丹後の地名 若狭版

若狭

常神(つねかみ)
福井県三方上中郡若狭町常神


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福井県三方上中郡若狭町常神

福井県三方郡三方町常神

若狭国三方郡西田村常神

常神の概要




《常神の概要》
常神半島の最北端に位置する。


中世の常神浦。鎌倉期から見える浦名。恒神浦とも記される。伊香氏系図に、常神浦・御賀尾浦両浦は嘉応2年(1170)以前に伊香安宗が開発領主として開いた地で、承久年間(1219~22)以降に常神浦は御賀尾浦刀禰から常神浦刀禰に分与された地という。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案の国管領三方浦の除田のうちに常神宮1町があることから、三方浦は常神浦であるとする説あるいは三方浦に属するとする説があるが定かではない。浦としての初見は嘉元4年(1306)7月賀茂守綱が「恒神浦」のことについて没収されていた御賀尾浦の刀禰職を還付された文書である。この刀禰職没収に関しては常神浦刀禰家の内部紛争と深く関わって、正和5年(1316)11月の忠国陳状、およびそれに反論した乙王女重訴状案によってこの紛争の概要を知ることができる。それらによると常神浦の刀禰であった国清(法名蓮昇)の死後、子の忠国と国清後家(忠国の継母)および後家の実子乙王女との間に遺産配分をめぐる争いが起こり、忠国は乙王女に配分されていた大船1艘・銭貨70貫文・米150石・五問屋1宇・山1か所・小袖6・女3人・男2人などを押領したという。この乙王女分だけからでも廻船を営んでいた当浦刀禰の豊かな財力が想定される。忠国と乙王女が対立していた時、乙王女と秘かに夫婦となっていた御賀尾浦の刀禰又次郎が数十人を率いて忠国宅に夜討ちをかけるという事件が起こり、又次郎は召捕らえられて守護方の下部に引き渡されたとあり、御賀尾浦刀禰職の没収はこの事件に関連したものであろうという。当浦には「延喜式」神名帳に載る常神社があり弘長2年(1262)から天正14年(1586)の棟札を伝える、その棟札のうち寛正4年(1463)3月の棟札銘によれば、神社修造時の奉加銭には浦内の大夫成・権守成・左衛門尉成・鳥帽子分などの格によって差があることがわかる。御賀尾浦とともに若狭漁業の先進地で、天文2年(1533)の常神社蔵棟札銘に「于時大網之徳分年々用意上フキシ仕候」とみえ、大網の収益から同社の上葺経費を出したことが知れる。これは若狭の大網についての最古の資料である。
漁業に関しては永正7年(1510)より少し前に当浦の祝権守が越前南条郡河野浦の河野善阿弥の所を宿に定めて同郡今泉浦ではまち網を始めたとあり(浜野源E郎家文書)、当浦の漁業技術の先進性を示している。漁場に関しては元弘元年(1331)10月3日御賀尾浦との境にある小松をめぐる争いに当浦から御賀尾浦に介入することのないように下知している文書がある、これは室町期以降小松の網場をめぐる網場相論が起こったのちに作られたものであろう。天文5年5~8月、御賀尾浦の網場が沖に出すぎたとして当浦から網を上げるよう要求したが、御賀尾浦がこれを拒否したため相論となり同年10月9日御賀尾浦人が当浦の西にある御神島に鯖釣りに出たところ常神浦人は相論中は南部殿から禁漁の命令が出されているとしてこれを阻止している。この南部氏は武田氏家臣で天文年間当浦の領主であった。天正2年12月には常神浦人が小松で漁をして船や網を御賀尾浦に取り上げられ詫証文を出している。
近世の常神浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年西浦村の大字となる。
近代の常神は、明治22年~現在の大字名。はじめ西浦村、明治40年西田村、昭和28年三方町、平成17年若狭町の大字。明治24年の幅員は東西4町・南北1町、戸数44、人口は男130 ・ 女115、学校1、小船56。


《常神の人口・世帯数》 145・41


《常神の主な社寺など》

島津遺跡・ニシンジャラ遺跡・ミヤマダニ遺跡
土器製塩遺跡

常神(つねかみ)(式内社)

県道216(常神三方線)は現在神子常神間のトンネル工事をしているが、そのトンネルの出口に鎮座する。祭神神功皇后、旧村社。「延喜式」神名帳に「常神社」とみえ、承暦4年(1080)6月10日付および康和5年(1103)6月10日付の神祇官御体御卜奏文(「朝野郡載」所収)に神名がみえる。また永万元年(1165)6月日付の神祇官年貢進納諸社注文写(宮内庁書陵部蔵永万文書)に「常神社 魚貝進」とある。文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写によれば三方浦に1町の社領を有した。享禄5年(1532)の神名帳写(小野寺文書)は若狭国大明神一二所の一に「従二位常神大明神」を記す。古代海人族の創祀と伝え、「若狭国志」は
  創建年代不詳、(中略)海中有呼曰御神島寛和二年丙戌移神社於其島、天仁元年戊子十一月三日復徙今地云、伝言古自越前国敦賀郡常宮社官者来預祭事、故自常宮浦于此今称管絃渡(わたり)、又其社官者来御神島盛服焉、故海人呼曰小袖島、 以是考之則常宮常神名義同而祭神亦不異乎、然則与常宮同祭神功皇后也、
と記し、一度常神集落の西方海上の御神(おんかみ)島に移徙したが旧地に復座したこと、常宮(じょうぐう)社(気比宮の奥宮)の神官が当社の祭事も執行していたことが知れる。弘長2年(1262.)をはじめ近世のものまで十数点の棟札がある。常神の産土神であるが、養蚕の神としても信仰されたという。

『三方町史』
常神社
常神字深山に鎮座。祭神神功皇后。旧村社・式内社・指定社。明治四十一年、『福井県神社誌』によると、次の神社の祭神が、この社に合祀された。
上下宮神社祭神若狭彦神・若狭姫神(元、この社の境内社)
宇波西神社祭神・・草葺不合尊(同)
天照皇大神宮祭神天照皇大神 (同)
柳原神社祭神柳原神     (同)
渡津松(とつまつ)神社祭神渡津松神   (同)
賀留間(かるま)神社祭神賀留間神   (同)
三望神社祭神三望大神 (元、賀留間神社の境内社)
 ところが、伴信反、「神社私考」には、「所併祭之神ハ伊勢ノ内宮、石清水、賀茂下上、春日、熊野三所、白山、遠敷ノ上下、荒島、上瀬、新若宮、道祖神、大将軍、西ノ宮、北野、山ノ神、 海ノ神、水ノ神、三神ノ御神、渡津松神、加留間明神是也」と記されている。また、延喜式神名帳に「従二位常大明神」と記されている。
 この社の神は舒明天皇二年(六三〇)二月三日、坤(西南)方向の海島に降りてこられたのでこの嶼を御神島(おんかみじま)といったといわれており、この島にはいつも神がいて、外敵を防いだり、土地を守り人民の利益を図ったことが天皇の耳に達し、勅使が来て社頭を造り、「常神大明神」と言って崇敬したのがこの神社のはじめであると伝えられている。また、寛和二年(九八六)二月三日、神のおつげによって社殿を御神島から東方の山頂に移した。この社殿は、西本土佐守正五位源道茂が建立したもので、ここへ社殿が遷されるまでは敦賀気比・常宮の神官や神に仕えていた僧侶が、毎年この島へ来て神事をつとめていたという。寛和二年以後は、気山村宇波西神社の別当寺院が、勅許を得て毎年神事をつとめた。天治二年(一一二五)二月三日、 この時も神のおつげによって社殿を山頭から麓へ遷したが、勅使として柳原大納言が来て、遷宮の式は気山村宇波西神社の社僧によっておごそかに行われたという(小川浦外四ヶ浦戸長役場でつくった「神社明細帳」〔宇波西神社文書〕)。
 その後、この社の神殿改築のため、寛正四年(一四六三)に、田井竜泉寺(真言宗)の住職智俊が発起人となり、人々から金品の寄進を募り、その年の閠六月二十六日に棟上げをしている。このとき、神子の大音氏も力を入れ、馬一匹を奉納し、酒を寄付している。また当時の別当は、廿八所社の住僧宝泉坊定栄であったことが棟札に残っている。
 また、別の棟札によると、天文二十年(一五五一)に、屋根がふき替えられているが、当時の別当は田井島大乗寺にあった千手坊の住僧慶尊で、遷宮式には、国富の羽賀寺から僧侶四人が参列し、また領主南部出雲守善行の孫亀寿丸が参詣して、太刀一振り・馬一匹を神前に奉納している。天正三年(一五七五)の改築のときの棟札も残っている。当時の別当は田井島大乗寺の宝光坊であった。その後、何回か改築されていると思われるが、確かな記録はない。
 現在の本殿は、昭和十年に新築したものである。また、昭和四十五年四月には。本殿屋根のふき瞥えをしている。
 明治九年六月八日に村社に列せられた。例祭はもと七月十六日であったが、夏季多忙のため四月二十三日に行われている。
 以上のほか、この社と敦賀の常宮との関係や、神功皇后と常神社・常宮・角鹿津との関係について、伴信友の「神社私考」に詳しく述べられている。

『三方郡誌』
常神社
村社。式内。常神に鎮座す。國帳に從二位常大明神とあり花山天皇の寛和二年に社を御神島に移し、天仁元年十一月三日、再ひ今の地に移すと傳ふ。祭神は神功皇后なるべし。國志に曰く、傳言、古自二越前國敦賀郡常宮一社官者、來預二祭事一、故自二常宮浦一到二于此一、今二稱一絃渡一、又其社官者、来二御神島一盛服焉、故海人呼曰二小袖島一、以レ是考レ之、則常宮・常神名儀同、而祭神亦不レ異乎、然則與常宮一同祭二神功皇后一也、可二推知一矣と氣比祠官の説に越前敦賀の常宮は、此の常神を移し祀りたるにて、右より気比宮の摂社一なりと。日本書紀に曰く、仲哀天皇二年二月丁卯、幸二角鹿一、即興二行宮一、而居之、三月丁卯、天皇巡二行南國一至紀伊國一、而居二于徳勒津宮一、是時熊襲叛之不二朝貢一天皇於是将レ討二熊襲國一、自二徳勒津一發之、浮レ海而幸二穴門一、即日遣二角鹿一、勅二皇后一曰、便従二其津一發之、逢二於穴門一、六月庚寅、天皇泊二于豊浦津一、皇后従二角鹿一發而行之、到渟田門一、食二於船上一時、海鯽魚多聚二船傍一、皇后以レ酒灑二鯽魚一、々々即酔而俘、而時海人多獲二其魚一、而歓曰、聖王所寶之魚焉、故其處之魚至二于六月一、常傾浮如レ酔。其是之緑也とこの渟田門といへるは丹生浦と常神浦との間の海を云ひて此時、神功皇后は海路敦賀を發して、此處を過き給ひたるなり。此時の事を気比宮社記に、社傳記をきて曰く、是仲哀天皇御宇二年癸酉六月辛卯日、皇后命二群臣一令レ艤發二此津一、廼取垂五百枝榊木綿二舳艫一爲和幣一、祭二海神一、皇后裂彈レ琴、以二妹玉妃命爲神主奏二神楽一〔今若狭国三方郡海岸、謂二神楽埼一處是也〕とあり。此の山縁にて此の常神に神功皇后を祭れるならん。〔神社私考の説〕本社の書に見之たるは、朝野羣載に康和五年六月十日、卜部兼良宿禰奏亀ト御體御卜文に坐若狭国宇波西神・多太神・常神ムム神社司等、依過穢神事祟給、遣使科二中祓可レ令祓清奉仕事云々、永暦四年六月十日、卜部兼波宗宿禰の同じき御卜文に坐若狭國若狭比古神・常神ムム神社司等依二過穢神事一祟給、云々と。又永萬元年神祇官貢進社の記に若狭國常神社貝進と見えたり。若狭にては本社のみ載せたり常神社は常神の社と読むべし。また神名も地名もツネカミと清みて唱ひならへり。常神浦に邑の成りたるは、社の鎮座ありし年代よりは後なるべし。本社に配祀するは石清水・賀茂上下・春日・熊野三所・白山・荒島・新若宮・道祖神・大將軍・西宮・海神・水神等なり。また末社に天照皇太神宮・上下宮社・宇波西神社・柳原神社あり。皆明治四十一年本此に合祀す。本社は明治九年六月八日村社に列せらる
〔合祀〕渡津松神社。常神の巽方の海邊に鎮座したりき。國帳に正五位常神ノ外尊明神とあり。外尊はトツマツと傍訓す。この社は寛和二年、常神社を御神島へ移さゝりし以前の社地なるを、常神ノ神を島へ移したる時、その舊地に社をのこして祭れるを、其まゝに祀り置きて、本社の外に在る由にて、常神外尊と稱せるなるべし、されと尊をマツと讀むは詳ならず。明治四十一年、常神社に合祀す、
〔合祀〕加留間神社 常神の西方の濱邊に鎮座したりき。國帳に正五位加留間明神とあり。祭神詳ならず、明治四十一年、常神社に合祀す。
〔合祀〕三望神社 加留間神社境内に鎮座したりき。三望(ミツモチ)は外尊の例にならへは、ミツマツ轉訛なるべし。郡縣志及ひ雲濱鑑には三社明神と見えたり。國帳の正五位常神三皇明神なるべし。國帳、皇にヒコと傍註す、ミツヒコと讀むべきならんか。又、三柱の神を祀れるなるべけれども、その名詳ならず四十一年、加留間神社と共に常神社に合祀す。
島尊明神。國帳に正五位常神ノ島尊明神とあり、島尊明神、所在詳ならす天仁元年、常神ノ社を御神島より復ひ今の地へ移したる跡に一社をのこして、そを當神の島尊明神と稱したるなるべし。昔は御神島に小社ありし山浦人云傳へたり即ちそれなるべし島にます山にて島尊明神と申すなるべし島尊は外尊明神の傍倣ひてシマツマツと讀むへきか。


『大日本地名辞書』
常神社。常神浦に在り、敦賀常宮の神を祭る、(若狭国志云、伝言、古自敦賀常宮、神官来預祭事、故自常宮浦到于此、今称管鉉渡、則常宮神名義同、而祭神亦不巽乎、其祭神功皇后也、可推知矣)延喜式に列す。
神祇志料云、常神社は旧御神島にありしを、後今常神浦の海岸の山麓に遷す、之を常神大明神と云ひ、又常大明神と云ふ、〔若狭国志・官社私考〕蓋息長帯姫皇后の御霊を祭る、〔参取気比社旧記、運歩色葉集大要〕仲哀天皇熊襲を伐給ふ時、皇后角鹿より発して、木綿垂たる五百枝榊を、船の舳艫にたてて和幣とし、御親ら琴を弾き、妹玉妃命を神主として神楽を奏で、海神を祭らしめ、即渟田門に到り、御倉の大酒を海に潅ぎ給ふに、海?魚多く酔て浮しかば、海人等聖王の給へる魚也と歓申しき、故其処の魚六月に至て常に傾浮て酔が如くなるは、此縁也、〔日本書紀、参取気比社旧記〕康和五年御卜に常神の神事を穢せる御祟ありと云ふを以て、使を遣して社司に中祓を科せしめ、〔朝野群載〕永万元年神祇官の貢物魚貝を常神に奉る。〔永万元年神祇官貢進記〕
補【常神社】○神祇志料〔重出〕堀河天皇康和五年六月十日御卜に常神の神事を穢せる御祟ありと云を以て使を遣して社司に中祓を科せしめ(朝野群載)二条天皇永万元年六月神祇官の貢物魚貝を常神社に奉る、即是也(永万元年神祇官御年貢進記)凡毎年正月朔、三月四月三日、五月五日祭を行ふ、六月十六日猿楽舞あり、伝云、古越前常神祠官等御神島に至て衣冠を整へ、本社の祭に預る(若狭国志・官社私考)常神祠は越前国敦賀郡常神浦に在り、常神明神と云(越藩拾遺・官社私考)神功皇后の廟也。(運歩色葉集)


木造釈迦如来座像など3点は県文化財
『若狭町の文化財』(写真も)
【木造 阿弥陀如来坐像】
【木造 釈迦如来坐像】
【木造 薬師如来坐像】[三体とも県指定]
 常神社境内の薬師堂に安置される三尊は、ともに檜材の寄木造り、割矧ぎ、内刳り、彫眼の手法がとられ彩色が施されている。内省的な面貌、平明温和な像容であるが、彫出の手法には地方作の特色がよく示されており、平安末期頃の造像と推定される。



常神社のあたりは入江になっていて、入江の中の入江で、ここに元々は常神の集落があったのではなかろうか。さらに元々は立石半島の敦賀湾側にある常宮の人達が移動してきた集落かも…
舞鶴市与保呂に(つね)という集落がある、ワタシのオヤジの里で、当地と何か関係があるのではなかろうかと睨んでいるのだが、そうしたハナシは聞いたこともない。しかしもしかすると、ここから移動してきたものかも知れない。
常宮はあるいは大常宮で、ダイジョゴ(大将軍)のことかも、それで神功皇后と重なるのかも、元をただせば、単なるその地の守護神かもなどとも見ながら材料を集めるより手がない状況…

曹洞宗天満山東陽寺

『三方町史』
東陽寺
所在常神四-六-一。山号天満山。曹洞宗。本尊延命地蔵菩薩。文禄四年(一五九五)六月二十一日に、三方郡金山竜沢寺第四世で、また、藤井向陽寺第八世でもあった大竜が開いた寺で、元は宗徳寺と呼ばれていたが、明治維新後廃寺になり、堂だけが残っていた。伝えられるところでは、元は遠敷郡天徳寺の末寺であったが、余り距離が離れ過ぎているため、田井の竜安寺に預けられ、この末寺になっていた。しかし、それでもまだ不便なため、竜沢寺に預けられて、その末寺となった。以後は竜沢寺から鑑寺が派遣されて勤行が続けられた。
 常神では、かねてから延命地蔵菩薩の霊験を信仰する人たちが、既に廃寺になっている宗徳寺の跡に、延命地蔵菩薩を本尊としてまつっている遠敷郡国富村の熊野にある東陽寺を移すことを願って、その移転許可を宗務庁(曹洞宗)に願い出ていた。昭和十五年三月三十一日にその許可が下り、また、これまでの竜沢寺の檀家であった四十二戸の人たちも、離檀(寺と檀家の関係を絶つこと)金を竜沢寺に納めて、円満離檀した。そこで寺の名前を、天満山東陽寺と名付け、その法地開山として、竜沢寺第三十一世海順(天満山東陽寺第二世教順の師)を申請した。昭和十六年三月三十一日に、法地に昇格し、完全に独立した。なお、これ以後は、熊野東陽寺であった小浜伏原の発心寺の末寺となった。


『国富郷土誌』
東陽寺
当寺は熊野に所在し、山号は谷照山といい、曹洞宗発心寺末の寺である。
「永正十五戊寅年 禅宗末葉晴天和尚が開山となる。今より百五十八年前なり」と、延宝三年の『若狭管内社寺由緒記』にある。昭和十一年ころ、寺名を敦賀市常神に移し、現在境内地を残すのみで、檀徒は、現在同区内の天養寺に移籍されている。


ソテツ
東家のソテツは高さ6m、周囲5mの古木で、国天然記念物となっている。

集落の先の方、路地をクネクネと行く。案内板がある。
国指定天然記念物
常神のソテツ
指定 大正十三年十二月九日
 この大蘇鉄は、雌株で根元から樹高四・五~六・五mの支幹五本と樹高一・五~三mの支幹三本の八本が株分かれし、その全幹の周囲は五・二mを計測します。
 樹齢は千年以上と思われますが、日本海側での北限といわれるこの大蘇鉄は、植栽されたものか、自生したものか定かではありません。
文化庁 福井県教育委員会 三方町教育委員会


『若狭町の文化財』
【常神のソテツ】【国指定】
 常神は、若狭湾に突き出た常神半島の先端にある。この地には、対馬暖流の影響で暖地性の植物が多い。ソテツは集落内の個人宅の庭にある。根元から樹高四・五~六・五メートルの支幹五本と樹高一・五~三メートルの支幹三本に分かれ、全幹の周囲は五・二メートルである。樹齢はおよそ一三〇〇年と推測されている。日本では、九州南部~南西諸島の海岸部に分布するが、日本海の風雪にあいながら、このように大きく、古いものは珍しい。
平成八年に土の入れ換えや手入れを行った結果、樹勢が回復している。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


常神の主な歴史記録


『三方町史』
常神
この集落は、若狭湾に突き出た常神半島の先端に在って、神功皇后が熊襲征伐のとき「皇后は角鹿津(敦賀)より御船を出し、三方の海上より長門へ渡り給えるならむ」と伴信友「神社私考」にあり、三方の海とは常神の海のことで、遠い昔から海上交通の重要な拠点であったことを物語っている。舒明天皇二年(六二九)に御神島に神がおくだりになって勅使も見え神殿も造られ(五編三章常神社参照)たという伝承がある。
 竹原弥四郎の屋敷で井戸を掘ったとき、弥生式磨製石斧が発見(昭・二十二、三年ころ)され、常神社の境内を広げたときには弥生式土器が出土している。常神での旧家は、西本左近兵衛・東六左衛門・小西市右衛門らである。西本左近兵衛は土佐守といい、ここへ来だのは千三百年程前であると言われている。この地が最も栄えたころは百戸程もあったと伝えられているが、表275で示すとおり、文化四年以降の戸数や人口には余り変動は見られない。
 慶長七年にこの集落で持っていた船や網は、表52で示したとおりである。漁場としては若狭湾内で一、二を争う程の恵まれた地で、神社の棟札の中の大網組の寄付札によって四、五百年前から大網が行われていたことが明らかである。ただ半島の先端にあるため交通の便が惡く。発動機船の無かった昔は、天候の良い時は漁獲物を早瀬や、小浜の市場まで船で運んだ。ところが、海が荒れると「ダチンモチ」と呼ばれる人夫が二十キログラム以上の魚を背負って、半島の山の尾根を伝って海抜四百メートル近い梅丈岳を越え、十二キロメートルの山路を早瀬の市場まで運んだ。発動機船が巡行して小浜や舞鶴などから買いつけに来るようになったのは明治末期以降である。このため、この地は陸の孤島と言われ、三方方面へ出るには二十数キロメートルの山道を越えなければならなかった。大正十三年三月、塩坂越ずい道が完成し、それにつれて沿岸道路も次第に開通して幾分便利になったが、依然として陸路は不便で、船便は唯一の交通機関であった。
 郵便物は、最初は早瀬局から山路を配達夫により届けられた。しかし、雪が積ると1ヵ月も不配の状態が続いた。昭和三年に田井郵便局から配達されるようになり、沿岸道路も自転車が通行できるように整備され大変便利になった。電話が通じるようになったのは昭和二十年に防空監視所特設電話を払い下げられたのが最初であった。
 県道三方-常神線が改修され、昭和四十四年五月十七日からバスが運行されるようになり、陸の孤島が解消し、電話も昭和四十五年には全戸が加入した。昭和五十八年には全国的にも数の少い「地下ダム」が完成し、全戸に豊富に水を供給している。現在は海岸道路が完成し、民宿は軒を連ね、四季を通じて観光客の往来もはげしく、過去の寒村としての面影は見られない。
 山林はもと共有であったが、現在は全戸(四十二戸)に平等に分けられ個人所有となっている。区有林、共有林はアゴノハナ・ヌノ浜だけである。
 寛和二年(九八六)に、阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来の三坐像(何れも福井県指定文化財)と、四天王像を安置したという薬師堂が常神社の境内にある(第五編第四章参照)。天文二十年(一五五一)、天正三年(一五七五)、寛政四年(一七九二)に改築(何れも楝札)、昭和四十七年四月二十三日には、現在の堂が改築落成した。

常神の伝説

『越前若狭の伝説』
常(つね)神社     (常神)
神功皇后が熊襲(くまそ)征伐に行かれるとき、敦賀から出帆し、早瀬湾を通過して、御神(おんかみ)島に泊って風波をしのいだ。このとき長い間海か荒れたので、航海の無事を祈るため、御自身の守護神を御神島の常宮に祭った。
戦いに勝って帰られた後、毎年の祭礼には敦賀がら参拝されたが、数百年後早瀬湾で祭礼船が風波のため難破し、多くの人が死んだので、敦賀に遥(よう)拝所を設け、遠方の常神まで参拝するのはやめた。そのため今では、敦賀の常宮か県社となり、本社である常神の社は村社になってしまった。   (西田村誌)

昔は敦賀郡常宮(じょうぐう)から神主が来て祭事をした。故に常宮浦からこの地までの海上を管絃の渡と称する。また神主は御神島に来て盛服に着かえたので、浦の人は小袖(こそで)島といっている。   (若狭田志)

常神社の境内に黄金が埋めてあり、その場所は「朝日さす入日輝くその浦に黄金千枚朱千枚」といわれていた。数十年前の不況のとき、村じゅう総出で掘ったが、梵字を書いたつぼか出ただけであった。     (西田村誌)

まどろ小だい  (常神)
常神浦から高浜の浦にかけて、六月ごろ小だいが集りただよう。漁師はこれをうかがいとる。この時期のたいに限り「まどろ小だい」という。   (神社私考)

仲哀天皇は、熊襲(くまそ)を討つため徳勒津(ところつ、和歌山県)を出発された。そのとき皇后は角鹿(つぬが、敦賀)におられた。天皇は皇后に使いを出して、角鹿をたって、穴門(あなと、山口県下関)で出あうようにいわれた。
夏六月、皇后は角鹿を出発し、淳田(ぬた)の門(と)に至り、船の上で食事をされた。そのときたい(鯛)かたくさん船のそばに集って来た。皇后か酒をたいにそそぐと、たいは酔って浮かんだ。海人(あま)たちはその魚をとって、聖王のたまわった魚であると喜んだ。その故にそこの魚は、六月になると浮き上がって、酔っているようである。    (日本書紀)

   註
淳田(ぬた)の門(と)は、一般には安芸(あき)国「広島県」沼田郡沼田としているが、わたしは若狭国三方郡常神浦であると思う。敦賀から長門(山口県)まで陸路で行くと考えるのは誤りである。「角鹿を発して淳田の門に至る。」という文勢がら考え、角鹿の近くであろう。(稚狭考)
 思うに「まどろ」とは「まどろむ」で、目がトロトロとなることである。「書記」に、「皇后がたいに酒をそそぐと、たいは酔って浮き上った。それ故今もそこの魚は六月になると、浮き上がって酔うているようである。」とあるのは、このことである。(神社私考)

今はまどろ小だいと呼ぶ人はいないが、明治時代にはまだ、小浜・西津の魚売りの女はこの名で呼んでいた。   (小畑昭八郎)




常神の小字一覧


『三方町史』
常神
島津町(しまず) 東間(とうけん) 鎌浜(かまはま) 菴平(あんじゃら) 大久保(おくぼ) 金市(かなち) 西ノ平(にしんじゃら) 下之山(しもんにやま) 大将軍(だいしょうぐん) 深山(みやま) 宮山(みやま) 神子路(みこじ) 右門平(じゃら) 古井(ふり) 小渡(おど) 千浦谷(ちうらだに) 植木谷(うえきだに) 又の浜(まとのはま) 御神島(おんがみじま)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『三方町史』
その他たくさん



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