丹後の地名

朝来中(あせくなか)
舞鶴市朝来中


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京都府舞鶴市朝来中
京都府加佐郡朝来村朝来中



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朝来中の地誌

《朝来中の概要》



朝来中は朝来谷の中心的な集落で、谷の中ほどに位置している。単に中村とも呼ばれた。現在は単に「朝来」といえば広くこの谷の全体・10ヶ字(旧朝来村)をひっくるめて言う場合と、朝来中を呼ぶ場合もある。
ここでは主に狭い範囲の「朝来中」の事を記します。
市道が東西に走っているが、その北側の山手山麓側が朝来中で、南側の平らなところ(第三火薬廠の跡地)の新しい住宅地(昭和49年起立)は朝来西町という。

《人口》258《世帯数》87

朝来中

《主な社寺》
田口神社。丹後守護一色義直寄進の享徳3年銘の石灯篭(市文化財)が現存


臨済宗東福寺派倉谷山東光寺
『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 海臨寺末  〉 

『加佐郡誌』
 〈 倉谷山東光寺、臨済宗、承応二年創立、朝来村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【倉谷山東光寺】  〉 

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』
 〈 朝来中村
正徳院東光寺両寺とも海臨末寺。  〉 

『朝来村史』
 〈 倉谷山 東光寺  字朝来中
開基 承応二癸己年六月
本尊 釈迦如来
開山 玉仲大和尚禅師
縁起 不詳
 当寺はもと約一町餘南西、即現在の河原千代蔵氏宅地の北の上の段の畑地に建立せられてあったと謂う。豊臣の残党或は亡び或は帰服し、応仁以来久しきに亘る激しき戦乱も茲に漸く鎮静して徳川も三代家光の代となった。世はなべて泰平を謳歌し、国土安穏の時期に入ったとは謂ひながら、一寺も一宇の創建は当時中なか容易の業ではなかった筈、取りわけ戦後の経済恢復の爲に、都も鄙も一やうに物資欠乏、労力不足の折柄、しかも克く此の名刹草創の功を遂げられし開山禅師の偉績は、正に幾百千年の後までも讃仰措かざるところである。
 然るに禅師の偉業たるや単に此れのみに止まらずして、右東光寺の開基と同一時期に於て、更に岡安養源寺が此開山玉仲和尚の手によって創立せられてゐるのである。我等は斯のやうなる事実を知るに及び、三百年を経過した今日、一世の高徳、非類の大聖玉仲和尚の功業を侭ぶの念、特に新たなるものあるを覚ゆるのである。
 其後、天保十四年正月五日夜牛、突如呪融の難に遭ひさしも苦辛惨憺を重ねて建立せられた仏堂も空しく灰燼に帰し、即現在の浄域に屋敷を変更して今の伽藍を建築した。
 当寺は養源寺以上に有力なる檀徒が在って寺宝、什物等数知れず所蔵せられてゐるものと思はれるのであるが、火災の爲に焼燼したと謂うのか、殆ど夫れらしきもの無く古文書、記録等全く存ぜないとの事である。従て当寺の縁起、寺歴等記述する資料何ものも無いのは甚遺憾とする處、只一つの語り伝へとして残さるゝるのは、現在の伽藍を建築するの際、予め檀中の間に於て工事の受持を定め、企画の建物の内、上手半分即方丈とも申べき仏間、客殿等特別作事工手間を要する部分は戸数の多き朝来中村に於て、又中しきより下の庫裡に相当する半部を下谷村に於て各工事を分担し、協力一致完成したものであると謂うことである。
 明治二十四、五年の頃(年時不詳)梅源氏最盛時に授戒会が行はれた。大本山敬沖管長を招待し、一週間善男善女遠近より集まり、多数の知識、大徳によって厳修された事は一般の記憶に存じてゐる。
 住職の氏名も判明し難いので、僅かに前住は村木裕宗師、前々住は無称山義琢師と聞くに止まる。前記の授戒曾は義琢師の時代又格宗師は志楽、朝来の仏心曾を創設し共に大なる功績を遺こされてゐる。現住職山口弘宗師は昭和元年、岐阜県陽屋院より転任就職されたもので、夙に寺内の刷新に努め精勤恪勤、境内の隅々に至るまで一塵、一毫を止めず、當寺の荘厳此れによって一段の深厚を加へつゝある。
 当寺歴世住職
…  〉 


朝来小学校裏の台地に平安期の遺跡がある。

《交通》
地内を南北に高浜・舞鶴線が通る。


《産業》


朝来中の主な歴史記録


《丹後風土記残欠》
 〈 御田口祠。御田口祠ハ往昔、天照大神分霊子豊宇気大神猶此国ニマシマスガゴトシ。丹波国造日本得魂命等スナワチ地口ノ御田ヲ以テ奉ル。更ニ校倉ヲ建テ、其穀実ヲ蔵ム也。故名テ曰ク阿勢久良ト。且、其倉ヲ奠リ、以テ御田口祠ト称ス。(以下六行虫食)  〉 


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 朝来中村
正徳院東光寺両寺とも海臨末寺。
田口明神 朝来谷之氏神なり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ六分
朝来中村 高弐百四拾石五斗
     内八石六升九台九勺 万定引
     四拾五石御用捨高
 正徳庵 海臨寺末
 東光寺 倉谷山 海臨寺末
 田之口大明神 大波 下谷 白屋 中村 長内 岡安 六ヶ村氏神
           鍵取 大波村 芝原
              下谷村 四郎左衛門
 弁財天社
 牛頭天王
 薬師堂
  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎中村(下谷村の次)
【田口大明神】
【倉谷山東光寺】
【福寿山正徳院】
 【付録】(大神宮、八幡宮、午頭天王、弁財天)  〉 

《朝来村史》
 〈 朝来中
 古来単に中村と称して位置、文物共に朝来村の中心を爲し戸数多く、史蹟に富み社寺其他の設備正に十ヶ字中一等区をなせるの感がある。更に当区には過去数百年に亙り林次衛門と謂う財力豊富の家存在し部落の実力も従て強く続いて又梅原家の発展もあって朝来中村と謂う名は廣く世間に知られてゐた。
 耕地反別は人口の割合には多からず、僅かに二十戸に過ぎざる吉野と相高にて舊高二百四十石五斗、貢率も同じ七ツ六歩と定められ四十六戸の朝来中には一戸平均五石二斗に満たなかった。併し前にも謂う通り林家の富力は登尾、安岡其他諸所に多くの田畑を有し、且此字には大工、木挽、屋根葺、石工等の職人多く当時貨幣の流通極めて尠かりし封建時代にありては単に米、麦作のみの純農経営の他の部落よりもかへって保有貨幣を潤沢ならしめ、従て各時代を通じ部落一般物資豊かに活溌なる生活を営み来つたことは確かなる事実である。
 明治の初期には一時登尾をして朝来村の勢力中心たるの感あらしめたけれども、自治制施行せらるゝや中央にして交通至便の此朝来中に村役場を置き、巡査駐在所も移転し来り殊に明治四十一年には従来の大波、登尾の第一、第二両小学校を統一し此地に朝来尋常高等小学校を建設した。尚大正八年産業組合の設立を見るあり旁々以て昔の通り名実共に本村の中心として復した。
 此の部落の地積は登尾口より西は大波上部落の中央前迄延長し、爲に持地の開係上昔は中村、殿村の外に小野、八田の二ケ所にも住居を構へ字の区城は随分長く且廣く所謂分散農業を営んだ時代もあった。

参考
 元緑十三年の田口神社寄進帳によれば
 中村 林次右衛門 同市郎兵衛 同次左衛門 三郎右衛門 仁兵衛 孫右衛門 彦右衛門 長五郎 長介 庄介
 殿村 材木 市郎右衛門 中宿 弥左衛門 孫左衛門 佐治兵衛
 小野 小右衛門
 八田 喜助 庄兵衛

とあり、尚此外に小野にも、八田にも中農以下の戸数があったことは疑ない所である。

朝来中の受難時代
 前述の通り其勢力に於ては各時代を通し、概ね十部落中の優位を占め来たった此の朝来中村も、時に生活困難を極めし実例無いでもなかった。そこで村中大倹約の申合せを爲し非常なる緊縮自戒、一統血判して其実行を誓ひ、断然甦生を期したる全くの事実がある。
 茲に文化六己年の申合事項を抄録し以て参考に資することゝしやう。
 参考
    倹約定之覚
一、神事当番たりとも来午より戌迄五ケ年間神子舞にて相済し祭祝日他村より一人も相招き申間敷事
一、仏事は前日より親類之者相寄せ不申翌朝佛参いたし直に帰り可申候尤も他村親類たりとも同様若し遠方へ帰かたき
  者は其段役人方へ相届止宿可申事
一、酒年限中一切村内へ入申間敷候若し無拠入用等有之候はば役人方へ相届け差図可受事
一、傘.足袋、雪駄、提灯、羽織年限中一切相用ひ申間敷候事
一、男女婚禮に箪笥は勿論長持にても年限中一切相用ひ申間敷候尤婚禮日にても客三人迄に可限候其節少々にても酒取
  扱候はば役人方へ相届け差図可受事
一、村内は申に不及他村たりとも年限中音信贈答一切致間敷候且諸見物祭禮等に至迄他所へ罷出申間敷候事
一、樹木、桐実、菜種、繰綿に至迄自分に買払不申役人方へ申出差図可受事
一、毎日朝六ツ時に夫々作場へ罷出可申候若し数度及遅滞候者有之候はば役人方立掛りの衆中より屹度御沙汰可被下候事
一、家普請は申に不及少々の繕にても年限中一切致間数候然れ共無拠義にて不得止事候はば其段役人方へ申出で差図可
 受事但桶屋輪替の義は格別に御座候
一、溝の義は是より朝洗米にて相勤可申候
一、男女共すけ笠一切相用ひ申間敷候
一、くけ緒、皮を相用ひ申間敷候
一、居村に次右衛門酒造いたし候得共村方へは酒一切買受間敷候
一、年限中餅一切致間徴候
一、年限中新らしき物一切相用ひ申間敷候
一、年限中村内にて豆腐致させ申間敷候
右中村甚難渋仕候に付格別之御慈悲奉蒙重々有難き仕合に奉存候御影にて村方一統相凌可申候然上は前文の通村議定相
定申候處相違無御座候若し掟の趣於相背者如何様の御咎め義仰付られ可く候其上神明の御罰蒙るべく候條仍て血判如件
 文化六巳己年
                  (人名省略)


 本書は大波村荒木柴原が中村の庄屋兼勤中の規約にして先年此古文書を吉田材本家へ進上し現在同家に保有せられあり
百三十六年前の各家祖先の淋漓たる鮮血のあとと共に其確固たる決意の程窺ひ知るべきである。
                                        (荒木信次郎特記)
田口神社と朝来中との閥係
 田口神社に対する朝来中は、七ヶ字の内特別なる氏子開係を有す。夫は他の部落の如く字内に見るべき小宮を持たざる為の関係もある訳なるが、古来傳統的に田口神社に封し手篤き信仰を捧げ来り特に宮元と自称して神社の事には非常なる努力を続けつつ、いつの時代にありても氏子各部落内で相当なる権威を把持し来たった。即年々の角力場の土俵築き神泉の水かえ等は中村の奉仕に定まっており、更に凡建築其他此神社の諸種の事業は各時代を通じ大抵此の中村氏子の發起又は主唱にかかること多く、抑々壮麗なる社殿を始め輪奐の美を誇る田口神社の結構其ものは何れも七ヶ村氏子の総力結集によるものなるは勿論なれども就中物資に於ても勢力に於ても中村はいつも特別に多くの提供を爲し精神的にも又大に尽くしてきてゐる。即本殿改築の際にも総寄附金三貫百九十七匁の内一貫○四十四匁は中村より醸出してゐるし、特に彼の大石燈籠の建設の如き殆ど朝来中の主力によって成り又東光寺奥より曳き出して来たと謂う中庭の石の大手水ばちは其昔中村青年によって裾附けられし等枚挙に遑無き奉仕のあとを見得るのである。朝来中住民達の気風を知るに足る神社観念を特記しておく。  〉 


朝来中の小字


朝来中 今谷口 石浦谷口 竜ケ鼻 京所 ユリ 茶ノ木下 向坪 早稲田 村中 村下 ノケ 樋ノ口 小野谷 宮ノ下 湯ノ元 殿村 八田 岸ケ前 向山 石浦谷 奥山 今谷 上山 小野 古出水 アザミ 宮ノ前 大師山 滝ケ鼻

関連項目

「朝来村」
「朝来と志楽」
「朝来の古代」


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