魃打続きために稲田枯死せんとした。村民悲歎し挙村昔日の如き催しものして参詣祈願した。古より之を雨乞という」と記す。
 更に同沿革史は「明治七年戸籍改正の際天徳寺を調査会場となし、明治九年地租改正の行なわれた時にも精図会所として同寺で開設された。明治九年で田地実地丈量検査を終了す」とある。
 此地参政時代草石高四百二十三石三斗六升貢米百九十六石六斗一合、囲籾制納倉俵数八十四俵、この区明治二十八年大火に遭い、大半烏有に帰しために十余戸も破産減戸を見たが各々営々刻苦旧熊以上の盛観を呈している。

天徳寺の古墳
 丸山古墳。北川左岸堤防に近き耕地の中にあり地字を丸山と称し、顕著なる円丘状をなし老松ありて眺望非常によろして、行路の人々の目を楽しましたが、昭和二十八年災害による田地の復旧にこの塚を取りこわし封土を以って田の耕土とせり、石室の石等ほとんど破壊せられ現今その石を以って「丸山古墳の塔」が建ててある。
 十善森の古墳。字森ノ下にあり若狭道に沿う前方後円墳である、その外高野にも古墳存在せしも今は一巨石を残すのみとなっている。



『上中町郷土誌』(写真も)
丸山塚古墳
北川左岸堤防に近き耕地の中にあり、附近地字を丸山と称す顕著なる円丘状を呈し最高三十五尺を算し東南部はやや原型を認められるが、西部は著しく削去されて断崖状を呈しているその接統地にはやや広き元の古墳敷地がある。北部は古墳の前方部の如くであるが、現状より察すれば寧ろ円塚なりと解すべきもので封土上には近年迄松が数株あって森林状を示していたが、次第に切り尽し只一木残しているのみである全面雑草または笹類が密生して葺石などの存在を確めることが出来ない。しかし周囲の田地中にては赫色土器破片および祝部土器の破片を発見した。石室はすでに発掘されたが幸に全形を保ちその構造を窺うことが出来る。すなわち石室は封土の最高点に存じその位置は現今の古墳封土より見れば頗る西に偏し天井石の上はほとんど封土の頂点と等しく天井石と側壁との空隙より内部に侵入することが出来る、石室の主軸は東南より西北に走り長さ十八尺四寸幅広き処八尺狭きところ六尺五寸高さ奥壁と認むべき部分にて九尺五寸を算する羨道はなく全く竪穴式拡の形式を示し、天井は三個の巨石を以って之を被い石材は凡て加工なく装飾なき自然石を用いて築造してある底面は土砂の侵入によって詳でない。副葬品もまた伝っていない然し拾椎雑話巻二十に「天徳寺田の中にある古墳掘り候へば鎧刃物金子などありたるよし」とあるがその年代は詳でない、天徳寺中の何れの古墳なるかを知り難いが田の中にありとあるより見れば丸山塚と察せられまた年代に就いては拾椎雑話の前文の続きに元文頃遠敷村神通寺の山を掘りて刀片玉類を発見せし由が記されていることから推察して恐らく元文に近い頃であろうと思われる。金子云々は解し難いが鎧および刀片は近村西塚発見の遺物と対照して頗る奥味がある)
365(天徳寺丸山塚古墳遂に取壊に決定
 上中町天徳寺丸山塚古墳(未指定)は若狭地方の文献にも記載されており、十善の森古墳と共に往古豪族の墳墓と考えられ、今日までにある時代に一部とりこわされて完全なものではないが、現在まで保存されていたが部落関係民の希望により、昭和三十二年五月二十二日調査し十三号台風の災害耕地の復旧に利用されることになった。この古墳は三年以前より生産か文化財かで問題になり、部落民が耕地利用に県へ申請しても、文化財保護の見地で承諾を得られなかったが、この日斎藤優、豊島主事の両氏らが調査の結果、部落民の強い要望もあり、古墳を調べながら取壊しその土を災害耕地の客土に利用することになった。
 災害耕地は二町四反関係農家は七軒である。災害耕地復旧はもとより大切であるが、伝統ある古墳がとりこわされるとは文化財保存上極めて遺憾なことである。上中町文化財保護委員会でも大いに保存を希望したが、関係地主の熱望によることで止むを得ないことであった。

丸山塚古墳(日木考古学会年報)
所在地 福井県若狭国遠敷郡上中町天徳寺二十一号四番
調査期日 昭和二十二年七月十二日-七月三十一日
調査者 斎藤 優  亀井 清(協力者)
調査概要 昭和二十九年度に調査報告した十善の森古墳と国鉄小浜線をはさんで二百米余を隔てていた古墳である。前者と共に年代不詳の盗掘墳であり、「福井県史蹟勝地調査報告書第一冊」に竪穴式石室と見えているが、筆者はかねてこれに疑いをいだき調査を予定していた。しかるに前者の十善の森古墳の調査時、地元においてすぐ横に流れる北川の堤防復旧にともない食糧増産をもかねて破壊の計画があることを知り、稀に見る大きな石室でありその重要性にもかんがみ、善処保存をあくまでも主張したものであるが、盗掘墳を理由に既記の事情からついに全く破壊され、現在はその無残な姿と建碑がそのあとをとどめているに過ぎない。
(構造)北川の土砂をもって二段に営まれた円墳である。大きさは若狭としては最大のもので底部の径五〇米内外、高さは一〇米内外を示し埴輪、葺石等の施設はこれを認めず、周隍の跡が存在したものである。主体部の石室は自然石で営まれ東南に開口し、片袖からなる横穴式石室であった。玄室の大きさは奥壁において巾三米、長さ六米、高さ四・三米をかぞえ、羨道は巾一・五米、長さ一・一米を記録し入口は径二、三〇糎内外の自然石を充填し閉塞した状態が確かめられた。残念ながら破壊と平行して調査したために確認と同時にその姿を消失してしまったが、福井県下で確かめた古墳では最も大きな石室であった訳である。
(遺物)盗掘墳とはいいながら、若干の検出は予測したが、予期以上の豪華なものが出土した。すべて玄室から検出したものであり盗掘のため当然でもあるが全面にわたり攪乱されていた。その舶載された画文帯神獣鏡ならびに環頭等の見られることも特筆されるが二重底からなるハソウ、馬骨片の見出されたることは特に注目に価するであろう。その品目数量をあげるならば次の通りである。
   一〇、丸山塚古墳出土品
馬骨片    若干
画文帯神獣鏡  一、舶載鏡三片に破損して出土
勾  玉    一、硬玉製
丸  玉    四、
小  玉    一一、
三輪玉     一、水晶
刀剣並に刀子片 若干、鉄製
環頭柄頭    二、三葉、双竜各一
鉄  鏃 若干
挂  甲 一、残片若干
杏  葉 一〇、鉄地金 鍍金
雲珠片 若干、同
その他の鞍馬具片 若干
須恵器 若干、大形器台、高坏、ハソウ、坏等はいずれも破損 (以上)


天徳寺の伝説

『越前若狭の伝説』
天徳寺  (天徳寺)
天徳寺の観音堂の本尊は馬頭観音である。この仏は、天暦年中(九四七ごろ)水無しという山の岩の上に空から飛んで来られた。半年ばかりそこにおられて、夜ごとに光を放ち、恐ろしくて近づく者がながった。
また近くのがけ谷という山に大岩があったが、その岩もこの水無し山の岩山へ飛び移られると見えて、岩が鳴動すること辰昼夜七日であった。村の人は驚いて、時の守護所へ訴えたところ、武装した数人を連れて見に来た。見るとそれは一メートルばかりの馬頭観音であった。さっそく草のいおりを結び安置した。
ちょうどそのころ村上天皇が病気になられた。するとこの観音がまくらがみに立ち、「寺院を建立あれば、病気は除かれよう。」と夢想があった。よって五間四面の堂を建てられた。それによって病気もなおったので、寺領として二十町(二十ヘクタール)の田を寄進された。かの水無し山の岩を仏岩、がけ谷の岩をほえ岩という。 (社寺由緒記)

養老年中(七一七ごろ)越前の国麻生津(あそうず)の泰澄大師が、諸国巡回のとき、この地に来て、馬頭観音の坐像を刻み、宝篋(ほうきょう)岳の中腹の瑳王+我の岩尾に安置した。しかし峰がけわしく、人の道も絶えていた。
天暦年中(九四七ごろ)その観音は、光明を放ち、大鳴動すること七日間であった。村の人は怪しんで山へ登り、光の発する所を求めて、一メートルばかりの像が歴然としてあるのを見つけた。そこで仮に草室を造って、当地へ移した。しかるところ隣郷近国から参けい者が群集したので、このことを府官に報告した。府官はさらに天子に奏上したので、天子は勅を下して、五間四面の道場を建てた。  (天徳寺縁起)

八十八か所石仏 (天徳寺)
宝篋山(ほうきょうざん)天徳寺の境内の上手に四国八十八か所の霊場をかたどった石仏がまつられている。文化のころ(一八一〇ごろ)本如上人がある夜修行をしておられると、天から不思議な声が聞こえて、「この天徳寺本堂の南に当たる白山のふもとに四国八十八か所の石仏をまつる霊場をつくれ。その石仏はもう佐渡の石工に注文して作らせて置いた。」といわれた。上人は感激してその山のふもとへきてみると、非常に美しい適当な場所があった。その晩も前夜と同じ夢を見た。
その日小浜の荒物屋善右衛門という信心深い男がきたので、上人はこのことを話された。善右衛門はその注文をお受けして直ちに佐渡へ渡った。ところが不思議なことに、善右衛門が佐渡に着くと、もう船場には「若州遠敷郡天徳寺行八十八箇所石仏」という立て札が立てられていた。善右衛門が驚いて石工の家へ行き、このことを尋ねると、石工は「去る三月二十一日一人の坊さんか来てこの石仏を注文して行がれたので、その通りにした。」と答えた。善右衛門は天徳寺での上人の夢のお告げの話をすると石工も大いに感じ入って、さっそく八十八体の石仏を渡してくれた。海上もつつがなく小浜に着き、善右衛門から上人へ佐渡でのお話をしたが、上人も大層喜び感涙にむせびながら、白山のふもとに開いた霊地にこの石仏を安置した。各石仏の前の地面には丸い穴をあけて四国八十八の霊場から運んだ上を入れてあり、ここを踏めば四国八十八か所へ巡拝したのと同じ功徳(くどく)かあるといわれている。(四国八十八か所石仏の由来)

瓜割清水    (天徳寺)
天徳寺村の天徳寺の前に森があり、水の森と称する。岩根がら泉がわき出て、清く冷たいこと氷のようである。むかし村民がまくわうりを投げ入れたところ、冷たさのため自然に割れた。故にこの名がある。         (小浜のみなと)



天徳寺の小字一覧


『上中町郷土誌』
天徳寺小字名
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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