山内(やまうち)
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福井県三方上中郡若狭町山内 福井県遠敷郡上中町山内 福井県遠敷郡鳥羽村山内 |
山内の概要《山内の概要》 鳥羽谷の中央を流れる北川の支流鳥羽川の東岸に位置する。 中世の山内村は、戦国期に見える村。弘治2年(1556)6月22日付の明通寺鐘鋳勧進算用状に「五十文 鳥羽山内村」と見える。 近世の山内村は、江戸期~明治22年の村。小村に南小原がある。小浜藩領。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治22年鳥羽村の大字となる。 近代の山内は、明治22年~現在の大字名。はじめ鳥羽村、昭和29年からは上中町、平成17年からは若狭町の大字。なお南は正式には昭和29年に山内から独立するが、明治後期から山内第1区(山内)・山内第2区(南)として事実上分かれていた。明治24年の幅員は東西6町余・南北1町余、戸数90、人口は男233 ・ 女242、学校1。昭和29年一部が南となる。 《山内の人口・世帯数》 170・41 《山内の主な社寺など》 山内古墳群 山内古墳群が下タ中境の小山にある 古城神社 『遠敷郡誌』 古城神社 村社にして同村山内字車坂にあり、祭神蛭子神にして大同年間に勧請せりと傳ふ、熊野神社祭神櫛御気野命は大字持田字南ノ上より大正八年合併さる。. 『上中町郷土誌』 古城神社 山内 祭神 蛭子神 由緒 大同年間勧請せしと口伝あり、字古城に鎮座の所明治二十二年十月この地に移す。 社寺由緒記 氏神岩倉大明神縁起小原村より可二書上一由緒不二相知一略之 延宝三年 山内村庄屋 弥右衛門 浄土真宗本願寺派朝日山明応寺 妙覚寺はもと天台宗であったが蓮如上人の当国への来錫により一向宗に改派したという。親鸞の像が迎えてくれる。 『遠敷郡誌』 明応寺 眞宗本願寺派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村山内字森ノ奥に在り、大同元年創立朝日山不動王院と號し、天台宗比叡山に屬したりと傳ふ、村上天皇七年には良寛僧都住職たりしことありと傳ふ、文明七年蓮如此地に来りし時住持遊寛歸依して門徒となり、蓮如の弟子慶聞坊龍玄住職となり今の寺號に改めしと云ふ、境内佛堂に不動明王を安置す、天台宗たりし時代の佛像なりと傳ふ。 『上中町郷土誌』 明応寺 浄土真宗 山内 創建 大同元年九月上旬 当時天台宗 由緒 創建当時は朝日山不動王院と号し天台宗に属せり。後人皇六十二代村上天皇の即位七甲寅年今上第三皇子の御願天台宗六代の末流良寛僧都(山階皇子御息弟也)当時住職となりき文明七年本願寺第八代蓮如上人此地に巡錫の時慈寛法師同師に帰依し改宗して真宗となる。 上人土足弟子慶聞坊龍玄明応寺と号して住職となる。これ本寺の開基なり。 当寺現存の宝物 本尊阿弥陀に如来木像 … (社寺由緒記) … 蓮如上人旧跡 山内明応寺にあり蓮如上人御木像略記によれば文明七年八月下旬の頃蓮如上人越前吉崎の一乱にて小舟に召し若狭の西津に着き給う時に山内の里に大武備前守飛永権之守という者あり日頃上人の高徳を慕い居られけるに八月二十四日の夜夢ともなく気高き老人枕元に立ち給い両人に告げ宜うよう「汝日頃心に慕うところの上人此の度吉崎一乱に付当国西津の浜に漂流し給う急ぎ御召請申すべし吾はこれ此の地の山神なり」と両人大いに喜び打より夢物語りせしに少しも違うことなし御示現にまかせ翌日急ぎ御迎に出でしに夢にたがわず蓮如上人小舟に召して來られ給う両人初めて御拝顔申し喜ぶこと限りなく御示現の赴申し上げ奉れば上人御喜びあらせられ「いざ汝が方へ参るべし」と仰せられ夫れより当寺へ入らせられ御教化ありしという明応心には上人に囚める宝物数多現存す。(村誌) 山内城跡 中世後期、守護武田氏の時代には、その被官粟屋式部之丞が背後の山頂に城を構えていた。2か所あるという。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 山内の主な歴史記録『上中町郷土誌』 山内 山内は鳥羽地区東側の最南端に位し丁タ中に接続す、戸数四十八戸。古城神社は区の南端の山上にあり。この南下タ中地籍に境する山角に古墳存す。なお山上に城跡あり粟屋式部之丞飛永権之守の居城なりといい伝う。 中央山麓に真宗の古刹明応寺あり、境内に行基菩薩の作という不動明王の木像を安置する堂存す、寺は蓮如上人の遺跡で数多の宝物を蔵し、毎年八月十六日寺内に陳列し一般参詣者に拝観を許される。背後の山坂を越えて末野部落へも行かれる。 往昔南区に境する山に天台宗の明応寺があったが、蓮如上人越前吉崎より京都へ上洛の途上当寺に立寄られて以来真宗となった。今小字大上、堂下山というところあり、寺院跡といい伝う。また南区との共同墓地の入口に仏の姿を刻する一米位の立石あり、安部晴明の作という。伝説ではその昔墓地に妖怪変化が出没し行人を悩ましたので、安部晴明に祈り封じ込めて貰ったという。この地古来畳表藺茣座を産し、山内カブラも有名である。 土地改良工事中古城神社西方田圃中より五愉塔片及石地蔵を出土した、何れも何か由緒ありそうに思われる。 山内の伝説『越前若狭の伝説』明応寺 (山内) 文明七年(一四七五)八月蓮如上人が吉崎から若狭の西津へ、舟で逃げて来られた。そのころ山内に大武備前守・飛永権之守というふたりの者がいた。日ごろ上人の高徳を慕っていたところ八月二十四日の夜気高い老人か夢に現われ、「お前が日ごろ慕っている上人が、このたび吉崎の乱をのがれて、この西津に漂流して来られる。急いでお招きせよ。わたしはこの地の山神である。」と告げた。ふたりが互に夢の話をするに全く同じであった。翌日ふたりは迎えに出たところ、上人は舟に乗って来られた。ふたりが夢で示現あったことを申し上げると、上人も再び、「お前の所へ行く。」といわれ、山内の明応寺へはいられた。明応寺には上人にちなんだ宝物が数多くある。 (鳥羽村誌) 山内の小字一覧『上中町郷土誌』 山内および南区小字名 硫黄谷 石谷 中河原 和谷上 奥ノ上 一ノ谷 滝ケ前 向山 滝ヶ下 神子畑 仮屋 六反田 上宮前 河原崎 七反田 浬田 下宮前 井根口 小田 新小畑 田之道 遠処望 金剛 又江 中沖 筑後 芋作 尉ノ腰 中ノ町 横烝 荒田 堺ノ鼻 大門 窪田 上窪田 谷田 明応寺谷 岩畑 坂尻 坂ノ脇 堂山下 町畑 治郎谷 森ノ奥 森ノ脇 高橋 村 五反田 四反田 宇野添 老懐 岸ノ下 上菰中 小苗田 下古田 下菰中 松ケ下 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『上中町郷土誌』 その他たくさん |
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