仏性寺(ぶっしょうじ)
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京都府福知山市大江町仏性寺 京都府加佐郡大江町仏性寺 京都府加佐郡河守上村仏性寺 |
仏性寺の概要《仏性寺の概要》 地名の仏性寺は、高野山真言宗如来院(仏性寺)があることによる。宮川の上流 「むかし丹波の大江山 鬼ども多くこもりいて 都に出ては人を食い かねや宝を盗み行く」 の伝説と幼年唱歌で名高い大江山の登山口にあたる。「大江山」 「大江山」 大江山は珍しい動植物の宝庫でもあり、伝説地をめぐりを兼ねた行楽客も多い。 仏性寺村は江戸期〜明治22年の村名。天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年からは宮津藩領。 大正6年大江山中腹で鉱脈が発見され、昭和3年日本鉱業会社がその採掘権を獲得し、同8年から黄銅鉱・磁硫鉄鉱を主とする本格的開発を始めた。同35年の従業員215人、月産搬出粗鉱5、500t。日鉱河守鉱業所を中心とする数百人の集落が標高500mの山腹に形成されたが、同44年閉山。したという。 南部西岸の台地を 丹後ノ内ニ同名三ヵ所根本比治山ナラン、国分未無之国ニ名モナキ神代ノ内丹後五郡ノ惣名ナラン、神書ニ比治卜府中卜河守卜三ケ所也、河守卜云モ籠ノ訓ナラン と記し、ほかに二所伝えられるとする。 北部の高原を千丈ケ原(標高約五六二メートル)とよぶ。旧語集に 温江村ノ者外宮内宮へ参ルニ大江山ヨリ千丈ケ原ヲ越、二瀬川へ出ル、難所ニテ風強ク木モ不生所也、 児童婦人老人ハ丹波ノ天坐村へ廻リ出ル也、大江山ハ樹林ニテ少し低シ、千丈ケ原同シ山ナレトモ高ク風烈シ禿山ナリ、据ハ加佐郡二掛ル と記され、難所であったことが知れる。 仏性寺村は、頼光の鬼退治にちなむ伝承地が多数残されている。府道沿いの「鬼ケ茶屋」は、近世には旅籠桝屋として隆盛を極めたという。藩主用といわれる上段の間もあったが、現在は取り除かれている。鬼退治の襖絵や酒呑童子が使用したという茶碗などがあり、弘化年間に桝屋が出坂した「酒呑童子由来記」の版木を蔵する。 その裏山に「頼光腰掛岩」とよばれる大岩があり、その根元に「鬼の足跡」と称するくぼみが残る。これは川向うの骨ヶ岳頂上近くの、のぞき岩から鬼が飛び降りた時できたものという。腰掛け岩の下の道は宮津藩がつくった石畳の今普甲道で、鬼ケ茶屋もこの辺りにあったが、新道ができてから現在地へ移転したという。 貝原益軒の「西北紀行」には、「二瀬川より麓まで八町許有、麓に池あり(割注・長四十間横廿間許)馬場の跡あり、其辺に礎石残れり、是酒顛童子が住し所也と云」、「宮津府志」に「千丈ケ原の三四町奥に五入道の池とて五十間四方斗の浅き池あり、此向の峰を白石ケ嶽といふ、此山の半腹に鬼の屋敷跡とて四五十間四方の平かなる所あり、又此池の左の方に鬼の馬場といふ所あり、此辺をすべて白石谷といふ」とある。 仏性寺村は江戸期〜明治22年の村名。仏性寺は明治22年〜現在の大字名。はじめ河守上村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。 《仏性寺の人口・世帯数》 112・48 《主な社寺など》 岩戸神社 平神社 愛宕神社 白山神社 美多良志神社 高野山真言宗如来院。同寺の創建は用明天皇皇子麻呂子親王の鬼賊討伐伝説に由来。 《交通》 府道綾部大江宮津線 《産業》 《眼病によいと伝わる真名井の池》 「旧語集」の真井原は、宮津街道に「仏性寺」のバス停があるが、そのあたりの道路より少し高い、高原のようになったところを今「 真井原、真井野は真名井原、真名井野のことで、ここに「真名井の池」がある。 池というより今は井戸だけれども、その案内には、 〈 真名井ケ池 昔し此の地に真名井ケ池と云うがあって七人の天女が天下って水を浴びていた。 一人の老翁がその一人をとらえて我が子とした。天女は善く醸酒をつくった一ぱいを飲めば吉く万の病悉くいえた。其の一ぱいの直材を車に積みで送ったところ其の家豊に富んだので土形里という名が生まれた。 天女は豊宇賀能貴命と云う。 又比の水は眼病によいと云伝えがあった。 〉 真名井と眼病が関係あることがわかる。 仏性寺の主な歴史記録《丹哥府志》 〈 ◎仏性寺村(内宮村の北、是より千歳嶺に登り宮津に出る) 【岩戸社】(出図) 日裏嶽の麓、二瀬川の崖の臨みてあり。 【鎌鞍山仏性寺】(真言宗、如来院といふ) 【鬼茶屋】 在昔源頼光鬼賊退治の砌ここに憩ひ、二瀬川に人の死骸の流るるを見て賊の住所の近きをさとり、大江山に登りしこと中茶屋の条下にいへり。 【付録】(三日月大明神、三宝荒神) ○毛原(仏性寺村の枝郷) 【付録】(三日月大明神) 〉 《大江のむかしばなし》 〈 ごにゅうどうの話 仏性寺 藤原市松 この仏性寺のずっと奥の大江山の加悦峠の登り口に、ごにゅうどうが池ちゅうのがあるんですわ。それがもう、自然にできた池で、水は青々とたまっとって、まことに深い、そして周囲は山ばっかりの寂しいとこなんですわ。そこにごにゅうちゅうてね、まあ、にゅうどうじゃなしに、まあ魚、ごにゅうちゅう魚のように思うんですけど、それが住んどってねえ、そして、静かな、もうその池の中に、それこそ井戸ん中のかわず大海を知らずで、それこそ寂しい暮らいとって、ほして、一遍この峠の裏にですな、広い広いとこがあるげなと。その広い広っぱの向こうには広い広い天まで続くような海があると。一遍行ってみたいなあ、一遍行ってみたいなあ思っとったらしいんですわ、ごにゅうが。ごにゅうの魚が。そやけど、行くすべも知らんじゃし、ほんで一遍峠を越してみたいと、かねがね思とったら、たまたま旅人が蓑と笠と通りすがりに置いて休んどったと。ほいで、一遍行きたいのをよい機会やというので、その蓑ん中にこそこそこそと入って、そしてその峠を旅人といっしょに越したと。ほいで、 「ごにゅう、おまえどこ行くじゃいな」言うたら、ほしたら、 「蓑にもこれて、峠を越すわいな」いうて言うたという話なんじやけど、向こうにこいたら、ごにゅうはさだめて広い場で、しまいには日本海い行って自由に泳いどるじゃろうという話なんじゃが。 〉 仏性寺の小字仏性寺(ブッショウジ) 真井野 仏性寺 二瀬川 千丈ケ原 白石 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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