丹後の地名

余部下(あまるべしも)
舞鶴市余部下


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京都府舞鶴市余部下

京都府加佐郡中舞鶴町余部下

余部下の地誌

《余部下の概要》



余部下は舞鶴市の中心部。造船所や海自の基地があり舞鶴を代表する顔の部分である。
和名抄の余戸郷、丹後国田数帳の余戸里と考えられる。
余部下村は江戸期〜明治22年の村名。
明治20年代から舞鶴鎮守府設立のための用地買収が大規模に行われた、浜・北吸・長浜と余部下村の4ヵ村の地が大部分を占めた。
明治22年第4鎮守府設置の勅令公布により田畑・宅地・山林ほか52万坪、周囲3里余が買い上げられ、民家54戸と雲門寺・稲荷神社が移転し、当地は帝国日本の枢要の地になった。
明治34年舞鶴鎮守府が開庁、36年に舞鶴海軍工廠が発足した。
大正8年国鉄中舞鶴線開通。
同12年鎮守府が要港部となる。
昭和14年横須賀機関学校を誘致して舞鶴機関学校を設置。同19年同校は海軍兵学校舞鶴分校に改組改称した。
同20年4月鎮守府下にある駅前約50戸と共済会病院中舞鶴分院周辺が、舞鶴市第2次建物強制疎開。同27年分校跡に海上保安隊舞鶴地方総監部が開庁した。
同47年国鉄中舞鶴線が廃止。

余部下(昭和30年代)
↑右が中舞鶴駅で、左が中舞鶴郵便局、中央の道路が東地区に通じる国道27号である。中舞鶴線は、昭和47年10月に廃止された。その後、中舞鶴線跡は、自転車・歩行者専用道に転用。中舞鶴駅跡にはC58113号蒸気汽関車が展示されている。(『ふるさと今昔写真集』より、キャプションも)


《人口》6678《世帯数》2223(和田・白浜台・長浜などをふくむ数字)

《主な社寺など》

氏神は長浜村の高倉八幡宮(現高宮神社)。
日蓮宗太光山本告寺
稲荷神社
共楽公園
中央公民館
舞鶴水交社跡。↓(士官の社交施設。占領軍に接収され、その後一時海自の総監部が置かれていた)
水交社の跡

初代長官東郷平八郎が住んだ旧舞鎮長官官舎(東郷邸)。↓
東郷邸
この付近は菖蒲ケ丘と称して、山城跡と移転前の雲門寺があったところ、第2次大戦中は鎮守府防衛の中山砲台があった。

海軍記念館(旧海軍機関学校の講堂に作られている)

《交通》
国道27号線
府道余部下舞鶴港線


《産業》


余部下の主な歴史記録


《丹後風土記残欠》
 〈 余戸  〉 


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 余部上村同下村
神龍山雲門寺本寺京嵯峨鹿王院禅 余部上村、同下村、北吸、和田、長浜五ケ村の寺なり。開山普明国師、宝物国師の袈裟懐劒あり。昔高田平之丞山城に住居す。
「解説」山城は旧舞鶴鎮守府の跡地である。高田平之丞は中世の人であり近江へゆき布川姓となった、後に余部の布川氏先祖が庄屋で寺社町在旧起を書いたと云われている。  〉 
(「解説」は訳者の佐藤正夫氏による)


《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 余部下村 高三百六拾石三斗
     内弐石五斗壱升 万定引
     四拾五石御用捨高
            京嵯峨鹿王院
 雲門寺 神竜山   天竜寺末
  長浜 和田 北吸 余部上下五ヶ村之寺
  住持伝来書ヲ以記之
  境内沼池成シヲ山ヲ引均シ寺ヲ立ル此池竜ノ
  住シ所卜云因茲山号トス 其池ノ霊魂近キ海
  中ノ山ニ祭夫ヨリ蛇嶋ト云 境内ニ小池ニツ
  有之ヲ竜眼水卜云俗ニ蛇目池卜云
  鎮海軒跡 行者屋敷跡
  稲荷社 鎮守也
  宝物 国師九帳法衣
     懐剣 壱腰
 開基人王 後光厳院応安四辛亥歳春屋妙葩和尚京
洛東山南禅寺住職也 故有テ京師ヲ立退余戸ニ九年
住居亦南禅寺江再住 雲門寺ハ国師草創也 開基ヨリ三百六十
四年国師滅後ヨリ三百四十七年ニ及 春屋再往之時天下惣禄被任普明国師
 寺領元来余部ハ鹿王院領地也 国師蟄居之節半分
雲門寺領卜成上京之後亦鹿王院領ト成 其後雲門寺
領少も無 境内山林斗京極家之時分免許也
 京極飛騨守高直侯御時賢室和尚ト云住職御城之鐘
之銘作 国師和田村観音江参詣杖ヲ突立置シニ根出
来花咲今ノ桜木是ナリ 本木枯テ芽ヲ出シ幾度も不
知枯テ芽ヲ出セドモ根ハ最初の木也 高直侯千歳村江
御出之節賢室国師御供冷水ノ銘御好有貯月水ト号セ
ラル 白杉御茶屋帰帆閣御城御茶屋紅葉亭何レモ賢
室作也 其後寺年々廃シ小庵卜成 先住禅海和尚入
寺後次第々々造営有是中興開山タルヘシ

  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎余部下村
【神龍山雲門寺】(臨済宗、出図)
神龍山雲門寺は応安二年春屋妙葩和尚の開基なり。妙葩和尚は南禅寺の卅代なり、故ありて余部村に来り雲門寺を建立す、後に南禅寺に帰る。或曰。応安二年夏四月叡山の僧徒南禅寺の僧徒と争論起る、是を六波羅に訴ふ、将軍是を決せず、於是叡山の僧徒怒りて日吉の神輿を奉じて京に入り将に禁門を焼かんとす、将軍の家人佐々木崇水之を討て悪僧等を退く事を得たり、帝賞するに御筆を以てす、妙葩和尚の来る蓋此時なり。足利氏の石碑あり。今宝物とて妙葩和尚より伝はるもの二品、懐釼一振、水の玉一ツ、蓋足利家より賜はるといふ、玉の大サ二寸余、玲々瓏々として名玉ともいふべきなり、但貌のうつる皆倒に見ゆ、目鏡などにも斯様のものありて珍しからぬ事とは云ひながら一寸笑しきものなり。
 【付録】(行者屋敷、稲荷水)  〉 

《地名辞書》
 〈 余部郷。和名抄、加佐郡余戸郷。○今余内村是なり。大字余部存す、椋橋の西、田辺の東北にして、舞鶴湾の東岸也、大字上安に延喜式高田神社在り。補〔余部〕加佐郡○海部の義なり、今舞鶴鎮守府は此村に亭館を起す、亦偶然にあらず、舞鶴町の東北に当り舞鶴湾の東支湾の南岸なり、別に一澳を為し、其東方に志楽の大邑あり、相接続す。  〉 


《加佐郡誌》
 〈 中舞鶴町。昔の余戸里又は余戸谷の殆んど全部に相当する。舞鶴鎮守府設置以来余部町と呼んでいたが大正八年から今の名に改められた。今は余部上、余部下、長浜、和田の四ケ字から成っている。参考一、余部上及下は古来二字であって分合変換がない。二、余部下に高田平之進と言ふ郷士の居城があったといふことである。城址は明かでない。当字に神龍山雲門寺がある。天龍山鹿王院末で、昔境内に枯池があって此処に龍が棲んでいたから山号としたといふことである。新舞鶴湾内の蛇島に其霊魂が祭ってあるから此島にある二つの小池を龍眼水又は蛇ノ目池と呼ぶと古書に出ている。三、和田は曲浦即ち海浜の意味である事に疑がない。(旧称西浦)  〉 

『港の景観』(出口昌子・正登05)
 〈 囲われた海
現在、京都大学の水産実験所がある長浜のあたりはすべて海軍の土地で、一帯の海岸線の警備は、たいそう厳しかった。東へ行く海岸沿いの国道はなにも海が見えないほどの警備である。
 写生をしてはいけない。写真を撮ってはいけない。現在桜並木が続くその上のほうまで板塀が建てられ、海は囲われていた。
 岸壁で魚釣りをしていると、そんなところで釣りをしてはいけないと憲兵に注意され、それからは魚釣りにも行かなくなった。魚釣りでつかまれば、使役をさせられた。  〉 
お陰でというのか、皮肉にというのか、湾内は魚が涌く状態であったという。つづけて同書は、

 〈 終戦後なんか、こんな大きいサバがなんぼでも涌いとった。
うちのおっかあがよう作っとったが、サバの頭を味噌汁にすれば、ちょっと違った味がする。いまではそこまでいかんやん。大きいならんのと達うか。
 いま、沿岸に魚がいない。いても小ぶりである。
これは、海辺に暮らし、その過去を知る人の共通認識である。技術開発と人間圧の二つが資源減少。主たる原因とみる向きもおおむね共通している、ではいつごろよくとれいたのかの記憶は、これも歴史のある一時点に集中している。すなわち、各地で話を聞いていて、年寄りたちの、生きて語られる認憾のなかで、魚が湧くほどいた光景とは、終戦後の一時の光景である場合が少なくないのである。軍港であること、男性が戦地にかりだされていたこと、その非常事態が海への人間圧を人為的に減少させ、皮肉にも豊富な資源をもたらしたという現実を、海辺の人々は、たとえ漁師でなくても釣糸の先から知っていた。つまり、沿岸での豊漁の風景は、たんに豊かな自然の写実ではなく、戦争が落とす影絵でもあったのだ。  〉 


余部下の小字


余部下 中カイ 余部下 谷 細谷 越後 久田 西ケ鼻 フカ田 宮田 別所 合楽 宮峠尻 横尾 地蔵ケ下 青地 アラ田 二反田 堤 小島 帆ケ迫 ユリノ下 田中 ヤ谷 サイツリ田 高ソ 峠 西ケ迫 シイ崎 菖蒲谷 オリ戸

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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