丹後の地名 若狭版

若狭

堤(つつみ)
福井県三方上中郡若狭町堤


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福井県三方上中郡若狭町堤

福井県遠敷郡上中町堤

堤の概要




《堤の概要》
「若狭テクノバレー」がある所。
「若狭郡県志」には「堤村元裟婆賀村之小村也、中世裟婆賀村之土人悉移于茲」とある。舞鶴にも佐波賀(さばか)という所があるが、何か関係があるのだろうか。
今は国道筋からは離れているが、丹後街道が通る。近世初期までは中村・堤・裟婆賀(さばか)の3集落があったと伝え、天保郷帳には裟婆賀村と出る。
中世の津々見保。鎌倉期~室町期に見える保名。文永2年(1265)11月日付の若狭国惣田数帳案に「津々見保」38町6反358歩と初見する。建久7年(1196)頃若狭国守護となった若狭忠季が、当初「津々見右衛門次郎」と名乗っていたことから、地名は鎌倉初期から存在したことが知られる。若狭氏はこの地を最初の本拠としたものと思われ、若狭国における幕府の最初の拠点といえる。惣田数帳案の元亨年間の朱注によって忠季の子忠時が当国守護職その他を没収された安貞2年(1228)頃以降は、地頭職が若狭氏から伊賀光宗に移ったこと、および領主に関しては「関東一円に御領」とあって幕府支配下におかれていたことがわかる。南北朝期~室町期には東岩蔵寺領となる。貞和2年(1346)7月4日に橘知基が「東岩蔵寺領若狭国津々見保」の所務職請負のために提出した請文に、「為将軍家厳重御祈祷料所、御寄附当寺之上者」とあることから、幕府によって祈祷料所として東岩蔵寺へ寄進されたと見られる。また代官得分として本田4町6畝24歩、新田1反3畝10歩、畠4反9畝があった。室町期の史料からは東岩蔵寺への年貢輸送路と、その途中での関について知ることができる。すなわち津々見保からの運送年貢300石に対し、応永17年と永享10年に山門領近江坂本7か所関で煩いをなすこと、永享10年に近江大杉関で違乱すること、嘉吉3年には坂本7か所・山中・船木など山門領関で妨げをなすことについて幕府過所などはそれぞれ煩いなく勘過させるべきことを命じている。その他文安6年(1449)の東寺修造料足に奉加した寺院のうちに「遠敷郡津々見保小野寺」が見える。地内箱ケ岳山頂には内藤佐渡守の拠ったという箱ケ岳城跡がある。また向山塗塁跡が向山山頂にある。
近世の堤村は江戸期~明治22年の村。裟婆賀(さばか)村ともいう。小浜藩領。天保7年の大飢饉のあと、小浜藩命により当村に社倉が置かれた。字登り縦に小浜藩の社倉跡がある。天保末年には米倉庫3、籾倉庫1があったと伝える。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年野木村の大字となる。
近代の堤は、明治22年~現在の大字名。はじめ野木村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北4町余、戸数68、人口は男211.女197、学校1。


《堤の人口・世帯数》 265・70


《堤の主な社寺など》

向山銅鐸出土地

「いねやまはし」↑ 下の川は鳥羽川。右側の山が向山。このあたりから銅鐸が出土したという。正面の谷は「若狭テクノバレー」と呼ばれ工業団地や、堤や杉山の集落がある。左の高い山は箱ケ岳。
向山には向山1号墳という注目の前方後円墳がある。その山稜の斜面から明治33年銅鐸が発見され、現在は東京国立博物館に所蔵されている。
銅鐸の写真が見当たらない。6区袈裟襷紋 外縁付菱環鈕2式 406㎜という。弥生中期のものか。
『上中町郷土誌』
野木向山遺跡と銅鐸
向山は遠敷郡上中町旧野木村堤にある、堤区の東方に連続せる丘陵の西南端の称で鳥羽谷川がその東南麓を流れ井根山橋がある丹後道はこの橋を渡って西麓を過ぎ西に向かっている。遺跡は丹後道の稍北にあって小森氏居宅の前面約十間の処に相当する。
 銅鐸は明治三十三年北川堤防修築の材料たる赭土採取の際に発見されたものであって、発見当時の状況を詳にすることはできないが、麓より四五間の高さの土砂が墜落した時その土砂中に横たわって居たものといわれる、岳陵の山麓に発見された点は横江村のものと状態を等しくすることは注意すべきである。
 銅鐸の総高一尺三寸五分、胴部の高さ一尺二寸、胴部の長径裾部六寸八分、肩部四寸八分、胴部の短径底部四寸九分、肩部三分五厘で、鰭は三分乃至四分の幅がある、鈕部の高さ三寸二分、鈕穴は割合に大きく縦横各一寸八分ある。裏表共に袈裟襷紋があり、裕に近く鋸歯帯がある、鰭および鈕の縁辺も亦鋸歯紋をめぐらしている。
 中道松之助氏の寄贈により東京帝室博物館現在の国立博物館に陳列されている。續日本紀に『承和九年六月辛末八日若狭国進二銅器一其休頗似レ鐘是自二地中一所レ掘也」とある。若狭何郡何村か判然しないが然しこれが銅鐸であることはその形体似鐘でほぼ想像することができる然らば若狭に二個出土した事となる。この旧野木村堤出土の銅鐸は実物としては単に一個に過ぎないが銅鐸中古式のものに属している点は若狭の青銅時代に於ける唯一の資料として貴重である。(上田三平氏の文による)
 附記 明治年代に我が上中町堤区向山から銅鐸が出土したことはまことに意義深きものがある。銅鐸については製作使用の民族明かならず学者定説なし。古来凡そ近畿地方に限って発見せられ特殊の意匠形式を有する金属器である。越前にありては坂井郡大石村に大小二個出土し今立郡新横江村三里山西方山麓に一個発見せられた。銅鐸は古代日本の金属器の内尤も不思議なものといわれ祭器とも見られているがはっきりしない。
 一、二世紀頃に大陸から鉄器や青銅器が輸入され、じょうもん土器に代わってなめらかな曲線美のやよい土器も作れるようになって文化のあけぼのが訪れる。銅鐸は中国の楽器からヒントを得て日本人が創作した尤初めの金属工芸の遺品で、近畿地方を中心に分布していたが豪族たちが政治的宗教的権力の象徴として使ったものであるといわれる。



滝山不動の滝

案内板がハゲてまったく読めない、たぶんここだろうが、先にフェンスがあって閉じられているよう。

波古神社(式内社)


箱大明神(蜂ケ岳宮)ては祭日の8月朔日に申楽が奉納された。近代に入り波古神社は指定村社、由緒は「勧請天平年中社格式内其他不詳」とある。境内社に八幡宮・天満宮・田中神社・広峰神社があり、大正3年無格社神明宮(境内社に山神社)・大将宮を合併した。
案内板がある。
式内 村社 波古神社
上中町堤第十八号森脇十六番地
一、祭神
本殿
神明宮 天照大御神
大将宮 伊奘冊ノ尊
社主宮 波邇夜須毘古ノ命
境内神社
祇園社(広峯神社)牛頭天王(須佐之男命)
天満宮 菅原道真公
奥ノ院 波邇夜須毘売ノ神
田中権現社 六所大明神
山神社 大山津見ノ神
不動宮 不動明王尊
一、由緒沿革
・創立は西暦七二九-七四九(天平年間)と言われている。
・明治元年六月祭神が波邇夜須毘古ノ命である事から従三位の箱神社から波古神社に改称される。
・大正四年一月十六日付け福井県告示第六号により式内村社になる。
・延宝三年(一六七五)の由緒書に口伝えとして「伊屋の谷の峯より夜、光が指していた。この光は一つの箱の中より指していたので、これを御神霊の御降臨給いしとして、この山を箱ヶ嶽と名付け社を里人の鎮守(箱明神社)として山麓にたて奉った。
・社殿が完成の時、周囲の茂った樹木が一夜のうちに生じたので、「一夜の森と称する」とある。
・境内の敷地は椿の木が多い事から椿の森とも言われている。
・波邇夜須毘古ノ神は山野田園の土壌を司る神とされ。
一、祭日
例祭 四月第一日曜日
祇園祭 七月下旬
大将宮祭 七月二十四日
不動宮祭 七月二十八日
山神宮祭 一月九日


『遠敷郡誌』
波古神社 指定村社にして同村堤字森脇にあり、天平年間勧請と傳ふれども祭神不詳なり、元箱明神と称し国帳に従三位筥明神とあり、境内神社に八幡宮、天満宮、田中神社、廣峰神社あり、共に祭神不詳なり、神明宮祭神天照皇大神は字上中道より境内神社山神社祭神不詳と共に大正三年合併、大将宮祭神伊奘冊尊は字将宮より右同年合併、神名帳考證に埴安比古命、舊事紀云、埴安彦、埴安姫大和国波比賣神社、按波古埴安比古之略語乎、寳篋峯寳権現、伊豆国伊古奈比咩命神社とあり。

『上中町郷土誌』
波古神社 堤字森脇鎮座
社寺由緒記に
一、箱大明神 御鎮座の時代相知れ不レ申候往昔当村伊屋の谷の峰より夜々光指申故不思議に存去る山伏を頼み彼嶺へ登せ見申候へば一つの箱有り其内より光指し金色の尊像一体彼レ成二御座一候、しかる上は当所の鎮守とあがめ来り何方に成とも御鎮座の地御示次第に御社建立可レ仕と祈誓仕り候へ者則一夜の内に森出来候。依之若狭国一夜の森と他国迄申伝候 御供田二反六畝ニト六歩御□□□□へ共浅野様御検地に御年貢被二仰付一候
   禰宜 久五郎  以上
大日本地誌大系
若狭郡県誌に
一、箱明神社
一、在二上中郡堤村一未詳所レ祭神伝言神霊現二斯村之山一之時神躰在二箱中一故其山名二箱嶽一然建二社於山下一祭レ之称二箱明神社一矣既成之時社頭周廻茂樹一夜中生因名曰二一夜ノ杜一笑按延喜式所レ謂若狭国遠敷郡波古神社者乎八月朔日祭日而有二神事能一とある
                     以上
稚狭考に
一、延喜式  若狭国 四十二座(大三座 小三十九座)
       遠敷郡 十六座(大二座 小十四座)
右の中に波古神社あり、波古はつつみ村なるべし、其の村に箱ヶ嶽あり、京極家の頃まではこの村を娑婆賀と云へり  以上
伴信友神社私考五に
一、従三位 筥明神、右式内    以上
遠敷郡誌に
一、波古神社 堤字森脇にあり天平年間勧請 神明帳考証に埴安比古命 旧事紀云埴安彦埴安姫大和国波比売神社 按波古埴安古之略語乎宝筐峯宝権現、伊豆国伊古奈比咩命神社とあり。
稚狭考に
散楽祭礼 八月朔日 箱大明神堤
野木村誌に
一、野木地区唯一の式内神社である、古書散に見する所と口碑とは同じく古へ神霊箱中に在って山上に降り給ふ、故に箱ヶ嶽と呼び後社殿を麓に建て箱明神と称へた。随って祭神は明らかでない、神の坐す杜を一夜の杜という。これは初めて社殿を造る時一夜のうちに杜ができたからだという、埴安比古命は諾冊二神の御子で波通夜須比古とも書く波古はその略である。
一、合祀
一、神明宮 上中道にあって天照大神を祀った無格社で域内二百六十五坪
一、山神社はその末社であった。
一、大将宮は字大将宮に在って無格社で伊弉尊を祀り、境内百三十三坪あった。
一、境内神社 天満宮、田中神社、祇園社、山神社がある。
一、田中権現は字小森に在った今も社地の一部が存していると伝へている。
一、祇園社は普通牛頭天王素盞嗚命と八王子の宮-天照大神の五男三女。と少将。井ノ宮、稲田姫とを合祀した通袮である。
一、境内 一千二百二十六坪、樹木鬱蒼として目通り一丈五、六尺も廻る老樹が数本もあって式内神社の荘厳さを保っている。



曹洞宗嶺谷山桂雲寺

集落の裏の高い所にある。
『遠敷郡誌』
桂雲寺 曹洞宗にして元清月寺末本尊は観世音なり、同村堤字北谷に在り、境内佛堂に觀昔堂あり。

『上中町郷土誌』
堤村 桂雲寺
社寺由緒記に
禅宗嶺谷山桂運寺 杉山村清月寺末 由緒不二相知一略之
   堤村庄屋   九太夫
この報告に桂運寺とあるは雲と運との書き誤りであろう。
遠敷郡誌に
桂雲寺曹洞宗にして元清月寺末本尊は観世音なり。同村堤字北谷に在り境内仏堂に観音堂あり、因みに開基は内藤佐渡守三代咩勝信の子玉女で法号は花屋周慶大姉である。
野木村誌によれば
(本尊)華厳釈迦如来
(由緒)大字堤に在り。嶺谷山と号す約三百年以前の建立にして創立開山は寛永三年八月五日示寂 もと桂雲庵と呼んだが寛文元年に桂雲寺と改めた。清月寺第五世徳応快堯和尚の時にこの門葉となった。
(半鐘)半鐘は天明八戍申年八月造った。
(経塚)碑面に「奉石書大乗妙典塔」側面に「寛政三竜舎辛亥三月桂雲現住単山造之」とある。
(観音堂)元は波古神社附近に在ったものを移したその移転の年月は不明 この観音祭は一名ぼた餅祭ともいう。踊り祭の夜は各家々よりぼた餅をつくりて師り子達に振舞う旧習があるからである。
(経堂)経堂あり。
(寺地)滋賀県管下当時の寺院明細帳に当寺の所有畑地四畝歩山林三反十歩記載あり。



箱ケ岳城跡
堤と西方の武生の境をなす標高402メートルの箱ヶ岳山頂にある中世後期の山城。箱ヶ岳は小浜・上中平野のほぼ中心に位置し、軍事的要衝であった。若狭の諸城のうち最も高所にあり、山頂からは上中町一円はもとより北川流域のほとんどが見渡せ、遠く小浜湾まで望むことができる。城郭は南側山頂先端部から平坦な尾根伝いに北側へ3区画に分離して構築され、中心の最高所に主郭を配する。総延長370メートル、最大幅25メートル、比高は37メートル内外。この山は東・西・南いずれもが切立った斜面で、天然の要害。城主は守護武田氏の重臣内藤氏、代々五郎左衛門を称し、佐渡守を名乗った。「若狭郡県志」に「上中郡堤村有二城趾一、相伝内藤佐渡守之所レ拠也、武田信賢之士而有二武名一、自レ尓至子孫三代相続拠レ之、以二永禄年中一没落スト矣、所レ領玉置、加福禄、堤、杉山、兼田、虫生等也、滅一鳥羽孫左衛門一其領内亦併レ之云」とみえる。初代城主とされる国高は武田国信・元信・元光の三代に仕え、武田被官人中屈指の武将であり、また文化人であった。長享2年(1488)12月を初出とし、武田氏被官粟屋左京亮賢行とともに奉行人として数多くの文書を発給している。国高が若狭の中枢部で大きな勢力をもっていたらしいことは、武田元信が禁裏御料所に対して段銭を賦課した時、三条西実隆や御料所代官島田信直らが国高を介して善後策を講じていることからもうかがえ、若狭の守護代的権力をもっていたのではないかと推測される。軍事面でも内藤党として粟屋党と並ぶ戦闘集団であったことは、大永7年(1527)2月の両細川(晴元・高国)の京都桂川合戦に高国方にくみして一族ともども出陣し討死していることからも知れる。当城跡の東側山裾には内藤氏館跡があり、古館・新館の地名が残る。最後の城主は永禄12年(1569)5月26日熊川入りをした連歌師里村紹巴を迎え、、28日には城内で連歌を興行した。以後織田信長に与力し,天正10年丹羽長秀の軍勢催促に「内藤佐渡守」とある。城は天正12年破却か。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


堤の主な歴史記録


『上中町郷土誌』

〔津々見保〕 若狭国総田数帳によれば津々見保は三十八町六反三百五十八歩で関東御一円御領で、地頭伊賀式部二郎左衛門尉の跡である。
京都東岩蔵寺の古文書によれば津々見保はこの東岩蔵寺領であった。(将軍家祈羇御寄附)
〔娑婆賀〕 堤より杉山に通ずる路傍に畑地の広く連れる地がある。この辺に京極氏当国所領の頃までは裟婆賀という一部落があったが、其の後南方の現在地に移って堤と袮するようになった。娑婆賀はサワカとも読む。当時は中村、堤、娑婆賀の三小部落あって中村は杉山に移り、堤を裟婆賀は今の堤の地にと二部落に分離し、その時堤は六分、杉山は四分の割で共有山を分配したのであった。
又堤の字「登り縱」には社倉の屋敷跡がある。小浜藩主七代酒井忠用の時すでに堤に設けられていたが後天保七年の飢饉に鑑みて更に米倉庫三、籾倉庫一に増設された。
(滝山不動) 箱ケ岳に男滝女滝あり、不動尊を祀る、天狗が棲んでいて時折笛や囃子音のが聞え其他不思議が多かったという伝説もあり、字「登り縦」には今も尚畏れて不敬をしないという霊地も残っている。
内藤佐渡守の墓、箱ケ岳の東麓波古神社に近き字宮脇谷年古りたるタモの大樹に蔽われ小闇きところにあり。俗にサドンサンと呼んでいるのは佐渡殿様の義であろうと思わる。墓は舘状の石蓋の中に三個の五輪塔を収め、古色蒼然として棟の長さ二尺下部三面を囲む側壁の高さ一尺八寸、巾一尺四寸ある。その他に宝筐印塔数基もある。
銅鐸。向山より発見せられた銅鐸については本論編に詳述したから、ここでは省略する。現物は堤中道治右エ門家より東京帝室博物館へ寄贈し同館に陳列されている。
寺小屋教育。堤の桂雲寺にて加福六と共に当寺の寺川全翁氏が専ら習字の師匠として両部落の男の児童五十五名の指導に当っていた。


『上中町郷土誌』
箱ヶ岳城址
 岳ヶ岳は武田氏若狭守護たりし時内藤佐渡の拠りし所にして山嶺に城址あり。箱ヶ岳は南北に亘れる山脈中の一峰にして頂より東は昔の娑婆賀の地、西は大字武生を見下すべし。山頂本丸に相当すべき城台は南北十八間東西最幅最も広き所十二間あり、城台より北は急に低下し斜間八間にして堀割あり、こ両堀割の間水平距離十間にして堀割あり。これ等堀割は深さ各二尺内外なれども城の当時は深くして北より寄する敵を防がんため峰を横に切りて設けしものなり。頂の東西両面は急峻にして攀じがたき所なれば防備を施す必要なかりしなるべく何等その趾を認めず、本丸に相当すべき城台より南に稍低き平坦地あり、二の丸に相当すべき所にして、南北二十問東西十間余にして更に南すれば数個の石の散在するを見る。石の配置は自然のものにあらざれども幅狭く建造物の余地なし、城台には礎石一も見当らず雑木生茂れり。
(大手搦手)堤より城址に登る路二あり、一は堤分教場傍より一は桂雪寺傍よりす前者は大手にして後者は搦手なり木手道は急峻なれば葛折をなし、山麓には城主家臣の常住地あり。若狭郡誌に「同村堤村に内藤屋敷あり松尾豊後宅又此村にあり」と載せたり。大手道の中程山腹の稍小高き所に七段を形成せる平地あり、最も広き所六十尺に三十尺の楕円なり。搦手中腹に長さ八間幅三間の平地ありて峯の方は急に高し、更に峯に近く箱神社跡の側より頂に至る路と交叉して横に堀割あり、この堀割は頂に在るものより特に深し、普通滝山と称する所あり山頂に通ずる道及び大字兼田より通ぜる道は間道たるべし。
(伝説)箱ヶ岳の頂から南へ降りると切立てた凹所がある。城のあった時は此所に橋でも架けて交通し事ある時は橋を徹したであろう。これより分教場脇へ出て杉山道につく一町ばかり手前に四五十年前迄水の涸れたる濠があった。この濠は周囲の畠地よりも高く堤防の高さは三尺位長さ十間幅三間位の長方形であった。大手通は分教場脇よりし搦手は桂雲寺脇よりした武生埋葬地の側より箱ヶ岳に登る路は間道であった。
(用水)山城築造に当って用水の需用は腐心せし所にして、堤武生両方面に谷水湧出する所ある故ここにて需用を充せしたるべし。
(城主)内藤佐渡守は後瀬山に居を構えし当国領主武田氏に属せり武田氏の麾下にて内藤姓を称するもの大飯郡にては山中村を領せりと云う。久右衛門神野村を領せりと云う。豊後守遠敷郡にては国富村大字丸山の兵庫遠敷村大字遠敷の下総守西津村大字西津の筑前守等あり、しかれども佐渡守と如何なる関係あるや詳かならず、武田氏は家臣の知行を各地方に分ちて与えしかば家臣は各領地を有し妻子と共に住し時々後瀬山に出仕する定なりしが、応仁の乱後国内大いに乱れ草賊徘徊し小身の武士は時々不慮の害に会うととありしかば、各々領地に築城することを許され、武田第七代信豊の時に至りて若狭の国内に三十余力所を数うるに至れり。箱ヶ岳城もかかる際に築城せられしものなり。
(初代城主)城主は代々佐渡守と称し先祖を行勝という、清月宗簾居士を初代城主と思う人あれどもこれ誤りなるべし。
(清月宗簾)郡県誌内藤佐渡守墓の条「在二上中郡堤村箱ヶ岳城主内藤佐渡守三子一而号二佐渡守一則同処之城主也大永七年二月卒葬二干茲一法号謂二清月宗簾一とあり。これ清月宗簾は初代城主非ずという所以にして国志に「前渡州太守清月宗簾大永七年丁亥五月十五日」と位牌に記せりとあれどもこれ等写の誤りにて二月なるべく、古文書にも二月清月寺過去帖は後世の記入なれども、二月十三日と記載しあれば二月十三日卒を正しとすべく第二代城主なり。当時京都にて将軍義植、細川澄元と力を協せ、細川高国と戦い敗れて京都を逃る、高国のち京都に将軍なきを以て義晴を迎う大永五年高国剃髪して道永と号す。部下に波多野備前守香西四郎左衛門、柳本弾正という三人の兄弟ありしが、大永六年道永讒を信じて香西四郎左衛門を殺せり是に於て兄の波多野備前守弟柳本弾正恨みを抱き各々家城に拠る。道永のち兵を遣して柳本の居城丹波国神尾寺を攻めしが却って破らる、道永これを無念に思い請国に徼して救を得んと策せる隙に柳本等阿波の三好元長細川澄賢と相応じ共に京師に迫り山崎にて相会し、大永七年二月十二日桂川の西に陣す、翌十三日義晴は六条に動座し道永先陣とLて東寺まで打出で其の他の諸勢は鳥羽トウの森に陣し寄手を侍つ。時に若狭領主第六代武田伊豆守元光は京軍に属し、西七条に陣すその勢二千宮川村新保城主粟屋右京亮元隆も亦その列に在り、柳本等の先陣三好左衛門督仝神五郎桂川を渉らんとするを遮り戦いしが敗られ、三好等忽ち河を渉り戦い武田勢大いに破れ戦死するもの多し、この時内藤佐渡守七十三才にしてその子及び同名新九郎と共に打死せり、これ言継卿記に載する所なり言継卿記は大納言山科言継大永七年正月より天正四年十二月に至るまで前後五十余年間見聞の日記なり。即ち言継卿記大永七年二月の条下に十二日庚申天晴陣在之由候間早々罷出候細川左馬頭上野玄蕃入道其他二千人計出候見物仕候て罷帰候軈而朝飯以後罷出候細川左京太夫入道罷仕候一万計にて在候見事なり其後武田内粟屋罷在候粟屋右京助同掃部助同周防守五百人計在候其次武田大膳太夫在候千五百人計何れも見事共也武田衆一様出在而面白具足共□事不レ過レ之下略十三日辛酉天晴上略 今日早々敵より勝浦の河をこし事外合戦ありと云々朝飯の時分でおい上候云々 見物に罷出候遅候間一両人見候武田衆との合戦と云々 若州之輩百余人うたれ候由申候。ておい数不知候粟屋周防守同掃部同薩摩守其外粟屋名字の者九人中村修理内藤佐渡守父子同名新九郎くまがへ監物以上四十六人打死と云々 此内大野孫七(十三才)敵のくび二取後に打死と云々 合戦様先代未聞見事と云々今日中に五度鑓ありと云々これを柱川合戦と称す、後鑑に随えば翌月十三日の月忌始には戦跡所々に施餓鬼あり。若州より男女上洛して跡を弔い討死せる者の旧妻は嘆き悲しみ数名尼となれり、言継卿記と誌とは死亡の月日を同じうする故第二城主は京都にて討死し、清月宗簾居士と謚し子と共に京都にて葬りしなるべく誌に堤に葬れりとせるは先祖行勝のことにあらざるか。清月宗簾は松山に寺を建て嶺松山清月寺と称す。俗名を知ること能ず嶺松院殿と号す。
(天翁宗禅)清月宗簾に少くとも二子ありしなるべく、一子は京都にて討死し一子襲ぎて第三の城主となれり。これを天翁宗禅居士という、誌に天翁宗禅墓の条に「宗簾子箱ヶ岳城主第三世而号二内藤佐渡守一」とあり、卒去の時を誌には永禄元年五月卒、志には永禄九年丙寅二月二十三日清月寺過去帳には永禄九年五月五日、若狭郡県誌には永禄九丙寅五月等区々なれ共永禄九年九月に歿せしなるべし。
(奇峰秀童)天翁宗禅の弟にして、誌には右衛門志内藤氏墓の条に左衛門若狭郡県誌に左金吾とせり。
永禄九年三月十三日卒せり、誌には城主の列に加えたれ共城主はすべて佐渡守と称せり。
(城主の世代)古文書に三代続志箱ヶ岳の条に「佐渡守内藤氏三世居レ此」誌佐渡守内藤某の項に「子孫三世而滅」誌箱ヶ岳城址の条に「内藤佐渡守所レ拠也武田信賢麾下之士而有二武名一自爾至二子孫一三代相統拠レ之」とありて、城主は三代なるか或は四代なるか不明なれども、第四代永禄の末に滅びしなるべく、古文書に内藤佐渡守の名を載せたる尤古きものは、永正十七年にして、それより大永七年亨禄の四年天文の二十三年弘治の三年永禄十二年を経て元亀に至る。永正十七年より永禄年間に至る迄約五十年間在職せしこと明かなり。武田信賢は文明三年に歿せしものなればこれより永禄の永年まで少くも百年間は堤地方を知行せしなるべし。
(家老)新田式部、宮川新左衛門、松尾豊後
(所領)玉置、虫生、兼田、加福六、堤、杉山を領し三方郡にも所領ありき。誌には三方郡日向、丹生、竹波、八村古文書には日向村丹生村竹波村若狭郡記及誌新田式部の知行所に敦賀浜丹生浦とせるあり。三方郡内の所領に堡を築く必要ありしならん、されど丹生浦竹波に堡址あるを聞かず、菅浜に堡址二つあれども佐渡守の拠りしことを記さず。永正年間の古文書によれば丹生浦竹波を知行せしなるべし高約三予石。
(古文書)  箱ヶ岳城    元亀二年覚書
一、山城主三代統    家老  新田式部
  内藤佐渡守         宮川新右衛門
   三代共佐渡と号す。  松尾豊後。
屋敷一ヵ所今畑に成る知行所阿賀里村杉山村堤村加福六村玉置村三方郡の内日向村丹生村竹波村高三千石と云今高三千六百二十五石三斗七升一合。
(大鳥羽城主との戦)鳥羽右兵衛尉鳥羽庄即ち大鳥羽黒田三田小原山内長江持田の七ヵ村を領し誌によれば、その裔大鳥羽霧ケ峯に築きて拠れり、三方郡大字岩屋にも領地ありて、堡を築き三千石を領せり、左衛門の時内藤佐渡守と瓜生村下吉田に戦いて破られ鳥羽家滅ぶ、佐渡守大鳥羽城主の所領を併せ持田に堡を築けり。
(持田堡)守将は佐渡守の家老新田式部である堡址は城尾山にある式部は鳥羽庄及び三方郡領を支配した。若狭郡県志には「或は新田左衛門とも云う」と記してある。

箱ケ岳城に係る伝説
 箱ヶ岳を改めた敵は瓜生村から押寄せたり箱ケ岳籠城の際食塩が欠亡したので、城内から矢文で「食塩を供給した者には年貢を赦免する」ということを通じたので、安賀里岡木源助の祖先が危険を冒して間道から食塩を送った。この矢文は質の良い紙片であったが今は所在が分からない。源助は安賀里城主安賀高賢家臣の家筋である、籠城の時長江の山上を矢文で通信した。包囲された時城内に水が欠亡したので米で馬を洗った。これは遠くから見ると水で洗っているように見えるからだ。織田信長に滅された、三宅村井ノ口松宮佐太失に錫製の鏡が一枚伝わて居る。之は箱ヶ岳城主の一族から大字堤岡本喜右衛門に嫁した人の所有が更に松宮佐太失に嫁した人の手に移ったものである城主は上野国の人だ。
箱ケ岳城の滅亡
 元亀元年四月織田信長朝倉義景を攻めて江州より若狭に入りし時、高浜の逸見駿河守西津の内藤筑前守麻生野の香川右術門太夫、井先の熊谷大膳、藤井の山県下野守、能登野の畑田修理、加茂の白井民部、五十谷の寺井源左衛門等これを出迎えしが佐渡守の名を見ず、信長引上に際し明智光秀丹羽長秀若狭に押寄せ、大飯郡佐分利石山城主武藤上野介その他人質を得て帰りしこと総見記にあり。后鑑について見るに、義昭軍記之元亀元年六月是月若狭国合戦の条に「若狭記云五月信長公ノ命ニ依テ丹羽長秀明智光秀両使到二若州一大飯郡佐分利石山ノ城ヲ取巻キ武藤上野介ヲ攻メ亡サントス武藤要害ヲ能クシ防戦セソトス其郎党村松主人諫メテ曰夕信長公ヲ敵ニシテハ不レ可レ有二勝利一家ヲ継ンニハシカジ従ヒ給ヘト諫メケレド武藤降参シテ其母ヲ人質二出ス是ハ信長公去月若州ニ到来ノ時武藤一人イカガ思ヒケン居城石山ニ籠リテ不レ従ヨッテ今に如レ是ナリ丹羽、明智ハ若州ノ侍共ノ徒不レ従モ悉人質ヲ請取被二上洛一是ヨリ若州織田家ノ支配トナリ長秀領分トナル」とあり。按ずるに織田信長の若狭に入りし以前国内山城主との戦に敗れ滅亡せしものと見るべし。と記してある如く、古文書、即ちカワラ伊予守宗貞覚書によって、已に永禄十二年に滅亡したことが明白となったのである。


堤の伝説





堤の小字一覧


『上中町郷土誌』
堤区小字名(土地台帳による)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『上中町郷土誌』
その他たくさん



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